九蔵町の一里塚跡を訪ねた帰り道、高砂町の五本辻の近くで素敵な建物を見つけました。
「たかさき都市景観重要建築物」指定の、江戸時代からの老舗、吉田家(旧・釜浅肥料店)」だそうです。
近くのお宅の前で、こんなものを発見しました。
ご年配の方には、懐かしいと思います。
昔は、こんなゴミ箱が各家々の前に置かれていて、一軒一軒ゴミを収集に来てくれたんですね。
収集しに来てくれた人には、「ご苦労様です。」なんて声を掛けていました。
自分の家の前ですから、ゴミ箱の周囲はいつもきれいにされていました。
時々ゴミ箱の蓋を勝手に開けて、中の物を持ち去る人もいましたが、それを咎め立てすることはありませんでした。
ゴミにカラスが群がっていたような記憶もありません。
角を曲がると、お稲荷さんが窮屈そうに祀られていました。
けっこう立派なお稲荷さんなんですが、特に「なんとか稲荷」という名前は付いてないようです。
道祖神も立派なものが建っていますが、ここは江戸時代、高崎城の遠堀(遠構)外の「江木新田口」という分去りだったからでしょう。
今は五本辻になっていますが、当時は三本辻で、東へ進む道が江木→京目を通る「旧・駒形街道」、斜めに北東へ進む道は江木→新保田中を経て前橋に至る「実政(さねまさ)街道」です。
前回記事へのコメントで、“ふれあい街歩き”さんが仰っていた「旧・前橋街道」が、この「実政街道」です。
ところで、「実政」ってご存知でしたか?
私は知らなかったんですが、前橋の小相木と利根川対岸の宗甫分(そうほぶん)村(現・南町)との間に、関所を兼ねた「実政の渡し」というのがあったんだそうです。
きっと昔「なんとか実政」という人が治めていた地域だったんでしょうね。
「実政の渡し」は、明治初期まであったようです。
そこへ至る道なので「実政街道」という訳ですね。
高砂町の五本辻を、青果市場の前を北東に進み、「実政街道」に入りましょう。
ここは確か、昔は魚市場でした。
近所の魚屋の子と一緒に、大きい冷凍庫に入ったりして遊んだ記憶があります。
少し行くと、長野堰を渡りますが、昭和の初めまで、この流れを利用した水車が回っていたそうです。
右の写真は、その水車の跡だそうですが、後の長野堰改修工事の時に撤去されたようです。
どの辺にあったのか、近くに昔からある「寺西精肉店」のご主人にお尋ねしたら、すぐ分かりました。
←現在の、藤棚がある辺りだそうです。
また少し進むと、道端に小さな石の祠があります。
この地は高崎城の鬼門にあたるので、鬼門除けとして薬師様を祀ったのだそうです。
明治になってから、九蔵町の大雲寺に移したのですが、終戦後、町内に不幸が続いたため、もう一度「厄除薬師」として、ここに安置することにしたといいます。
さらに進むと、高砂町のガード上に出ます。
この立体交差が完成したのは、昭和四十八年(1973)のことです。
それまでは、線路を斜めに横切る踏切で、この付近での鉄道事故も多かったようです。
「実政街道」は、このガード下を潜って斜めに入っていくことになります。
この続きは、また次回。
「たかさき都市景観重要建築物」指定の、江戸時代からの老舗、吉田家(旧・釜浅肥料店)」だそうです。
近くのお宅の前で、こんなものを発見しました。
ご年配の方には、懐かしいと思います。
昔は、こんなゴミ箱が各家々の前に置かれていて、一軒一軒ゴミを収集に来てくれたんですね。
収集しに来てくれた人には、「ご苦労様です。」なんて声を掛けていました。
自分の家の前ですから、ゴミ箱の周囲はいつもきれいにされていました。
時々ゴミ箱の蓋を勝手に開けて、中の物を持ち去る人もいましたが、それを咎め立てすることはありませんでした。
ゴミにカラスが群がっていたような記憶もありません。
角を曲がると、お稲荷さんが窮屈そうに祀られていました。
けっこう立派なお稲荷さんなんですが、特に「なんとか稲荷」という名前は付いてないようです。
道祖神も立派なものが建っていますが、ここは江戸時代、高崎城の遠堀(遠構)外の「江木新田口」という分去りだったからでしょう。
今は五本辻になっていますが、当時は三本辻で、東へ進む道が江木→京目を通る「旧・駒形街道」、斜めに北東へ進む道は江木→新保田中を経て前橋に至る「実政(さねまさ)街道」です。
前回記事へのコメントで、“ふれあい街歩き”さんが仰っていた「旧・前橋街道」が、この「実政街道」です。
ところで、「実政」ってご存知でしたか?
私は知らなかったんですが、前橋の小相木と利根川対岸の宗甫分(そうほぶん)村(現・南町)との間に、関所を兼ねた「実政の渡し」というのがあったんだそうです。
きっと昔「なんとか実政」という人が治めていた地域だったんでしょうね。
「実政の渡し」は、明治初期まであったようです。
そこへ至る道なので「実政街道」という訳ですね。
高砂町の五本辻を、青果市場の前を北東に進み、「実政街道」に入りましょう。
ここは確か、昔は魚市場でした。
近所の魚屋の子と一緒に、大きい冷凍庫に入ったりして遊んだ記憶があります。
少し行くと、長野堰を渡りますが、昭和の初めまで、この流れを利用した水車が回っていたそうです。
右の写真は、その水車の跡だそうですが、後の長野堰改修工事の時に撤去されたようです。
どの辺にあったのか、近くに昔からある「寺西精肉店」のご主人にお尋ねしたら、すぐ分かりました。
←現在の、藤棚がある辺りだそうです。
また少し進むと、道端に小さな石の祠があります。
この地は高崎城の鬼門にあたるので、鬼門除けとして薬師様を祀ったのだそうです。
明治になってから、九蔵町の大雲寺に移したのですが、終戦後、町内に不幸が続いたため、もう一度「厄除薬師」として、ここに安置することにしたといいます。
さらに進むと、高砂町のガード上に出ます。
この立体交差が完成したのは、昭和四十八年(1973)のことです。
それまでは、線路を斜めに横切る踏切で、この付近での鉄道事故も多かったようです。
「実政街道」は、このガード下を潜って斜めに入っていくことになります。
この続きは、また次回。
(参考図書:「高崎の散歩道 第五集」「群馬県の地名」)
【吉田家(旧・釜浅肥料店)】
【厄除薬師】