2009年09月16日

実政街道(1)

九蔵町一里塚跡を訪ねた帰り道、高砂町の五本辻の近くで素敵な建物を見つけました。



「たかさき都市景観重要建築物」指定の、江戸時代からの老舗、吉田家(旧・釜浅肥料店)」だそうです。

近くのお宅の前で、こんなものを発見しました。

ご年配の方には、懐かしいと思います。
昔は、こんなゴミ箱が各家々の前に置かれていて、一軒一軒ゴミを収集に来てくれたんですね。

収集しに来てくれた人には、「ご苦労様です。」なんて声を掛けていました。
自分の家の前ですから、ゴミ箱の周囲はいつもきれいにされていました。

時々ゴミ箱の蓋を勝手に開けて、中の物を持ち去る人もいましたが、それを咎め立てすることはありませんでした。
ゴミにカラスが群がっていたような記憶もありません。

角を曲がると、お稲荷さんが窮屈そうに祀られていました。

けっこう立派なお稲荷さんなんですが、特に「なんとか稲荷」という名前は付いてないようです。
道祖神も立派なものが建っていますが、ここは江戸時代、高崎城遠堀(遠構)外の「江木新田口」という分去りだったからでしょう。

今は五本辻になっていますが、当時は三本辻で、東へ進む道が江木→京目を通る「旧・駒形街道」、斜めに北東へ進む道は江木→新保田中を経て前橋に至る「実政(さねまさ)街道」です。
前回記事へのコメントで、“ふれあい街歩き”さんが仰っていた「旧・前橋街道」が、この「実政街道」です。

ところで、「実政」ってご存知でしたか?
私は知らなかったんですが、前橋小相木利根川対岸の宗甫分(そうほぶん)村(現・南町)との間に、関所を兼ねた「実政の渡し」というのがあったんだそうです。
きっと昔「なんとか実政」という人が治めていた地域だったんでしょうね。
「実政の渡し」は、明治初期まであったようです。
そこへ至る道なので「実政街道」という訳ですね。

高砂町の五本辻を、青果市場の前を北東に進み、「実政街道」に入りましょう。

ここは確か、昔は魚市場でした。
近所の魚屋の子と一緒に、大きい冷凍庫に入ったりして遊んだ記憶があります。

少し行くと、長野堰を渡りますが、昭和の初めまで、この流れを利用した水車が回っていたそうです。

右の写真は、その水車の跡だそうですが、後の長野堰改修工事の時に撤去されたようです。


どの辺にあったのか、近くに昔からある「寺西精肉店」のご主人にお尋ねしたら、すぐ分かりました。

←現在の、藤棚がある辺りだそうです。

また少し進むと、道端に小さな石のがあります。


この地は高崎城の鬼門にあたるので、鬼門除けとして薬師様を祀ったのだそうです。

明治になってから、九蔵町大雲寺に移したのですが、終戦後、町内に不幸が続いたため、もう一度「厄除薬師」として、ここに安置することにしたといいます。

さらに進むと、高砂町のガード上に出ます。
この立体交差が完成したのは、昭和四十八年(1973)のことです。
それまでは、線路を斜めに横切る踏切で、この付近での鉄道事故も多かったようです。

「実政街道」は、このガード下を潜って斜めに入っていくことになります。

この続きは、また次回。

(参考図書:「高崎の散歩道 第五集」「群馬県の地名」)


【吉田家(旧・釜浅肥料店)】


【厄除薬師】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2009年09月18日

実政街道(2)

「実政街道(1)」の続きです。

高砂町北通町の山車倉庫前を過ぎると、JRと駒形街道の立体交差に出ます。

ガード下を潜ってから、左折して右斜めに進むと、「実政街道」の続きです。

少し行くと、東三条通りに出ますが、それを突っ切って細い道に入ります。 →

そういえば、高崎「なんとか条通り」というと、この東三条通りという名前がよく出ますが、「三条」があるということは、「一条」「二条」もあるんですよね。

9月20日(日)に、「たかさきアートフリマ」が催される「せせらぎ通り」「東一条通り」で、高島屋の西側の通りが「東二条通り」でしたっけ。

東四条というのもあるようで、他にも、西一条・二条、北一条・二条・三条、南一条・二条・三条もある(あった?)んだそうです。
どなたかご存知の方、教えて頂けるとありがたいのですが。

話が横道に逸れましたので、「実政街道」に戻しましょう。

東三条通りを突っ切って道なりに進むと、「一貫堀」に架かる「赤土橋」を渡ります。

昔、この辺りは「赤土村」と呼ばれていたそうで、その名の通り赤土の田園地帯だったようです。

この橋の近くに、村の若者が力自慢をするために使った「力石」というのがあったと、「高崎の散歩道 第五集」に書かれています。

現在は、塚沢公民館の玄関脇に置かれています。 →

「赤土橋」近くに水車小屋があって米を搗いていたとありますから、搗き上がるまでの間、力自慢でもしていたのでしょう。
重い石を持ち上げた屈強な若者の、得意げな顔が目に浮かびます。
若者に負けじと無理をして、腰を痛めるお年寄りもいたりして・・・。

「赤土橋」を渡ってしばらく行き、塚沢中学校西側の丁字路を左に入ると、古びた木の鳥居が目に入ってきます。
飯玉公民館の玄関前ですが、石祠と道祖神があります。

この辺に昔「妙信庵」というお堂があって、そこにお地蔵様が建っていました。
それが、「九蔵町むかし探し」でご紹介した「夜泣き地蔵」です。

丁字路へ戻って、「実政街道」を北へ行こうとすると、すぐ塚沢小学校の丁字路に突き当ってしまいます。

明治四十年(1907)の二万分一地形図では、「実政街道」は、この先ずーっと北東へ向って進んでいくようです。

いつかまた、この先の消えた「実政街道」を辿ってみたいと思います。



【赤土橋】


【赤土村の力石】


【夜泣き地蔵のあった所】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:38
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2009年09月23日

「実政の渡し」跡を探しに

「実政街道」の記事を書いている内に、どうしても「実政の渡し」跡へ行ってみたくなりました。

上毛新聞社発行「群馬の川」に、利根川・烏川にあった「渡し」と、その廃止後に架けられた「橋」の比較図がありました。
(一部修整:迷道院高崎)

「実政の渡し」は、前橋小相木(こあいぎ)村宗甫分(そうほぶん)村の間にあったということですから、現在の南部大橋の辺りになります。

「実政の渡し」には、元和二年(1616)開所とされる「真政(実政)番所」があり、下目付1人、足軽2人が詰めていたといいます。
渡し船の定員は45人で、水かさが多い時は34、5人に減らしたそうです。
意外と、沢山乗れたんですね。
馬1匹は人間7人分として計算し、荷物が多い時もその分、乗せる人を減らしたようです。

「実政番所」は高岸上にあったようですが、天明三年(1783)の浅間山大噴火による泥流で、流失被害に遭っているようです。
その時の泥流のものすごさが、想像できる話ですね。

この辺の村は江戸時代末期には疲弊し、他の地へ流出する農民も多かったそうです。
そこで前橋藩は、農家の二男・三男に助成を与え、新建百姓として農業従事者を増やす策をとります。
その結果、民家の無かった宗甫分村は、天保五年(1834)には家数10軒、米三俵を上納できるまでになったといいます。(松平藩日記)

さて、「実政の渡し跡」ですが、川の両岸をうろうろしたものの、これという痕跡が見つかりません。
前橋刑務所下の「南町公園」へ行くと、ゲートボールを楽しむ元気なお年寄り達がいました。

そばへ行って、「この辺に実政の渡しというのがあったようなんですが、聞いたことありますか?」
とお聞きすると、ご婦人が、一番高齢と思われるおじいちゃんに、大きな声で聞いてくれました。

するとおじいちゃん、即座に「あー、あったよ。」
「今でも、跡があるんだよ。
 その橋(南部大橋)渡った、下(しも)んとこだい。」

と、教えてくださいました。

←ということで、南部大橋を小相木側に渡りながら左下を見ると、「あー、あれかな?」と思う大きな石が2つ、川の中に突き出るようにありました。

渡し船を繋留した石なのでしょうか。

小相木側から対岸を見ると、けっこうな川幅です。 →

当時は、もっと川も深かったのでしょうから、時によっては命がけの渡りだったことでしょう。

「実政の渡し」は、明治の初め、県庁裏(現在の群馬大橋のすぐ上流)に「曲輪橋」が架けられて、廃止されます。
そして、曲輪橋回りの「前橋新道」の利用が増えてくると、「実政街道」という名前も、次第に人々の記憶から消えていったようです。

さて帰ろうと、利根川自転車道を高崎に向けて走り出して、思わず「あった!」と叫んでしまいました。
何と、「史跡 真政(実正)の渡し」と刻まれた石柱が立っているではありませんか!

以前から、そしてこの日も、何回もこの前を通っていたのです。
ここは、弓道場のあるところなので、練習を見ながら暫く佇んでいたこともあります。

人間ってのは、こんなもんなんですね。
関心の無いものは、見てても見えず、
関心を持てば、見なくても目に入る。


いろんなことを考えながら、家路につきました。

(参考図書:「群馬の川」「群馬県の地名」)


【史跡実政の渡し 石柱】


  


Posted by 迷道院高崎at 07:02
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2012年02月09日

実政を渡った旅人

もう2年半ほど前になりますが、「実政街道」というのに興味を持って、「実政の渡し」跡を探しに行ったことがあります。

ブログの力というのはすごいなーと思うのですが、その時頂いたコメントで、ずいぶん謎解きができて深みが増してきた訳ですが、つい最近、ご先祖様が旅の途中「実政の渡し」を渡ったという古文書をお持ちの、道中双六さんという方からメールを頂戴しました。
ちょっと抜粋してご紹介しましょう。

たまたま安政2年末から3年初めにかけてのご先祖の旅日記を発見しました。
いまの福島県郡山市から江戸・伊勢・西国33ヵ所と金毘羅・善光寺と、延べ85日の旅の終わり近く、高崎、前橋から日光へ、実政の渡しを通っていました。
次のような記述です。
------------------------------
 一、さ祢まさ 二里
   間川舟三十二文宿なし
   上り口に御番所有
   かぶり物無用
-------------------------------
現代の地図と突き合わせながら道中記を読んだわけですが、なんとしても「さ祢まさ」がわからず、ネットで検索、こちらのブログでやっと「実政の渡し」と理解できた次第です。」

そして、ありがたいことに、坂本から日光までの「道中記」を、画像で送って頂きました。
これは、私だけが見たのでは勿体ないと思い、ブログに掲載したいとお願いしたところ、快よくご承諾頂きました。
併せて、読み下し文も送って頂きましたので、ここにご紹介いたします。
[ ]内は註釈です。

二七日
一、坂下[坂本] 二里半下り
かきや[かぎや]幸右衛門 はたご百五十文
十丁程行き御番所あり
三丁程行きて茶屋あり
此所より右は妙義山道
ほそ道むつかしき道なり
一、妙義山[妙義神社] 二里
白雲山大権現 御朱印
百五十石 経所なり 宿多し
掛こし間川橋八文
一、びやくほ[琵琶ノ久保]
此所宿なし
本道[中山道に]出会い申し候

一、あん中[安中] 二里
一、板花[板鼻] 二十五丁
一、高崎 二里
此所七万石御城下なり
きぬ類安すし
入口よりすこし行きて左
日光道おいわけなし
前橋あ志う[足尾]ト聞くべし
一、さ祢まさ[実政]
間川舟三十二文 宿なし
上り口に御番所あり かぶり物無用

二八日
一、前橋 一里
白井屋泊り 木銭[木賃]八十文 米百八文
一、おうこ[大胡] 二里半
出口一丁行き左わかる
日光道 是より四里半 山ほそ
道なり 宿なし わらじ
食物心かけべし
一、もろ沢[室沢] 一里半
宿なし
一、深沢 二里半
宿なし
一、はなわ[花輪] 二里半
一、ごうと[神戸] 一里半

二九日
一、そふり[沢入] 二里
舛屋泊り 木銭[木賃]七十二文 米百六文
一、阿志う[足尾] 二里半
一、みこ内 [神子内] 二里
是より日光峠[細尾峠]登り一里
下り一里 大雪にて
難儀仕り
一、ほうそ[細尾] 二里
間なんたい山より流れる川有り
三十日
一、日光 二里
入口より五六丁程行き大下り

いやー、面白い!
頭の中で、コースが辿れますね。

道中双六さんからの情報で、「道中記」にある坂本の旅籠・「かぎや」がまだあるということに、これまたびっくりです。

道中双六さんとご先祖様のおかげで、貴重な資料を記事にすることができました。
本当にありがとうございました!


  


Posted by 迷道院高崎at 21:19
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2017年02月27日

史跡看板散歩-33 天神天満宮

天神町の児童公園内にある、「天神天満宮」です。




この日は、「天神さま」の神紋でもある梅が、満開で迎えてくれました。


看板には、町名が決まってから「天神天満宮」を創ったように書いてありますが、もともとの字名が「天神」ということは、それ以前にも「天神さま」は祀られていたのでしょう。


看板にもあるように「天神さま」といえば菅原道真
「学問の神様」として祀られることが多いようです。
ただ、この場所は今でこそ住宅が密集していますが、昔は一面の田んぼだったようです。


そんな所に「学問の神様」を祀ったりするものでしょうか。
確かに、近くに「塚沢小学校」があるにはありますが、この学校が「塚澤尋常小学校」として開校されたのは明治二十二年(1889)です。
この地が「天神」という字名で呼ばれていたのは、それよりずっと前からでしょうから。

隠居の勝手な思いつきが頭に浮かんでくるのは、こんな時です。

上州名物といえば「雷(らい)と空(から)っ風」
一面の田んぼともなれば、空っ風もすごかったでしょうが、身を隠す場所もない夏の雷はもっと怖かったことでしょう。
菅原道真は死して雷神となり、醍醐天皇がいる清涼殿に落ちて何人もの公卿や近衛が命を落とし、そのショックで醍醐天皇まで亡くなったと伝わります。

その道真雷神として祀ったのが京都「北野天満宮」だそうですから、天神町「天満宮」雷神を祀ったんじゃないでしょうか。

また、菅原道真にはがよくなつき、道真もまたをこよなく愛育したとも伝わります。
は、農作業に欠かせない大切な生き物です。
その大切なを疫病や災厄から守るために祀ったとも考えられます。

妄想はさらに広がります。
明治四十三年の地図で、字「天神」の南をくねくねと通っている道が、「実政(さねまさ)街道」です。
「真政街道」とも書かれます。
もしかすると、「真」「道」の字から「道真」を連想して、「天神さま」をお祀りしたのかも知れません。

さあ、みなさんはどう思われますか?

ところで「実政街道」ですが、実は7年ほど前にちょっとだけ辿ってみたことがあります。 →  ◇実政街道
この時は、塚沢小学校の所で古い道が消えてしまっていたので、その先は辿ってないのですが、「実政街道」はそこから何本かに分かれていたようです。
いずれの道も最終的には「井野川」を渡って日高に向かうことになります。

「高崎市史民俗調査報告書 第五集 貝沢町の民俗」に、「実正往還」と書かれた道があります。


この道沿いに「貝澤實政道路擴幅工事記念碑」という石碑が建っていて、この道が「実政街道」だったことが分かります。



いつかまた、この先を辿ってみたいと思っています。


【天神天満宮】


【貝澤實政道路擴幅工事記念碑】




  


Posted by 迷道院高崎at 21:11
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2017年12月24日

史跡看板散歩-74 実政街道

まさかこんな所に「実政街道」の史跡看板を建てるとは。
遠目には、「立入禁止」「犬のフンお断り」の看板くらいにしか見えません。



金属塀沿いのこの道が、「実政街道」だったということらしいです。


看板に掲載されている絵図の「染谷川」「実政街道」に色付けをし、看板の建っている位置にマーキングしてみました。


明治四十年(1907)の2万分の1地形図と比較して見ると、「実政街道」の道筋がある程度推定できます。


塀沿いの道を150mほど行くと、「染谷川」の土手道に出ます。


史跡看板は、こちら側に建てた方が良かったんじゃないでしょうか。

この後、「実政街道」「松之木橋」を渡って高崎へ向かったようです。


新しい道がいくつもできて、明治期の道は俄かに辿れませんが、いつか、辿ってみたいと思っています。

「実政街道」に関する過去記事は、こちらから。


【実政街道史跡看板】




  


Posted by 迷道院高崎at 07:32
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