明治四十一年(1908)中央小学校校長・深井小五郎により、市内の名所を織り込んだ「高崎唱歌」というのが創作され、小冊子になっています。
その「高崎唱歌」をもとにした吉永哲郎氏の「高崎唱歌散歩」という文が、昭和五十五年(1980)高崎観光協会発行の「高崎の散歩道 第十二集下」に掲載されています。
それによると、「高崎唱歌」の小冊子は縦10.8cm、横14cm、20頁余で、連雀町の兵用図書日用雑貨の清水商店から発行されたとあります。
滋野金城という人が書いている序文を、一部抜き書きしてみましょう。
難しい文ですが、吉永氏が解説してくれています。
114年前に書かれた序文ですが、まさに、いま現在の高崎人に突き付けられている命題でもあるように思います。
ということで、次回から「高崎唱歌」の歌詞に沿って、令和の高崎を巡ってみることにいたしましょう。
その「高崎唱歌」をもとにした吉永哲郎氏の「高崎唱歌散歩」という文が、昭和五十五年(1980)高崎観光協会発行の「高崎の散歩道 第十二集下」に掲載されています。
それによると、「高崎唱歌」の小冊子は縦10.8cm、横14cm、20頁余で、連雀町の兵用図書日用雑貨の清水商店から発行されたとあります。
滋野金城という人が書いている序文を、一部抜き書きしてみましょう。
「 | 世間往々龍動(ロンドン)の月、巴里(パリ)の花あるを知りて我が国に三笠の月吉野の花あるを知らざる者あり、これ遠くに走りて近きを忘れ高きを思ふて卑きを忽(ゆるがせ)にする者とやいはまし」 |
難しい文ですが、吉永氏が解説してくれています。
「 | まずは自身の土地のことを知ってこそ世間がひらける。足元をよく見ようと、現代の地方の時代の意味の一端を思わせる序文である。」 |
114年前に書かれた序文ですが、まさに、いま現在の高崎人に突き付けられている命題でもあるように思います。
ということで、次回から「高崎唱歌」の歌詞に沿って、令和の高崎を巡ってみることにいたしましょう。
※ | 因みに、吉永氏著「高崎唱歌散歩」の簡易版は、「高崎新聞」のサイトから閲覧できます。 |
タグ :高崎唱歌