下小鳥町の「切干塚(きりぼしづか)」というのをご存知でしょうか?
通称、「首塚」と呼ばれています。
北部環状線と旧三国街道の交差する下小鳥町西交差点から、100mほど西へ行った所に、「史跡 首塚入口」と書かれた標柱が立っています。
やや奥まったところに、大きな石碑と高札の建っている塚があります。
石碑には「枉寃旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)と刻まれています。
「枉寃」は無実の罪のこと、「旌表」は世に広く示すことだそうです。
ここは、元和三年(1617)に下小鳥村の全村民が切り殺され、その屍は穴の中に山積みとされ、ために「切干塚」と呼ばれた所です。
「高札の説明文」をご覧ください。
人間は時として、狂気としか思えない残酷な所業を行うものです。
その人間が権力を持った時は特に、人を物のように扱うようになることも、よくあることです。
「切干塚」の伝承は、そんな人間への戒めとしていつまでも語り継がれることでしょう。
しかし、この伝承には不思議に思うことも多いのです。
説明文にあるように、この事件に関する確かな資料は発見されていないようです。
全て口伝、つまり言い伝えでしか残ってないのです。
文献としては、歴史学者・萩原進氏著「騒動」や、高崎市史編纂委員・田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」などに書かれていますが、いずれも先の「枉寃旌表之碑」の碑文と、地域の人の言い伝えを元にしています。
「枉寃旌表之碑」自体、地域の人の言い伝えをもとに、真塩寛(紋弥)という人が漢文による碑文を書き上げています。
石碑が建立されたのは明治三十四年(1901)ですから、言い伝えが正しいとすれば、事件から280年も経っています。
これだけの長き間、書き物になることなく、口伝だけというのは、不思議な気がします。
この村の脇には、天下の三国街道が通っています。
いかに、旅人の少ない正月四日のこととはいえ、全村民が殺害されるという大事件が、旅人に全く知られずに済むとは思えません。
それも不思議です。
また、口伝によれば、村民を皆殺しにするために、安中藩の加勢も得て村を取り囲んだと言われています。
それほどの事件が、高崎藩、安中藩のいずれの記録にも残っていないというのも、これまた不思議です。
伝承に出てくる高崎藩主・松平康長は、旧姓を戸田といいますが、徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を許されます。
実に転封の多い殿様で、高崎藩に来るまでの15年間に3回転封し、高崎藩にいたのは僅か1年、その後、信州松本藩でやっと落ち着きます。
高崎藩で、何らかの不祥事があったことは、その在任期間の異常な短さから想像できます。
阿漕な年貢取り立てをしたのかも知れません。
それに反発した農民が、何らかの行動を起こしたかもしれません。
だからと言って、農民を皆殺しにしてしまっては、その後の年貢は得られなくなります。
せいぜい、見せしめのために数人を処刑する程度で、事足りるはずです。
(それでも、ひどい話に変わりありませんが。)
伝承によっては、首だけをここに埋めたので「首塚」といい、別の所に「胴塚」というのもあったという話があります。
しかし、戦国時代の合戦ならともかく、農民の、しかも全員の首を刎ねて、胴体と別々に埋めるという、そんな手間をかけるでしょうか。
こう考えて来ると、伝えられている全村民殺害の惨劇は、本当にあったのでしょうか。
ところで、碑文を作成した真塩寛(紋弥)という人は、明治十四年(1881)に榛名山麓で起きた「秣場騒動」(まぐさばそうどう)の総代として、権力と戦って投獄された経緯を持っています。
もしかすると、権力というものに対して特別な思いを以って、下小鳥村の伝承を捉えていたとも考えられます。
しかしながら、火の無い所に煙の立たない例えもあり、下小鳥村に何らかの悲惨な事件が、おそらくあったのでしょう。
それが280年の間、口から口へ伝わる内に、よりセンセーショナルな物語に変遷してきたとも考えられます。
何とも不思議な、謎を秘めた「切干塚」です。
次回から、各氏による「切干塚(首塚)」伝承を、一つづつご紹介する予定です。
微妙に異なるその内容を、ご覧いただければと思います。
文字のみの記事になりますので、我慢強い方のみご覧ください。
通称、「首塚」と呼ばれています。
北部環状線と旧三国街道の交差する下小鳥町西交差点から、100mほど西へ行った所に、「史跡 首塚入口」と書かれた標柱が立っています。
やや奥まったところに、大きな石碑と高札の建っている塚があります。
石碑には「枉寃旌表之碑」(おうえんせいひょうのひ)と刻まれています。
「枉寃」は無実の罪のこと、「旌表」は世に広く示すことだそうです。
ここは、元和三年(1617)に下小鳥村の全村民が切り殺され、その屍は穴の中に山積みとされ、ために「切干塚」と呼ばれた所です。
「高札の説明文」をご覧ください。
人間は時として、狂気としか思えない残酷な所業を行うものです。
その人間が権力を持った時は特に、人を物のように扱うようになることも、よくあることです。
「切干塚」の伝承は、そんな人間への戒めとしていつまでも語り継がれることでしょう。
しかし、この伝承には不思議に思うことも多いのです。
説明文にあるように、この事件に関する確かな資料は発見されていないようです。
全て口伝、つまり言い伝えでしか残ってないのです。
文献としては、歴史学者・萩原進氏著「騒動」や、高崎市史編纂委員・田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」などに書かれていますが、いずれも先の「枉寃旌表之碑」の碑文と、地域の人の言い伝えを元にしています。
「枉寃旌表之碑」自体、地域の人の言い伝えをもとに、真塩寛(紋弥)という人が漢文による碑文を書き上げています。
石碑が建立されたのは明治三十四年(1901)ですから、言い伝えが正しいとすれば、事件から280年も経っています。
これだけの長き間、書き物になることなく、口伝だけというのは、不思議な気がします。
この村の脇には、天下の三国街道が通っています。
いかに、旅人の少ない正月四日のこととはいえ、全村民が殺害されるという大事件が、旅人に全く知られずに済むとは思えません。
それも不思議です。
また、口伝によれば、村民を皆殺しにするために、安中藩の加勢も得て村を取り囲んだと言われています。
それほどの事件が、高崎藩、安中藩のいずれの記録にも残っていないというのも、これまた不思議です。
伝承に出てくる高崎藩主・松平康長は、旧姓を戸田といいますが、徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を許されます。
実に転封の多い殿様で、高崎藩に来るまでの15年間に3回転封し、高崎藩にいたのは僅か1年、その後、信州松本藩でやっと落ち着きます。
高崎藩で、何らかの不祥事があったことは、その在任期間の異常な短さから想像できます。
阿漕な年貢取り立てをしたのかも知れません。
それに反発した農民が、何らかの行動を起こしたかもしれません。
だからと言って、農民を皆殺しにしてしまっては、その後の年貢は得られなくなります。
せいぜい、見せしめのために数人を処刑する程度で、事足りるはずです。
(それでも、ひどい話に変わりありませんが。)
伝承によっては、首だけをここに埋めたので「首塚」といい、別の所に「胴塚」というのもあったという話があります。
しかし、戦国時代の合戦ならともかく、農民の、しかも全員の首を刎ねて、胴体と別々に埋めるという、そんな手間をかけるでしょうか。
こう考えて来ると、伝えられている全村民殺害の惨劇は、本当にあったのでしょうか。
ところで、碑文を作成した真塩寛(紋弥)という人は、明治十四年(1881)に榛名山麓で起きた「秣場騒動」(まぐさばそうどう)の総代として、権力と戦って投獄された経緯を持っています。
もしかすると、権力というものに対して特別な思いを以って、下小鳥村の伝承を捉えていたとも考えられます。
しかしながら、火の無い所に煙の立たない例えもあり、下小鳥村に何らかの悲惨な事件が、おそらくあったのでしょう。
それが280年の間、口から口へ伝わる内に、よりセンセーショナルな物語に変遷してきたとも考えられます。
何とも不思議な、謎を秘めた「切干塚」です。
次回から、各氏による「切干塚(首塚)」伝承を、一つづつご紹介する予定です。
微妙に異なるその内容を、ご覧いただければと思います。
文字のみの記事になりますので、我慢強い方のみご覧ください。
【下小鳥町の切干塚(首塚)】