2022年05月21日

「高崎唱歌散歩」始めます

明治四十一年(1908)中央小学校校長・深井小五郎により、市内の名所を織り込んだ「高崎唱歌」というのが創作され、小冊子になっています。


その「高崎唱歌」をもとにした吉永哲郎氏の「高崎唱歌散歩」という文が、昭和五十五年(1980)高崎観光協会発行の「高崎の散歩道 第十二集下」に掲載されています。
それによると、「高崎唱歌」の小冊子は縦10.8cm、横14cm、20頁余で、連雀町の兵用図書日用雑貨の清水商店から発行されたとあります。

滋野金城という人が書いている序文を、一部抜き書きしてみましょう。
世間往々龍動(ロンドン)の月、巴里(パリ)の花あるを知りて我が国に三笠の月吉野の花あるを知らざる者あり、これ遠くに走りて近きを忘れ高きを思ふて卑きを忽(ゆるがせ)にする者とやいはまし」

難しい文ですが、吉永氏が解説してくれています。
まずは自身の土地のことを知ってこそ世間がひらける。足元をよく見ようと、現代の地方の時代の意味の一端を思わせる序文である。」

114年前に書かれた序文ですが、まさに、いま現在の高崎人に突き付けられている命題でもあるように思います。

ということで、次回から「高崎唱歌」の歌詞に沿って、令和の高崎を巡ってみることにいたしましょう。

因みに、吉永氏著「高崎唱歌散歩」の簡易版は、「高崎新聞」のサイトから閲覧できます。



  
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2022年06月04日

高崎唱歌散歩-1番 ♪中仙道に名も高き・・・

中仙道に名も高き
高崎市(まち)は上野(こうづけ)
商工業の首脳の地
人口三万八千余

私の両親は「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)生まれですが、父は久留馬村本郷、母は八幡村山名の産なので、残念ながら三万八千余には含まれてません。
今年の高崎市の人口は4月末時点で369,891人ですから、114年間でほぼ10倍になった訳です。

市制が敷かれた明治三十三年(1900)からの人口の推移を、グラフにしてみました。


近隣町村との合併により、人口が増えてきたことがよく分かります。
市域面積と世帯数の変化も併せて見てみましょう。
面積世帯数人口
明治33年 4.87k㎡5,924戸32,467人
昭和5年 28.04k㎡12,246戸59,928人
昭和15年 35.58k㎡14,504戸71,002人
昭和26年 41.77k㎡20,807戸100,053人
昭和30年 71.26k㎡25,896戸125,195人
昭和31年 87.87k㎡27,861戸134,426人
昭和32年 89.34k㎡28,818戸137,046人
昭和38年 93.96k㎡37,736戸160,123人
昭和40年 110.56k㎡43,397戸173,887人
平成元年 110.72k㎡78,604戸236,109人
平成18年 401.01k㎡130,705戸340,881人
平成21年 459.41k㎡150,899戸374,622人
令和元年 459.41k㎡156,353戸368,667人
令和3年 459.41k㎡162,415戸371,878人

平成二十一年(2009)の合併以降、世帯数は増えているのに人口は伸び悩んでいるのが分かります。
やはり、少子化ということなんでしょうか。

高崎市制100周年記念としてつくられた「高崎かるた」に、こんな札があります。


子どもを産みやすい、育てやすい、そんな市(まち)であって欲しいと思います。


  
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2022年06月18日

高崎唱歌散歩-2番 ♪汽車の線路はたて横に・・・

汽車の線路はたて横に
電燈電話に水道や
文明機関備はりて
(まち)の繁栄日に進む

明治四十三年(1910)の「旅行案内高崎市略図」に、当時の高崎を通る「汽車の線路」が載っています。



まず明治十七年(1884)上野-高崎間に「たての線路」が開通します。(その辺の物語は、こちらをご覧ください。)

それまで馬車で12時間掛かっていたものが、わずか4時間で行けるようになりました。
これを「高崎線」と呼びたいところですが、「高崎線」という呼称は、明治三十九年(1906)の国有化時に大宮-高崎間を以て定められたもので、当時は「中山道鉄道」と呼ばれていたようです。
東京京都を鉄道で結ぶために、中山道沿いに鉄道を敷設しようという計画の一環だったからです。

この計画に基づき、明治十八年(1885)には高崎-横川間も開通し、三国街道と交差する場所に「飯塚駅」が開業します。大正八年(1919)北高崎駅と改称)

ところが、政府は翌明治十九年(1886)突然「中山道鉄道」の建設を中止し、幹線鉄道を東海道に変更することを決めます。
「中山道鉄道」は、山岳地帯が多いので難工事が予想され、工期や工費がかさむというのが理由だったそうです。

その難所の一つが横川-軽井沢間の碓氷峠で、勾配がきつくて汽車が上ることができず、乗客は駅で降り、街道を歩いて峠越えするしかありませんでした。
そこで、高崎の矢島八郎、前橋の高瀬四郎が発起人となり、中山道の街道上にレールを敷設して馬車で客車を曳かせる「碓氷馬車鉄道を明治二十一年(1888)に開業します。
詳しくは、小林収氏の「碓氷峠の歴史物語」をご覧ください。


路線距離19.1km、所要時間2時間30分、一日4往復の運行でした。
2時間30分とはずいぶん掛かったもんだと思いますが、歩くとなれば時速3kmとしても6時間半弱掛かる訳ですから。

横川-軽井沢間にアプト式の鉄道が敷かれ、汽車で峠を越えられるようになったのが、明治二十六年(1893)です。
これで高崎-直江津間が全通し、明治二十八年(1895)「信越線」と改称されるのです。
なお、アプト式鉄道開通により用済みになった「碓氷馬車鉄道」の資材一切は、「群馬鉄道馬車」株式会社が購入、その年の内に高崎-渋川線に転用敷設されました。

さて、つぎに「横の線路」ですが、上野-高崎間が開通したその年、高崎-前橋間も開通しています。
ただし「前橋」とは言っても、利根川に鉄橋を架けることができなかったために、手前の内藤分村(現石倉町)の「内藤分ステーション」で線路は止まっています。



ようやく利根川に鉄橋が架かったのは明治二十二年(1889)、これにより高崎-小山間が全通しました。
現在の両毛線ですが、正式にその呼称となるのは、20年後の明治四十二年(1909)です。

もう一本の「横の線路」「上野鉄道」です。

東京上野行ではなく、下仁田へ行く「上野(こうづけ)鉄道」です。
現在の「上信電鉄」ですが、まだ電車ではなく汽車でした。



明治二十九年(1896)発行の「上野鐡道株式會社線路圖」というのがあります。


その中の「鐡道局御調査報告書及經済表」という項に、「上野鉄道」の売り文句が記されています。
本線沿道産物ニ乏シカラズ 中小坂鐵山ハ下仁田ヲ距(へだた)ルヿ(こと)西方壹哩(1マイル)ニシテ毎年ノ産額貮千噸(2000トン)ヲ下ラズ
靑倉ニ石灰山アリ 富岡ニ製絲塲アリ 其他材木、薪炭、砥石ノ産出尠(すく)ナカラズ
之等ハ總テ他地方ニ運出スルモノニシテ 而シテ米穀、魚、鹽、生繭、石炭及日用ノ物品ハ全ク他方ノ輸入ヲ仰カザルヲ得ズ
故に本鐵道ニ因テ得ル所ノ公益ハ 實ニ少ナカラザルベシ」

これを見ると、沿線で産出される資源の輸送に力点が置かれているのがよく分かります。
この文書が発行された翌年、明治三十年(1897)に営業が開始されたのですが、その成績は目論見通りにはいかなかったようです。


これを救う手立てとなったのが鉄道の電化なんですが、それは大正十三年(1924)まで待たねばなりませんでした。

だいぶ記事が長くなってしまいました。
歌の続き「電燈電話に水道や」については、次回ということに。


【内藤分ステーション跡】


  


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2022年07月02日

高崎唱歌散歩-2番 続き♪電燈電話に水道や・・・

汽車の線路はたて横に
電燈電話に水道や
文明機関備はりて
(まち)の繁栄日に進む

今日は電燈電話の話です。

高崎市内に初めて電燈の灯りがともったのは、明治三十七年(1904)でした。
田村民男氏著「群馬の水力発電史」にこう書かれています。
高崎市では須藤清七、小林弥七らによって、明治36年6月25日に高崎水力電気会社が資本金10万円で設置され、本社を常盤町に置いた。
同年9月12日、烏川上流の室田町上室田地区に上室田発電所の建設に着手し、翌37年8月30日に竣工し、11月に完成した小島変電所の落成を待って高崎市に送電を開始した。
しかし、実際にランプに代わって高崎市の各家庭に電燈がついたのは37年12月1日であった。」

「高崎水力電気」の本社はここにありました。

今の「中央小学校」がある場所ですね。
そばにある「コ」の字形は高崎城の角馬出し跡、通称「ぼうず山」です。

建物はこんなでした。

手前の木柵は、たぶん明治十三年(1880)創業の「栗本牧場」だと思います。

明治三十七年(1904)版「高崎繁昌記」に、電力供給の規模が書かれています。
開業当日の既設の分2,500余燈、取得中のものを合すれば4,000燈に上るの盛況を呈し、且つ水源発電地は天然好地形をなし、費用少なくして、水力豊富、燈光熾盛なる為め、1個月終夜燈16燭光75銭、同10燭光55銭のみ、其廉価と好成績とは全国60有余の電燈会社中第一に位し・・・」

また「上室田発電所」については、
水源地は市外十哩(マイル)を距(へだ)て群馬郡上室田山中に在りて、烏川の水流を125尺の高処(字、本荘)より直下の低地に導き茲(ここ)に発電所(字、初越)を構成し、有効動力450馬力、(略)其発電機(3相交流300kwペルトン水車直結式)4台を用うるに足るの規模を有するも、目下は発電機を1台に止め300kw(即ち450馬力、7,500燈)を発生せしむる・・・」
とあります。


「上室田発電所」は、「室田発電所」として現在も稼働しています。


開業以降の利用者増加は目覚しいものがあります。


高崎水力電気の電力は、鉄道の発展にも大きく貢献します。
明治43年(1910)には高崎-渋川間の全面電化(チンチン電車)、大正13年(1924)には高崎-下仁田間の全面電化(上信電鉄)がなされます。

話変わって、電話の話。
高崎前橋に遅れること三年、明治三十九年(1906)ようやく加入数160で電話業務が開始します。
電話局は、連雀町「高崎郵便電信局」に併設されました。


加入者には「通話せんとするときの心得」というのが配布されたそうです。(新編高崎市史資料編9)
一、 電話加入者が、任意の加入者に向って通話せんとするときは、先づ電話器に向って、受話器の懸りし儘、発電器の取手を数回々転して、次に電話器に(受話器を?)外して耳に当て、交換手の出づるを待たる可し
二、 交換手出でゝ、モシモシ何番と問ふときは、直ちに呼出さんとする番号、(例えば100番又は200番の如し)を答へ、相手加入者の出でゝ、応答するを待つ可し
三、 暫く待ちて相手加入者出でざるときは、又受話器を懸けて、数回発電器を廻し、受話器を耳に当てゝ暫時待つ可し
四、 此場合に於て交換手出でしときは、未だ出ませんと答へ、若し相手加入者出でしときは、直ちに通話す可し
五、 通話中には、決して発電器を廻す可からず
六、 終話の時は、一旦受話器を懸金物に懸けて、発電器を一、二回々転し、然らざれば、交換手に終話を知らしむること、能わざるなり
(以下省略)
まぁ、えらく面倒くさいですね。
それでも「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には加入者は225に増え、高崎停車場前にも公衆電話が設置されて、加入者以外の人も掛けることが出来るようになりました。

面白い話があって、「高崎新聞」のアーカイブ「初めて電話が通じた日」に、こんな逸話が載っています。
戦後、電信電話公社が発足し、通信需要も大きく伸びた。しかし、まだ交換手が手動でつないでいた時代で、しかも高崎電話局の設備は旧式で、高崎から東京に電話を申し込んで相手が出るまで5時間かかっており、「鉄道よりも遅い」と不評をかっていた。」
戦後になってもまだこんな具合ですから、明治時代はもっと大変だったんでしょうね。
いや、もしかすると加入者数が少ないからもっと早くつながったのかな?

さて、歌はこの後「水道や」と続くのですが、また次回ですね。


  


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2022年07月09日

高崎唱歌散歩-2番 続きの続き♪水道や・・・

前回の「電燈・電話」に続き、今回は「水道」の話です。

高崎の飲用水は、長らく「新井堰」の水が利用されてきましたが、幕末から明治にかけて住民の数が急増してくると問題が発生してきます。
「新編高崎市史通史編4」に、こう記されています。
江戸時代の貞享四年(1687)の高崎宿の人口は5,734人で、それから169年後の安政三年(1856)は7,784人である。
この間の増加を一年平均で見ると12人となる。
明治十一年(1878)の高崎の人口は16,115人であるから、22年前の安政三年と比較してみると、一年平均で379人の増加である。
幕末から明治にかけてのこのような急増は人々の居住環境を変化させた。
それまでの長い間大切にされてきた水路に、下水が流入するようになったのもその一つである。
家庭用の井戸が掘られるようになったが、その井戸でも良質の飲料水を得ることは難しかった。
水を生み出す地層そのものが汚染されてきたのである。
こうして、人間の生存に欠かせない良い水を求める声が、人々の間に高まっていった。」

そこで、明治二十一年(1888)「新井堰」に簡易浄水場を設け、高崎中心部の15ヵ町に簡易水道水が供給されるようになります。


浄水場は通称「水こし場」と呼ばれ、「高崎唱歌」22番にも、
「ここは水道水こし場 住吉町の西の方・・・」
と歌われています。

その浄水設備の構造が「新編高崎市史資料編9」に載っています。
水道口は住吉町地内に、
長さ八尺(2.4m)・幅十二尺(3.6m)・深さ六尺(1.8m)の沈定盤と、
長さ九尺(2.7m)・幅二間(3.6m)・深さ六尺(1.8m)の濾過器と、
長さ十尺(3m)・幅十二尺(3.6m)・深さ三尺(0.9m)の溜井函等を設け、
総て煉化石造とし、内部へハ木製の仕切函を置き、器の底はコンクリートを以て修築し・・・」

【戦後発掘された簡易水道浄水場】


この簡易水道を保守・管理するために、「水道巡視人」という人が任命され、その心得が定められました。
第一条 水道の全体を監守するため巡視人一名を置く
第二条 巡視人ハ一日二回以上水道の全体を巡視すべし
第三条 巡視人ハ貯水池及供用汲井等に異状または破損あるを認むるときは、其状況を郡役所に報道すべし
第四条 巡視人ハ出張郡吏の指揮に従ひ、貯水池掃除等の事を所理すべし

「巡視人」のいで立ちも定められています。
第六条 巡視人ハ水道巡視の際必ず制規の被服を着用すべし
第七条 巡視人被服ハ紺小倉にして袖先に水字の徽章を附す、帽は独逸形にして正面に水字の徽章を附す
うーん、イメージが湧くような湧かないような・・・。

こうして運用された「簡易水道」ですが、そこは「簡易」の限界があり、大雨の時には濾過しきれずに、蛇口から小魚などが出てくることもあったようで。 → ◇蛇口から魚?

「高崎市水道誌」にも、このような記述があります。
十五ヵ町の水道は成ったが、降雨あれば水門を締め、また、長野堰その他水路の修繕等による断水がしばしばあり、ときには一ヵ月近く停水のこともあって、完全な水道を求める動きが起きてきた。
また、水道未設置の町内(高崎全戸数の約六割)からも強い要望が出てきた。」

そこで、新水源を求めて調査が開始されるのですが・・・、
明治二十八年頃、群馬郡中川村大字大八木村の猪之川(井野川)べりの湧水を時の助役深井寛八らが実地踏査した。水道の新しい水源を求めての動きである。
水質は飲料水として適切と認定され、噴出量も一見必要量を満たすかに認められたが、永久の水源として、将来の水脈の変化を測定するによしなく、信をおくに足る調査結果が得られないまま、さたやみとなった。

同じころ、倉賀野町の長野堰田用水利用は高崎の末流に当たり、旱魃に苦しむことが多かったので同町の富豪松本勘十郎主唱により、吾妻川に取水場を設け、高崎を通過して同町に引く計画が立てられた。
当時、高崎は水道の改善拡張を望んでいたおりであり、ときの県知事中村元雄は高崎に来て、この際、倉賀野の企画に協力し、高崎の飲料水の確保をはかるようにとすすめた。
そこで高崎において同川の水質を調査したところ硫酸過量で飲料水に適しないものと判明。
このようなことから、この計画も中止された。

また、明治三十年、現在の長野堰支流新井堰の水道取入口に沈澄池・沪過池の新設について調査を大森俊次郎に依頼したが、水頭及び余地なく見込みなき旨の報告があった。
なお、取入口を並榎村に移して沈澄池を設置する案もあったが、田用水組合との交渉困難のため立ち消えになった。」
という具合で、なかなか新水源を得ることは出来なかったのです。

明治三十三年(1900)高崎に市制がしかれると、初代市長・矢島八郎は水道敷設を最大かつ喫緊の事業として取り組みます。
話は長くなりますので、続きはまた次回。


  


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2022年07月23日

高崎唱歌散歩-2番 まだまだ続く♪水道や・・・

水道の話、続きます。

明治三十三年(1900)初代高崎市長になった矢島八郎は、水道敷設こそ最も大きく、最も急を要する事業として取り組むこととしました。
就任翌年、県の技師や土木工手に委嘱し、3つの水源候補地の検討が始まります。
「高崎市水道誌」で見てみます。
1. 群馬郡片岡村大字清水観音山渓谷に堰堤を築き、貯水池及び濾過池をつくり、鉄管により自然流下で送水する。
2. 碓氷郡里見村大字上里見字上山(神山?)町春日堰上に引入口を取り、掘鑿して八幡村大字剣崎村剣崎山頂に送水する。
3. 碓氷郡礒部村大字中礒部村諏訪神社裏手に引入口を取り、山腹に沿って群馬郡片岡村大字乗附村に送水する。

検討の結果、第二案の上里見春日堰から取水し、剣崎山頂に浄水装置を設けて高崎市内に送水する路線が最適ということになり、さらに調査が続けられます。
調査は明治三十五年(1902)三月に終了し、翌三十六年四月水道調査委員により「水道敷設設計概略」が取りまとめられます。

この計画による水道敷設費は、577,755円44銭9厘と試算されています。
その費用をどう捻出しようとしたかというと、
・国庫補助申請 200,000円
・県費補助申請 100,000円
・公借金(日本勧業銀行) 270,000円
・市費負担 7,755円44銭9厘
と算段しています。

この間の県との交渉におけるエピソードが、昭和五年(1930)五月四日の「東京朝日新聞」に載っていました。


このような苦労をしながら国・県・勧業銀行との交渉を進め、里見村長とも本契約を締結までこぎつけたのですが、明治三十七年(1904)二月に勃発した日露戦争により、待望の水道敷設は中止のやむなきに至ってしまいます。
関係者の無念、察するに余りあります。

そして日露戦争が終わった翌年の明治三十九年(1906)、矢島八郎は市長の任期六年となり、二期目の市長再任に意欲を燃やしていました。
六月、矢島八郎は議場において、今後の高崎市が進めるべき基本方針である「市是」について大演説を行います。
その「市是」の真っ先に掲げたのが、「水道敷設」でした。
就中、水道敷設事業ノ如キハ市ノ盛衰興亡ニ関スル刻下ノ最要急務ニ属スルヲ以テ、市ハ全力ヲ集注シテ其完成ヲ速カナラシメザルベカラズ。」

二期目の市長就任を目指す矢島八郎の前に、元高崎町長を務めた生沢一太郎が名乗りを上げます。
「新編高崎市史通史編4」に、次のような話が載っています。
選挙の日が近づくと生沢は直接矢島を訪ねて、市是の十二項目は私がやり遂げるから次期市長はぜひ私にやらせて欲しいと頼んだ。
しかし、上水道を始めとする多くの継続事業を残す矢島は、生沢の申し出を拒絶、選挙は避けられない情勢となった。(略)
次期市長を選ぶ十七日の市会は、出席者二十九人、選挙の結果は第一候補に十七票の過半数を得た生沢一太郎が当選、(略)
選挙で争うと新聞に報じられた矢島前市長は、市是の直接の実行は生沢新市長に任せ、市の元老として背後で生沢市政を支える立場を選んだ。」

前市長・矢島八郎は、明治四十年(1897)四月水道敷設工事顧問に就任します。
そして、十一月三日、里見村神山の取水場予定地において起工式が執り行われました。

「工事方法書」に、取水場の仕様が示されています。
川岸に擁壁を築きて沿岸の土留となし、其中に口径一尺二寸の鋳鉄管を布し、其管頭は附するに金属製の塵芥除けを以てし、管末には制水扉を設く。
河水は自然に管内に流入して内径九尺の円井に入り、井内に於いて更に塵芥除け金網を過ぎ、導水管に入りて浄水場に流下するものとす。」

明治四十一年(1908)十一月十二日、「春日堰取水場」は竣工しました。
「高崎唱歌」がつくられたその年ですが、新しい水道が敷設されるのには、さらに二年の歳月が必要でした。
「電燈電話に水道や 文明機関備はりて」という歌詞は、完成した暁にはという大きな期待を込めたものだったんでしょうね。

現在の「春日堰頭首工(取水口)」です。


水門には「昭和二年五月 竣工里見村」と刻まれています。

明治のものではなかったのですね。
その頃の取水口の姿を知りたかったのですが、当時の写真を見つけることはできませんでした。

さて、この後、「春日堰取水場」から「剣崎浄水場」までの「導水管」が敷設されていったわけですが、今回もまた長くなりました。
次回に続けましょう。
終わりませんねぇ、♪水道や・・・。


【春日堰頭首工】



  


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2022年08月06日

高崎唱歌散歩-2番 これでおしまい♪水道や・・・

「春日堰取水場」の完成は明治四十一年(1908)十一月十二日でしたが、そこから「剣崎浄水場」まで水を送る「導水管」の工事に着手したのは、ちょうど一年後の明治四十二年(1909)十一月八日でした。
四十一年九月から着工されていた「剣崎浄水場」の工事との関係だったのでしょう。

現在、「導水管」は国道406号線の道路下に埋設されているそうですが、最初はその南の丘陵部を通っていたようです。


しかし、その具体的な経路はよく分かりません。
「高崎市水道誌」を拾い読みしてみても、
水道線路は前記神山町を基点とし・・・
線路に沿ひたる地名
碓氷郡里見村大字上里見村・中里見村・下里見村、同郡八幡村大字若田村・八幡村・剣崎村・・・
導水管線路は概して丘陵起状する処なるを以て、従て盛土を要する個所多く・・・
此部分の地理は現今(注、大正末年)神山町内県道にして、古老の伝ふる所、往昔烏川の流れし所なりと言ふに・・・
という具合で、何とも漠然としています。

ただ、実は二年前、偶然にも、その「導水管」が埋設されていたという場所を教えて頂いたことがあります。
その方は、「水道みち」と仰ってました。

「水道みち」を地図上で延長していくと、「ベイシア」の南側丘陵部の道につながっていそうです。

行ってみると、ヘアピンカーブの所に、「水道みち」だったらしい痕跡を見つけました。


「水道みち」らしき痕跡は、ヘアピンカーブを横切って、さらに南東方向へ向かっています。

その痕跡をずーっと行くと、「向井住民センター」の脇を通って「郷見神社」のところに出ます。

境内から南東の方向を見ると、遠くに「城山稲荷」が見えます。

「導水管」からの水漏れが原因ではないかとも言われた、土砂崩落災害が発生したところです。

「高崎市水道誌」「導水管」の写真が掲載されてました。
(注:崩落現場のものではありません)

土管だったんですね。
仕様も書かれています。
引用水管は円管口径壱尺二寸(36.4cm)とす
管は混凝土管にしてその割合「セメント」一、洗砂三なり
混凝土管は上部の土圧に耐ゆるの為、充分之を厚く作り掘鑿せり
地面を搗き固めて之を据付け接合部には麻を詰め込みこれに調合「セメント」一、砂一の「モルタル」を充填し粘土を以て囲繞す

「城山稲荷」からも、「水道みち」らしき道が南東へ向かって切れ切れに続いているように見えます。


近くをウロウロしていると、面白いものを見つけました。

切り通しのように見えますが、それにしてはきれいに石が積まれています。
よく見ると、こんな文字が刻まれていました。

これ、もしかすると、「導水管」を架け渡すための橋脚だったんじゃないでしょうか。

さらにウロウロすると、少し離れた所に「第五號」というのもありました。



「第六號」は明治四十二年(1909)、「第五號」は明治四十三年(1910)竣工となっています。
探せば、まだどこかに「第一號」「第四號」が残っているのかも知れません。

さて、「春日堰取水場」から3,908間(7.1km)、「水道みち」を通って敷設された「導水管」「剣崎浄水場」に接続され、ついに高崎市内に上水道が供給されたのは明治四十三年(1910)十一月三十日のことでした。


112年後の今も、現役で活躍しています。


信州大学の中本信忠教授は「日本一おいしい水」だと評価しています。


帰りがけに「若田浄水場」内の「水道記念館」へ寄ってみたら、「あれ?」と思うものを見つけました。


やっぱり、あの橋脚らしきものは「導水管」用だったようです。

やれやれ、これで「高崎唱歌」二番を、どうにか終わらせることができました。
ふぅー。


【導水管橋脚第六号】

【導水管橋脚第五号】


  


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2022年08月20日

高崎唱歌散歩-3番 ♪市の南のはづれなる・・・

(まち)の南のはづれなる
下和田町に龍見町
次なる町は鎌倉町
往古鎌倉街道よ

明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「町名の由来」というのが載っています。
當市は從来”宿”又は”驛”と稱し群馬郡の一部たりしが、明治十二年東西二郡に分劃して西群馬郡に編入せられ、二十二年四月より高崎町と稱せり。
三十三年四月市制を實行す」

「西群馬郡」の頃は「高崎」もまだ小さなものでした。


「下和田村」は明治二十二年(1889)「高崎町」が成立した時に合併します。
合併前の明治六年(1873)「下和田村」の一部を分割してできた町が「龍見町」です。
上の「高崎市全圖」「高崎」の右下に出っ張ってるのがそれです。

高崎歴史資料研究会の中村茂先生が編集・発行された「高崎藩分限帳集成(下)」に、明治六年(1873)の「龍見町居住者名簿」というのがあり、そこに「龍見町の由来」が記載されています。
明治維新封建制度の瓦解と共に藩主の家族高崎に移住し、定府の士卒凡(およ)そ三百余戸も亦(また)遂に此に移り新設或は寺院に寓居せしが、明治元年冬、南、赤坂、和田の三郭(くるわ)を設け、大に邸宅を新築し以て是等士卒の居住ニ充つることゝし、仝(どう)二年初夏、其の落成と共に此処に引移らしめたり。
和田郭は赤坂村及下和田村の一部壱万六千六百余坪を分割して設けられ、町家と区別し純然たる屋敷町なりしが、明治六年三月区画設置の際、其位置旧城の巽位(辰巳)に當るを以、左氏傳荘公二十九年の項中なる凡土功龍見而畢務の句を採り龍見町と命名せるなり。」
じょうふ(江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態)

前半の部分では、江戸詰め藩士およそ三百戸余りが高崎に移り、家を新設したり寺院に寓居したが、明治元年(1868)に南郭、赤坂郭、和田郭を設け、明治二年(1869)ここに引っ越したと書いてあります。

後半は和田郭について書かれており、赤坂村下和田村の一部を分割(買収?)して屋敷町を設けたとあります。
その次に「龍見町」と命名した由来が書いてあります。
旧高崎城の(たつみ)の方角(南東)に位置するので「たつみ町」なのですが、その文字を「巽町」でもなく「辰巳町」でもなく「龍見町」にしたという部分が難しいです。

中国の古い歴史書「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)に出てくる、「凡土功龍見而畢務」という句から「龍見」という字を採ったというんですね。
昔の人の博学・博識には頭が下がります。

その「凡土功龍見而畢務」は、塚本哲三氏編著によれば、「凡(およ)そ土功(どこう)は、龍見えて務めを畢(おわ)れば」と読み、「およそ土木のことは、龍星が見える頃(旧暦九月)には農業が終わるから」という意味だとか。
「龍星」とは、今の「さそり座」の頭部にある星で、この頃の夕方に東方に見えるんだそうです。

前掲「明治六年龍見町居住者名簿」を見ると、「和田郭」には121名の居住者がいます。
宅地は広い家で1反1畝20歩(1157㎡=350坪)、一番狭い家が1畝20歩(165㎡=50坪)です。

さて、次なる町が「鎌倉町」
そんな町名聞いたことがないという方もいらっしゃるでしょうか。
「龍見町」の西北にあった町です。

現在は「若松町」に含まれています。


田島桂男氏著「高崎の地名」から引用させて頂きます。
髙崎ができる前、「和田宿」の時代から「植竹」と呼ばれ、赤坂村の一部であったところである。
町としては明治六年(1873)になって誕生した。
町名は、地内を古道である鎌倉街道が通っていたのでつけられた町名である。
この町は大正十四年(1925)分割されて、若松町と竜見町とになった。
一時的には「植竹町」と呼ばれていた時代もあった。」
「高崎市全圖」にも、「鎌倉町」の下に「植竹」と書かれていますね。

「鎌倉街道」と言えば、もう12年も前になりますが、この辺をうろつき回ったことがありました。

お時間があったら、過去記事をご覧くださいませ。
   ◇鎌倉街道探訪記(4)
   ◇鎌倉街道探訪記(5)
   ◇鎌倉街道探訪記(6)


  


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2022年08月27日

高崎唱歌散歩-4番 ♪若松町に光明寺・・・

若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂
豊川稲荷は龍広寺
坂を下りて藤花園

若松町にある「光明寺」、左側のお堂が「夢に名を得し愛染堂」です。



なぜ「夢に名を得し」なのかは、過去記事をご覧ください。

次に「豊川稲荷は龍広寺」ですが、龍広寺の山門を潜って本堂の左手前にあるのがその「豊川稲荷」です。

鳥居の扁額には「豊川吒枳尼天」と書いてあります。
お稲荷さんと「吒枳尼天(だきにてん)」との関係は、なかなかややこしいです。
書き始めると長くなるので、詳しく知りたい方はWikipedia「荼枳尼天」をご覧ください。

現在では「龍広寺」でお稲荷さんを連想する方は少ないと思うのですが、「高崎唱歌」をつくった頃は参拝に訪れる人が多かったようです。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、こう書かれています。
寺内に陀枳尼天の堂あり、里人豊川稲荷と呼ぶ。
花柳社會の参拝者多し。」

さて次の歌詞「坂を下りて藤花園」は、おそらく皆さん、何のことだろうと思ったのではないでしょうか。
「坂」というのは龍広寺前の坂で、「車坂」と呼ばれていたそうです。

この坂を下ったところに、「藤の花の園」があったというのです。

「高崎の散歩道 第十二集下」を読んでみましょう。
『藤花園』は通称『藤だな』『馬場の藤』といわれた。
高崎藩士で教養人菅谷帰雲の門人馬場若水の家であった。
聖石橋のガソリンスタンドの裏の低地、今は住宅が密集していてその面影はないが、花の頃には茶店も出て、たまご、だんご、ところ天など食しながらの花見客でいっぱいになった。」

昭和三十六年(1961)の住宅地図を見ると、そのガソリンスタンドの近くに馬場姓の家もあります。


この辺から見ると、春には「藤花園」の藤の花がきれいに見えたんでしょうね。


「藤花園」の主・馬場若水については、「新編高崎市史」に高崎藩士とあるだけで、詳しいことは書いてありません。
何かに載ってないかと思って探してみると、平成二十二年(2010)発行の「群馬風土記(通巻101号)」に、草津町文化財調査委員の須賀昌五氏が寄稿した「馬場若水の漢詩」中に生い立ちが記載されていました。

それによると、若水は天明二年(1782)高崎藩の飛び地越後国一ノ木戸の郡奉行・馬場喜通(よしみち)の嫡子として生まれ、父の帰任により高崎に来たとあります。
「諱(いみな)は喜登(よしとみ)、字(あざな)は公淵(こうえん)、若水(じゃくすい)と号した。」というので、高崎藩分限帳にその名があるかと思って探したのですが、馬場姓の藩士は何人かいるものの、同じ名は見つかりません。

しかし、昭和三十四年(1959)根岸省三氏編「高崎人物年表」を見ると、また別の記載がありました。
「名は喜澄、通称大助、字公淵、高崎藩臣にして詩、画をよくし・・・」
通称「大助」とあるので、もういちど分限帳を見直すと、文字は違うのですが馬場大輔という名が何ヵ所かにありました。
この人が若水だとすれば、天保三年(1832)時点の役職は祐筆、石高は50石となっています。

因みに、若水さんはとても温泉好きな人だったようで、頻繁に各地の温泉を訪れては、そこで漢詩を詠んでいます。
いくつか抜き出してみましょう。
浴草津温泉
独浴温泉間暇辰 独り浴す温泉間暇の辰(とき)
横伸両足杲天真 横に両足を伸ばし天真を杲(あきらか)にす
莫言愚痴貧生命 愚痴を言う莫(なか)れ貧生に命ぜん
保養茲身奉二親 保養の茲(こ)の身二親に奉ずるを
気持ちよく入浴している幸せを感じ、両親に感謝し孝行しなくちゃという気持ちが湧いてきてるのでしょうね。

伊香保浴中作
温泉非療数年痾 温泉は数年の痾(やまい)を療(いや)すに非ずや
何好遅留繋帰騎 何ぞ好んで遅留し帰騎を繋ぐや
寄寓送迎皆薄俗 寄寓の送迎 みな薄俗
(湯宿の客の対応は薄情である)
去人吝嗇来人利 去る人は吝嗇に来る人は利なり
(去る客には出し惜しみ、来る客には喜んで迎える)
数年の病気療養のための温泉通いも、伊香保温泉にはあまりいい印象を持たなかったようですね。

歿年は「高崎人物年表」では天保五年(1834)、「馬場若水の漢詩」では天保九年(1838)となっています。


【「藤花園」推定地】



  


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2022年09月03日

高崎唱歌散歩-5番 ♪春は藤波秋は月・・・

春は藤波秋は月
眺めもさえて烏川
橋を渡りて観音山
四時の散策此の処

「春は藤波」は、馬場若水の「藤花園」のことでしょう。
そこから烏川の眺めを愛でながら、橋を渡って「観音山」へという訳です。
「橋」はもちろん「聖石橋」

大正時代の写真だそうです。

まだ木橋ですね。
「聖石橋」の変遷については、過去記事でご覧ください。

木橋の維持管理はたしかに大変だったようで、明治四十五年(1912)にも架け替えが行われています。


昭和六年(1931)にコンクリート橋に架け替えられるのですが、コンクリート橋と木橋の二つの「聖石橋」が並んで写ってる珍しい写真があります。

風情という点では、木橋の方がいいなぁ。

その後、昭和二十六年(1951)には烏川河畔に国道10号線(現18号線)が開通し、昭和四十三年(1968)と四十五年(1970)に橋の左右に歩道が設けられ、平成十九年(2007)に全面拡幅されて今の姿になりました。


そして「観音山」ですが、「高崎唱歌」の頃にはまだ「白衣大観音」はありません。
「白衣大観音」が建立されるのは昭和十一年(1936)、そのずっとずっと前から「観音山」だったのです。

「清水寺」の本堂は山の麓にあり、本尊の千手観音を祀る「観音堂」が山上にあったので、人々はその山を「観音山」と呼んだのです。

因みに「高崎唱歌」の当時、「観音山」髙崎市ではなく隣の片岡村でした。


でも、高崎市民には「四時の散策此の処」だったんでしょうね。
そうそう、「四時」は時刻ではなく「四季」のことです。
今も昔も、四季折々楽しめる高崎市民憩いの山です。
もっともっと活かしていきたいものです。


  


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2022年09月10日

高崎唱歌散歩-6番 ♪茲に暫く憩ひつつ・・・

茲(ここ)に暫く憩ひつつ
今来し方を見渡せば
数万(すまん)のいらか立ちならび
景色ぞいとど優りける

「茲(ここ)」というのは「観音山」でしょう。
山上、あるいは石段の楼門上から高崎市街を遠望してるんだと思います。

山上からの景色は、清水寺の売りでした。
明治四十二年(1909)発行の「上毛遊覧」という本に広告が載っています。


遡って明治二十五年(1892)には、その景色が脚気療養に良いということで、こんな広告まで出しています。


下の写真は、聖石橋からの観音道路が開通しているので、昭和七年(1932)以降のものだと思うのですが、まだまだ片岡は田畑が広がり、遠く高崎を望めばまさに「数万のいらか立ちならび」という景色です。


聖石橋が真正面に見えますので、おそらく清水寺の楼門から撮影されたものでしょう。

今は楼門最上階へは上ってくれるなと、階段にビニールテープが張られています。

ま、上ったとしても木々が大きくなってしまっていて、下界を望むことはまったく出来ないのですが。


現在の市街遠望スポットといえば、山頂駐車場でしょう。


今や片岡地区まで家々がびっしり立ち並び、「数万のいらか」「数十万のいらか」となっています。


  


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2022年09月17日

高崎唱歌散歩-7、8番 ♪更に踵(きびす)を廻らして・・・

更に踵(きびす)を廻らして
畦道(あぜし)東に辿り行き
頼政神社伏しをがみ
遊ぶは高崎公園地

「観音山」から踵を廻らして東に辿る畦道は、今の「観音道路」ではなく旧道です。
旧道については、過去記事をご覧ください。

「聖石橋」まで来ると、向こう岸左手に「頼政神社」の森が見えます。


その「頼政神社」を伏し拝んで、「高崎公園」に入ります。

松柏芝生に生ひ茂り
夏はすずみに冬は雪
いとどさやけき碓氷川
河鹿ほたるの名所なり

「高崎公園」の成り立ちは、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」にこう書いてあります。
抑々(そもそも)當公園設置ノ起原ハ、明治九年附近ノ有志者相議シ、大染寺ノ廃墟及ビ其庭園ヲ利用シ、多少ノ花卉(かき)ヲ寄附シ設置セルモ千餘坪ノミ、」
廃寺になった「大染寺」の跡地を付近の有志が整備したものだという訳です。
「大染寺」については、過去記事をご覧ください。

公園の烏川側に、「大染寺」ゆかりの「高崎八景」という石板が設置されています。


昭和四十三年(1968)発行「高崎市史 第三巻」掲載の「高崎寿奈子」(たかさきすなご)(宝暦五年(1755)西田美英著)に、こう記載されています。
享保(1716~1735)の始めの頃、城中風雅の士、此山より見る所の八景詩歌発句を集め、一軸となして大染寺に納む。
所謂八景は
 烏川渡舟 浅間暮雪 清水晩鐘 半田夕照
 石原晴嵐 佐野落雁 古塁夜雨 少林秋月
是なり。」
「此(この)山」というのは、「頼政神社」の社殿が建つ古墳のことらしいです。
残念ながら、この八景を描いた画幅は行方知れずになっているそうです。

ただ、この「高崎八景」、天保十年(1839)につくられた別バージョンがあるんですね。
「群馬風土記 通巻26号」に、俳山亭主人氏寄稿の「上毛老談紀」という一文があり、そこに氏が所蔵する「高崎八景」の画幅が掲載されていました。

それぞれの画題は享保版と微妙に異なっています。
なお、天保版の「鷹城」とは「高崎城」のことだそうです。

さて公園の話に戻しますが、明治九年に整備はしたものの、公園としてはちょっと見劣りするものだったようです。
再び「高崎市史 下巻」
園ノ側ニ監獄アルノミナラズ、徒ラニ(いたずらに:無駄に)児童ノ遊戯場タルニ止マレリ、」


そこで、園地の改修を試みるのですが、
明治十九年改修ヲ加ヘシモ見ルニ足ラズ、加之(これに加え)陸軍作業場ヲ旁ニ置カレ、其南部ハ所謂(いわゆる)南郭(みなみくるわ)ノ人家アリ」
という具合です。


しかし、明治三十三年(1900)にわかに公園の整備が加速します。
明治三十三年市制施行ニ至リ始メテ市會ノ議ニ上リ、爾来次第に擴張ヲ策シ、三十九年二月監獄署ノ移轉ヲ始メトシ、陸軍作業所ヲ乘附ノ地ト交換シ、人家ヲ移轉セシメ、小澤奎次郎ニ設計ヲ囑シ着々工事ヲ起セリ」
これでだいぶ公園らしくはなって来たようです。


「高崎唱歌」に詠われたのはこの頃のことなんでしょうが、その後、あることがきっかけで公園の整備はさらに進みます。
時恰(ときあたか)モ明治四十三年、一府十四縣、聯合品評會ヲ本縣ニ開カレ本市ニ教育部ヲ置カルゝニ際シ、急速ニ工事ノ進行ヲ見、加フルニ本市多年ノ計畫タル水道工事モ完成シ、剰水ヲ以テ池中一大噴水ヲ設ク、
池畔ニ樹竹花卉ヲ点綴(てんてい:散らばせ)シ、怪石奇岩ヲ配シ天然ノ美ト、人工ノ妙ト、相俟ツ(あいまつ:互いに作用しあって)ヲ始メテ本市ノ公園トシテ耻(はじ)ザルニ至レリ」

ということで、ようやく高崎市として恥ずかしくない公園となった訳です。

でも、まだ木々が幼くてちょっと寂しい感じ。
噴水も、まだ鶴の像がありません。

鶴の像については、「新編高崎市史 通史編4」にこんな記述があります。
大正八年(1919)六月、上野動物園から寄贈された丹頂鶴の一番(ひとつがい)を、市は高崎公園で飼養することにした。
また、泉水を設け、中に岩山を築いた鶴の像は、井上保三郎の寄附によるものであった。」
鶴の像が寄附されたのは昭和三年(1928)、昭和天皇の即位奉祝を記念してのことだそうです。

今は木々も大きくなりました。


「高崎市史 下巻」には、こんな記述もあります。
池水ノ流末ヲ暗渠ニ導キ、崖上ヨリ崖下ニ飛瀑トナリ潨然(そうぜん:音を立てて)之ニ懸ル、又池中ニ入リ其流末淙々(そうそう:淀みなく)烏川ニ入ル」
池の水は滝になって崖下に落ちて下の池に入り、そこから烏川に流れ込んでいたというのです。

大正三年(1914)の地図には、その二つの池が描かれています。


滝は二段になっていて、「雌雄の滝」という名が付けられていました。


崖下の公園は「下公園」と呼ばれていました。


戦後「下公園」は国道で削られ、「雌雄の滝」「比翼連理の滝」となりました。

もう少し流量を増やしたいですね。

さて、公園にて少し遊び過ぎました。
今回は、この辺で。



  


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2022年09月24日

高崎唱歌散歩-9番 ♪公園出でて宮元町・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「高崎公園」からお堀に沿って南北に長いのが、「宮元町」です。

明治四年(1871)にできた町で、(頼政神社)のにあるということです。

それまでは「奉行所」やその役宅、領内の米の作柄や年貢をみたてる米見役人が住む「米見町」(こめみちょう)、代官の役宅がある「代官町」という、いわば行政街でした。
明治維新で、南の「代官町」は江戸から引き揚げてきた藩士を住まわせる「南郭」になりました。


堀の土塁を切り通して付けた、公園から高崎市役所前を通ってシンフォニーロードへ抜ける道です。

私が小学生の頃は、たしか土塁はまだつながってたように思います。
土塁の上に胡桃の木が何本かあって、落ちた実を拾いに土塁の上に登ったりしてました。

昭和三十六年(1961)の住宅案内図ではもう道が抜けていますので、土塁が切られたのは私が中学生の頃らしいです。


そうそう、私、5歳くらいの時、宮元町に住んでたことがあるんです。
上の住宅案内図でが付いてる辺りです。
写真右側の青い看板が建ってる辺りだと思うんですけど、当時は行き止まりの狭い路地でした。


中島さんというお宅に間借りしてたんです。
写真はたぶん、そこのお庭で撮ったものだと思います。
庭にニワトリがいましてね。
生みたての卵って温かいんだって初めて知りました。

初めてと言えば、手押しポンプの井戸も初めてでした。
5歳の私が顔を洗うのは至難の業でして、水を出して手にすくおうとすると止まっちゃうんですから。何回やっても。
まるでチャップリンの無声映画か、ドリフのコントです。

中島のおじさんには、とても良くしてもらいました。
おじさんは、前橋の「片原饅頭」に勤めてて、時々「片原饅頭」(余りものだったのかな?)を持ってきてくれました。
もう冷えて硬くなってましたが、焼いて食べるとすごく美味しかったです。
また、私が文字を読めることを知って、「こども新聞」も取ってくれました。

一年くらいの間借り生活でしたが、我が家の暮らしは困窮してました。
その頃の母との思い出を綴った過去記事がありますけどね。

あぁ、すっかり感傷に浸ってしまいました。

切り通しの先に「税務署」とその職員の社宅がありました。
現在の市役所前広場の所ですね。


15連隊時代は、「将校集会所」「偕行社(かいこうしゃ)が置かれていました。

「偕行社」 旧陸軍将校の親睦を目的とする団体で、後に共済組合的存在として軍服など軍装品の販売も行っていた。

その前は、高崎藩主・大河内家の別邸があったそうです。

右下におしゃれな石灯籠が立っていますが、これの一部が市役所前広場に残っています。

木も、大河内家別邸時代のものが何本も残ってるそうです。
それぞれに、説明看板があるといいですね。

さて、だいぶ長くなりましたので、続きは次回ということに。


  


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2022年10月01日

高崎唱歌散歩-9番の続き ♪池水澄みて魚躍る・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「池水澄みて魚躍る」ってのがよく分からないんですよね。
大手前に池があったという話は聞かないし、「お堀」の水が澄んでたという記憶もないんですけど、「高崎唱歌」がつくられた頃は澄んでたんでしょうか。
フナとかクチボソはいましたね。ザリガニもいてよく釣って遊んでました。

今は切り通しの所のお堀を覗くと、エサをもらえるとでも思うのか、沢山の鯉が集まってきます。


税務署と労基局の間を抜けた所は、高崎城の「巽(辰巳)門」で、15連隊時代も営門として使われていました。


シンフォニーロード開通によって、今は跡形もありません。


でも橋の名前に、「辰巳」の名称が残っています。


「高崎唱歌」の頃、ここには学校がありました。

明治三十年(1897)の地図では「発育学校」、大正五年(1916)の地図では「国振学校 深井幼稚園」となっています。

「発育学校」とは聞き慣れない名前ですが、福沢諭吉「文明教育論」の中にこんな一節があります。
学校は人に物を教ふる所にあらず、唯其天資の発達を妨げずして能くこれを発育する為の具なり。
教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり。
斯の如く学校の本旨は所謂教育にあらずして、能力の発育にありとのことを以て之が標準となし、顧て世間に行はるる教育の有様を察するときは、能く此標準に適して教育の違はざるもの幾何あるや。
我輩の所見にては我国教育の仕組は全く此旨に違へりと言はざるを得ず。」
「教育」でなく「発育」であるべきだというのですね。

この言に賛同したのでしょうか、高崎の教育者・深井仁子が明治十五年(1882)に設立したのが、私立の「発育学校」でした。
貧しい家庭の子どもを受け入れたので「貧乏学校」とも呼んだようです。
「高崎の散歩道 第十二集下」に、こんな記述があります。
明治の小学校ができた頃、誰もがよろこんで通学したのではなかった。
親の中には働手がなくなるとして反対する者もいた。小学校へゆけることは贅沢な家庭と考えられてもいた。
この深井学校は、小学校へあまりゆかない子弟を中心の学校であった。
家塾のような学校で、障子には、生徒が何度も練習した習字の半紙がはってあったという。
真っ黒の障子である。
深井先生も決して楽な生活ではなかったようだ。」

「発育学校」は、明治三十五年(1902)「国振(くにふり)学校」と改称します。
発育(教育)が国を振興させるという考えなのでしょう。
さらに明治四十年(1907)には学校の一階部分を使って「深井幼稚園」をも開園します。

深井仁子は大正七年(1918)に他界し養女のダイが後を継ぎますが、そのダイも大正九年(1920)に他界し、学校と幼稚園は廃滅してしまいます。
現在、観音山清水寺の石段に深井仁子の顕彰碑が建っています。過去記事をご覧ください。

その学校の相向いに「教会堂」「高崎教会」というのがあります。


ここは、明治十七年(1884)「西群馬教会」として設立され、明治二十五年(1892)頃「高崎教会」と呼ぶようになりました。


設立当初、信者数は増加していきますが、明治二十五年(1892)頃から急激にその数が減少します。


その理由が「新編高崎市史 通史編4」に書かれています。
このころ教会にとって大変な時期であった。
神道・仏教勢力によるキリスト教演説会や教会での信徒集会・礼拝への嫌がらせや妨害が相次ぎ、特に高山照光なる人物とその一味によって続けられてきた高崎教会への妨害は、ついに二十一年四月一日の夜の集会で、高山一味と扇動された一部聴衆による、会堂内の器物損壊事件に発展した。
高山は警察によって逮捕されたが、教会員や家族に大きな不安を与えた。
高山の背後関係ははっきりしないが、高山は「耶蘇退治神道大幻灯会」などを開催しているので、「大物」神官の関与も否定できない。」

市史では「大物神官」としか書かれていませんが、「高崎教会百年小史」でははっきり氏名が書かれています。
高山照光は高井東一等と共謀して、耶蘇教退治神道大幻燈会という会を二箇所の寺院で開き、我等の名を指し、図を示して、数百人の会衆に向って暴言と誹謗を吐き続けたのである。
宗教家の体面を汚し徳を落とし、憐れむべきことであり、悲しむべきことである。」
高崎神社宮司。郷土史研究家。

明治十七年(1884)に建てられた教会の建物は、修繕を繰り返してきたものの、昭和十一年(1936)頃にはまるでお化け屋敷のようであったと小史に書かれています。
そこで、教会堂新築の計画が持ち上がり、昭和十四年(1939)めでたく竣工となりました。


シンフォニーロード建設により、創立の地・宮元町から高崎駅東の東町へ移転したのは昭和六十年(1985)、現在に至ります。


さて、「大手前の広小路」については、次回、10番でお話することと致しましょう。


  


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2022年10月08日

高崎唱歌散歩-10番 ♪明治三十七八年・・・

明治三十七八年
日露戦役記念園
其外(そのほか)高崎裁判所
学校市役所ある処

前回9番の歌詞の最後は「大手前の広小路」でした。
「大手前」は高崎城大手門(追手門)前のことで、連雀町との喰い違い木戸内側の広場でした。
明治四十三年(1910)の図では15連隊の「営門」となっていて、その前の道路はまさに「広小路」です。

「営門」前の三角部が「日露戦役記念園」です。

下の写真で玉石垣に囲まれている所がそうです。


記念園の中には戦歿慰霊碑とか戦利品とかがあったんでしょうか。
別角度から撮影されてる写真で見てみましょう。


ちょっと分からないですね。

「日露戦役記念園」が、なぜここに設けられたのか。
「新編高崎市史 通史編4」にそれをうかがわせる記述があります。
明治三十七年(1904)の「坂東日報」によると、五月二十五、二十六日にかけての、十五連隊緒戦の南山の戦闘で、これを占領した翌日に、市民有志の「高崎源兵隊」の提灯行列が行われている。
さらに高崎市主催の大祝勝会は「旅順陥落の日を待て之を行う筈なり」と付記されている。
五月十七日号には「高崎の提灯行列順序」と題する記事がみられ、「高崎市にては、本日一大提灯行列を挙行すべく既にその準備に着手した」と報じた。
旅順陥落を待っての祝賀行進の準備は、市長を委員長に、各町組長を委員として進められた。
各町は先頭に提灯を立て、隊列には女子と十六歳未満のものは除く、などの規則も定められ、十五連隊営門前広場を集合地として、市内を一巡するコースと市内四十八町の行列順序も設定され、旅順陥落、その時を待つばかりとなった。」
ということで、大祝勝会の集合場所を記念して造ったのが「記念園」だったのでしょう。
祝勝会の陰で、十五連隊の将校65人、下士以下1,690人、そして戦病者191人の命が失われました。

「日露戦役記念園」の後ろにあるのが「裁判所」です。


明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」には、
創設當時は高崎商業学校前の空地、即ち陸軍省用地の處にありて高崎區裁判所と稱す。
明治十年(1877)十二月今の處(現スズランの所)に新築移轉して熊谷裁判所前橋區裁判所高崎支部と稱す。
二十三年(1890)十一月前橋地方裁判所高崎支部を設置せらる。(略)
現廳舎は明治三十年(1897)中、東京下谷區二長町區裁判所を移轉建造する者也。」
とあります。


しかしこの庁舎は大正四年(1915)失火により全焼し、翌年再築されています。
ところがこの庁舎も昭和二十年(1945)八月十四日の空襲によってまたもや焼失し、戦後再建されます。
私の記憶に残っているのは、その建物でしょう。
ついぞ門の中へ入ることはありませんでしたが、威厳を感じさせる門構えと木造の建物でした。

その「裁判所」も、昭和三十九年(1964)高松町の現在地に移転し、跡地は昭和四十三年(1968)「スズラン百貨店」になりました。
その「スズラン百貨店」も、令和六年(2024)にはリニューアルされるそうですね。


最後の歌詞、「学校市役所ある処」「学校」「市役所」はここにありました。


詳しくは、過去記事をご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その1)
  ◇高崎町役場と町奉行所

あぁ、明治もだけど、昭和も遠くなったなぁ・・・。


  


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2022年10月15日

高崎唱歌散歩-11番 ♪十五連隊戍衛地は・・・

十五連隊戍衛(じゅえい)地は
松風清き高松町
昔ゆかしき城跡に
朝夕聞ゆラッパの声(ね)

「戍衛」「戍」「武器を持って国境をまもる兵。また、屯(たむろ)=守備兵の詰めている所」のこと。
「衛」「城や門を守る人・組織」のことで、軍隊が駐屯する土地を「戍衛地」あるいは「衛戍地」というようです。

高崎城跡が軍隊の戍衛地になったのは、根岸省三氏著「高崎の明治百年史」によると明治六年(1873)説と明治八年(1875)説があるようですが、フランス人医師ヴィダルの旅行記「江戸から新潟への旅」に、明治六年に高崎城内でフランス式の訓練をしている軍人の一団のことが書かれていますので、六年説が正しいのでしょう。

その頃の、まだ高崎城天守閣「御三階櫓」が残っている営内の写真です。


営内に駐屯する軍隊の呼称は度々変わるのですが、馴染みのある「十五連隊」という呼称はいつから始まったのかというと、明治十七年(1884)でした。
正式名称は「陸軍歩兵第十五連隊」です。
当時の兵員数は下士50人、兵卒306人とあります。

明治二十三年(1890)には1,449人に増えていますが、長野県出身の人が多かったんですね。


「十五連隊」は後の日清・日露戦争で乃木将軍の指揮下に入りますが、「高崎の明治百年史」にこんなことが書かれています。
高崎連隊と乃木希典将軍との関係はなかなかに深く、将軍は始めて高崎に兵営が設けられ高崎鎮台の分隊と称せられた明治十七年頃(?)に来任し、高崎市高砂町の某家に下宿しておられ、また日露戦役の際には、将軍の令息勝典、保典の両名が高崎連隊付として出征し、旅順港激戦で戦死されている。」
「高砂町の某家」とはどこなのか、気にはなりますが分かりません。

現在「乾櫓」が建っている右側が、兵営の「正門」でした。


「正門」は初め高崎城の「大手門(追手門)」の場所(下図3⃣)でしたが、営内が見通せてしまうというので少し南へ移動させたようです。(下図4⃣が「乾櫓」)


石垣の上に立派な松の木があり、その根方には「飛龍松之記」という石碑が建っています。



碑にはこう刻まれています。
飛龍松之記
明治二十六年秋於髙﨑近郊
有近衞師團小機動演習之擧
天皇陛下親臨閲之
後行觀兵式於此地
干時十月二十二日也
於是植一松樹以標駐驛之跡
傳之永遠号曰飛龍松
歩兵第十五聯隊長 
河野通好撰併書

と言うのですが、ここに立つ松の木はどうやら「飛龍松」ではないらしいのです。
「高崎の明治百年史」に、こうあります。
(飛龍松)の位置は第三大隊の前庭で(現第二中学校と、裁判所との堺のあたり)ここに後年碑が建てられた。
この碑は現在は、連隊跡の解放によって、連隊の外堀の土堤、旧営門右側のその上に移されていて、そこに古来からある大松があり、あたかもその松が飛龍の松の如き感じを与えるが、飛龍の松は既に枯れてない。」

ということで、本当の「飛龍松」はここにあったようです。

今ある松は正しくは「大手の松」と言うそうです。
でも、ま、いいでしょう、「飛龍松」で。

旧高崎城内は明治十年(1877)「高松町」と定められました。
町名の由来について、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」では「有名ナル露ノ松ヲ記念センタメ命ゼシナリ」となっています。
「露の松」というのは、城内にあった不思議な松の木のことで、寛政元年(1789)川野辺寛著「高崎志」にこう書かれています。
梅雨(露)松ハ 二(ノ)丸北方ノ土居上ニアリ  古木ニシテ枝ヲ垂ル 入梅節ニ至レバ其葉黄ニ變シテ枯ルガ如シ 出梅ニ及テ靑葱(せいそう:青々と茂ること)ニ復(もど)ル 故ニ土俗梅雨松ト名ツク」
梅雨に入ると葉っぱが黄色く枯れたようになって、梅雨が明けると青々となるというんですね。
面白い話ですが、いつ枯れるか分からないような松の木を町名の由来とするというのも、どうなんでしょう。
現に「高崎市史」にも「明治ノ初年全ク枯死ス」と書いてあるんですから。

「高崎市史」よりずっと前、明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)には、こう書かれています。
高松ノ名称ハ、松ハ延齢ノ木ニテ疆(きょう:限り)ナキヲ祝ヒ、以テ松ノ名ニ高ヲ冠ラシムハ高ハ大イナル意ニアレバ也。
又松ハ松平氏ノ領セシ城ノ名残アリテ、是モ由アルナリ。(略)
往古当地ヲ松ガ崎ト称セシ旨伝承アリ、且高崎ノ高ノ一字ヲ取、高松町と号クル也。」
こちらの方が納得できそうですね。

「もてなし広場」の北西角に、もう一つ「十五連隊」に関する松があります。

昭和九年(1934)の陸軍大演習に於いて、天皇陛下が営内で講評したのを記念して植えた松で、「振武松」というんだそうです。

昭和四十三年(1968)に建てられた「十五連隊」の顕彰碑が、音楽センター前広場にあります。

「明治百年」の記念として建てられたものらしく、「十五連隊」の戦歴がズラズラと刻まれています。

もうひとつ、昭和五十一年(1976)に建てられた「歩兵第十五聯隊趾」碑もあります。

その根元の「趾碑之由来」碑にも、「顕彰碑」よりもさらに詳しい戦歴が刻まれていますが、その末尾に刻まれている言葉が心を打ちます。
憶えば 此の地に兵営が創設されて七十二星霜 この間練武の貔貅(ひきゅう:勇ましい兵)三十数万 華と散った英霊実に五万二千余柱の多きを算(かぞ)え 寔(まこと)に痛恨の極みである
茲に県内外の関係者相寄り相議(はか)り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜(ぼく:良し悪しを判断)し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求(ききゅう:強く願い求める)し祈念する」

私も、心から冀求、祈念します。


  


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2022年10月22日

高崎唱歌散歩-12番 ♪宮元町の東なる・・・

宮元町の東なる
下横町に向雲寺
白龍山の興禅寺
和田の七騎の墓所

「下横町」は、江戸時代には新町(あらまち)の一部で「下ノ横町」と言われていたが、明治十年(1877)城主のための栽園であった「前栽町」を併せて新町から分離独立したそうです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)



「向雲寺」については、過去記事をご覧ください。

「興禅寺」についても過去記事があるのですが、「和田の七騎の墓所」とは知りませんでした。

まず「和田の七騎」ですが、七騎と聞いて思い付くのは「矢中七騎」です。
両者は違うのか同じなのか、いくつかの書籍を見てみましたが分かりません。
かくなる上はと、図書館の司書さんにお力を借りることにしました。
すると流石、「上野国郡村誌」に答えがあると教えて頂きました。

明治十六年(1883)頃編纂された「上野国群馬郡邨志 巻十一」(昭和五十六年発行「上野国郡村誌6群馬郡(3)」)「矢中村」の項に、こうありました。
天正三年乙亥五月遠州長篠ノ役、和田ノ城主和田右兵衛太夫信業、武田勝頼ノ為ニ鳶巣ヲ守ル、
徳川氏ノ将酒井忠次ト戦ヒ大敗して従兵或ハ死シ或ハ創(きずつ)キ、信業殆ト免(まぬが)レス、
信業ノ臣松本九郎兵衛、真下下野、大沢備後、秋山縫殿亮、栗原内記、福島嘉兵衛、長島因幡七騎、苦戦捍護(かんご:防護)僅ニ和田城ニ帰ヲ得ル、
勝頼大ニ感賞シ、退口七本槍ト称シ、又和田七騎ト称ス、其名遠邇(えんじ:遠近)ニ震フ、
信業其戦功ヲ賞シ、矢中村千八百五拾八石五斗余ノ地ヲ七騎ニ賜フ、世因テ矢中七騎ト称スト云フ、
其裔孫今猶村中ニ存スル者アリ」

なるほど、傷ついた和田信業(業繁?)を退却させるために踏みとどまって戦ったので「退口七本槍」、あるいは「和田七騎」と呼んだのが武田勝頼で、褒美として矢中村の土地を与えたので、世の人達は「矢中七騎」と呼んだという訳ですか。

「矢中七騎」の何人かの屋敷跡は、調査・推定されています。

大沢備後の屋敷跡には、「大澤備後守定吉誕生屋敷跡」碑というのも建っています。

そして「矢中七騎」の墓については、「群馬郡西部村志 巻八」(「上野国郡村誌5 群馬郡(5)」)「興禅寺」の項に記載がありました。
境内墓地ニ和田氏及ヒ同旗下七騎ノ墓ト称フル五輪塔数基アリ、文字剥落シテ見ヘカラス」

その見えからぬ文字を読もうとした人が土屋補三郎(老平)です。
明治十五年(1882)に著した「更正高崎旧事記 四巻」「下横町 興禅寺」の項に、こう書いています。
老平云、当寺三昧所和田氏ノ古墳石塔アリト里老口牌ニモ云伝フ。
予是レガ石塔ニ文字アリ磨滅シ読得ルアタハズ。サレドモ文字ノ形チ有リ、古苔ヲ払ヒ水モテ洗ヒミルニ其文字石塔下台ニアリ
前住当山 桂堂和尚 宝徳三年 三月念三日
☐☐三☐ ☐☐☐☐ 時永禄☐☐ 八月廿三日
叟妙☐大 ☐☐☐☐ 時天正三年 十月九日
石塔七基ノ内三基ノ文字如此 桂堂和尚ハ東谷院主ニテ 他二基ハ年号ノミヨク顕レタリ。
(さて)其年月日ニテモ其某ヲ知ラント欲スルニ由ナシ。
然レハ和田氏族ノ墳墓ト一向ニ言テ止ベキ歟(か)。」
七基の内三基の石塔は読める文字もあったが、桂堂和尚以外は誰の墓石か分かりようもなかったと言います。
最後の一節はよく分かりません。「和田氏族の墓だと言われれば仕方ないか。」ということなのでしょうか。

その石塔は興禅寺「三昧所」(さんまいしょ)にあると書いてあります。
「三昧所」というのは、死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂のことだそうです。
「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にその場所が書いてありました。
 「地蔵堂 和田七騎卵塔
地蔵堂ハ出端ノ木戸外ノ左ニアリ、興禅寺ノ三昧場也、堂八間三間、瓦葺、本尊地蔵ノ木像ヲ安ズ、享保十三年建立ト云リ、
堂ノ西ニ墓所アリ、和田氏及臣下七騎ノ墓トテ古キ五輪アリ、文字見ヘス

というので、興禅寺「地蔵堂」へ行ってみましたが、それらしいものはありません。
興禅寺の墓地は全て「八幡霊園」へ移されているので、そっちにあるのかと思って行ってみました。

が、どれがそうなのかよく分かりません。

そしたら、昭和二年(1927)発行の「高崎市史下巻」興禅寺の項に、こんな記述があるじゃありませんか。
高崎志其他ニ和田七騎ノ墓アリト云フモ今日ハ全クナシ」
あ、なんだ、今は無いんだ。

下之城「徳昌寺」には、「和田一族の墓」と伝わるのはあるんですけどね。



ないのかなぁ、「七騎」の墓。


  


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2022年10月29日

高崎唱歌散歩-13番 ♪それより鍛冶町檜物町・・・

夫れよりかぢ町(鍛冶町)檜物町
鞘町過ぎて中紺屋
寄合町に新紺屋
寄せ(寄席)に芝居に勧工場(かんこうば)

高崎の町なかには、井伊直政が高崎城を造って箕輪から移った時に、職人ごと移した町がいくつかあります。
歌詞に出てくる鍛冶町・紺屋町・鞘町もそうで、城に近い場所に配置されています。


田島桂男氏著「高崎の地名」に、それぞれの町のことが分かりやすく書かれています。
鍛冶町
かじちょう
この町は、高崎に城下町ができはじまったときからの職人町で、実は箕輪から職人とともに町の名前まで移って来た町である。
慶長年間のこの街の住人は全て刀工、鍛冶職人であった。
檜物町
ひものちょう
町名はこの町に「桧物師」が多く住んでいたことによる。「桧物」とは、ヒノキ、マツ、サワラなどの薄い板を曲げて作る「曲げ物」のことで、これは、食器や勝手用品として欠かせないものであった。
鞘町
さやちょう
慶長年間、井伊直政による箕輪からの移城とともに、城下にいた様々な人たちも、新生高崎へ移って来た。
この町へは、刀の鞘をこしらえる鞘師が多く住んだので「鞘町」の名がつけられた。
中紺屋町
なかこうやまち
この町も古くは紺屋職人の多い町であった。「中」は「元」と「新」の「紺屋町」の中間に位置していたことからつけられた名で、古くは「三紺屋」とも、ひとつの「紺屋町」を作っていた。
寄合町
よりあいちょう
町名は、いろいろな職人、商人が入り混じって居住していたのでつけられた名で、慶長三年(1598)井伊直政の箕輪から高崎への移城にともない、八戸が藩の許可を受けてここへ移住した。
新紺屋町
しんこうやまち
この町は、城とともに箕輪から移転してきた職人や町人が多く住んだが、中でも紺屋職人が多かった。
町名は、「元紺屋」に対する「新紺屋」の意味でつけられた。

それぞれの町に、どのような職種の人がいたのかをまとめて下さった方もいます。

これを見ると、「中紺屋町」の方がより「寄合町」っぽい感じですが。

さて、「寄席に芝居に勧工場」「寄席」ですが、大正六年(1917)発行の「高崎商工案内」に、こうあります。
寄席としては嘉多町に睦花亭あるのみ、明治三十一年(1898)に創立されたる松田亭より引續ぎたるものにして現在は吉田喜平治氏の經營なり。」
「松田亭」「睦花亭」に改名したのは明治四十四年(1911)頃、閉館になったのは昭和の初めらしいです。
(新編高崎市史 通史編4)
場所が嘉多町となっていますが、資料によって異なります。

明治三十七年(1904)発行の「群馬県営業便覧」には「席亭 松田」として載っているのですが、柳川町のようでもあり、どうも場所がはっきりしません。


昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では新紺屋町になっています。
「睦花亭(寄席) 新紺屋町」
寄セ席トシテハ、外ニ鞘町ニ共樂館ト偁セシモノアリシガ夙ニ閉場シ、今日僅カニ此ノ一亭アルノミ、

次の「芝居」については、「高崎商工案内」「劇場」として書かれています。
高崎市における劇場としては株式会社高崎高盛座(八島町)及び藤守座(新紺屋町)の二あり、前者の創立は明治三十七年(1904)後者は明治十三年(1880)の創立にして藤守座は藤守文衞氏の經營なり。」

「藤守座」の場所はここです。


「藤守座」は、その後何度かの変遷を経て、映画館「オリオン座」になります。


その「オリオン座」も平成十五年(2003)に閉館し、長らく廃墟のような姿になっていました。


ところが嬉しいですねぇ、去年カフェに生まれ変わったと言うじゃありませんか。



最後が「勧工場」です。
「高崎の散歩道 第十二集下」に吉永哲郎氏が書いたものを引用します。
明治十年(1877)東京で第一回内国勧業博覧会が開かれた。
明治政府の殖産興業の実をあげるためのものであった。
後、大阪に勘商場、東京に勧業場が設けられ、見本展示即売の店が出現した。
こうした今日のショッピング・センターの形式の店舗が明治三十年代に全国に普及し、高崎にも本町の小保方商店の隣の足袋商西山と菓子製造峰村利三郎商店との間に、「勧工場」が出現したのである。明治二十二年(1889)のことであった。
買い物をする楽しさを庶民が知り始めるきっかけになったのである。
一般には本町の勧工場より、現在の東宝劇場の入口の右にあった勧工場が親しまれていた。」



「東宝」か、懐かしいな。
夜8時くらいから「ナイトショー」なんてのがあって、一本だけの上映なので安く観られて、父がよく連れて行ってくれたっけ。
帰りには、すぐ前の「さまた食堂」でラーメンを食べて。
でも、いま思うと、母が一緒だったことってほとんど記憶にないなぁ。
きっとお金がなかったんだろうな。
あ、涙が出てきそう。
今日はここまで!


  


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2022年11月05日

高崎唱歌散歩-14番 ♪左に折れて嘉多町を・・・

左に折れて嘉多町を
尚も進めば柳川町
戸毎にかがやく軒提燈
往来の人も織る如し

新紺屋町を左に折れると「嘉多町」です。

看板は「ゑびす通り」となっています。
この通りの突き当りにある「高崎神社」に、「ゑびす様」を祀る「美保大國神社」があって、かつては11月20日の「ゑびす講」にはこの道端に多くの露天商が並び、沢山の参詣者が行き来した通りです。

「嘉多町」「片町」で、江戸時代には通りの北側だけに藩の組屋敷があったそうです。
武士以外の人びとが住めるようになったのは明和八年(1771)からです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)


尚も進んだ嘉多町交差点から南の通りは、「柳川町」の本通りである「柳通り」です。

左角の車が止まっている所にはむかし交番がありました。
明治四十三年(1910)の「群馬県営業便覧」を見ると、当時は右角にあったんですね。

お堀端の方から来ると、「柳通り」はここで突き当りになってました。
本町まで抜けたのは、大正の初め頃だったようです。
その突き当たった所に「薬種商 石川實之助」って書いてあって、その右隣に「小間物商 志倉商店」というのがありますが、ここが俳人・志倉西馬の養家です。

その相向いが、すき焼きで有名だった牛肉店「信田」(のぶた)です。
歴史のある店でしたが、4年前に建物も解体されて現在は駐車場になってしまいました。



駐車場になったおかげで、明治期創業の老舗小料理店「前田屋」がゑびす通りから見えるようになりました。



夜はこんな感じ。


明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「前田屋」の紹介が載っています。
嘉多町通りに在り、屈指の鰻屋なり。
華客(とくい)も澤山ありて信用厚き老舗なりしも、近頃は少し客足の減ぜしやとの評判あれども、なかなかの繁昌なり。」

「柳川町」はけっこう広い町です。
「柳通り」から東側一帯がいわゆる花街、飲み屋街です。


昭和二年(1927)発行の「高崎市史 上巻」に、「柳川町」の沿革が載っています。
明治初年迄ハ、今ノ本通リ(柳通り)以東ハ卑濕(ひしつ:土地が低くてじめじめしている)ノ地ニシテ、蘆葦(ろい:アシ・ヨシ)雑草叢生シ、加之(しかのみならず)溜潦(りゅうろう:水たまり)所々ニ点在シ、道路ノ如キ固(もと)ヨリナク、實ニ白晝(白昼)狐狸躍ルノ寂寞(せきばく:ひっそりとして寂しい)地ナリ、元城ノ防禦地帯タルガ爲ナリ、之レヲ北郭ト偁セリ、
明治六年三月四日、是レニ柳川町ト命名シタリ、
而シテ彼ノ坎地(かんち:低い土地)ハ、明治五年六月、田中祭八ナルモノ、家作ノ許可ヲ得タリ、今ノ電氣館以北五百七十五坪ナリ、爾来次第ニ人家ノ建築アリ、以テ現時ノ如ク、料理店絃妓(げんぎ:芸者)ノ住ム所トナリ、通路狭隘、人家櫛比シ、日夜嬌音絃聲斷ヘズ、粉黛(ふんたい:化粧)ノ嬌姿ト、遊冶(ゆうや:遊びふける)ノ粹客ト、往來頻繁、昔日ノ狐狸去ッテ跡ナク、眞ニ隔世ノ感アリ。」
白昼、キツネやタヌキが出るような草ぼうぼうの湿地帯を、明治五年(1872)田中祭八という人物が家を建てる土地として認可を得たのが、花街、飲み屋街「柳川町」の始まりだったんですね。

その土地は、もと高崎藩の「馬場」だったところだそうです。(更正高崎旧事記)


現在も、その形がほぼそのまま残っています。

「馬場」「バー場」になったという訳で・・・。

また「柳川町」と言えば「芸者さん」です。
大正二年(1913)発行の栗田暁湖著「前橋と高崎」の中に、「高崎花柳界の沿革と変遷」という項があります。
高崎に初めて藝妓の出來たのは、實に此明治の二年高崎市に常設芝居が許可された時が初めで、二名の芸者が東京から輸入されたのに初まって居る。
四十五年を經過した今日では三業、共同の兩見番(けんばん)に五十六名の藝妓と、十名の半玉とがあって、二百に近い白首(しらくび:酌婦)と共に花の高崎を彩り、紅灯緑酒の巷に三絃(しゃみ)の音〆(ねじめ)を緩めて、意氣地も張りも其方除け(そっちのけ)の極めて當世式に御繁昌をして御座る。」

「三業見番」というのは、料理屋・芸者屋・待合の三業者が集まってつくる組合事務所のことで、私が子どもの頃にまだありました。憶えてますここ。


(「高崎のサービス業と花街史」昭和42年根岸省三氏編)

大人は、(芸者)置き屋」って言ってましたね。
前を通ると、いつも三味線の音が聞こえて、門の前に「輪タク」が止まっていました。

「戸毎にかがやく軒提燈 往来の人も織る如し」も、今は昔の物語。
柳川町がまだ元気だった頃の地図があります。


懐かしく思う方も多いことでしょう。
じっくり味わってくださいな。


  


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2022年11月19日

高崎唱歌散歩-15番 ♪門徒宗なる覚法寺・・・

門徒宗なる覚法寺
寺門の前を過ぎ行けば
境内広き祠あり
熊野の神社鎮座せり

「覚法寺」の宗派を、高崎唱歌では「門徒宗」と言っていますが、高崎寿奈子では「浄土真宗」、高崎志では「一向宗」となっていて、まちまちです。
現在は「浄土真宗」で落ち着いていますが、これは開祖以来の歴史的宗名論争が戦後まで続いたことによるもののようです。
詳しく知りたい方は、こちらをご参照ください。

現在の山門と本堂は西の堰代町側を向いていますが、その時代時代であちこち向きを変えていたようです。


「高崎志」にはこう書いてあります。
北向、近頃迄門及諸堂皆南向ナリシヲ、安永三年甲午二月類焼ノ後、アラタメテ北向トス
本堂 東向、八間ニ九間、瓦葺、本尊阿弥陀ノ木像ヲ安ズ。

明治三十年(1897)頃の絵図では「高崎志」の記述通り、門は北向き、本堂は東向きです。


実は私、堰代町に住んでいたことがありまして、東向きの家でした。
その我が家から道越しに撮った「覚法寺」は、たしかに本堂の背中が見えてます。

門と本堂が現在の西向きになったのは、堰代町側の道路が拡幅された昭和五十四年(1979)のことです。

道路拡幅前の、「覚法寺」北西角から見た堰代町側の通りです。


それが今ではこんなですから。

なんとまぁ、様変わりしたもんです。

嘉多町側にあった「寺門の前を過ぎ行けば」、突き当りが、「熊野神社」です。


「熊野神社」の由緒と沿革を、「新編高崎市史 資料編14」から引用します。
和田義国の子、小太郎正信は、寛元年中(1243~47)に赤坂明神の社地榎森(烏川の左岸、現在の和田橋附近)に二ノ宮・熊野・御霊の三社を勧請した。
その後慶長三年(1598)井伊直政が高崎築城と町割りの際に熊野社(熊野大権現)を榎森から赤坂の諏訪神社の社地(今の高崎神社の地)に移し、高崎の総鎮守とした。
以後歴代高崎藩主が崇敬した二ノ宮社は城内に残し井伊氏の鎮護神とし、御霊(五霊)社は貝沢の地に移して祀っている。
熊野神社は明治三年(1870)に社格制度により村社となり、さらに同十八年(1885)三月に郷社となった。
明治四十年(1907)八月二十四日、当時の市域最大の合併が行われた。
即ち境内末社十二社、および市内十四町にあった二十八社を合併し、同時に郷社高崎神社と改称した。
その後同年九月十七日には宮元町頼政神社境内の神明宮、同九月二十七日には弓町の稲荷神社、さらに同四十三年(1910)五月九日、下並榎村(並榎町)字幅の神明宮と境内末社四社を合併、同年十月二十日には北通町稲荷神社を相次いで合併、合計市内十七町鎮座の三十六社を合併して、文字通り高崎の代表的な総鎮守となった。
大正十四年(1925)三月三十一日、市域で唯一、県下では玉村八幡宮と共に十番目の県社に昇格した。(略)
昭和四年、美保神社の分霊を祀り、大国神社と合わせゑびす講を始めた。」

ということで、今では誰もが知る「県社 高崎神社」です。


私が小学校へ入学する頃の「高崎神社」は、こんな感じでした。

入学衣装はすべて「寅さん」が揃えてくれました。
  ◇あの頃みんな(?)貧乏だった
この頃の貧乏話なら腐るほどあります。
  ◇人情ラーメン物語

閑話休題。
昭和四十五年(1970)には結婚式場「新生会館」(現ホワイトイン高崎)がオープンし、昭和五十六年(1981)には現在の新しい社殿が完成しました。
境内も私が子どもの頃とは随分と様変わりしました。
この辺には、本多さんという駄菓子屋さんがありました。

貸本もやってて、私は常連客でした。
小学校へ行く時に前の日に借りた漫画本を返し、学校が終わるとまた本多さんに寄って、漫画本を借りてから家に帰るという毎日でした。
一冊借りるのに三冊はただで立ち読みするような子どもだったので、本多さんとすれば嫌な客だったにちがいありません。

「高崎ライオンズクラブ」の事務所になっているこの建物の所には、土俵があって、夏祭りかなんかの時は、素人相撲大会をやってましたね。

旅回りの見世物とか、お化け屋敷とかが小屋掛けしてたのもこの辺でした。
今は石段の上に移された手水舎も、ここにありました。


駐車場になっている所には、神楽殿というか舞台というかがありました。

縁日には、旅回り一座が芝居や奇術、アクロバットに歌謡ショーで楽しませてくれました。
市民参加の、のど自慢大会なんてのもありましたね。
みんなが一番興奮するのが「福投げ」で、舞台の上から投げられるお菓子とか、商品が当たる福くじを夢中になって奪い合ったもんです。

県社への「昇格記念之碑」も、ずいぶん台石が低くなっちゃいました。

因みに、ふくれっ面で写ってるのは中学一年生の私です。
初めてかけた眼鏡で物はよく見えるようになりましたが、世間のことはまるで見えてない生意気盛りです。

「ホワイトイン高崎」は二年後をめどに建て直しが計画されており、敷地の一部も売却されるそうです。


バス停の前辺りが、我が家だったんですよね。
狭いながらも、楽しい我が家でした。



  


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