旧中山道を倉賀野から岩鼻へ向かい、陸橋で高崎線を越えた左下に、「梅乃木大神」の石碑が建っています。
近所のお年寄りに聞くと、「昔は、足が丈夫になるっつって、草鞋を供えたんだけど、今あはぁ、すたれちゃったいなぁ。」というお話です。
「梅乃木大神」の由来には、二つの話が伝わっています。
ひとつは、昔、加賀前田家の飛脚が、国元と江戸を往復していたが、ある時病に倒れてこの地で亡くなったという話。
もうひとつの話は、少し脚色豊かです。
加賀の前田の殿様が病気になったという知らせを、急いで運んでいる飛脚が倉賀野まで来ると、女が寄ってきてしつこく引きとめるので、泊まらざるを得なくなったのだそうです。
夜が明けて辺りを見ると、そこは何もない原っぱで、飛脚は初めてムジナに化かされたことに気づき、ここで腹を切って息絶えたという話です。
いずれにしても、その飛脚の死を憐れんだ村人がここに墓を作って霊を祀り、後に梅の木に草鞋を供え、飛脚のように足が強くなることを祈願するようになったのでしょう。
面白い話はまだあって、昔(高崎線も通って無く、陸橋もない頃)はこの辺のことを「雲助、銭拾わず」と言っていたようです。
昔は、この辺は家もなく、赤城おろしがまともに吹き抜ける場所だったそうです。
「雲助」といえば、人の弱みに付け込んででも銭をふんだくる悪い奴というイメージですが、その雲助でさえ、あまりにも凄い寒風の勢いに、落ちてる銭も拾おうとしなかったといいます。
さて、前置きがだいぶ長くなりましたが、この「梅乃木大神」もまた、「五万石騒動」の一つの舞台となった場所です。
大総代の下中居村・佐藤三喜蔵が、「三国屋」岩造一家の岡っ引き達に取り押さえられたのが、この辺りだと言われています。
三喜蔵が人目を避けて早朝上佐野村を立ち、大総代・高井喜三郎の待つ岩鼻宿の万屋へ向かってここまで来ると、待ち伏せていた十余人の岡っ引きに取り囲まれます。
三喜蔵という人は身の丈六尺(180cm)、目方は三十五貫(130kg)という巨漢で、相撲も取り剣道も心得ていたそうですから、岡っ引き達は相当手こずったようですが、なにせ多勢に無勢、無念にも三喜蔵は捕えられてしまいます。
捕えられた三喜蔵は、この後、倉賀野宿の「三国屋」へ引き連れられて行き、捕えた岡っ引き達は、続けて高井喜三郎を捕えるため、岩鼻宿「万屋」へ向かいます。
「万屋」の捕り物についてのお話は、また次回・・・。

「梅乃木大神」の由来には、二つの話が伝わっています。
ひとつは、昔、加賀前田家の飛脚が、国元と江戸を往復していたが、ある時病に倒れてこの地で亡くなったという話。
もうひとつの話は、少し脚色豊かです。
加賀の前田の殿様が病気になったという知らせを、急いで運んでいる飛脚が倉賀野まで来ると、女が寄ってきてしつこく引きとめるので、泊まらざるを得なくなったのだそうです。
夜が明けて辺りを見ると、そこは何もない原っぱで、飛脚は初めてムジナに化かされたことに気づき、ここで腹を切って息絶えたという話です。
いずれにしても、その飛脚の死を憐れんだ村人がここに墓を作って霊を祀り、後に梅の木に草鞋を供え、飛脚のように足が強くなることを祈願するようになったのでしょう。
面白い話はまだあって、昔(高崎線も通って無く、陸橋もない頃)はこの辺のことを「雲助、銭拾わず」と言っていたようです。
昔は、この辺は家もなく、赤城おろしがまともに吹き抜ける場所だったそうです。
「雲助」といえば、人の弱みに付け込んででも銭をふんだくる悪い奴というイメージですが、その雲助でさえ、あまりにも凄い寒風の勢いに、落ちてる銭も拾おうとしなかったといいます。
さて、前置きがだいぶ長くなりましたが、この「梅乃木大神」もまた、「五万石騒動」の一つの舞台となった場所です。
大総代の下中居村・佐藤三喜蔵が、「三国屋」岩造一家の岡っ引き達に取り押さえられたのが、この辺りだと言われています。
三喜蔵が人目を避けて早朝上佐野村を立ち、大総代・高井喜三郎の待つ岩鼻宿の万屋へ向かってここまで来ると、待ち伏せていた十余人の岡っ引きに取り囲まれます。
三喜蔵という人は身の丈六尺(180cm)、目方は三十五貫(130kg)という巨漢で、相撲も取り剣道も心得ていたそうですから、岡っ引き達は相当手こずったようですが、なにせ多勢に無勢、無念にも三喜蔵は捕えられてしまいます。
捕えられた三喜蔵は、この後、倉賀野宿の「三国屋」へ引き連れられて行き、捕えた岡っ引き達は、続けて高井喜三郎を捕えるため、岩鼻宿「万屋」へ向かいます。
「万屋」の捕り物についてのお話は、また次回・・・。
【梅乃木大神】