2009年02月20日

心は丸く腹立てず

松井田町木馬瀬「福寿草の里」を見た帰りに、五料「茶屋本陣」に寄ってきた。

ちょうど「雛人形展」を開いているとのことで、入館料210円は安い!

ここは、もともと名主屋敷で、江戸時代に参勤交代の大名が休息した所だそうだ。

土間から上にあがり、廊下を通って雛人形の飾ってある部屋へ向かうと、柱に竹で作った掛け物がぶら下がっていた。 →

恐妻が「これ、なあに?」というので、聞きかじりの蘊蓄を鼻高々に語ってやった。
「これわぁ、『人(他人)は大きく上にして、己は小さく、心は丸く、腹は立てずに、気は長く』っていう、禅の言葉だよ。」

すると恐妻は一言、
「ふーん、よく見ておいた方がいいわよ。」
・・・確かに。

飾られている雛人形は、町の人達が寄贈してくれたもので、およそ千体が展示されているそうだ。

展示されているのは「享保雛」だそうである。
享保時代と言えば、徳川吉宗とか大岡越前とかが活躍した時代である。

その頃、雛人形は武士階級から商人階級に広まって来て、豪商たちは競って豪華な雛人形を飾るようになってきたという。
そこで幕府は贅沢禁止のため、高さ八寸以上の雛人形は製作禁止というお触れを出したとか。

屋敷の2階は、資料館になっている。
その中に、キリシタン御禁制の高札があった。
一、切支丹宗門の儀は
  これまで御制禁の通り
  固く相守る可く候事
一、邪宗門の儀は固く禁止の事
慶応四年三月 太政官

このような高札が立つということは、この辺にも隠れキリシタンが沢山居たということであろう。


「おっ!」と思ったのは、今話題になっている「政府紙幣」が展示されていたことである。

子どもの頃、小引出しに入っていたのを、何となく見た記憶がある。

きっと仕舞い込んで、ただの「紙切れ」になったものだったのだろう。



裏庭に、黄金色の綺麗な福寿草が咲いていた。

そういえば、ここのガイドさんがこんなことを言っていた。
「徳川幕府勘定奉行の小栗上野介が、埋蔵金を埋めた場所から芽を出したのが、福寿草だそうです。」

さてさて、現代の埋蔵金ははたして「福寿」となるか、「苦汁」となるか・・・。

【五料の茶屋本陣】
  


Posted by 迷道院高崎at 18:59
Comments(5)◆出・たかさき

2009年03月07日

お魚が遊ぶ寺

ふらっと、散歩(徘徊ではない)に出ると、思いがけず面白いものを見つけることがある。

高崎駒形線の昭和大橋を渡って、漬物の「たむらや」の角を左に曲がると、「魚遊寺」という面白い名前のお寺を見つけた。


立派な山門があり、仁王様が阿吽(あうん)の形相で門番をしている。
その山門に、「魚遊寺」の由来が板書されていた。
面白かったので、ご紹介しよう。

~……~……~……~……~……~……~……~……~……~
乗明院は正しくは、公田山乗明院魚遊寺といいます。
魚遊寺という寺号の由来は、次のような伝説があります。

承和年間(834~847)つまり平安初期に、この地に仏教を広めに来られた慈覚大師が、自ら彫刻した釈迦如来を安置するためにお堂を建てたのが、この寺のはじまりと伝えられています。

その後、建長二年(1250)この地方の郡司が、お堂の脇に池をつくり、魚類を放し、この池で釣りをして楽しもうとしたところ、どうしたことか、池の水は火気を帯び、たちまち熱湯となってしまいました。

驚いた郡司は、了賀阿闍梨(この寺の初代住職)を招き、自分が魚を釣ろうとした殺生の罪を詫びて、お経をあげてもらい、一心に祈りました。

すると、煮えたぎっていた池のお湯は、不思議にも静まり、もとの水となり、しかも水の中には、何事もなかったかのように魚たちが群れをなして泳いでいるのでした。

郡司は、この姿をみて大変喜び、この寺を再建して寺の名を公田山乗明院魚遊寺と称したといいます。

現在では、魚遊寺の名は薄れ、乗明院の名が広く知られています。
魚遊寺のいわれには、魚と池が関係していたようです。
現在でも寺の周囲には、幅3m程の堀がめぐらされ、その昔をしのばせています。

~……~……~……~……~……~……~……~……~……~

今の世の中も、池と同じに煮えたぎっている。
きっと、為政者が自分の楽しみだけで魚を釣っているからだろう。
   殺生の罪を詫び、
      民のためを思って一心に祈らねば、
           池はいつまでも煮えたぎる。


【公田山乗明院 魚遊寺】
  


Posted by 迷道院高崎at 18:19
Comments(2)◆出・たかさき

2009年04月30日

町残し

一週間前になるが、渋川市子持「白井(しろい)宿」へ行ってきた。

ちょうど並木の八重桜が満開で、その下には姥桜も・・・。

素晴らしいのは、900mの沿道にびっしりと咲く、105本の八重桜だけではない。

悔しいくらい、いい街並みだ。

桜並木の下には「白井堰」の水が流れ、その両側には昔の問屋や商家の建物が多く残されており、現在も住んでいるのがすごい。

もちろん最近建てた、今時風の住居もあるが、何となく恥ずかしそうに建っているように見えて面白かった。

「白井宿」は、やたらと井戸が多い。
街筋に8本もの井戸が残されている。

おそらく最近修復整備されたものだろうが、当時の趣を壊さないように配慮されているのが分かる。

そのひとつ、「薬師の井戸」の後ろには、その名の通り「薬師堂」がある。
その白壁には、薬師如来と蓮の鏝絵(こてえ)が描かれていた。
このこと一つとっても、この街並みを修復した人々の「郷土愛」「こだわり」「知恵」の深さを感じとれる。

この心が、我が高崎にも欲しいのである!
 欲しいのだ!!
  欲しいんだよ!!!

(何となく、黄昏て“爺放談”風・・・)


その「こだわり」は、公衆トイレにも表れている。

古風な造りながら清潔感があり、看板には和風に「かわや」と書いてあるではないか。

「白井堰」の上には、京都の「川床」風に無料休憩所が設けられている。

参った!

これなら、桜が散った後でも観光客を呼び込めるだろう。

これが「町興しは町残し」というものなのだな、と実感する一日であった。

あーぁ、高崎よ・・・。

【白井宿】
  


Posted by 迷道院高崎at 08:22
Comments(8)◆出・たかさき

2009年11月08日

ヤボ用が片付きました

みなさん、大変ご無沙汰をいたしました。
やっとヤボ用の数々が片付き、隠居部屋に落ち着くことができました。
またよろしくお付き合いのほど、お願い申しあげます。

←いきなりですが、金沢地方裁判所です。

と言っても、ここにヤボ用があった訳ではありませんので、ご心配なく。

とは言うものの、全く私と関係ない場所という訳でもありません。

平成20年2月に高崎市友好交流都市協定を結んだ金沢市は、予てから一度行ってみたいと思っていた町でした。
そうなんです、この歳になって初めて金沢を訪れたのです。

いや、本当は初めてではありません。
小学生の頃、一度、母親と一緒に金沢に来たことがあるのです。
でも、その頃からあまり記憶力のよくない私は、断片的にしか思い出せません。
憶えているのは、母親に「『僕、いくつ?』って聞かれたたら、6歳って言うんだよ。」と言い含められたこと。
とにかく長い時間、汽車に乗ったこと。
途中お腹が痛くなって、母親に「雪にあたったんだ。」と言われて、線路脇に積っていた雪を食べさせられたこと。
雪の坂道で何度も転んでいた、首っ玉に風呂敷をくくりつけた母親の姿。
それしか憶えていません。

そこが金沢だったこと、行った先が裁判所だったこと、そして何故行ったのかということを母親から聞いたのは、たしか中学生になってからだったような気がします。
母親は、ある人の裁判の証人としてそこへ行ったのでした。
何でも、彼の地で何かの事件を起こして捕えられたその人が、弁護側の証人として母親を指名したというのです。
もう50年以上も前のことだから、明かしてもいいでしょう。
その人とは、「あの頃みんな(?)貧乏だった」に登場する「寅さん」です。

当時、貧乏のどん底で、その日食べるものにも事欠いていた我が家です。
高崎から金沢までの旅費を、母親がどうやって工面したのでしょう。
私に年齢を偽るように言ったのも、未就学児は運賃が無料だからです。
もっとも、車掌さんはそんな質問はしなかったので、嘘はつかずに済みました。(ま、無賃乗車に変わりありませんが・・・)

自家用車で高崎から400kmも離れた金沢へ来て、真っ先に訪れてみたのが、この裁判所でした。
その前に佇みながら、50年という年月の長さを、しみじみと噛み締めていました。

  


Posted by 迷道院高崎at 08:17
Comments(8)◆出・たかさき

2009年11月11日

造れませんか?高崎城

金沢城は、現在なお築城が続いています。

金沢城は、明治十四年(1881)の 火災により、石川門三十間長屋鶴丸倉庫を残して焼失してしまいますが、平成十一年(1999)から復元工事に着手しました。

そして、平成十三年(2001)には、第1期工事として菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋を復元完了させています。

現在は、第2期工事として河北門の復元、さらに石川門の保存修理、橋爪門二の門の復元整備、いもり堀の段階復元などが計画されているそうです。

明治維新後の金沢城高崎城は、明治六年(1873)に発布された「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」により、共に「存城処分」となっています。
ただ、「存城」とはいっても城郭などの建造物を残すという意味ではなく、「陸軍施設として使いなさい」ということだったのが、高崎にとっては残念な結果となりました。

金沢城には、陸軍第9師団司令部が置かれました。
写真奥の石垣を見ると、ぽっかり穴があいているのが分かります。
これは、陸軍が石垣を改造して穴をあけたもので、おそらく火薬庫か何かに使用したのでしょう。
それでも、金沢城の城郭は取り壊すことなく、焼失するまでは残されていた訳です。

片や高崎城には歩兵第15連隊が置かれましたが、土塁と堀だけ残して、あとは見事なまでに取り壊してしまいました。
裕福な百万石加賀藩と、逼迫財政の八万石高崎藩の違いとあれば、如何ともしがたいものでしょうが、残念なことではあります。

金沢城の復元ができたのは、図面がきちんと残っていたためと言われますが、その意味では高崎城の図面も相当程度残っているようです。

折角、金沢市友好交流都市協定を結んだ高崎市ですから、できれば高崎城も復元できないものかと思います。

両市の平成21年度一般会計予算額は、金沢:1530億円、高崎:1347億円です。
加賀藩高崎藩ほどの違いはありません。

金沢高崎は、規模の差こそあれ似通った歴史を持っています。
加賀藩は、参勤交代で必ず高崎に立ち寄っています。
倉賀野には、加賀の飛脚を祀った「梅乃木大神」もあります。
2014年には、北陸新幹線の延伸によって金沢・高崎間は1時間半で結ばれます。
今、国内や国外から金沢市を訪れている沢山の観光客に、高崎まで足を延ばして頂くためには、高崎はどんな町であればよいのでしょう。
造れませんか?高崎城

  


Posted by 迷道院高崎at 08:39
Comments(6)◆出・たかさき

2009年11月13日

むかし聞いた三味の音

見どころ満載の金沢市で、ここだけは行ってみたいと思っていたのが「ひがし茶屋街」です。

文政三年(1820)に加賀藩の許可を得て開かれたといいますが、石畳の両側に並ぶ建物の3分の2は、その頃から明治初期までに建てられたものだそうです。
ここは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていますが、さぞかし昔に指定されたのかと思いきや、平成十三年(2001)と、つい最近のことです。
それ以前は、地元でもどこにあるか知っている人の少ない、マイナーな地域だったそうです。

その地域の建物が、ここまで大切に保存されてきたのは、今も営業を続けている「お茶屋」さんが8軒もあるということと、地域住民の方々の民度の高さではないでしょうか。

単なる観光施設としてではなく、生活の場として、古いものを大切に残していることが、右のパーマ屋さんの建物を見れば分かります。

地元でもマイナーだったという地域が、今や金沢を代表する観光地の一つとなって、大勢の観光客が訪れています。
特に、外国人の観光客の多さには驚きます。
日本の輸出経済が縮小傾向にある中で、もしかすると「観光」が日本を救う成長分野なのではないでしょうか。

「ひがし茶屋街」の佇まいが妙にすっきりして見えるのは、電線が地中化されているためです。
建物も、新建材を用いず、化学塗料も用いず、無垢の木肌や「べんがら塗り」が味わいを醸し出しています。

今、土木工事から農林業や介護・医療に雇用の中心を移そうとしていますが、いきなりの移行は困難なことでしょう。
「観光」を成長分野と考えれば、そのための土木工事は少なからずあるのではないでしょうか。

「ひがし茶屋街」に足を踏み入れると、どこからともなく三味線の音が聞こえてきます。
観光地によくありがちな、無粋なスピーカーからのBGMではありません。

今も「お茶屋」さんでは、14人の芸妓さんが働いているそうですが、その方たちが稽古している生の三味の音です。
高崎柳川町でも、かつては普通に聞こえていた懐かしい音色です。

「ひがし茶屋街」では、観光客に散策用の和服をレンタルしているお店があります。
ちょうど、その和服を着て散策している二人のお嬢さんと出会いました。
現代女性も和服を着ると自然におしとやかになるようですが、そんな女性を見るとなぜかホッとした気持ちになります。
外国から来られる方たちも、そんな日本の風情を見たくて、はるばるやって来るのではないでしょうか。

あまり高崎の町なかに出ないので、よくわからないのですが、外国人観光客の方はどの位おいでになるんでしょう?
高崎屈指の観光地である観音山へ行っても、ほとんど外国人観光客には出会いませんが・・・。

さて、観光都市高崎としては、どんな町づくりがいいのでしょう?


  


Posted by 迷道院高崎at 07:41
Comments(2)◆出・たかさき

2009年11月15日

高崎を復元致したく申し候

金沢からの帰り道、やはり昔の街並みを残して沢山の観光客を呼び寄せている、飛騨高山へ寄ってきました。

その名も「古い街並み」
やはり電線は地中化されていて、すっきりした街並みです。

ここもまた、外国からのお客様が沢山歩いており、興味深そうにお店の一軒一軒を覗いています。

歯医者さんの建物も、昔のままなんでしょうが、営業してるんですよね?きっと。 →





← 産婦人科のお医者さんも、こんな味わい深い佇まいです。


「国選定重要伝統的建造物群保存地区」ですから当然ですが、仮に近代的な建物を建てたとしても、この町には不似合いで下品に映るでしょう。

寄り道ついでに、「飛騨民俗村」へも寄ってきました。

ここは室町時代、松倉山に築かれた三木自綱(よりつな)の居城・松倉城の城下町だったそうです。
松倉城は、天正十三年(1585)に秀吉の命令を受けた金森長近に攻め滅ぼされますが、天正十六年(1588)に長近飛騨高山高山城を築城すると、松倉城下の商人たちはみな高山城下に移り住みます。
そこが現在の高山市内「古い街並み」地区です。
ちょうど、箕輪高崎の関係によく似ていますね。
市の名前も、高山高崎とよく似てますが、その街並みは、時を経て全く趣きを異にしています。

「飛騨民俗村」には、昭和三十年(1955)から四十年代の高度成長期に、ダム建設や過疎化により消滅しようとしていた、合掌造りなどの古民家30軒が移築・保存されています。
大切に保存されているのは、建物だけではありません。
8000点にも及ぶ民具、今なお囲炉裏に火を入れて建物を維持する、榑(くれ)板や茅で屋根を葺く・・・、日本古来の自然を巧みに利用する知恵技術も残されています。
その知恵と技術を継承するために、解説員が常駐し、染色、陶芸、彫刻などの作家が工芸村に居住し、訪れる人たちに体験教室を開いています。
「飛騨民俗村の使命」は、私たちが決して忘れてはならない「誇るべき日本と日本人の使命」でもあります。

ここにもまた、外国人観光客の姿が目立ちます。
ここのような、日本らしい日本を見たいという外国人が多いということなのでしょうね。

姿あるものだけでなく、禅や茶の湯、書道、武道などの日本古来の精神文化に、興味と尊敬の念を持つ外国人も多いと聞きます。

日本はかつて、「日本列島改造」によって高度経済成長を遂げてきましたが、同時に「良き日本文化」まで改造してしまった感があります。
これから観光立国日本として取り組むべきは、「日本列島復元」「日本文化再生」かも知れません。
それは、日本に生まれ、日本で育った者でなければできません。
他の国の人に、日本の行く末を決めてもらうことはできません。
いや、決してそれをしてはなりません。


さて、大きな話になってしまいましたが、高崎市民としては、まず高崎から復元していきたいと思います。
明日からまた、復元したい昔の高崎を探し歩くことに致しましょう。

  


Posted by 迷道院高崎at 08:47
Comments(16)◆出・たかさき

2010年04月14日

続・日本一しょうゆ

前回に続き、「日本一しょうゆ」です。

いえいえ、前回の女将さん目当てじゃありません。
ここは、大間々です。

正式な社名は「(株)岡直三郎商店」、本社は東京都町田市大間々は群馬工場、高崎「岡醤油醸造」は関連会社ということになっています。

群馬工場は、天明七年(1787)に近江商人・岡忠兵衛が、「河内屋」の屋号で醤油醸造を始めた、同社発祥の地です。
高崎「岡醤油醸造」はその支店として、明治三十年(1897)、四代目・岡宗一郎氏が開きました。

大間々店内の趣も、高崎店と同じく昔ながらの造りで、いい雰囲気を醸し出しています。

柱の陰に、女性がちょこっと写っているでしょ?
本当は、正面から撮らせて頂きたかったのですが、横顔になってしまいました。
お醤油屋さんの女性が美しいのは、普段から発酵食品に触れているせいなのでしょうか。

美しいのは外見だけではありません。
接客の仕方も、実に優しくて気持ちいいんです。
突然伺って、工場を見せて頂けないかと不躾なお願いをしたにも拘らず、嫌な顔も困った顔もせずに承諾して下さいました。
それどころか、「ちょうど今、従業員の会議が始まってしまって、説明担当がご案内できなくて申し訳ありません。」と仰る姿に、こちらの方が恐縮してしまいました。

土蔵・大屋根・煉瓦煙突、ノスタルジー気分満喫です。

年季の入った大樽が、ずらーっと並んでいます。
中には、仕込まれたお醤油の原液が眠っています。
暖かくなると目を覚まして、ブツブツと話を始めるのだそうです。

板パレットの上に、何が載っているのか覗き込んでいると、「あ、搾り粕です。」と笑っていました。
鼻を近づけると、香ばしいお醤油のいい香りがしました。

動物の飼料になるのだそうです。
この餌を食べた動物は、みんな器量よしになることでしょう。


人間は、こちらを食べましょう。→
平成二十年に新発売の「醤油あいす」です。

帰り際、「充分なご説明ができず、申し訳ありませんでした。ぜひまたおいで下さい。お待ちしております。」
と、丁寧に見送って頂きました。

昔懐かしい建物だけでなく、昔懐かしい客あしらいの良さにも出逢えた、素敵なタイムトリップでした。
大間々町、いい町です!
そうそう、柳家紫文師匠お勧めの「ながめ余興場」もすぐ近くです。
いってんべー、いってんべー!


【「岡直三郎商店」群馬工場】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
Comments(6)◆出・たかさき

2010年05月02日

松井田宿 お休み処「みなとや」

少し前の話になりますが、朝日新聞「声」に、こんな投稿がありました。


この投稿を見て、二つのことに驚きを覚えました。

ひとつは、68歳の方が、東京・日本橋から京都まで、中山道を歩く旅を続けておられるということです。
いつでしたか、倉賀野神社で同じように中山道を歩いている若者に出逢ったこともあります。
ことほど左様に、旧街道というのは人を魅了するものがあるのでしょう。

もうひとつは、歴史的な建物を「無料休憩所」にするというアイデアです。
築300年の建物ということですが、それを壊すことなく残し、中山道松井田宿の遺産として活用したのです。
そういう、町の歴史を愛する気持ちが、自然と「おもてなしの心」として出てくるのだと思いました。
これは、ぜひとも行ってみたいという気持ちになります。

で、行ってきました。

実は、うっかり通り過ぎながら、「あっ、ここだ!」と気が付いてUターンして戻ってきました。

地味ではありますが、よく見るとなかなか味のある建物です。

「みなとや」と染め抜いた暖簾が掛かる引き戸を開けると、広い土間があり、黒光りのする床や天井が、歴史を感じさせます。

上がり端(はな)には、お洒落な照明に照らされた「おひなさま」が飾られていました。

「中山道松井田宿手ぬぐい」を縫い合わせた、素敵な暖簾が下がっています。

その暖簾の先は、地元の方の手作り作品でしょうか、お人形や手まりなどが並ぶ売店になっています。



1階のお休み処には、ポットや茶碗が用意され、セルフで自由に頂けます。




お腹の空いている方は、日替わり定食(500円)も用意されています。

←このパンフレットも、いいでしょー。
温かみを感じますよね。
このパンフレット、松井田商工会の「空き店舗対策事業委員会」で作成しています。

パンフレットによると、ここ「みなとや」中山道東山道であった頃から宿屋を営んでいたそうです。
ところが、明治四年(1871)の大火で焼失してしまったのだとか。

現在の建物は、当時の夫人の実家「原市の仁井家」から火事見舞いとして、築150年を越えた農家の建物を贈られ、移築したものだそうです。
ということで、300年も前の建物ということなのです。

《ここでクイズです。》
←天井に付いている、この箱はいったい何でしょう?

もうひとつ、いきましょうか。
階段下のこの小部屋は何でしょう?→

答えは、「みなとや」さんへ行って、直接お聞きくださいませ(^^)

「みなとや」さんへ行ったら、ぜひその脇道へ入って見て下さい。
素晴らしい蔵造りの家に、びっくりするはずです。
こちらが、「みなとや」さんの母屋なんですね。


松井田町では、今、商業活性化支援事業として「中山道松井田宿」を整備しています。

街道沿いにはまだまだ、趣きのある建物が残されています。
案内看板もお洒落です。


ネットで「中山道」と検索すると、沢山の方が実際に中山道を歩いていることが分かります。
その方達は、往時を偲ぶ風情が残っていることに魅力を感じているようです。
「高崎宿に入った途端に、何も残ってないね。」と、がっかりさせたくないのですが、さて、どうしたもんでしょう?

【松井田宿お休み処「みなとや」】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:05
Comments(8)◆出・たかさき

2010年05月19日

東北ぶらり旅 登米編(1)

「油麩」(あぶらふ)って、ご存知でしょうか?

実は私、かれこれ10年ほど前に東京へ行った時、たまたま寄った宮城県アンテナショップで、「油麩」を買ってきたことがあります。

それがとても美味しかったので、その後、高崎の百貨店で「東北の美味いもの展」などがある度に、行って「油麩」を探すのですが、置いてありませんでした。
それどころか、売り子の人が「油麩」を知らなかった位です。

それが、みのもんたの「秘密のケンミンSHOW」で、「油麩丼」が紹介されてから、けっこう有名になったようで、近頃は、この辺のスーパーでも「油麩」が手に入るようになりました。

その「油麩」を特産とする、宮城県登米市(とめし)登米町(とよままち)について調べてみると、なかなか面白い所だということが分かってきました。
そもそも、同じ「登米」という字を書いて、市名は「とめ」、町名は「とよま」と読ませていることだけでも、興味津々です。
その辺りの話は、(株)とよま振興公社のHPでご覧ください。

初めて訪れた登米町は、雨でした。

とよま観光物産センター「遠山之里」(とおやまのさと)のすぐ隣に、明治二十一年(1888)建設の「旧登米高等尋常小学校」校舎が、「教育資料館」として現存しています。

煉瓦造りの校門を入ると、コの字型の木造・瓦葺き校舎が姿を現します。
その懐かしい佇まいに、思わず息を飲みました。
↓どうぞ、拡大(クリック)してご覧ください。


よくぞ残した!と、心から拍手を送りたい気持ちです。

校舎の傍らには、つるべ井戸も残っています。
この井戸は、校舎が出来る前からここにあったものだそうです。
学校が出来てからは、子どもたちの水汲みや足洗い場として、昭和四十八年(1973)まで使われていたといいます。
ということは、この校舎は学校として、その時まで使われていたということなんです!

登米町の文化的精神の高さに驚きながら、学校前の小路へ入りました。

春の遅い登米の町は、ちょうど八重桜が満開でした。

風に散った花びらが、濡れた路面に貼りついて美しく・・・。

と思ったら、ちがうんです、これが!

まるで道に散った花びらのように、道路に白い石が埋め込まれていたのです。

何とまぁ、洒落た舗装じゃありませんか!
雨の日に訪問したことを、嬉しく思える一瞬でした。

登米町には、素晴らしい歴史的建造物が、沢山残されています。

旧・水澤縣廰舎
明治5年(1872)築
現・記念館
旧・武家屋敷
築400年以上
現・茶屋「春蘭亭」
旧・登米警察署
明治22年(1889)築
現・警察資料館


さらに素晴らしいのは、歴史的建造物がただ残っているだけでなく、今も、何らかの形で利用されているということです。
高崎にも、歴史的建造物は僅かながらもまだ残っていますが、その殆どは非公開であり、中を見ることができません。
そのまま、朽ちるに任せているものすらあります。
この違いは、一体どこから生じるものなのでしょう。

登米の町を歩いている内に、何となくその違いが見えてきたような気がするのです。
町づくりのヒントとも思えることが、登米の町にはありました。
それは、城下町高崎の街並みを再生するヒントであるかも知れません。

次回、もう少し登米の町を紹介しながら、そのお話をしたいと思います。

【登米町・旧登米高等尋常小学校】


  


Posted by 迷道院高崎at 08:00
Comments(10)◆出・たかさき

2010年05月21日

東北ぶらり旅 登米編(2)

前回の記事でご紹介したように、登米町には昔からの建物を、今も大事に使っているところが多く見られます。

ここは、どうやら現役の歯医者さんのようです。

看板は、新しく建てたものだと思いますが、色使いや文字の書体は、如何にも昔からあるもののように配慮されています。
古い建物と、新しく作ったものが、違和感無く調和しているのです。

また、その精神は、新しい建物を造る場合にも生きているようです。

武家屋敷の並びに店を構える「おだんご屋」さんは、雰囲気を壊さないような藁葺き屋根で、漆喰壁と木の腰板という造りです。





さらに、「おだんご屋」さんの後ろの家も、昔の造りそのままに残しています。


「警察資料館」近くの、電話ボックスです。 →

昔の「ポリスボックス」をイメージしたのだと思いますが、見事に風景に溶け込んでいます。

このように登米町では、
昔ながらの景観を損なわないように、
行政も住民も配慮している
ということが、よく分かります。
もうひとつ、登米の町を歩いていて気付くことがあります。
それは、例え店じまいした家も、壊さずに残してあるということです。
それが、町全体の雰囲気を醸し出していますし、残してさえあれば、いつかそれを活かせる時が来るでしょう。

町全体が歴史を大切にしていることは、
←こんなところにも見られます。

建物も今風な小さな食料品店ですが、窓ガラスには「町中ミュージアム 店舗歴史資料館参加店」というビラが貼られています。

このお店の展示品は、倉庫から引っ張り出してきたという「昔の冷蔵庫」です。

上に乗っかっている秤は、「なんでも鑑定団」に出したという代物だそうです。
お店の女将さんは、「いくらの値が付いたかは、言わなーい。」
って言ってましたが・・・。

そうそう、とても気さくな女将さんで、「どうぞ寄ってって下さい、どうぞ、どうぞ!」と、盛んに声を掛けて頂きました。

「ありがとうございます。でも、これから遠野まで行く予定なので。」
と言うと、
「あー、そうなんですかー!遠野もいい所ですよ。お気を付けて行ってらっしゃい!」と、笑顔で送ってもらいました。
何も買わないと分かると「ぷいっ」とそっぽを向かれることが多いのに、
これだけ気持ちよく送って頂いたのは初めてです。

まるで、登米町全体が「テーマパーク」で、
町の一人ひとりがその従業員のような持て成しようでした。


柳家紫文師匠に登米町のお話をしたら、こんなメールを頂きました。

「登米市いきましたよ。
 いいですよね~(^_^)v
 郷土と、その歴史大切にしてますよね。
 野外に新しい能舞台をつくってるんですが、公民館機能ももっていて、
 そこで落語会やりました。
 竹に囲まれて蝉の鳴き声の中で三味線弾いてきました。
 その能舞台の会館が主催(つまりお金がでてます)ですが、
 動いているのは市民でしたよ。」


←これが、その「能舞台」
平成八年(1996)にオープンした
伝統芸能伝承館「森舞台」です。

近頃流行りの、コンクリートの文化ホールなんぞではなく、木造の能舞台であるところが、いかにも登米町らしいと思います。

そもそも登米町には、昔から伝わる「登米能」をはじめ、「岡谷地南部神楽」「とよま囃子」などの伝統芸能が、町民の手で長年受け継がれているのだそうです。
それを町の宝と捉えて、大事に育てようとする文化度の高さに、心から敬意を表します。

今回は登米町を甘く見て、たっぷり時間を予定しておかなかったのが、本当に悔やまれました。
ぜひもう一度来たい!ゆっくり町を歩きたい!
そんな思いを強く抱かせる、素敵な町でした。


  ◇登米市観光・物産情報

  ◇みやぎの明治村

  ◇登米みやぎの明治村から


  


Posted by 迷道院高崎at 07:05
Comments(4)◆出・たかさき

2010年05月26日

東北ぶらり旅 遠野編(1)

花巻JCTから釜石道に入り、東和インターで降りて遠野の町に近づいた所に、「千葉家曲り家」という看板がありました。

一見、お城か、はたまた武将のお館か、と見まごうばかりの壮大さですが、豪農の屋敷だそうです。

そうか、お金持ちが金に糸目を付けず・・・と思いきや、さにあらず。

言い伝えでは、千葉家四代目当主・喜右衛門が、天保年間(1830~1844)に、飢饉に苦しむ農民の救済のために、普請したものなのだそうです。
普請には村の子供も老人も、人夫として作業に携わり、そのことによって糧を得ることができたといいます。
小高い丘の中腹に石垣を積み、近くの山から木を伐り出しての普請で、完成まで約10年の歳月が掛かったそうですが、失業対策のために敢えて長期間掛けて、大きな屋敷を造ったのかもしれません。

高崎下大類にも、同じような話が伝わっていますが、ただ単に恵んでもらうのではなく、労働の対価として糧を得ることで、人間としての誇りも保ちながら、感謝の心を持てたのではないでしょうか。

坂を上って近づくにつれ、その屋敷の大きさに圧倒されます。
敷地は約八百坪、かつては作男15人、馬20頭を有していたといいます。

平成十九年(2007)に国の重要文化財に指定されていますが、驚くのは、現在も十代目の当主がお住まいになっていることです。
家というのは、利用することによって保たれるという証でもあります。

←坂を登り詰めて見下ろすと、こんな景色を望むことが出来ます。

毎日ここから、四季折々の景色を眺めていたら、ちっぽけなことは考えず、大きな心で物事を捉えられるかも知れません。

手前は馬屋(まや)の庇です。→

正面に見えるのが、今も千葉さんが住んでいるという母屋です。

右奥の建物は作業小屋となっていますが、現在は実際に使われた農具や、調度品を展示した資料展示小屋になっています。

母屋には入れませんが、馬屋は解放されています。







土間の「三和土」(たたき)には、
200年の歳月が美しい皺を刻んでいました。

ふと、何かの気配を感じて、慌ててシャッターを押しました。
な、なんと、座敷わらし?!!!

って、嘘に決まってます。
この千葉家、映画「遠野物語」のロケ地にもなったようで、沢山のスチール写真が展示されていました。
その一枚です。

馬屋の中は、今にも外から馬が帰って来そうな雰囲気を残しています。

昔使われていたものが、沢山展示されていました。

お見せしたい写真が沢山あるのですが、もう大分長くなってしまいました。
あと少しだけご覧いただきましょう。

遠野の町に入る前に、いいものを見させて頂きました。
これから先の旅が、楽しみです。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:46
Comments(6)◆出・たかさき

2010年05月28日

東北ぶらり旅 遠野編(2)

遠野へ行くからには、河童でも捕まえて一儲けしようと、捕獲許可証を買って「カッパ渕」へ向かいました。

許可証の裏を見ると、
「カッパ捕獲7ヶ条」というのが記載されていました。
1.河童は生け捕りにし、傷を付けないで捕まえること。
2.頭の皿を傷つけず、皿の中の水をこぼさないで捕まえること。
3.捕獲場所は、カッパ渕に限ること。
4.捕まえるカッパは、真っ赤な顔と大きな口であること。
5.金具を使った道具でカッパを捕まえないこと。
6.餌は新鮮な野菜を使って捕まえること。
7.捕まえた時には、観光協会の承認を得ること。

だそうです。

捕獲を前に緊張したせいか、小用を催してトイレを探すと、「河童の厠」というのがありました。

近くに人間用のが見当たらなかったので、河童と鉢合わせすることを覚悟して、使わせて頂きました。
すっきりして渕まで行くと、看板が出ていました。

「かっぱさんに引き込まれないように
 特に美人の方注意
まぶりっと」

「まぶりっと」というのは「守り人」のことだそうです。

その傍には、釣り竿タモ網が置いてありました。

エサは、胡瓜だそうです。




この日は雨で水は濁り、水量も多かったせいか、あるいは美人がいなかったせいか、河童は姿を現しませんでした。

「捕獲許可証」の有効期間は1年間なので、それまでにもう一度訪れて、何とか捕獲しなければなりません。

ところで、この日泊まったホテルで、語り部の高橋ノブさんが「河童淵」の民話を語って下さいました。

昔あったづもな(そうだ)。
土淵の新屋づ家の裏にとっても深い淵があったど。
ある夏の暑い日、その家の若い者が、馬の足を冷やしてやるべと、淵へ馬を連れでって、そのまんま遊びさ行ってしまったんだど。
そしたら河童が出て来て、その馬を淵さ引き込むべとしたづもな。
してば(すると)馬たまげて、河童引きずったまんま、馬屋さ飛び込んだんだど。
今度は河童の方がたまげて、馬の舟(かいば桶)をがっぱりひっくり返して、その中さ隠れたづもな。
家の人達、「何して馬ばり(だけ)帰ってきたべ。」と、不思議がって馬屋を覗いてみたづもな。
そしたら、舟がひっくり返って、べっこな(小さな)手が見えだど。
開けて見たっけ、河童だったづもな。
集まってきた村の人達は、「この河童、いつもいたずらして、ろくでねえから殺せ殺せ。」って言ったけど、でも、よく見たっけ、河童、手合わせていたったど。
ここの家の主人は、むじょやな(可哀そうに)と思って、「これからは、ここの淵で絶対悪いことすんなよ。」って許すことにしたんだと。
河童も、言うことを聞いて、そこからは遠く離れた奥沢の淵さ引っ越したんだとさ。
どんとはれ。


ってことは、「カッパ渕」には河童はいないってことですか?
え?
そうなんですか?

先人が素敵な民話を残してくれたおかげで、河童のいない「カッパ渕」へ、全国から観光客が来てくれるんですね。

わが高崎にもあるんですよ。
民話が、沢山!
使わない手はありません。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:39
Comments(8)◆出・たかさき

2010年06月02日

東北ぶらり旅 遠野編(3)

「カッパ渕」の北、国道の向こう側に藁葺き屋根の家々が並んでいます。


昭和五十九年(1984)に、遠野地方の民俗を伝承する目的で造られた「伝承園」です。

駐車場に建てられた石看板には、三頭の馬の絵が描かれています。
これは、遠野の伝統行事「馬っこつなぎ」で使われる、お札の絵柄だそうです。

近くに、「馬っこつなぎ」の謂れを書いた、モニュメントが建っていました。

それにしても、いい雰囲気の川です。

ここもまた、民話のふるさとの景観を壊さぬよう、配慮されているのが分かります。


「伝承園」の案内看板です。

園の入口で管理棟にもなっている「乗込」という建物は、農家で物置や作業場として使われていた納屋を、移築したものだそうです。

入口を入ると正面に、「板倉」と呼ばれる建物があります。

農作業をするための建物ですが、日の光を必要とする作業の時は、壁の板をすべて取り外せるようになっているのだそうです。

←現在の「板倉」は、民話を聞く場になっているようです。

「板倉」の隣には、「菊池家曲り家」があります。↓


250年も前に建てられたものを移築したのだそうです。

←「曲り家」からの廊下を進むと、「御蚕神堂(おしらどう)」に入れます。

ここには、千体の「オシラサマ」が奉納されています。
「オシラサマ」は養蚕の神様ですが、目の神様でもあり、女性の病の神様でもあります。
また、その音(おん)から、これから起こることをオシラセ(お知らせ)する、予言の神様でもあるそうです。

その「オシラサマ」には、悲しい民話が伝わっています。
くげさんの「雨月民話風呂」をご覧ください。

「曲り家」というひとつ屋根の下で、馬と人間が一緒に暮らすほど、この地方の人にとって馬は大切で身近な生き物だったのでしょう。
「馬っこつなぎ」という伝統行事も、「オシラサマ」という民話も、その表れだと思います。

←これは、「雪隠」です。

面白いのは、展示物である昔の「雪隠」(左側)の建て屋に、入園者用のトイレ(右側)も設けていることです。


昔の「雪隠」は、渡された板を跨いで、上から下がっている縄につかまりながら、用を足すのだそうです。→


「雪隠」の中には、こんなのがありましたが、説明はありません。
ただ「使用前」「使用後」とだけ書いてあります。
たぶん、・・・そうなんでしょうね。

使用後のものは、そのまま畑に埋めて肥料にするようです。

そういえば、馬屋にワラを敷くのは、馬の寝床だとばかり思っていましたが、馬の糞尿を含むワラを、馬に踏ませることによって発酵させ、よい肥料を作るためだということです。
何事も無駄にしないという先人の心掛けには、本当に頭が下がります。

そんなことを書いていた日の新聞に、こんな記事が掲載されていました。


今の時代でも、考えている人は考えているんですね。しかも、実行しているところが尊敬できます。
それにしても、「蕗」(ふき)の名前の由来って、「拭き」だったんですね。

ということで、今日の話はここら辺が落としどころでしょうか。

次回は、いよいよ遠野の町なかを、ご紹介する予定です。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
Comments(8)◆出・たかさき

2010年06月09日

東北ぶらり旅 遠野編(4)

朝早く、遠野の駅前に行ってみました。
駅を背にして町の方向を眺めると、こんな感じです。↓


まだ人が出てくる前なので、寂れた町に見えるかもしれませんね。
でも私は好きな風景です。
この駅前だけでも、遠野らしいこだわりを沢山見つけることが出来ます。

味のあるこの駅舎、昭和二十五年(1950)に建築されたものを、そのまま使っています。

煉瓦風の重厚な駅舎は、平成十四年(2002)、東北の駅百選に選定されています。

実は、わが高崎にも、大正六年(1917)に改築した、けっこう味のある駅舎が昭和五十七年(1982)までありましたが、上越新幹線開通に伴って、のっぺりした駅ビルに姿を変えてしまいました。

最近どこの駅前にも、モニュメントが建っていますが、遠野駅前のそれはちょっと趣きが違います。

池の中で語らっている河童の姿に、思わず、「おー!」と声を上げたくなりました。

遠野という町が持っている宝物は何なのか、町自身がよく考えていることをうかがわせます。

その証拠に、遠野の駅前には河童が沢山いるんです。
郵便ポストの河童駅舎の屋根の河童河童の交番

遠野の行政は、河童を始めとする民話に、徹底してこだわります。
バス乗り場観光協会ふるさと公社

こうなると、民間だって場違いな建物は建てられないのでしょう。
日本通運居酒屋さん一般の民家

日本通運前の広場に、「何だろう?」と思うものがありました。

モニュメント手前の、丸い井戸のようなものです。

近づいて覗いてみると、こんなのがありました。
うーん、やりますねー。

駅前交差点の信号機も、なかなかやってくれてます。

高いところなので、うっかりすると見落としてしまいますが、てっぺんに何かあるのです。

実は、こんなのが乗っかってます。
このような遊び心というか、いたずらっぽいところが、いかにも遠野らしいと思います。

どなたの発案かは分かりませんが、このアイデアを実現した行政の方々の柔らかさに、敬意を表したいと思います。
(因みに、わが高崎にもありました。遊び心を持ったこんなのが。)

遠野駅前の一角には、町の由緒を書いた大きな看板が建っていました。




遠野の町も、地方都市のご多分にもれず、バイパス道路の開通に伴う郊外型大型店の進出が相次ぎます。
加えて、観光施設の郊外化も進み、町なかの観光客が減少するなどの、深刻な中心市街地空洞化がおきたようです。
対策として、平成十四年(2002)に「活性化センター」という集合店舗を開設したり、「町屋のひな祭り」というイベントを開催したりしますが、空洞化に歯止めをかけることはできなかったそうです。

そこで、平成十八年(2006)に、市民協働による「遠野まちなか賑わいプロジェクトチーム」を発足して、1年間かけて検討を進めました。
そして、結論付けた基本理念が、
「城下町・宿場町などの歴史風土と、遠野物語に代表される貴重な文化遺産を基盤としながら、市民とともに町づくりを進める」
ということだったそうです。
(遠野市文化政策部文化まちづくり推進室 佐々木憲康氏  
「中心市街地の活性化に向けて」より)

次回は、その中心市街地をご紹介したいと思います。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:36
Comments(12)◆出・たかさき

2010年06月11日

東北ぶらり旅 遠野編(5)

遠野での宿泊は、「遠野物語発刊百周年ありがとうプラン」一泊二食付きで8,000円という格安料金に惹かれ、「あえりあ遠野」にしました。

「あえりあ遠野」は、市民センターも兼ねた宿泊施設として、平成十三年(2001)にオープンしました。

施設の名前は、市民から公募して選ばれたもので、「沢山の人々がふれあい、交流をするためのエリア」という意味が含まれているそうです。

「あえりあ遠野」のエントランスに、巨大な伐り株があります。

傍らに立っている説明板によると、樹齢120年というポプラの大樹だったようです。
説明板には、ありし日のポプラの写真が添えられています。


ポプラが天寿を全うして伐採されたのは、つい2,3年前のようですが、古いものを大切にする、いかにも遠野らしい伐採のしかただと思いました。

「あえりあ遠野」の前に、こんな洒落た電話ボックスがありました。
民話のふるさとらしく「伝話の家」となっているのが、いいですね。

後ろの「海鼠(なまこ)塀」の内側は、盛岡地方裁判所遠野支部ですが、その昔は郷校「信成堂」、後に「江刺県庁舎」の跡だそうです。
大きな石碑には「遠野教育発祥の地」と刻まれています。

清流、来内川のほとりに、昭和六十一年(1986)オープンしたのが、
「とおの昔話村」です。

案内板には、こう刻まれています。

明治四十一年十一月四日、柳田國男佐々木喜善の運命的ともいえる出会いによって著された「遠野物語」
その舞台の遠野の里には、数百年の時を超えて、いまだ多くの昔話が語りつがれている。
「とおの昔話村」は、「遠野物語」誕生の経緯とその背景、そして昔話の数々を広く紹介する施設として、さらには新しい伝承のあり方を模索する場として、ここに開村した。


柳田國男の胸像が建っているこの場所は、元・造り酒屋があったところだそうです。
その蔵は、いま「物語蔵」として柳田國男の生涯を紹介する展示場になっています。
蔵の右隣りにある、格子戸の付いた建物は何だと思いますか?
実は、こんなのです。
なんとも、憎らしいくらいのこだわりですね。

像の後ろにある建物は、柳田國男が定宿としていた「旧・髙善旅館」です。
明治から昭和にかけて遠野の町なかにあった、代表的な旅籠屋だそうですが、廃業後ここへ移築し、「柳翁宿」(りゅうおうじゅく)として内部を公開しています。


柳田國男は、東京都世田谷区成城に隠居所を設け、八十八歳で他界するまでそこで余生を過ごしました。

その隠居所を、ここ遠野にまで移して復元しているのですから、恐れ入ります。

来内川沿いの遊歩道には、こんな素敵なスペースがありました。


ここまで見ただけでも、遠野の町づくりへのこだわりと熱意、そして知恵と工夫が感じられたのではないでしょうか。
実は、まだまだお伝えしたいことが沢山あるのですが、今回も長くなってしまいました。
次回で、たぶんお伝えし切れると思います。
もう一回だけ、遠野編にお付き合いください。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:13
Comments(4)◆出・たかさき

2010年06月16日

東北ぶらり旅 遠野編(6)

ちょっと間が空いてしまいましたが、東北ぶらり旅の最終回です。
今回は、遠野の町なかを見ていきましょう。

町角にある薬屋さんですが、みごとな蔵造りです。

ただ、海鼠(なまこ)壁をよく見ると、模様が繋がっていません。
これは想像ですが、隣の家が撤去されて壁面が露わになってしまったので、あとから海鼠壁風にしたのではないかと思うのです。
でも、充分遠野らしい風景になっていて、違和感は全く感じません。

空き店舗だったのでしょうか、その軒先にモニュメントが置かれています。

「天人児」(てんにんこう)という、遠野の羽衣伝説の民話を表現しているようです。

遠野駅前から市立博物館までの通りに、このような民話の主人公のモニュメントが10基ほど置かれていますが、全国のシャッター通り対策としても、一考の価値があるのではないでしょうか。

ここも角地のちょっとした空き地ですが、民話のモニュメントが置かれています。

モニュメントの題は「We are waiting 桃太郎」となっています。
これから生まれてくる桃太郎を、猿、雉、犬が待っているということなのでしょう。

町の角々に、町名とその由来を書いた標杭が建っています。

同じ城下町であったわが高崎にも、ぜひ欲しいなぁと思うものでした。
そうそう、標杭といえば、こんなのもありました。
現在地が分かる地図が埋め込んであります。

これを見て、「あえりあ遠野」ポプラの説明板と結びつけた、ひとつのアイデアが湧きました。

わが高崎の町なかから消えてしまった昔の風景、その写真をタイルに焼き付けて標杭に埋め込み、それを町の角々に建てたらどんなもんかな、と思ったのです。
できたら、QRコードでも埋め込んで、観光客に昔の風景をお持ち帰りしてもらったり。

遠野町は、観光客を町なかに呼び戻すために、
「最大限の既存資源活用を図り、中心市街地に残る町屋、名所・旧跡、さらには神社・仏閣などの観光資源をルート化し、観光客が町なかを回遊する仕組みを構築する。」
という基本構想に基づいて、市街地整備を行ったそうです。

その整備のひとつが、「蔵の道」です。








素敵な蔵造りのカフェ&レストラン→
「ズモナハウスTANTO TANTO」


蔵の道エリアには、こんな素敵なものもあります。
素敵な風景の
「蔵の道ひろば」
勿体ないほどの
「公衆トイレ」
昔懐かしい
おもちゃ図書館
「蔵の道ギャラリー」

町全体が、テーマパークでした。
現役の薬局店
隣は司法書士事務所
和風三階建ての
お座敷料亭
和風モダンな
建築設計事務所

こんなところにまで、景観に配慮しています。
コンクリートビルも
土塀でお化粧
空き地だって
板塀でお化粧
べんがら塗り風な
護美収集箱

足元にだって、遠野があります。

遠野の町がこれほど調和がとれているのは、やはり「遠野物語」というひとつのコンセプトにこだわっているからでしょう。

振り返って、わが高崎の町なかを見た時に、こだわりをひとつに絞るとしたら何でしょう。
商業でしょうか、音楽でしょうか、映画でしょうか、パスタでしょうか、観音様でしょうか、達磨でしょうか・・・。
どれかに絞れば、誰かが怒りだしそうな気がします。
かといって、絞らなければ調和のとれない散漫な街になります。

全てを包含し、なおかつひとつのコンセプトに絞る。
そして、国内外の観光客に魅力あるもの・・・。
うーん・・・。
「城下町高崎」...これかな?


  


Posted by 迷道院高崎at 07:22
Comments(12)◆出・たかさき

2010年06月30日

山梨で出会った高崎の宝

先日、歴史民俗資料館主催の「三国街道史跡めぐり」の時、参加者の中に、元高崎市史編纂委員の中村茂先生がいらっしゃることに気付きました。

中村先生には、昨年「高崎五万石騒動史跡めぐり」がご縁で、拙ブログにコメントを頂いたこともあります。
そのコメントの中で、九蔵町大雲寺に、武田信玄の軍師として有名な山本勘助の子孫のお墓があると教えて頂き、「号外!高崎に住んでた山本勘助」という記事を書かせて頂きました。

そんな話を先生にしていたら、カバンの中から
←このチラシを出して見せてくれました。

今、山梨県立博物館山本菅助の企画展をやっているというのです。

山本菅助と言えば武田信玄武田信玄と言えば甲州山梨ですから、少しも不思議はないのですが、企画展のタイトルが「実在した・・・」となると、大いに気になります。
実在をほぼ決定づけたのは、安中で発見された真下家文書です。
そのことを、山梨ではどのように扱っているのか、大いに気になるところです。
で、行ってきました。

面白かったのは、受付で「JAFの割引はききますか?」と聞くと、
「JAF割引はないんですが、山梨県内のホテルや旅館に宿泊すると割引になります。」と言うんです。
それじゃ、ということで領収書を見せて100円割り引いて頂きました。
粋な計らいだと思いますよね。
高崎も、取り入れたらどうでしょう。

館内は撮影禁止なので、入口のパネルディスプレイだけご覧ください。
展示の一部は、博物館のHPでご覧いただけます。

山本勘助が架空の人物とされてしまった経緯、それが近年になって一転、実在の人物とされるまでの経緯が、時系列的に分かりやすく展示されていました。
学芸員の方も、積極的に来館者への説明をされており、とても好感が持てました。

展示資料の中には、安中で発見された古文書、高崎大雲寺にある菅助子孫の墓の写真パネルも展示されており、協力者として中村先生のお名前もありました。

そして、もうひとつ意外な物が紹介されていたのです。
それは、高崎城の構造を記した「高崎城大意(たかさきじょう・たいい)」という書物が、山本菅助と関係のあるものとして展示されていたことです。

五代目菅助である山本十左衛門幸運は、元禄八年(1695)松平輝貞高崎藩に転封されたのに伴って、高崎にやってきます。
このとき十左衛門が、高崎城の構造を詳しく記述し、輝貞に呈したのが「高崎城大意」だと解説されていました。

その高崎では、まだ「高崎城大意」が、山本菅助と関係しているとは、広く知られていないようです。
古城塁研究者の山崎一氏が、昭和四十二年(1967)に校註した「高崎城大意」の中でも、「山本十左衛門は元禄・享保の頃の高崎藩の軍学者」とあるのみです。

高崎藩内では、、五代目菅助・山本十左衛門に甲州流軍学を学び、「高崎城大意」は築城の軍学書として用いられます。
その成果あって、高崎藩には優れた軍学者が生まれることになったようです。
安政元年(1854)蝦夷・松前城の設計をしたのは、高崎藩の軍学者・市川一学であると言われています。

遠い山梨で、知らなかった高崎の宝を再発見しました。
その宝が、地元・高崎でほとんど知られていないことは、実にもったいないと思います。
できれば、山梨県立博物館とのジョイント企画で、群馬県立歴史博物館でも「山本菅助展」が開催できないものでしょうか。

(参考図書:「群馬県立歴史博物館館長講座資料」「群馬県史資料集別巻一 古城史篇」)


  


Posted by 迷道院高崎at 08:38
Comments(10)◆出・たかさき

2010年07月02日

山梨と、前橋と、そして高崎と

山梨県立博物館へ行く前に、河口湖へ寄ってみました。

河口湖のほとりに、「富士博物館」というとても素朴な博物館があります。
山梨県で最初の博物館で、約300年前の豪農の家屋を復元したものだそうです。

その敷地の中に、寛文年間(1661~62)に建てられた「郷倉」が復元されています。
説明板によると、
「この郷倉は江戸幕府が、豊年の年に穀類を貯蔵して凶年に備えるため、この地の郷主秋元但馬守(武田信玄家臣)に道志渓谷源流地へ建てさせたものである。」
とあります。

ここで、秋元但馬守という名前に、心当たりがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
前橋「天狗岩用水」を開いた初代・総社城主・秋元長朝(あきもと・ながとも)が但馬守でした。
その子・泰朝(やすとも)も但馬守で、寛永十年(1633)谷村藩の城代として甲斐に来ますが、寛永十九年(1642)には没しています。
後を継いだ富朝(とみとも)も早死にしたので、この「郷倉」を建てたのは養子の喬知(たかとも)でしょう。

秋元喬知は、河口湖の水を富士吉田まで抜く「新倉掘抜(あらくらほりぬき)」を開鑿しています。

時間が早かったために、「堀抜史跡館」を見ることはできませんでしたので、次のサイトでご覧ください。

Fujigoko.TV 「河口湖新倉堀抜史跡館」
はじめさんのお部屋 「新倉堀抜(あらくら・ほりぬき)」

そして、そして、秋元但馬守高崎とも深い関係があります。
それは、過去記事「新井堰の人脈と水脈」をご覧ください。

高崎に帰って来てから観音山を散策していたら、奇遇にもそこに山梨を発見しました。

観音山頂上駐車場脇の、上信バス待合所です。
そこに、いつ頃のものでしょうか、山梨の観光地を紹介する看板が掲げられています。

山梨と、前橋と、そして高崎と、歴史はつながっておりました。
この貴重なつながりを、先人に感謝しながら活かしていこうではありませんか。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:39
Comments(6)◆出・たかさき

2010年07月04日

山梨で思った あれやこれや

河口湖畔のラベンダー畑の中で、シンセサイザーの生演奏をしている人がいました。
ゆったりとした、何とも言えぬ心地よい旋律が流れていました。



誘梛さん。
IZANAGIと読むようです。
シンセイサイザーを担いで、山の頂やお花畑へ出かけ、その大自然を音楽にするのだそうです。
沼田「たんばらラベンダーパーク」にも来ているようです。

長~い参道と鬱蒼たる木立ち、富士吉田登山口にあたる「北口本宮冨士浅間神社」です。





外国からのお客様が沢山いらっしゃいました。
日本的なものを好まれるんですね。

富士守稲荷・・・ふじもりいなり・・・ですよね。

ここにもいらっしゃいましたか。
高崎では、ずいぶん追跡させて頂きました。


朝からどしゃ降りで、見られるとは思わなかった富士山
雨上がりの忍野八海で、スキッとした姿を見ることができました。

日本人観光客と見えたのは、ほとんどが中国からのお客さまでした。
水深10mの底が見えるほど、透明で清らかな水でした。

「無料」と書かれた駐車場は、その店で600円以上買わないと、途端に「有料」になります。
でも、帰りがけの町はずれで、本当の無料駐車場(町営)を発見しました。ガラ空きでした。
おもてなしも、透明で清らかであって欲しかったなぁ・・・。

山中湖畔のペンション「スターダスト」

干渉されるのが嫌いで、あまりペンションというものは利用しませんでしたが、こちらは程良いおもてなしでした。

夕食後にマジックを見せてくださるオーナーのご子息は、観天望気の達人でもありました。
「今日の富士山の雲の掛かり方だと、明日は晴れます。4時30分に起きてもらえれば、朝日に燃える紅富士が見られます。」

翌朝、予言どおり、紅富士が見られました。
おもてなしをする人は、その地域のことをよく知っていなければなりません。そして、その地域を愛していなければなりません。

そう、思わせてくれたペンションのご家族でした。

オーナーは群馬県に来たこともあり、榛名富士のこともご存知でした。
「駿河の鬼と榛名の鬼が競争して造ったのが、富士山と榛名富士なんだそうですよ。」とお話したら、それはご存知ありませんでした。
もっと、榛名をPRしなくてはいけません。

そういえば、榛名湖の形は鬼の足跡と言われますが、山中湖の形をしているそうです。
でも私には、どちらも足跡に見えます。

駿河の鬼が喜んで、富士山を跨いで付けたのが山中湖だと言ってしまえば、こっちのもんです。
榛名に来たお客さんには、そう言うことにしてみませんか?

最期にご紹介したいのは、本栖湖潜水艦型遊覧船です。

潜水艦の形をしてますが、潜らないから「もぐらん」

いいでしょー、遊び心があって。

さて、わが高崎へお出でのお客さんは、どんなあれやこれやを感じて、お帰りになるのでしょうか。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:06
Comments(6)◆出・たかさき