2016年04月10日

高野山へ行ってきました(2)

宿坊「大圓院」を出立、「奥の院」へ向かいます。




ガードレールが木製というのが、いいですね。





公衆便所も、この立派さです。

何だかバチが当たりそうでもありますが。

「大圓院」から600mほどで、「奥の院」参道への入口「一の橋」に着きます。
いかにも、結界という雰囲気です。


ここから先、奥の院まで1.5kmの鬱蒼たる杉木立の中、歴史上の人物の墓石がびっしりと並んでいます。



←この人も、歴史上の人物といえば歴史上の人物でしょう。





太い杉の苔むした洞の中に、石仏が安置されています。

歴史上の大大名たちの、虚仮威しともとれる巨大五輪塔が並ぶ中、こんな石仏に何かホッとさせられます。



←お化粧地蔵。










仲良し地蔵→


日本人らしくていいなぁ、と思うものも。


←フグ供養塔。







しろあり供養塔→


参道に面して、高崎藩主を務めた安藤家の墓所があります。


高崎城に幽閉されて自刃した駿河大納言・徳川忠長を預かったのが、六代目高崎藩主・安藤重長でした。
もう6年前ですが、そのご子孫である安藤綾信氏の講演を聞いたことがあります。
   ◇殿様に縁のある日(その壱)

そして、高野山で探したかったもう一つのものが、これです。


観音山「慈眼院」にもある、「一路観音碑」です。
全国に三十三基ある「一路観音碑」の第十六番が、ここ高野山「奥の院」にあります。

ここにあることは知っていましたので、歩いている間中ずっと目を凝らして探していたのですが、見つからぬまま「中の橋」の駐車場まで出てきてしまいました。
このまま帰るのはどうにも悔しくて、カミさんを喫茶店で預かってもらって、もう一度探しに戻りました。

ないなぁ、ないなぁと思いながらついに「奥の院」に到着してしまい、社務所でも聞いてみましたが聞いたことがないと言われ・・・。
で、道を変えて戻る途中でした。
川の向こう岸にある碑に、一瞬、「一路」の文字が見えたような気がしたのです。
大急ぎで迂回して向こう岸へ行くと、まごうことなき「一路観音碑」でした。

強度の近視である迷道院に、碑背に刻まれた小さな「一路」の文字が、よくあの距離から見えたものだと思います。

不思議なことですが、こんなこともあるのですね。

「一路観音」の優しいお顔が、「よく来たね。」と褒めてくれてるような気がしました。

高野山「一路観音碑」が建つ経緯を、「一路観音碑道しるべ」の中で慈眼院前住職・橋爪良恒師が語っています。

当時、高野山に在住していた私は、ようやく軌道に乗って来た、千代香さんの三十三観音建立の浄業の一つに、是非高野山の地を加えたいと思い、千代香さんにお話したところ、是非にと同感賛成されたので、この地を択んで、本山より譲渡して頂き、本山の工務課長佐古正明君をわずらわして、石の選定、彫刻、建立の仕事一切を進めて頂いた。

青菜祭も終わって、お山もひととき静寂を取り戻した(昭和五十年)六月二十二日に開眼が行われた。
導師は私の父橋爪良全大僧正であった。
その頃奥の院維那をされていた柴田全常大僧正や、高室院斎藤興隆前宮も随喜読経を賜った。

参列された方の中には私の職務の関係もあって、本山企画室の職員が多かった。
この中で、高橋智運師(現岡山高徳寺住職)、藪光竜師(現本山教学次長)お二方には、この時の千代香さんとの出会いが縁となり、後になって、それぞれのご自坊に一路観音碑を建立することになったのも、奇しき因縁といえよう。」

ということで、「駅から遠足 観音山」(番外編)ともいうべき高野山への旅も、無事目的を果たすことができました。

さて、この後は和歌の浦温泉へ寄って、精進落としでもしてから帰ることといたしましょう。



  


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2016年04月03日

高野山へ行ってきました(1)

観音山「慈眼院」の故郷、高野山へ行ってきました。
遠かったなぁ・・・。



まずは、ここ「高室院」(たかむろいん)。
           ↓
高野山の「慈眼院」が火災で焼失した後、名跡だけがここに所属してたというのです。
◇駅から遠足 観音山(63)

「高崎から来た。」とご住職に言うと、「慈眼院には、よく行きます。」と仰ってました。

焼失前の「慈眼院」があった場所は、「紀伊續風土記 第四輯」に書かれています。
墾道(はりみち)の南にあり、東は持明院に隣り、南は山あり、西は蓮花寺、北は墾道傍して高く石垣を築けり」

地図で追うと、この辺りになります。



「持明院」です。






その西隣り、石垣上の駐車場となっている場所に、「慈眼院」があったようです。→

今日のお宿は、その真ん前にある宿坊「大圓院」です。


延喜年間(901~923)開創という古刹で、玄関を入るとすぐこんな立派な襖絵が迎えてくれます。



六波羅武士・斎藤時頼(瀧口入道)と、雑司(下級女官)横笛との悲恋物語を描いたものだそうです。

「大圓院」第八世住職となった瀧口入道を、横笛は鶯となって訪れ、境内の井戸に身を投じたという物語です。
詳しい物語は、こちらからお読みいただけます。→ 「横笛」

本堂の前には、鶯に化身した横笛がとまったという「鶯梅」が、可憐な花をつけていました。





「鶯梅」のすぐ後ろには、横笛の鶯が落ちたという「鶯井」が残っています。

「横笛碑」の隣に、歌碑が建っています。

「鶯は大円院で今日も鳴く
     一切煩悩皆空なりと」


この歌の作者は、朝ドラ「花子とアン」で私を魅了した葉山蓮子さまのモデル・柳原白蓮です。
大正時代に「大圓院」を訪れた時、時頼横笛の話を聞いて詠んだものだそうです。
自分の身に重ね合わせていたのかも知れませんね。

さて、初体験だった宿坊泊まりですが、驚いたことに宿泊客のほとんどは外人さんでした。
2、30人中、日本人はたぶん3、4人でした。
お坊さまは、外国語があまりしゃべれません。

食事になりました。
美味しそうな精進料理が並んでいるのですが・・・。

お坊さまは、「ティーカップはない。ご飯茶碗にお茶を入れてきれいにして飲んでしまう。」と言って、そそくさと立ち去ってしまいました。

さあ、その後が大変です。
左右に座った外人さんの視線が、一斉にこちらへ向けられているのを感じます。
まあ、落語の「本膳」状態です。

結局、カミさんがご飯をよそってやるは、迷道院が知ってる限り(といってもほんのわずか)の英単語を総動員して説明を試みるは、どうにもならないと身振り手振りで・・・。
外人さんもそうだったでしょうが、迷道院もよい修業になりました。

今後はお坊さまの修行課目にも、外国語が加わることでしょう。


  


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2015年12月20日

山形へ行ってきました(鶴岡編)

湯野浜温泉で一泊し、11月6日の鶴岡駅前です。

駅前の大きなモニュメント、「大地」というんだそうです。

見上げていると、いきなり民謡が流れて稲束を担いだ親子の像が回転しだしました。
「あれ?時間ぴったりじゃないのに・・・。」と思ったら、特急「いなほ」の到着時刻になると動くんだとか。
やりますねー。

鶴岡は、歌「雪の降る町を」発祥の地でもあるそうで、作曲した中田喜直鶴岡の知人を訪ねた時に見た、雪の風景をイメージして曲をつくったんですって。

12月に入ると、「大地」のメロディーも「雪の降る町を」になるようです。

駅の観光案内所で、観光者用の自転車が無料で借りられます。

システムは至って簡便、観光案内所なので散策マップで見所や食事処の案内もしてもらえます。

この自転車に乗っていると、町の人が「こんにちは!」なんて挨拶してくれます。

観光客にしか貸し出さないというのも、いい案かも知れませんね。
わが高崎「たかちゃり」も、一考の余地ありかも。

「日枝神社」の角に、「市の神」が建っていました。

彫られた文字を見ると最近のもののように見えるので、きっと昔ここに建っていたものを復元したのでしょう。

側溝のコンクリート蓋に、こんな絵が彫られていました。

写真を撮っていたら、通りがかった女性が「これ、そんなに珍しいですか?」と話しかけてきました。

「こういうのに彫られてるのは、初めて見ました。」と答えると、「これ、『いづめこ人形』と『御殿まり』なんですよ。」と説明してくれました。
そして、「これで感動してくれるんだったら、ぜひ清川屋のトイレを見ていって下さい。ぜったい感動しますから。清川屋ですよ、清川屋。」って、くどいくらいに勧めてくれました。

樹齢330年という大ケヤキの下に、小さいながらも立派な屋根を持った社があります。





「復鎮靈社」と書かれた説明板を見ると、徳川家康の長男・信康の霊を祀っているようです。

酒井忠次織田信長に対してうまく弁護できなかったために、信康を自刃させることになったということらしいのですが、とはいえ、「復鎮靈社」を建てた貞享二年(1685)といえば忠次から数えて五代目の時代、信康自刃から100年以上も経っています。
それでも信康を慰霊しなければならぬという、何かがあったのでしょう。
確かに、それまでの庄内藩主はみな早死にしていますので、それかも知れません。

酒井忠次といえば徳川四天王の一人、わが高崎とも大いに関係があります。
忠次の嫡男・家次高崎藩二代目の藩主となり、今につながる高崎の城下町を事実上整備した人です。
家次は、高崎へ来る前、家康から下総国臼井藩主に任じられます。
ところが、他の徳川四天王の子はみな10万石を与えられているのに、家次だけは3万7千石しか与えられていません。
その理由が、先の信康自刃の一件だという説があり、高崎へ来た時も5万石でした。

「日枝神社」境内には、芭蕉句碑もあります。

珍らしや
   山を出羽の
       初なすび


芭蕉さんも、けっこうダジャレ好きみたいです。

「内川」に架かる「大泉橋」に、真っ赤に紅葉したツタウルシがきれいでした。

内川には、「開運橋」、「千歳橋」、「三雪橋」、「鶴園橋」という、個性豊かなデザインの橋が架かっていて、目を楽しませてくれます。

その中で、最も目を引かれたのが真っ赤な欄干の「三雪橋」です。

「三雪橋」というネーミングも素敵ですが、「木橋から永久橋に架け替える時、地元の人々の案で朱塗りにした。」とか、「木橋の橋脚を説明板の支柱にした。」とかって、どうです、「参りました!」ですね。

「三雪橋」のたもとに、「城下町つるおか」と刻まれている立派な説明板があります。


鶴岡市役所です。

歴史を感じさせる重厚な建物で、昔のものを大切に使っていることを感じさせます。



聞いた訳ではないので分かりませんが、税金の使われ方が町づくり優先になっているのかも知れません。
いや、そうあってほしいです。

市役所の前に建つこの碑を見て、そう思いました。






昔の人は、遥か先のことを見通して物事を行っていたんですね。

市役所の真ん前には、庄内藩の藩校「致道館」が、復元され残されています。

藩政の立て直しを目的に、徂徠学を教育したとされます。

この教育が、今日の鶴岡の町づくりにも連綿と生き続けているような、そんな気がしてなりません。

そうそう、忘れていましたが、清川屋のトイレです。

トイレのドアを開けたとたん、青~い光に包まれ、まるで水の中にいるような錯覚をおぼえます。

水槽の中では、可愛いクラゲ(おもちゃ)がプカプカ浮いたり沈んだりしてます。
どうやら、クラゲで有名な「加茂水族館」をイメージしているようですね。

鶴岡の人々、なかなかやります。

町めぐりを終えて鶴岡駅に戻ってくると、待合室にこんなのがありました。


いやー、最後まで感心しっぱなしの山形旅行でした。
長々とお付き合い下さった読者の皆様、ありがとうございました。

次回からは、また観音山に戻ります。


  
タグ :鶴岡


Posted by 迷道院高崎at 06:56
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2015年12月13日

山形へ行ってきました(山形市 町なか続編)

「紅の蔵」内の「街なか情報館」に、名物「もってのほか」が飾ってありました。

昨年の秋に作った都々逸。

 〽きれいな菊を
    「もってのほか」と
      言いつつ食べる
        出羽の人

(迷道院)
なーんてね。

山形市の街歩きを楽しくさせてくれる、「やまがた時代絵巻」というスタンプラリーマップ。

他に、「開運 城下町山形七福神」なんてのもあります。
発行は山形市観光協会ですが、山形商工会議所や、城下町やまがた探検隊やまがた舞子もてなし委員会というのが協力者になっています。
観光ボランティアガイド協会発行の街あるきマップもあったりして、町ぐるみで観光に力を入れているのがよく分かります。

街あるきのための交通も実に便がいいです。

バスは10分間隔で循環しているし、1日乗り降り自由で300円です。

観光用のレンタサイクルも無料で借りられて、システムも至極簡便です。

さて、左の建物は何に使われていた建物でしょう。

大正元年(1912)建築の建物だそうです。

なんと、驚くなかれ・・・、






当時から今も続いている、現役の病院でした!

山形の市街地には、そんな建物がたくさんあります。



昭和二年(1927)建設の山形市立第一小学校の校舎は、山形県初の鉄筋コンクリート校舎だそうですが、平成十六年(2004)に新校舎に移転したため、その後復元修理をして平成二十二年(2010)から、「山形まなび館」として活用されています。

圧倒されるのは、大正五年(1916)に建設された旧山形県庁舎です。





平成七年(1995)に修復され、現在は「山形県郷土館 文翔館」として、歴史を伝えています。

街なかに、こんな素敵な流れがあります。






江戸時代の城下を流れる水路を、みごとに復元しています。

わが高崎にも、かつては「新井堰」からの水が、城下を網の目のように流れていましたが、今はほとんどが暗渠になっています。
こんな風に復元したら、どんなにいいことでしょう。

干し柿の暖簾が下がる黒板壁に、「ど根性ヤゴ」と書かれた矢印がありました。

その先っちょを見ると、確かに「ヤゴ」の抜け殻がくっついています。

水路があることで、こんな風情が出現し、それが人の心にゆとりを持たせるものなんだなぁ、と思いました。

水路の先にも、こんなお洒落なカフェ・レストランがあります。

古き物を宝物として見ることができる山形市民のみなさん、学ばせて頂きました。

さて、この後は鶴岡へと向かいます。
途中、夕映えの山景色がきれいでした。



  
タグ :山形市


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2015年12月06日

山形へ行ってきました(山形市 町なか編)

蔵王のお宿は、ホールにこんなほほえましいご挨拶が置いてある、源泉の湯宿でした。

とかく、「虫が入ってきますので、浴室やお部屋の窓は開け放しにしないでください。」なんていう、命令口調のが多いもんですが。

朝の散歩は、こんな素敵な景色が見られました。

宿のバスで山形駅まで送ってもらう途中、名物の「山形の霧」も見ることができました。
これが、山形城の別称「霞ヶ城」を生んだ訳ですね。


山形駅前通りをまっすぐ進むと、右側に大きな「山交ビル」があります。

あぁ、ここに井上保三郎が建てたという「山形煙草専売局」が建っていたのかと思うと、感慨ひとしおです。

山形市は近代的な地方都市ながら、史跡や旧町名を大事にしています。

電柱に書かれている町名は「十日町」、広告看板の不動産屋さんの住所は「城西町」、右のビルの名称は「三の丸ビル」です。

そのビルの横にあるのが、「三の丸土塁跡」です。

土塁の反対側が、山形城の守り神として祀られたという、「歌懸稲荷神社」です。





この神社の門前市が、町名「十日町」の由来なんですね。

境内には、「市神様」が大切に残されています。

実はわが高崎も、本町の高札場に「市神様」が祀られていたと伝わっています。

ところが、いつの間にか無くなってしまったというのです。
詳しくは、こちらをどうぞ。
       ↓
◇続・鎌倉街道探訪記(4)

町なかにも、「十日市跡」というこんな立派な碑が建っています。






建てたのが、「十日町住人一同」とあることに感動します。

これも素晴らしいと思ったのですが、もと紅花商人だった長谷川家の蔵屋敷を山形市が買い取って、平成二十一年(2009)にリニューアルオープンした、観光物産館「紅の蔵」です。


残された建物を上手に使っているのもさることながら、十日町の歴史に因んで、毎月十日にイベントをしているところがいいなぁと思いました。

う~ん、紹介したい所がまだ沢山あって、う~ん、困りました。
なかなか観音山に戻れませんが、申し訳ありません、いましばらくお付き合いくださいませ。


  


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2015年11月29日

山形へ行ってきました(霞城公園 続編)

このたび、グンブロさんから、「上州弁手ぬぐい」について「Special Lisence」を頂戴いたしました!
ありがとうございました!

さて、山形市「霞城公園」の続編です。

広ーいお堀には、ごみひとつ、いや落ち葉だってすごい量のはずですが、きれいになっています。





遠くの方にボートと人の姿が見えます。
聞けば、この時期、週に一回このように水面の落ち葉を集めているんだそうです。

中央通路を歩いて行くと、本丸御殿跡の発掘調査中でした。






堀の土塁上は遊歩道になっています。
人に踏まれても木の根を痛めないようにでしょうか、あるいは土塁が痛まないようにでしょうか、透水性のラバーマットが敷かれていて、とても歩きやすいです。

土塁上に築かれていたという塀の礎石跡だそうです。






説明板は写真やイラスト入りで、実に分かりやすく書かれています。

発掘して出てきた櫓跡を復元しています。
いずれは、櫓本体も復元する予定なのでしょうか。




わが高崎で新設中の史跡説明看板も、このくらい詳しかったら訪れる人は楽しいでしょうね。

こちらの櫓跡では、男性が二人、エアーゴルフの真っ最中でした。





木漏れ日の中、ヴァイオリンの音も聞こえてきたりして、みなさん思い思いに楽しんでいるようです。

復元された「二ノ丸東大手門」の内側では、ちょうど菊の品評会が開催されていました。
それにしても、この丸石を使った石段、よく復元したものです。
気を付けて下りないと、転げ落ちそうになりましたが・・・。

最上義光公の銅像です。
えらい暴れ馬に乗ってるようですが、直江兼続との合戦に、先頭切って向かうところの雄姿だそうです。
そうですよ、戦をすると決めた人が、真っ先に戦場へ行くべきです。

園内に、こんな素敵なところがあります。

「山形市郷土館
     旧済生館 三層楼」




明治十一年(1878)の建物を、昭和四十四年(1969)に解体移築したんですって。
すごい!

中は無料で見学出来て、いろんな医療器具が展示してありましたが、この時代に生まれてなくてよかったと思うような器具ばかりでした。









三階への螺旋階段は危険なのか立入禁止になっていて、残念ながら上がることができませんでした。

庭に、こんな物騒な岩があります。
一番背の高いのがそうらしいです。
「首をのせたとされる石鉢」とありますが、確かにてっぺんが丸くえぐられていて手水鉢のようになっています。
何かで欠けてしまったらしく、針金を巻いて補修してありました。

斬殺されたという谷地城主・白鳥十郎長久という人は、山形城主・最上義光にとって最大のライバルだったようです。

義光長久懐柔策として、嫡子である義康と長久の娘を結婚させて長久を山形城に招こうとしますが、身の危険を感じた長久は応じませんでした。
そこで次に義光は、重病で余命幾許も無いので今後のことを相談したいと長久を誘い出します。
おそらく半信半疑ではあったのでしょうが、山形城に出向いた長久義光の枕元に案内され、義光から一巻の書を差し出され、それを受取ろうとしたところを斬り付けられて殺されてしまいます。
とまぁ、こんな話です。

世に恐ろしきは、権力への固執と嫉妬です。
しかし、因果応報、その義光の死後、最上家はお家騒動で改易となり、これが山形城の衰退へとつながっていきます。

さて、今夜は蔵王温泉で一泊です。
平和な世の中でよかった。

では、また次回。



  


Posted by 迷道院高崎at 07:26
Comments(8)◆出・たかさき

2015年11月22日

山形へ行ってきました(霞城公園編)

山寺駅から山形駅まで、仙山線で20分くらいです。

まずは、西口にある山形城址「霞城(かじょう)公園」へ向かうべく、東西自由通路を歩いていて「おーっ!」と思ったのが、天井のステンドグラス。

名産品「さくらんぼ」や、今日登ってきたばかりの「山寺」の風景など、山形自慢のものが格好良くあしらわれています。

すんばらしいですね。

すんばらしいといえば、自由通路の先にある官民複合ビル、「霞城セントラル」の24階展望ロビーからの眺めです。
晴天に恵まれたこの日は、雪を戴いた月山が望めました。


こちらは、これから行く予定の「霞城公園」です。


1階フロアに降りると、こんなのがありました。

鍋の中にテーブルとベンチがあって、人間が「いも煮」の具になれるようになってます。

「いも煮」ながら、ニクい演出です。

ニクいといえば、この「霞城セントラル」、官民でうまい使い方してます。
大いに学ぶべきところありです。

「霞城公園」へ向かって行くと、面白い張り紙を見つけました。

「3000円お買い上毎に どんどん焼き1本プレゼント」っていうんですが、ここ「ファッションプラザほそや」って衣料品屋さんでしょ?

首を傾げながら歩いていると、裏口のような位置に「どんどん焼き」のお店「おやつ屋さん」ってのがありました。

山形名物だそうで、お好み焼きとクレープの合いの子みたいなやつなんですけどね。

群馬「どんどん焼き」っていうと、お正月の松飾りを焼く行事ですから、お国変われば品変わるですね。

「霞城公園」の入口前広場に、「旧香澄町字南追手前」という立派な標柱が建っています。

「追手前」「おおてまえ」じゃなくて、「おってまえ」と読むんですね。

読み方で言えば、「霞城」(かじょう)は「山形城」の別名ですが、山形は地形上霧が発生しやすい土地柄だそうで、「慶長出羽合戦」の時、直江兼続が富神山の麓から山形城の方を見たが、霞で十日間も見ることができなかったので、「霞ヶ城」(かすみがじょう)と呼んだのが由来だとか。

で、明治六年(1873)にこの辺りを士族に払い下げた時、「霞城村」(かじょうむら)と名付けようとしたが、時の県参事が城の名前はまずいと思ったようで、「香澄」という字をあてて「香澄町」(かすみちょう)としたらしいです。

二の丸南大手門です。

山形城の初代藩主・最上義光(もがみ・よしあき)の石高は57万石でしたが、その後城主が変わるごとに石高を減らし、江戸中期以降は10万石となって城の維持も困難になったそうです。

幕末には5万石まで減り、本丸は更地にして御殿は二の丸に置かれ、三の丸の半分は田畑となっていたといいます。
明治に入って山形市が城を買取り、陸軍の駐屯地を誘致し、城内の櫓や御殿は破却して本丸、三の丸の堀は埋め立てられます。

この辺は、わが高崎城と同じような歩みです。

異なるのはそこからで、昭和二十四年(1949)には早くも本丸及び二ノ丸跡を「霞城公園」として一般に開放します。

また昭和六十一年(1986)に、本丸及び二ノ丸跡(霞城公園)と三ノ丸跡の一部が国の史跡に指定されると、翌年には市制100周年の記念行事として、二ノ丸東大手門を約6年かけて忠実に復元しています。

さて、二ノ丸南大手門から城内に入ります。

「霞城公園」内には、約1500本の桜の木があるそうです。
春はさぞ美しいことでしょうが、秋は秋で葉が色づいて、訪れる人を出迎えてくれます。

公園内のご紹介は、次回。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:14
Comments(4)◆出・たかさき

2015年11月15日

山形へ行ってきました(山寺編)

観音山シリーズはちょいとお休みを頂きまして。

山形県山寺駅へ来ています。

ホームには、元禄二年(1689)に山寺を訪れた俳聖・芭蕉の有名な句、「閑かさや 岩にしみ入 蝉の声」の看板が。

その下からは、これから行く立石寺(りっしゃくじ)が、山のえらく高い所にあるのが見えます。

だいじょうぶかな・・・。

ホームの降り口では、「はながたベニちゃん」「きてけろくん」が、「山寺さ来てけで ありがとさま!」って言ってます。

「きてけろくん」の顔が、山形県の形をしてるというのが面白い。

昭和八年(1933)開業の山寺駅は、「東北の駅百選」に選ばれているだけあって、お洒落でいい感じの駅舎です。

「天童温泉 観光駅馬車停留場」という幟旗が立っています。

これがその「観光駅馬車」です。

なんたって、無料で乗れるってのがすごい。




通常は土・日・祝日だけの運行ですが、紅葉の時期は平日も運行してます。

駅前のお土産屋さんを覗いたら、「焼きまんじゅう」というのを売っていて驚きました。

上州名物「焼きまんじゅう」とはまったく違うものですが、焼いたお饅頭という意味ではこちらの方が正しいのかも知れません。

川向うに、でかい石がどーんと居座ってます。

「対面石」(たいめんせき)って名前らしいですが、なんでも山寺の開祖・慈覚大師圓仁が山寺を開くにあたり、この地方を支配していた狩人・磐司磐三郎(ばんじ・ばんざぶろう)と、この大石の上で対面したというのが由来だそうです。



鉄砲打ちの盤三郎に、「ここに寺を建てるから、おまえ狩猟をやめろ。」というんですから、圓仁もいい度胸してます。

二人で話をしている内に、盤三郎日光の猿麻呂(猿王)の子、圓仁壬生の生まれと、お互い下野国の同郷人だということが分かり、話がうまく進んだようです。

盤三郎圓仁の像が安置されている「対面堂」です。
対面してないんですけど・・・。





盤三郎さん、めっちゃ怖そうな人じゃないですか。

いいなぁ、このお願い。

きっと叶いますよ。

ちなみに私は、隣の「幸福の鐘」を二回たたいて、自分の幸せだけを願ってきました。
(たぶん、叶わないな・・・。)

さて、ここから1070段あるという石段を上って、立石寺奥の院まで行ってきます。






なんとも綺麗に色づいた、楓の大樹が出迎えてくれました。

説明板を見ても何のことやらよく分かりませんが、お地蔵様の頭を撫でると長生きできるらしいので、いちおう撫でておきました。

「亀の甲石」なんてのもあって、小銭に名前を書いて願いたい場所に供えると叶うらしいのですが・・・、


個人情報が漏洩すると困るので、無記名にしておきました。

定番の「せみ塚」を見たり・・・、


紅葉の素晴らしさに見とれたりしている内に、いつしか800段を上りきり・・・


百丈岩の上に建つ納経堂が見えてきます。
崖下にある自然窟には、慈覚大師圓仁の遺骸が金棺に入れられ埋葬されているんだそうです。

ここからさらに上った「五大堂」からの眺めは、まさに絶景、絶景!


ひとしきり眺望を楽しんでから下山してくると、本坊脇の池に出ます。
池辺の楓の葉と、池に落ちた葉の紅が実に鮮やかで感動的でした。




と思ったら、落ち葉に見えたのは緋鯉の稚魚の群れでした。

びっくりぽん!です。

1070段という石段に覚悟を決めて臨んだのですが、途中の景色に見とれ、写真を撮り、説明板を読んだりしながらだったので、ほとんど疲れを覚えることもなく行って来られました。


わが高崎清水寺の石段はここのほぼ半分で520段ですが、結構きつく感じます。
きっと、途中で立ち止まって見るものがなく、一気に登ることになってしまうからでしょう。
ここに、清水寺コース誘客策のヒントがありそうですね。

さて、今日はこれから山形市内へ向かいます。


  
タグ :山寺立石寺


Posted by 迷道院高崎at 07:01
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2015年07月12日

稲部 市五郎を訪ねて

今日は、観音山をちょっとお休みして、富岡のお話です。

少し前になりますが、上毛新聞の「三山春秋」にこんなコラムが載りました。


このコラムを読んで瞬時に思い出したのが、一年半ほど前に「櫻樹の塚」という小説を書かれた、たなか踏基さんのことです。
踏基さんとは、真塩紋弥のご縁でした。

何回かメール交換をするうちに、踏基さんの著書に「七日市藩和蘭薬記」というのがあることを知りました。

稲部市五郎シーボルト、七日市藩加賀藩オランダ長崎そして上州をつなぐダイナミックなストーリーが展開される歴史小説です。

いつか稲部市五郎の墓を訪ねてみたいと思いながら、月日が経ってしまっていましたが、梅雨空の中、やっと訪ねることができました。

「七日市藩邸跡」富岡高校前の道を横断し、上信電鉄の「上州七日市駅」へ向かうと、右側に「稲部市五郎種昌の碑」があります。




碑が建っている場所は、市五郎が死ぬまで入れられていた牢の跡地だそうです。

この碑を建てたのは、三山春秋にもあったように斎藤寿雄はじめ「北甘楽郡医師会」の会員達で、





碑背に30名の名前が刻まれています。

医師たちが建碑した理由について、たなか踏基さんは小説の終章でこう書いています。
後日七日市藩のあった北甘楽郡と吾妻郡中之条を中心とした地域に蘭方医が多数輩出した事実は否定できない。歯科医師すら誕生している。
十一年間もの間に入牢の稲部市五郎の直接指導の結果とは表向き言えないまでも、残された蘭学要諦の写本の種が両地域で芽を出し、周囲の行為で時機を見て結実した結果であることは間違いない。
七日市藩の揚がり屋で永牢死亡した小通詞末席、稲部市五郎種昌五十九歳。
その名を多くの甘楽郡、富岡住民のみならず、中之条住民も記憶に留めているのである。」

稲部市五郎という人は、和蘭語の通詞(通訳)として蘭医書の原書を読むことで、薬や外科医術の知識・技術を得、シーボルトにも学んでいたのだそうです。
七日市藩の牢内に居ながら、藩医の求めに応じてその知識を伝えていたようで、それが甘楽郡一帯や吾妻郡にまで広まったということなのでしょう。

碑の左隣の立派な家は、碑背にも名前が刻まれている医師・保阪家です。

その先には、近代的な「保阪医院」があります。

碑から富岡製糸場方面へ400mほど行ったところに、稲部市五郎の墓があるという「金剛院」入口を示す石柱が建っています。

側面には、「小三位勲二等貴族院議員 子爵前田利定閣下書」と刻まれています。
七日市藩最後の藩主を父に持ち、逓信大臣、農商務大臣を務めたそうです。

山門の右裾に、「稲部先生ノ墓」と刻まれた石柱が建っています。

山門を潜ると、「極楽浄土池」「水かけ不動尊」「七福神堂」などがあって、実にセンスの良い立派な境内です。



稲部市五郎の墓を探して、本堂裏の墓地をぐるぐる回ってみましたが、見つかりません。
降参して庫裡へ行き、奥様にお聞きしました。

すると墓地の中ではなく、幼稚園側の門内隅に、ひっそり建っているのがそうだと教えて頂きました。





説明看板は、残念ながら紫外線にやられていて、文字がよく見えません。



墓石正面には、「和蘭通辞肥州長﨑稲部市五郎種昌之墓」と刻まれています。
側面の漢文については、たなか踏基さんの読み下し文を引用させて頂きましょう。
肥前長崎の訳官稲部市五郎種昌、文政年間和蘭医某、東都(江戸)天文生某と私(ひそか)に音書(信書)を通ずることあるに依って辜(つみ)を得る。而して其徒三人各処に保放(追放)さる。
稲部氏廼(すなわち)、当藩中に十一年在り。中風に嬰(かか)り疾(や)む、終(つい)に天保十一年八月二十二日を以て監倉(牢屋)中に卒(死亡)す。
法諡(ほうし:戒名)曰く、楽邦常念居士。
(いささ)かその歳月を記し、之を示を以て来爾(らいじ:将来)に後(おく)る。」

文中、「和蘭医某」(オランダ医なにがし)とはシーボルトのこと、「天文生某」(天文生なにがし)とは幕府天文方御書物奉行・高橋作左衛門景保(かげやす)のことで、国禁の大罪を犯した主要人物であったために、その名を明記するのを憚ったのであろうということです。
彼等がどのような国禁を犯したのかは、「シーボルト事件」(Wikipedia)をご参照ください。

稲部市五郎は、高橋作左衛門から預かった書類の中身を知ってか知らずか運搬し、シーボルトに直接手渡していたことで重い罪に問われたのです。
薬草採取を手伝う等してシーボルトの信頼を得、蘭方医学をシーボルトから懸命に学んだことで、深い関与を疑われたのかも知れません。

たなか踏基さんは、市五郎の墓について、こう記述しています。
天保十一年(1840)、稲部市五郎は座敷牢で十一年間暮らし、病のため亡くなった。
十代藩主前田利和(としよし)はこれを悼み、密かに亡骸を七日市の金剛院に葬り、高さ九十センチ、幅四十センチ、厚さ三十六センチ余の墓碑を建立した。
十一代藩主利豁(としあきら)も密かに弔っている。
当時罪人を埋葬したり弔うことは許されていない時代のことである。まして藩主自ら、この禁を犯していることに驚かされる。」

七日市藩としては、市五郎の罪が冤罪であると確信していたのか、若しくは、たとえ罪人であっても領内の医学に大きな功績を遺したことに感謝したということなのか、いずれにしてもその死を深く悼んだことに間違いはありません。

皆さまもぜひ、世界遺産・富岡製糸場へ行った折には、少し足を延ばして、稲部市五郎の史跡を訪れてみては如何でしょうか。


【稲部市五郎の碑】

【稲部市五郎の墓】


  


Posted by 迷道院高崎at 06:58
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2014年11月16日

函館から高崎遠望

函館という町は、歴史を大切にする町だなという印象は、この「元町公園」ひとつを見ても、とても強く感じられます。

園内には、函館ゆかりの歴史上の人物を説明した円柱が立ち、観光案内所も兼ねた「函館市写真歴史館」があります。

園内には、「函館四天王」という立派な銅像が建っています。






説明板を見ると、函館の町のために私財を投じて貢献した人たちだそうです。

説明文の中で興味深いのは、「市民精神の源流」と題した次の一節です。
明治の函館は本州のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。」

地方自治のあり方について、実に示唆に富む一文ではないでしょうか。

「元町公園」のすぐ上に、素敵な洋館が建っています。







「旧函館区公会堂」だそうです。

説明板には、単なる建物の紹介だけでなく、そこに関わる人と歴史も紹介されています。
簡潔な文章ながら、そこには「函館四天王像」同様、見る人を感銘させる物語があります。
明治40年(1907)8月の大火は函館区の約半数12,000戸余りを焼失した。
この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の浄財を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商とされた相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910)現在の公会堂が完成した。」

わが高崎市においても、これから史跡案内板を整備していこうとしています。(過去記事「嬉しいような・・・話」
函館のこれらの史跡説明板の書き方は、大いに参考すべきところがありましょう。

その豪商・相馬哲平が、明治四十年の大火後に数年をかけて建てたという「旧相馬邸」が、「元町公園」のすぐそばにあります。

函館へ来た人は必ずと言っていいほど訪れる観光スポットのようです。

しかし迷道院は、その向かい側の家に、より深い興味をそそられてしまいました。

普通のお宅のようですが、黒板塀に囲まれた瀟洒な造り、土蔵の窓に嵌められた硝子戸のレトロな雰囲気が素敵です。

ちょうど表へ出てきたこの家のご主人に、「素敵なお家ですね。」と声をお掛けすると、ポツリ、ポツリとこの家の歴史を話し始めてくれました。
この建物は明治の半ば頃に建てられたもので、松前藩の家老職も務めた重臣の家系である下国(しもぐに)氏の屋敷だったそうです。
「旧相馬邸」よりも早くこの地に建てられた屋敷は、当時「下国御殿」と呼ばれていたとか。

「本間一男という人を知っていますか?」と聞かれ、「いや、知りません。」というと、「日本点字図書館」の創立者だと教えてくれました。

北海道留萌増毛町の商家「丸一」本間家に生まれた一男は、5歳の時、脳膜炎にかかって視力を失ってしまいます。
本間家と下国家は親戚の間柄で、一男は14歳の時この家に住み込んで、ここから近くの「函館盲唖院」に通っていたんだそうです。

そんな由緒歴史のあるお屋敷ですが、敢えて文化財登録もせず補助金も受けていないということです。
「今日は水曜日でお休みなんですが、喫茶もやってるんですよ。」ということで、残念ながらこの日は見られませんでしたが、そういう形で活用・公開されているようです。

そういえばわが高崎でも最近、長く非公開であった倉賀野の旧「大黒屋」が、「おもてなし館」として利用されるというニュースがありました。
これらに倣って、高崎の他の伝統的建築物も、活用・公開されるようになるといいなと思いました。

歴史の町「函館」には、昔の建築物がたくさん残され、それらのほとんどは今も活用されています。






レトロな街並みに、市電がすごく似合っていました。

料金210円~250円という低料金、3分~5分間隔で運行される市電は、市民にも観光客にも、まさに便利な足として利用されています。

いい町です、函館



  


Posted by 迷道院高崎at 17:08
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2014年11月03日

函館へ行ってました

観音山への遠足を中断して、北海道へ行ってました。

ほんとは去年の今頃、女房殿の定年退職祝いで行く予定だったんです。
それも、なかなか取れないという寝台特急「カシオペア」の切符が取れたというんで、それは楽しみにしていたんです。

が、そこは生来くじ運の悪い迷道院、そうは問屋が卸しませんでした。
1週間前になって、女房殿が俄かに腹痛を訴え、まさかの盲腸炎で緊急手術と相成りまして。
まさに、「断腸の思い」で取り止め、今年はそのリベンジという訳です。

そのリベンジの幕開けは、横殴りの雨が吹き付ける気温2℃の函館でした。

勇気を奮ってホテルの外に出ましたが、たちまち傘をお猪口にされ、とても散策どころではありません。
ほうほうのていでホテルに逃げ帰り、温かい温泉に浸かって、返り討ちにあった悔しさを癒すしかありませんでした。

一夜明けて雨だけは上がったので、防寒対策をしっかりして散策に繰り出しました。

レンガ倉庫の壁面を、紅葉したツタの葉が美しく彩っています。

会いたかったのは、このブロンズ像。↓
函館ウォーターフロント計画の一環として、平成十四年(2002)に函館市が設置した、新島襄のブロンズ像です。

作者は峯田敏郎氏、新島襄が函館から密出国した姿をイメージした作品だそうです。

「記念撮影 未来への始まり‐海原‐」という題がついています。

ブロンズ像から300mほど歩くと、昭和二十七年(1952)に函館市同志社と函館市が10万円づつ負担して建てた「新島襄海外渡航乘舩之處」という石碑があります。↓

碑に刻まれている漢詩は新島襄の直筆で、慶応元年(1865)に香港で詠んだもので、こう読むんだそうです。

男児志を決して千里を馳す
自ら苦辛を嘗む豈(あに)家を思わんや
却って笑う春風雨を吹く夜
枕頭尚夢む故園の花」

碑の後方に見えるのは、昭和五十五年(1980)に埋め立てて造成された「緑の島」です。
そこへ架けられた橋の名前は「新島橋」とあります。

新しく作られた島への橋ということなのでしょうが、新島襄に由来していると思いたいものです。
できれば、「緑の島」「新島」と改名してほしいところですが。

近くに、安政四年(1857)日本人によって初めて建造された洋式帆船「箱館丸」が、復元・公開されています。

「箱館丸」の建造に携わった人物は、福士成豊と船大工である父・続豊治

この福士成豊こそ、新島襄のためにアメリカ船「ベルリン号」との渡りをつけた福士宇之吉です。

また、父の続豊治と交流のあった人物には、松前藩奉行を経て安中藩に召し抱えられた学者・山田山川(さんせん)がいます。
江戸にいた頃の新島襄函館の情報を流したのが、この山田山川であったとも伝わっています。

は函館に来る理由を、五稜郭を設計した武田斐三郎(あやさぶろう)の塾で修行するためと、藩に届け出ています。
ですが、ひと月以上かけて函館に着いた時、斐三郎はもう江戸に戻ってしまっていました。
はその後、武田塾々頭の菅沼精一郎の紹介でハリストス教会のニコライ神父と出会います。
ニコライ神父は、を日本語教師として雇い、自分の家に住まわせました。

「元町公園」内にある「函館市写真歴史館」には、ニコライ神父の勧めでロシア領事館で撮影したという、密出国する前の襄の写真が展示されています。

この「元町公園」には、「箱館奉行所」が置かれていました。

「箱館奉行所」は、が密出国した年、元治元年(1864)には五稜郭内に移っていますので、はどちらの奉行所も見ていたかも知れません。

また「箱館奉行所」といえば、小栗上野介忠順の盟友・栗本鋤雲が文久二年(1862)に箱館奉行組頭に任じられています。
翌三年には江戸に戻っているので、と顔を合わせることはなかったでしょうが。

「箱館奉行所」にはもう一人、小栗上野介と関係の深い人物がいます。


安政三年(1856)に箱館奉行を務め、万延元年(1860)の遣米使節副使として、小栗上野介(当時は豊後守)と共にアメリカへ行った村垣淡路守範正です。

そんな訳で、函館高崎・安中と深い縁のある町です。
ほんとは「八重の桜」で盛り上がっていた昨年に来たかったのですが、ブームが去ってから訪れるというのもまた、迷道院らしくていいでしょう。

それにしても、函館という町は実に歴史を大切にする町だということを実感しました。
また、その歴史が国の内外から大勢の観光客を集めていることも実感しました。
高崎も大いに真似をすべきところであり、その話はまた改めてしたいと思っています。


  


Posted by 迷道院高崎at 20:21
Comments(4)◆出・たかさき

2014年08月24日

伊豆から高崎遠望

三嶋大社で見つけた「安達藤九郎盛長警護の跡」
高崎には、「安達藤九郎盛長の館跡」があるんだけどなぁ・・・。


同じく、三嶋大社にあった「源頼朝と政子の腰掛け石」

高崎にだって、頼朝のご先祖様の「腰掛け石」があったはずなんだけどなぁ・・・。


下田の町のトイレには、便器の前に「下田おもしろエピソード」ってのが貼ってあります。
用を足しながら町を学べる、いいアイデアだなぁ!

これ、高崎も真似しようよ!


世界遺産を、地元PRに結び付ける前向きな姿勢が素晴らしい!

高崎にもあるんだけどなぁ、「榛名富士」


最後は、堂ヶ島の飴屋さん「菊水」

何の変哲もなさそうな店構えですが、暖簾の「飴元」はぼっとして「網元」の洒落?

店内へ入って、大爆笑!


高崎にはあるかなぁ、こういう洒落の利いた店。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:49
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2013年11月13日

小菊の里の婦人たち

最近とみに有名になっている、伊勢崎市赤堀町「小菊の里」へ行ってきました。

遠くからでも、その素敵な小菊の丘が目に入ってきます。






丘の上から見ると、こんな感じ。
すごいでしょ!→

丘の上では、ご婦人たちが談笑中。

楽しそうですねー。





人生、いろいろ。

柿の実も、いろいろ。

好きだなー、こういうの。






【小菊の里】
  


Posted by 迷道院高崎at 09:10
Comments(4)◆出・たかさき

2013年06月23日

ちょいと千葉へ(佐原)

「寺田本家」から車で30分ほどで、北総の小江戸・佐原(さわら)に着きます。

かつて利根川水運の中継基地として繁栄したという佐原は、中心部を流れる小野川に沿って、往時を偲ばせる町並みが広がっています。

江戸時代の佐原は、「お江戸見たけりゃ佐原にござれ 佐原本町江戸まさり」と俗謡に唄われた商人町だったということで、「お江戸見たけりゃ高崎田町 紺の暖簾がひらひらと」と唄われた、わが高崎と同様、大変賑わう町だったようです。

しかし、自動車時代になって道路や市街地が郊外化してくると、中心市街地の賑わいに陰りが出てきたといいます。
このことも、高崎ととてもよく似ています。
しかし、高崎佐原が大きく違ったのは、このあとの町づくりです。

佐原が伝統的町並みを整備するきっかけとなったのは、昭和六十三年(1988)に実施された、竹下内閣の「ふるさと創生事業」だったそうです。
佐原市では「ふるさと創生資金使い道アイディア募集」を行い、創生資金1億円の使い道を、広く市民に問いかけたのです。
その結果、郷土の偉人・伊能忠敬や、佐原の町並みに関することが上位に上がりました。

これを機に町並み保存の機運が盛り上がり、平成元年(1989)には市役所職員による「地域づくり研究会」が発足、翌年には「小野川ふるさと川づくり検討委員会」が発足します。
さらに、行政と地域住民がまちづくりを語り合う場として、「まちづくりを語り合う場」が設けられたのです。

そして平成三年(1991)には、市民主体の「小野川と佐原の町並みを考える会」が発足し、翌年には「町並み保存計画書」を市長へ提出するまでになり、今もNPOとして町並み保存の中心的役割を担っています。
行政が呼び掛け、市民がそれに応えるという町づくりのお手本として、わが高崎も大いに学ぶところがあるのではないでしょうか。

平成四年(1992)には、橋から水がジャージャー出てくるという珍しい「樋橋」を、町並み保存の象徴として、木造の橋に架け替えました。

因みに、橋の向こう側にシートで覆われている所は、伊能忠敬の旧宅です。
東日本大震災で被害を受け、修復中なのだそうです。

古い建物が多い佐原では、震災の被害も大きかったようです。

文化元年(1804)創業で、明治二十八年(1895)築の「福新呉服店」さんの屋根も、大きな被害を受けました。

でも、佐原の方々はめげていません。
写真の下に写っているものを見てください。
震災の時に落ちなかった瓦の一片を袋に入れて、「幸運のお守り瓦」というのを作っちゃってます。
「運が落ちない」ということだそうですが、きっと受験生には好評だったに違いありません。

すっかり修復されて、何事もなかったようにどっしりと構えた、現在の「福新呉服店」さんの姿です。






その店先に、こんなのが飾ってありました。

震災で落ちた瓦に、来訪者の温かいメッセージが書かれています。
そのメッセージもさることながら、私は「・・・落ちて家を守った瓦」という「佐原おかみさん会」の言葉に感動しました。

その「佐原おかみさん会」によって運営されているのが、一軒一軒のお店が小さな博物館という、「佐原まちぐるみ博物館」です。

実は、佐原の町を巡って、特に感じたことがあります。
それは、駐車場の受付の方を始め、どの施設、どのお店でも、皆さんとても気持ち良い応対をしてくれるんです。
お年寄りでも、若い方でも、女性でも、男性でもそうなんです。

「福新呉服店」の素敵な若おかみさんにその話をしたら、「おかみさん会で、定期的におもてなしの研修をしてるんですよ。」と仰ってました。
あー、それでなんですね、納得しました。
けちんぼの迷道院の財布の紐も、ついゆるんでしまいました(笑)

一軒一軒が博物館、町全体がテーマパーク、住民みんなが接客係、素敵な町でした、佐原

天保二年(1831)創業、
明治後期築の酒屋「金利」
(かねり)の建物を利用した、「町並み観光案内処」
明治34年(1901)創業、同年築の旅館「木の下旅館」
現役で営業しております!

明治34年(1901)築の建物
を使って、平成16年(2004)に開店した仏蘭西料理店「夢時庵」(ムージャン)。
東日本大震災後に、明治10年(1877)築の主屋と明治17年(1884)築の土蔵を改修して開いたパスタ店「ワーズワース」

頑張って仕込中の、板前割
「真亜房」(まあぼう)。
なぜか「上州屋」
お酒屋さんでした。


千葉の旅は、まだ続きます。


  


Posted by 迷道院高崎at 14:59
Comments(6)◆出・たかさき

2013年06月16日

ちょいと千葉へ(寺田本家)

千葉へ行ったら寄ってみようと思っていた、造り酒屋「寺田本家」です。

下戸の迷道院が、この造り酒屋を訪ねたいと思うようになったきっかけは、映画「降りてゆく生き方」の上映会で、寺田啓佐(てらだけいすけ)さんの講演を拝聴したことです。

実は、「日本酒」というのは、あまり好きではありませんでした。
燗をすると鼻にツーンとくるし、冷やで飲むと舌にピリピリッとくるし・・・。
そう言うと日本酒通の方からの、「そりゃ、安い酒しか飲んだことがないからだ。」という声が聞こえてきそうです。

でも、旅行先で名のある造り酒屋の「大吟醸」などという高いお酒を飲んでも(もちろん試飲ですが)、そう感じるんです。
と言うとまた、「お前は、酒の味が分からないんだ。」と言われちゃうんでしょうね。

でもね、「寺田本家」「五人娘」という日本酒を飲んだ時は違ったんですよ。本当に美味しいと思ったんですよ。
芋焼酎の「伊佐美」を飲んだ時と、同じ驚きでした。

ワインのソムリエ風に言えば、「母の胸に抱かれているような、柔らかい芳香と味わい」(キザ!)です。
「五人娘」の名付け親・土屋文明氏は、「まじりっけのない、けがれを知らない娘のイメージだ。」と表現したそうですが。

あ、高崎では、「土屋文明記念館」に近い保戸田町「鈴木酒店」さんで取り扱っていますので、一度飲んでみてください。

下戸のくせして、お酒の話を長々としてしまいましたが、そんなことで、一度「寺田本家」さんを訪ねてみたいと思っていたのです。

門を入ると、酒米でしょうか、「千葉錦」「亀の尾」という稲苗が、神饌田のようにして植えられていました。





国の登録有形文化財に指定されている醸造蔵の手前に、一体の観音様が祀られていました。

「ひとりさん観音」と書かれています。

斉藤一人さんに出会って、人生観やものの考え方が大きく変わったという寺田啓佐さんは、著書「斉藤一人・発酵力」の中でこう綴っています。

私は添加物を使わない『百薬の長』と言われた昔ながらのお酒造りにこだわってきました。だから、売れなくてもしょうがないと
思っていたのです。しかし一人さんはこう言います。
『こんなにいいお酒を造ってるんだから、もっと多くの人に知ってもらわなきゃダメだよ。そして、日本一の酒蔵をめざそう!』
(略)
今までの私は、『清貧の思想』にすごく憧れていました。それは『貧しくても清く生きる』ということなのですが、どこか、『清く生きるということは、貧しさをともなうものだ』と思いこんでいました。しかし天は、清く生きる人には豊かさをも、もたらしてくれるのです。
それからの私は一人さん流で、『清富の思想』に考えを変えました。つまり、大欲を持って多くの人に喜んでもらえるお酒を造り、そのご褒美として利益もありがたくいただく。そしてその利益をまた世間の人に喜んでもらえるように還元し、世の中に貢献していく。
このように、清く豊かに生きようと思うのです。」

寺田啓佐さんは、この本を書き上げた後、出版を待つことなく昨年の四月、発酵人生を全うして旅立たれました。
啓佐さんの思いは、寺田本家第二十四代当主となった寺田優さんが継いでおられます。

さんは、群馬からわざわざ来てくれたと喜んで下さり、啓佐さんが生前書き遺した自筆の言葉で作ったという日めくりカレンダーを、私に手渡してくれました。

その31日目に、「寺田本家家訓」が載っていました。
これが、寺田啓佐さん発酵人生のすべてなんだと思います。

啓佐さんの発酵力は寺田本家に止まらず、小さな神崎(こうざき)の町を「発酵の里」として大きく発酵させました。

その原動力となったのは、神崎の歴史と信仰と人々のつながりに違いありません。

わが高崎の町づくりも、大いに参考とすべきではないでしょうか。


【寺田本家】


  


Posted by 迷道院高崎at 00:35
Comments(6)◆出・たかさき

2013年06月09日

ちょいと千葉へ(成田山)

初めての、「成田山新勝寺」です。

高崎にも「成田山光徳寺」がありますが、これは明治十年(1877)に高崎が働きかけて、出張所を開設したものだそうです。

過去記事「北の遠構え」の中にも書いたのですが、「新勝寺」の賑わいにあやかりたいと思ったのでしょう。
開設した当時は、狙い通り賑わったようですが、今はひっそりしています。
境内やその周辺には、面白いものや面白い話が沢山残っているのに、何とも勿体ない思いがします。

その点、本家の「成田山新勝寺」は今もなお賑わいが続き、その規模といい、賑わいといい、大したもんです。

ご覧のように、亀さんまで、押すな押すなの大騒ぎです。

その本家も、江戸時代までは参詣客も少ない寂れた寺院だったようで、「来ないんなら、こっちから行くか。」ってな具合で、「出開帳」といって、わざわざ江戸までご本尊の不動明王を担いで行って、出張開帳してたんだとか。
その成田山が俄かに賑わうようになったのは、何と言っても初代・市川團十郎のおかげのようです。

子供に恵まれなかった團十郎成田山に祈願したところ、翌年めでたく子宝を授かったというので、その報恩のために江戸で上演した「成田不動明王山」が大当たり、以来、成田山は参詣客で大賑わいとなる訳です。

朝ドラや大河ドラマで舞台となった土地が、一躍脚光を浴びるのと同じなんですね。

要は、どうやってその舞台に選んでもらうかという、知恵とご縁の結びつきということでしょうか。

という、「成田山新勝寺」ですが、私の、この日一番の目当ては、これ →

二宮金治郎が、三・七・二十一日の断食・水行をしたという道場です。

小田原藩主・大久保忠真の命を受けて、下野国桜町(現・栃木県芳賀郡二宮町、真岡市)の経済立て直しに取り組んだ金治郎ですが、農民や小田原藩士の無理解と妨害に、行き詰まってしまいます。

富田高慶著「報徳記」では、こんな風に記しています。
心力を労し此の邑(むら)を興し此の民を安んぜんとして旧復の道を行ふこと既に数年、道理に於ては必定旧復疑ひなしといへども、奸民(かんみん)之を妨げ、且(かつ)我と事を共にする所の吏(り)も亦(また)各偏執疑惑を生じ、終(つい)に讒訴に及べり。
内には我が事を傷(そこな)ふの妨(さまたげ)あり、外には侫奸(ねいかん)の民之(これ)と与(くみ)して我が事業を破るの憂あり。
此の如くにして三邑(ゆう)を興復せんこと其(その)期を計る可(べか)らず。嗚呼(あゝ)我能(あた)はずとして退かんことは易しと雖(いえど)も、君命を廃するを如何(いかん)せん。
顧(おも)ふに我が誠意の未だ至らざる所なり。」

普通なら、「俺はお前たちのために頑張ってるんだ。それを何だ!」と言いたくなるところですが、金治郎さんは「妨害を受けるのは、自分の誠意がまだまだ足らないからだ。」と言うんですから、そんじょそこらの人とは違います。

そして、わが身の修行に入ります。
三七二十一日の断食をなし、上(かみ)君意を安んじ下(しも)百姓を救んことを祈誓し、日々数度の灌水を以て、一身を清浄ならしめ祈念昼夜怠らず、二十一日満願の日に至りて其の至誠感応・志願成就の示現を得たりと云ふ。」

これだけでも驚きますが、この後がさらにすごいのです。
満願に及びて始め粥を食し、一日にして二十里の道程を歩行し桜町に帰れり。
衆人驚歎して曰く、如何なる剛強壮健の人なりと雖(いえど)も三七日の断食身体疲労を以て僅かに数里の歩行も難かるべし。況(いわ)んや二十里をや。是平常の測り難き所なりと。」

この荒業を終えたその日に、粥を一杯すすっただけですぐ桜町に戻った金治郎の姿に、人々の心持ちは変わり、尊敬の念へと変わっていくのです。
是より以来邑民(ゆうみん)自然其の徳行に感じ、小田原出張の吏も亦(また)私念挫折、良法の尊き所以(ゆえん)を発明し、内外の妨害解散、実業始めて発達することを得たり。」

今、欲しいと思うリーダーですね。

さて、千葉の旅は続きます。


二宮金治郎について興味の湧いた方は、とりあえず、こちらをご覧ください。
  ◇控帳 「二宮金次郎 天保の大飢饉を救う」

我慢強い方は、こちらもどうぞ。
  ◇「隠居の控帳」



  


Posted by 迷道院高崎at 10:25
Comments(6)◆出・たかさき

2013年03月17日

惣兵衛の梅

今日は「八重の桜と小栗の椿」をちょっとお休みして、代わりに「惣兵衛(そうべえ)の梅」のお話しをいたします。

先週、ちょいと熱海へ行ってきまして。

今年は梅の開花が1週間ほど遅れていると聞いて、人混みの苦手な迷道院は、あえて梅まつりの終わった「熱海梅園」へ。

狙いどおり人はまばらでよかったのですが、梅の花もまばらになっていて、開花は遅れても帳尻をちゃんと合わせるところは、さすが自然の営みです。
という訳で、満開の梅は熱海市のHPでご覧ください。

1万坪強の敷地に58種464本の梅の木があるという「熱海梅園」ですが、この梅園の造成に大きな力を尽くしたのは、茂木惣兵衛という高崎出身の人物なんです。

惣兵衛さんには、以前、「和風図書館と茂木銀行」にご登場頂いたことがあります。

で、園内にはこーんな大きな石碑に、「茂木氏梅園記」と刻まれています。→

漢文で刻まれた碑の傍らには、これまた大きな看板に、振り仮名つきで読み下し文を書かれていますが、これすらちょっと難しくて。




ま、適当に拾い読みしてみましょう。
内務省衛生局長だった長與専斎(ながよ・せんさい)という人が、
「温泉が病気によく効くのは、その成分のせいだけではなく、適度な運動をするからだ。一日中室内に居て温泉に入っていても、養生にはならない。政府の命を受け『噏滊館
(きゅうきかん)』を造ったが、散策して心が和むような場所を持ってないのが残念だ。以前いい場所を見つけたのでそこを造成したいものだが。」と、語ったというのです。
右大臣・岩倉具視がヨーロッパ式の温泉医学療法を取り入れようとして建設した、日本初の温泉療養施設。現在のニューフジヤホテル別館アネックスの所にあった。

それを聞いた神奈川中山保次郎という県会議員が、横浜茂木惣兵衛に話を持ちかけたところ、惣兵衛は喜んでこれに応じ、地元の人と相談して造成を進めたということです。

碑文は続けて、
「茂木氏が最も多くの梅を植えたので、『茂木氏梅園』と称された。
茂木氏は富豪であるが、欲を極めるようなこともなく、かえって私財を投じてこの事業を成し、しかも私することなく公衆に開放するとは、実に偉大な人物である。」

と称賛しています。

惣兵衛さんは、文政十年(1827)高崎の質商・大黒屋茂木惣七の長男として生まれました。
幼名は惣次郎といいましたが、天保八年(1837)十歳で新田郡太田の太物商・今井仙七の店に奉公し、後に抜擢されて支配人となり惣兵衛と改称しています。

嘉永五年(1852)二十六歳の時、桐生の絹物商・新井長兵衛家に養嗣子として入り、生糸や絹の販路拡大に商才を発揮しますが、嘉永七年(1854)に新井家を出て高崎に帰り、茂木姓に戻ります。

安政六年(1859)開港となった横浜に、惣兵衛は出ていきます。
武蔵国児玉郡出身の野沢庄三郎が開いた雑貨貿易店「野沢屋」で働きますが、文久元年(1861)庄三郎が病没した後の「野沢屋」惣兵衛が引き継ぎ、横浜随一の生糸貿易商となっていきます。
明治期に入ってからの銀行業については、「和風図書館と茂木銀行」に書いた通りです。

明治二十年(1887)の全国高額所得者一覧によると、華族を除けば、彼の岩崎弥太郎の子・久弥渋沢栄一住友財閥の吉左衛門鴻池財閥の善右衛門に次いで、堂々第5位に茂木惣兵衛がランクインしています。
「熱海梅園」が造成されたのは明治十九年(1886)ですから、まさに功成り名を遂げた時期だった訳です。

そんな大富豪・茂木惣兵衛の、篤志家としての人柄を顕わすエピソードが残されています。

惣兵衛さんは、横浜の学校設立や道路・堤防の修繕改築、上水道開通、救貧事業などに多額の寄付を行っていますが、そういう表立った行為とは別に、夜には枕元に火消しの法被を用意し、火事となると懐中に百円札を入れて現場に駆け付け、焼け出された者にそっと金を渡したといいます。

惣兵衛さんは明治二十七年(1894)享年66歳で他界しますが、葬儀は遺言により贈花・贈物を謝絶して質素に行われました。
葬儀を質素にした代わりに、近隣村々の貧民5000人に対して、施米料各50銭を寄付しているのです。

今度熱海へお出でになる機会がありましたら、ぜひ「熱海梅園」をお訪ねください。
そして、気骨ある高崎人・茂木惣兵衛のことを思い出してください。

(参考図書:横浜開港資料館編「横浜商人とその時代」)


  


Posted by 迷道院高崎at 09:00
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2012年10月24日

黄葉と霧氷と…池の平湿原

浅間山に初冠雪という今日、落葉松の黄葉を求めて「池の平湿原」へ行ってきました。

昼近かったんですが、寒暖計は2℃を示しています。
隣の最高最低温度計を見ると、最低気温は-6℃、最高気温は27℃のようです。

木々の梢は、霧氷で白くお化粧されていました。→







←水の塔山かなぁ、山の頂も霧氷か雪か、粉砂糖をまぶしたようになっています。

三方ヶ峰の火口壁が崩れてできたという「放開口」

遥か眼下に見えるのは、小諸の町でしょうか。





視線を遠くの山に向けると、富士山の姿がはっきりと見えました。

富士山も、うっすらと雪化粧です。

ほとんど人に出会わない静かな木道。
広々とした湿原を、一人占めできます。






少し山の中に入ると、日の当たらないところには、りっぱな霜柱がにょきにょき立っています。

稜線に生える木々の梢は霧氷に閉じ込められていますが、その芽は既に春への準備をしています。↓


稜線からの眺めは、絶景、絶景!



途中、こんな光景が。→

倒木更新とは少し違うようです。
倒れた木の枝が、それぞれ独立した木のように成長しているのでしょう。

逞しいもんですねぇ。


帰り道、鹿沢「たまだれの滝」付近で素晴らしい紅葉を見つけました。


今年は、なんやかんやで、なかなか紅葉見物に行けませんでしたが、
やっと出会えました。
紅葉も、これから、だんだん里に下りてくるでしょう。
そのあと、やって来るんですね、冬が。


【池の平湿原】


  
タグ :池の平湿原


Posted by 迷道院高崎at 21:56
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2012年08月22日

ちょいと飛騨古川へ(2)

「瀬戸川」に沿って歩きます。

平日ということもあるのでしょうが、飛騨高山ほど人も多くなく、落ち着いた雰囲気です。
ちょうど、白川郷に対する五箇山のような感じでしょうか。

古川の人は、朝起きると自分の家より先に道路の掃き掃除をする、と教えて頂いた通り、朝9時の川辺にはごみ一つ落ちていませんでした。

川べりにこんな案内板が建っていました。

ちょっとした伝承ではありますが、今も昔も旅人は由来や薀蓄が好きなものです。
この案内板がなかったら、おそらくここを見上げることはないでしょう。

観光地たるもの、大いにこういった案内板を建てるべきだと思います。

川べりの家の玄関には、みな何かしらのディスプレイが飾られていますが、相談役の玄関に下がっている「遊び中」の木札には、思わず吹き出しました。

ところが歩いていると、そういう木札が下がっているお宅が何軒もあるんです。
で、この木札を裏返すと「勉強中」という文字が書かれています。

聞いてみると、これ、子どもがいる家に区域で配った木札なんだそうです。
子どもが宿題や勉強をしている時には、「勉強中」に。
それが終わって、遊べるようになったら「遊び中」にするんだそうです。

子どもの頃、友達の家の玄関で「〇〇ちゃーん、遊ぼー!」と言うと、「あーとでねー!」なんて返ってきたことを思い出して、すごく懐かしい気持ちになりました。


←切り絵と古布の店「布紙木(ふしぎ)」、残念ながらお休みでした。



写真マニアのご老人が鶴瓶さんにゴリ押ししていた、美人オーナーのいる「由布衣(ゆう)工房」。→

石橋を渡って細い路地を進むと、玄関の方に抜けられます。





素敵な玄関から声を掛けると、「はーい、どうぞー。」という声が返ってきます。


いました!

オーナーの河合由美子さん。
機織りから染色まで、すべてご自分の手でなさっています。

数寄屋造りの素敵なお部屋に、美しい草木染の作品がたくさん陳列されていました。



奥には、機織りの作業場や立派な座敷蔵があって、染料になる植物や生糸、作品などが展示されています。

「どちらから?」と聞かれたので「群馬です。」と答えると、即座に「あー、富岡製糸のある。」というお答え。
嬉しかったですねー。

「高崎には、染料植物園というのがあるんですよ。」と言うと、これまた即座に「あー、山崎先生のね。一度行ってみたいと思っているんですよ。」というお答え。

染色関係の方はとうにご存知なんでしょうが、そうでない高崎の人で、「山崎先生」をご存知の方は少ないのではないでしょうか。
そう言う私も、鎌倉街道探訪で豊岡のことを調べていたので、たまたま知っていただけなんですが、遠い古川「山崎先生」という名前を聞いて、ちょっぴり誇らしい気分になりました。

では、「山崎先生」について少しお話ししましょう。

豊岡「草木染研究所」というのを開いた、山崎青樹(せいじゅ)という群馬県の重要無形文化財に指定された、すごい染色家がいたんです。
(平成22年/2010歿 享年77)

井上房一郎氏の招きにより、長野県佐久から豊岡に移り住んだ青樹氏が、碓氷川の堤防際に「草木染研究所」を設立したのは、昭和三十三年(1958)のことです。

そもそも、「草木染」という言葉は青樹氏の父・(あきら)氏が命名し、商標登録したものなんだそうです。
しかし、商標登録の更新時期が来た時、青樹氏は、多くの人に自由に使ってもらう方がいいと考え、その更新をしませんでした。
いま全国各地で「草木染」という名前を使えるのは、青樹氏の広い心があったからなのですね。

その後、研究所は豊岡バイパス建設予定地に引っ掛かり、昭和五十四年(1979)に北久保町烏川の堤防際に移転します。(現在は閉鎖。)

そして平成六年(1994)、青樹氏が当時の松浦市長に提言し、青樹氏指導のもとに建設されたのが「高崎市染料植物園」でした。

現在「高崎市染料植物園」の講師を務めている山崎和樹氏は、青樹氏の長男で、神奈川県川崎市「草木染研究所柿生工房(草木工房)」を開設しています。
また、次男・樹彦(たてひこ)氏も富岡市妙義町に、「草木染伝習所」を開設しています。

あ、記事のタイトルからずいぶん外れてしまいました。
ここらで、〆ましょう。

いーい町でした、飛騨古川

店先の
無料休憩コーナー
「恋の水」
だそうです
非売品のお酒も
売ってます


  


Posted by 迷道院高崎at 07:11
Comments(2)◆出・たかさき

2012年08月18日

ちょいと飛騨古川へ(1)

「鶴瓶の家族に乾杯」で見て、いい町だなぁと思いました。

いつか行ってみたいと思っていたのですが、やっと訪ねることができました。








観光客にも無料開放している飛騨市役所の駐車場には、匠の町らしい木造の立派な東屋が建ち、こんなパンフレットの置き方をしています。

市役所のすぐそばにある「飛騨古川まつり会館」へ行きましたが、全景写真を撮り忘れました。
まさに「あとのまつり」

代わりに、近づくと口を開けながら猛烈な勢いで迫ってくる、お祭り好きでやんちゃそうな池の鯉の写真を・・・。

迫ってくると言えば、「まつり会館」で上映されていた3D映画が、すごかったです。
本当にその場にいるような気分になる、迫力満点の映像でした。

高崎コンベンションホールに替えて歴史資料館を建設すると決まった際には、ぜひ取り入れて欲しいです。

「まつり会館」の広場から、古川のシンボルともいうべき「瀬戸川」と白壁土蔵街の風景が始まります。






見るからに美しいこの「瀬戸川」、毎年3月と11月に、地域のすべての世帯が参加して一斉清掃が行われるそうです。

「瀬戸川」の由来を刻んだ石板には、「瀬戸川は、四百年の長い間清く豊かな流れの絶えることなく、常に古川町民の生活を支えてきました。」とありますが、戦後の生活様式の変化で、生活排水による汚染が進んだ時期もあったようです。

それを40年ほど前、再びきれいな川にしようと呼びかけをしたのが、地元ローカル新聞「北飛タイムス」でした。
行政や住民に一斉清掃を呼びかけ、寄付を募って放流した230匹の鯉が、今は1000匹を超える数に増えて、訪れる人を楽しませています。

高崎の遠構えの堀も開渠に戻して、鯉でも放したらさぞかし素晴らしいでしょうね。

平成四年(1992)、当時の野村憲一町長は、町予算の半分にあたる24億円を掛けて、「瀬戸川」の改修、「飛騨古川まつり会館」の建設、その周辺広場の整備を行っています。

野村町長は、従来の農業振興・工業誘致という行政方針を、文化の育成を基軸に据えた街おこしへと大転換させた人物です。

その動きの元となったのは、それより遡ること20年前、旧態依然とした古川の商店街に危機感を持った20~30代の若者たちでした。
若者たちは、飛騨古川青年会議所を設立し、最初はなかなか行政や市民からは相手にされなかったようですが、熱い思いで町づくりの活動を続けます。

同じく若返りで変化したのが、古川町観光協会でした。
それまで、どちらかというと観光関連業者の親睦程度の活動であったものを、「商業主義に走らない町づくり、民間レベルで行う町づくり」を標榜し、観光から「まちづくり」に方針を変換して、活動が活発化していきました。

若者たちの活動に弾みをつけたのが、女優の浜美枝さんです。
古川出身ではないさんですが、「古川にはふるさとがある。」と言って、何十回もこの町を訪れています。
   ◇浜美枝ダイアリー『あなたに逢いたくて』古川への旅

そのさんの力を借りて、昭和五十七年(1982)、「ふるさとに愛と誇りを」という自主映画を作成したのも、当時の青年会議所メンバー村坂有造氏を中心とする若者たちでした。

1980年代20万人だった観光客は、2000年に約63万人に増え、NHKの朝ドラ「さくら」の舞台となった翌年の2003年には、100万人を超えたそうです。

まさに、「町づくりは、若者、ばか者、よそ者」を実証するかのような話です。

長くなって、素敵な町並みの紹介ができなくなりましたので、話は次回につづきます。


  
タグ :飛騨古川


Posted by 迷道院高崎at 07:10
Comments(2)◆出・たかさき