前回は、「高崎の散歩道 第八集」の地図で示されている「魚仲別館」跡へ行ってみたが、敷地としてはちょっと狭すぎるので、場所が違うのではないかという疑いをもった、というところまででした。
ところが、そんな時に神様の啓示は突然降りてくるもので、FaceBookでこんな記事を見ました。
「今も別館跡に茅葺屋根の建物が残っている」というのです!
ま、茅葺屋根とは言っても、鉄板で覆ってあるようですが。
Google Earthで長野堰沿いを探してみたら、ありました!
ここはどこなんだと、今度はGoogle Mapに切り替えてみて、分かりました。
「高崎の散歩道」で示されたとこよりも、ずーっと下流です。
実は、前から「魚仲」さんに直接お尋ねしたいとは思っていたのですが、一見さんの身ではと気後れしていました。
しかしFace Bookで見たことで少し気楽になり、メッセージでいくつか質問してみました。
すると、意外にも「ご都合がつくようなら、父に直接話聞いてみませんか?」というありがたいご返事を頂き、さっそく日時を決めてお伺いすることにいたしました。
当日、応接間に通されると、すでにアルバムなどが用意されていて、羽鳥修司会長と寺嶋友子社長が応対して下さいました。
会長は昭和二十年(1945)生まれで、その時にはもう「別館」は無かったそうです。
なので、記憶に残っている、お兄さんから聞いたということを話して下さいました。
まずは、いちばん気になっていた「別館」の場所についてお聞きしたところ、
と仰います。
ということは、「西公民館」の所から、残っている茅葺屋根の建物辺りまでが「別館」のあった場所ということになります。
それをもとにして地図を囲ってみると、これがちょうど1000坪(3300㎡)位になるんです。
ここが「魚仲別館」跡地だと思ってよさそうです。
さらに。
池の中に小舟が写っている写真があります。
跡地に残っているという茅葺屋根の建物は、「離れ」の内の一棟だったのでしょう。
で、「別館」はいつ開業したのでしょうか。
根岸省三氏著「高崎のサービス業と花街史」に、こんな記述があります。
ということで、昭和初期だとしか分かりません。
土地台帳を調べてみました。
すると、この土地は大正十四年(1925)に羽鳥仲蔵と羽鳥源四郎の連名で登記されています。
仲蔵はもちろん料亭「魚仲」の当主。
源四郎は、仲蔵の四番目の弟で新紺屋町で魚類商を営んでいた、屋号「魚源」の当主です。
これからすると、「別館」の開業時期は早くて昭和元年(1925)、遅くとも昭和二年(1927)といったところでしょうか。
そして、昭和十六年(1941)源四郎持ち分も仲蔵が取得しますが、昭和二十一年(1946)には江木町の「榛名産業」に売却しています。
因みに「榛名産業」というのは、戦前は「榛名航空工業」といって、「中島飛行機」の傘下で飛行機の部品を作っていた会社です。
実は、あら町の「岡源」もこの会社の社員寮になっていたことがあります。
戦後は「榛名産業」と名前を変えて「魚仲別館」跡地を取得した訳で、よほど料亭が好きな企業だったようですが、昭和二十五年(1950)に廃業しています。
話を戻して、改めて「魚仲別館」跡へ行ってみました。
この辺に「魚仲別館入口」のバス停があって、この小道を入って行ったようです。
100mほど行くと、長野堰に出ます。
ここに、木橋が架かっていたのでしょう。
長野堰を渡らず右に入っていくと、茅葺屋根の家が見えるはずです。
あれ?ありませんね。
そうかぁ、もう解体されて新しい家が建ち、そのお庭になってしまったんですね。
残っていれば、こんな風景が見られたんでしょうが。
室内もきっと瀟洒な造りだったんでしょうね。
見ることができず残念でした。
次回は九蔵町の「魚仲」さんについて、少し書いておくことに致しましょう。
ところが、そんな時に神様の啓示は突然降りてくるもので、FaceBookでこんな記事を見ました。
「今も別館跡に茅葺屋根の建物が残っている」というのです!
ま、茅葺屋根とは言っても、鉄板で覆ってあるようですが。
Google Earthで長野堰沿いを探してみたら、ありました!
ここはどこなんだと、今度はGoogle Mapに切り替えてみて、分かりました。
「高崎の散歩道」で示されたとこよりも、ずーっと下流です。
実は、前から「魚仲」さんに直接お尋ねしたいとは思っていたのですが、一見さんの身ではと気後れしていました。
しかしFace Bookで見たことで少し気楽になり、メッセージでいくつか質問してみました。
すると、意外にも「ご都合がつくようなら、父に直接話聞いてみませんか?」というありがたいご返事を頂き、さっそく日時を決めてお伺いすることにいたしました。
当日、応接間に通されると、すでにアルバムなどが用意されていて、羽鳥修司会長と寺嶋友子社長が応対して下さいました。
会長は昭和二十年(1945)生まれで、その時にはもう「別館」は無かったそうです。
なので、記憶に残っている、お兄さんから聞いたということを話して下さいました。
まずは、いちばん気になっていた「別館」の場所についてお聞きしたところ、
・ | 室田街道の「魚仲別館入口」バス停は今の「群馬建材」の所にあって、そこから長野堰に向って行くと木橋に出る。 |
・ | 現在の「西公民館」の所に「大広間」があった。 |
・ | 敷地は1000坪あった。 |
ということは、「西公民館」の所から、残っている茅葺屋根の建物辺りまでが「別館」のあった場所ということになります。
それをもとにして地図を囲ってみると、これがちょうど1000坪(3300㎡)位になるんです。
ここが「魚仲別館」跡地だと思ってよさそうです。
さらに。
・ | その1000坪の敷地には、ボートを浮かべて楽しんだ池、石庭があった。 |
・ | 母屋は、玄関、帳場、調理場と30畳ほどの広間だけで、池を中心に6,7棟の平屋の離れがあった。 |
跡地に残っているという茅葺屋根の建物は、「離れ」の内の一棟だったのでしょう。
で、「別館」はいつ開業したのでしょうか。
根岸省三氏著「高崎のサービス業と花街史」に、こんな記述があります。
「 | 昭和初期、高崎名士の別荘はみな料亭が占領し、そこに支店を置いてさかんに発展した。 |
小島家の望浅閣に鍋島が出るし、柳川町の小沢別邸に岡源支店、魚仲は並榎田甫に別館をつくり、・・・」 |
土地台帳を調べてみました。
すると、この土地は大正十四年(1925)に羽鳥仲蔵と羽鳥源四郎の連名で登記されています。
仲蔵はもちろん料亭「魚仲」の当主。
源四郎は、仲蔵の四番目の弟で新紺屋町で魚類商を営んでいた、屋号「魚源」の当主です。
これからすると、「別館」の開業時期は早くて昭和元年(1925)、遅くとも昭和二年(1927)といったところでしょうか。
そして、昭和十六年(1941)源四郎持ち分も仲蔵が取得しますが、昭和二十一年(1946)には江木町の「榛名産業」に売却しています。
因みに「榛名産業」というのは、戦前は「榛名航空工業」といって、「中島飛行機」の傘下で飛行機の部品を作っていた会社です。
実は、あら町の「岡源」もこの会社の社員寮になっていたことがあります。
戦後は「榛名産業」と名前を変えて「魚仲別館」跡地を取得した訳で、よほど料亭が好きな企業だったようですが、昭和二十五年(1950)に廃業しています。
話を戻して、改めて「魚仲別館」跡へ行ってみました。
この辺に「魚仲別館入口」のバス停があって、この小道を入って行ったようです。
100mほど行くと、長野堰に出ます。
ここに、木橋が架かっていたのでしょう。
長野堰を渡らず右に入っていくと、茅葺屋根の家が見えるはずです。
あれ?ありませんね。
そうかぁ、もう解体されて新しい家が建ち、そのお庭になってしまったんですね。
残っていれば、こんな風景が見られたんでしょうが。
室内もきっと瀟洒な造りだったんでしょうね。
見ることができず残念でした。
次回は九蔵町の「魚仲」さんについて、少し書いておくことに致しましょう。
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