2023年01月28日

高崎唱歌散歩-21番の続き ♪長松恵徳両寺院・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

「長松寺」と中山道を挟む感じで「恵徳寺」があります。
暫くぶりで来たんですが、だいぶ参道の雰囲気が変わりましたね。


石仏が並んでお出迎えです。

「菩薩岳(ぬれ菩薩)」とあります。


墓地入り口にも、立派な石仏がたくさん並んでいます。
多くは観音さまですが、不動明王もいます。

あれ?
この辺に「しょうづかばば」の石像があったはずなんですけど、無くなっちゃいましたね。

この鐘楼も前はなかったです。

鐘を撞くには厳しいお定めがあるようで。


いろいろ変わってるので、ちょっと気になって確認したくなったお墓があります。
ひとつは一路居士・馬場一郎のちょっと変わったお墓。

もうひとつは小栗上野介の隠し金を手に入れたという飛騨屋・岩崎源太郎のお墓です。

どちらも、以前と同じ場所にあったのでホッとしました。

赤坂側の参道にも石仏がずらっと並んでいます。


その中に、「閻魔さん」と仲良さそうに肩を並べた「しょうづかばば」がいました。

右側が「しょうづかばば」です。

多くの人の咳を止めてあげたのでしょう、すっかりお顔が磨り減っています。

参道入り口の築地塀に、寺の由緒を書いた石板が埋め込まれています。

「井伊直政が伯母のために箕輪の日向峰に創立、直政が高崎に移った時に城北の榎森に移し、酒井家次が現在地に移した。」ということで、おおよそ「高崎志」(寛政元年/1789)によるものと思われます。

これが「高崎寿奈子」(宝暦五年/1755)では、若干異なっています。
「井伊直政が箕輪矢原に一宇を開基して恵徳寺と号し、直政が高崎に移る時に寺も日向峰という所へ移り、その後今の所へ寺を造立する。
日向峰は今の熊野小路御給人屋敷の辺である。」

ということで、「日向峰」は箕輪ではなく、高崎の本町一丁目から高崎神社への道沿い辺りらしいのです。

さらに、「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)の「赤坂町」の項に、「恵徳寺旧記」によるとしてこう書かれています。
此旧記ニヨレバ、(それまでは竹藪だった)寺場ヲ開墾ナシ続テ人家モ立並、給人衆ノ居住アルヲ以テ町名(給人町)トス。
後、給人衆ハ日向峯ヘ引移サレタルト云。(略)
(さて)日向峯ハ今ノ覚法寺ノ辺也。」

築地塀の石板には、「高崎という地名は恵徳寺の永潭和尚が井伊直政に進言した」とも書いてあります。
このことについては、過去記事にたっぷり書いてありますので、そちらをご覧ください。
  ◇駅から散歩 観音山(6)
  ◇駅から散歩 観音山(7)
  ◇駅から散歩 観音山(8)

あぁ、21番の歌詞は、まだ半分しか進んでません。
「北に曲れば三国道 四ッ谷相生住吉町」は、また次回へ繰り越しですね。


前の記事へ<< >>次の記事へ
  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2023年01月14日

高崎唱歌散歩-番外編 長松寺の石澤久夫作品

「長松寺」山門にある、石澤久夫氏作の石碑。

銘板の「吾唯知足 足る足らざるは心にある」は、如何にも石澤氏らしい言葉です。

石澤久夫氏をご存じない方もいらっしゃるでしょうか。

私が石澤久夫氏に初めてお会いしたのは、12年前に江木町の敬西寺で行われたJAZZライブでした。
  ◇土徳のご縁から

その後も何度かお会いする機会を得たのですが、ある時「長松寺の襖絵も描いたんだよ。」とお聞きして見に行ったことがあります。
平成二十六年(2014)の九月でした。
それは、本堂の須弥壇を挟んだ左右の間の襖に描かれていました。


「自然の説法」対話 朝~昼(静寂の哲学)という題が付いています。

面白いのは裏面です。
一見、海面に突き出る岩を描いているように見えますが・・・、


海に見えたのは、たくさんの女性の顔でした。

「人間帰化」現代千体人覚えの書(女面の図)という題が付けられています。

その西面の襖絵は至極シンプルで、題は「地中訓」です。


須弥壇西側の間の襖絵は、
「自然の説法」対話 夕~夜(静寂の哲学)

その裏面、
「人間帰化」現代千体人覚えの書(男面の図)

東面は、「天中訓」です。


本堂の西の壁面に絵画が掛かっていたので見ると、これも石澤氏の作品で「集まる人々」という題が付いていました。


山門の石碑は平成二十七年(2015)の作品ですが、その年の上毛新聞にこんな記事が載っていました。


今回伺ってその油彩画も写真に収めたかったのですが、ちょうど額装に出しているところだそうで、見ることができませんでした。
その代わりというと変ですが、たしか以前訪ねた時は無かったと思う「忠長自刃の間」の襖絵が、石澤氏の作になっていました。



平成二十九年(2017)二月、巨匠・石澤久夫氏は八十四年の生涯を全うしました。
いま、「長松寺」墓地のいかにも石澤氏らしい墓石の下で、安らかに眠っています。


合掌。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2023年01月07日

高崎唱歌散歩-21番 ♪坂を上りて赤坂町・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

「群馬県営業便覧」で見る、明治三十七年(1904)の赤坂町です。

意外なのは、「木賃宿」とか「旅人宿」とかが多いことです。
8軒もの宿が並んでいます。
それと、お菓子屋さんが4軒もあります。
いずれのお菓子屋さんも宿の近くにあるというのは、何か意味がありそうです。

町の中ほど、旧中山道を挟んで北に「長松寺」、南に「恵徳寺」(営業便覧に威徳寺とあるのは間違い)があります。
「長松寺」の隣には「高崎北尋常小学校分教場」と書かれています。
「北尋常小学校」は、児童数が増えた「高崎尋常小学校」の分校として明治三十三年(1900)請地町(うけちまち)に開校しますが、そこに収容しきれない児童のために充てたのが「長松寺」の分教場でした。

ところが、当時は貧困のため就学できない児童が多かったようで、とくに女子の多くは家事に従事しているか、子守奉公に出されていたと言います。
「高崎市教育史 上巻」には、こんな記述があります。
当時、赤坂町の長松寺は、高崎市北尋常小学校の仮分教室として使用されていた。
寺内では、毎日、北小学校の児童たちが勉強しているのであるが、境内では、いつも数人の子守が、あるものは赤ん坊を背負い、あるものは幼児を連れて遊んでいる。
その言動を見るとまことに粗野であるから、知らず知らずのうちに幼児に悪影響を及ぼし、また、子守自身の将来にとっても良くないことは明らかである。」

その状況を見ていた長松寺住職・山端息耕(やまはた そっこう)は、北小学校校長・小林茂と協力して、明治三十六年(1903)分教場内に「樹徳子守学校」を開校します。

同校の基本方針は、
「お守り第一」(幼児を大切にすること)
「勉強第二」(幼児の機嫌のよい時に勉強する)
だそうです。

義務教育の普及により子守児童も減少してきた昭和十四年(1939)に「高崎樹徳学校」と改称しますが、昭和十九年(1944)に閉校となります。

その校舎は昭和十六年(1941)に創設された「日の丸保育園」の園舎としても使用され、平成十三年(2001)に閉園された現在もその姿は残されています。




ふと山門の足元を見ると、こんな石碑がありました。

サインを見ると、あの石澤久夫氏の作でした。
そうだ、「長松寺」石澤氏の菩提寺でした。
なので、寺には石澤氏の作品がたくさん残っています。

引き返してその写真を撮らせて頂いたので、次回、ご覧頂くことといたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年12月31日

高崎唱歌散歩-20番 ♪畝傍の橋をうち渡り・・・

畝傍の橋をうち渡り
赤き御堂は観音堂
和田の三石その一つ
大師の石はここにあり

「畝傍の橋」は、「神武天皇遥拝所」「得利稲荷」の間に架かっていた橋です。

右端に写っているのが、「得利稲荷」の鳥居でしょう。

「神武遥拝所」側から「畝傍橋」を渡ると、「得利稲荷」「長松寺」の間の坂道「神武坂」に出る訳ですが、下って南に行くと赤い御堂の「観音堂」があるという歌詞です。


この「観音堂」は今「恵徳寺」の参道に移されています。
過去記事でご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-116 赤坂町十一面観世音

ですが、そもそもこの「観音堂」はどういう由緒のものなのか、それが書かれている資料にはあまりお目に掛かったことがありません。
僅かに、参道に建つ「十一面観世音」碑に刻まれているくらいです。


碑文を書き出してみましょう。
十一面觀世音由來
大同元年ノ創立ニシテ上野国三十三番靈場札所ノ一也
古來由緒アル武将守本尊ナリト傳フ 建暦二年和田義盛
没落ノ時八郎義国相州葛西谷ヨリ落ト云シ本郡和田
山ニ來住ス 寛喜二年當地ニ移住シ和田家一族亡靈菩提
ノ爲該佛堂ヲ再興シ尊像ヲ奉安ス天正十八年和田家滅亡
慶長三年城主井伊直政深ク之ヲ崇敬シ堂宇ヲ再建セリ
寛文十年以降明治維新ニ至ル迄落合家之ヲ尊崇ス 明
治四十二年恵徳寺ニ合併シ境内ニ奉安ス
昭和五年八月二日 恵徳寺第二十六世 須田達宗
寺世話人惣代 横山文四郎 国峰源三郎 淺見弁次郎
建設者 落合喜三郎 落合卯之吉
    落合義三郎 石澤カク
    落合松次

創立は大同元年(806)ということで、平安時代の初頭です。
大河で小栗旬の策謀に倒れた和田義盛の子孫が、一族菩提のために仏堂を再興したとあります。
天正十八年(1590)に和田氏が滅亡すると仏堂は荒れ、これを慶長三年(1598)に井伊直政が再建し、寛文十年(1670)以降明治維新までは落合家が守っていたと。
恵徳寺境内に移したのは、明治四十二年(1909)だったことが分かります。
高崎唱歌がつくられたのは明治四十一年(1908)ですから、当時は歌詞の通りまだ長松寺の西にあったんですね。

ということで、おおよそのことは分かったのですが、なぜ「落合家」というのが突然出てくるのか分かりませんでした。
それが偶々なんですが、他の調べ事をしている時に「上毛及上毛人」(昭和5年11月第163号)「高崎恵徳寺の観音について」(堀口熏治)という一文を発見しました。

その中に、「落合家文書」というのが出てきて、その経緯が書いてありました。
上野國群馬郡髙崎赤坂町十一面觀世音菩薩、是行基菩薩の御作なり。
往昔は上和田今の觀音塚の所に年久しく鎮座ありしに、佛詣の便り惡しき故、今の赤坂御門の處・往還の通りなる川御門の北の方森の内に移し奉る。
然るに御城主井伊兵部大輔殿の御時當城を廣く成し給ふに依て、通丁城内になるに付御堂を長松寺境内の脇、森の内に移し奉る。
此所に在事年來久し、實に落合和泉(武田信玄の家來なり、浪人して當地赤坂に住す)より三代の孫、愚祖七兵衛正重・深く尊像を崇み靈驗を蒙る事度々なり、則宮殿を寄付す。
又同苗權三郎正純信心日々に増し、境内の狭き事を悲み、御城主安藤對馬守殿へ奉願寛文十戌年境内を開き三間四面の御堂を造立し、同年三月十八日入佛供養し奉る(前通り兩側屋舗も其節出來するなり)
權三郎に兩人の子あり、長子七兵衛正信・益寿修覆を加へ石燈籠敷石等新に寄附す
次男武平正吉・御城主松平右京太夫殿へ奉願、元祿十四巳年銅屋根に再建立す、同十一月二十日入佛供養し奉り感應いよいよ多く、記すに暇あらず、
愚子心願有るにまかせ剃髪染衣の身となり、境内に住し尊像に奉仕すること數年なり、所々佛詣の善男善女驗機驗應冥機冥應其數多し。
 享保十五庚戌年六月 落合和泉五代孫
             俗名 落合武平正吉
             法名 得蓮社即譽夢覺

これを見ると、「十一面観音」像は上和田「観音塚」(どこでしょう?)という所に祀られていたが、参詣するのに不便な場所だったので、往還の通り沿い(後の高崎城赤坂御門の所)に移したようです。
現在の高崎郵便局の西、高松中学校のテニスコート辺りか。

しかし、高崎城を造る時に城内に入ってしまうので長松寺の西に移したということです。
落合氏は武田信玄の家来だったが、浪人して赤坂に住んでいたので、移って来た十一面観音を崇敬するようになり、代々守ってきたという訳なんですね。
五代目の落合武平正吉に至っては出家して境内に住んだというのですから、その信仰の篤さは尊いものがあります。

さて、その「観音堂」跡は現在どうなっているのでしょう。
「萬延元年覚法寺絵図」と比べてみると、意外なほど昔の道筋が残っていて、場所の特定ができるもんです。


「中村染工場」隣の空地が「観音堂」跡でした。


いま、その空地には住宅が建ち始めています。


次の歌詞に出てくる「大師の石」は、現在「高崎神社」境内にある「和田三石」のひとつ「立石」で、「観音堂」と一緒に移設されてきたものです。
  ◇和田の「立石(たていし)」

そうか、「立石」が急に重くなって動かなかったのは、井伊氏の立ち退き命令に和田氏の霊がゴネたということか・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年12月24日

高崎唱歌散歩-19番 ♪並榎町より上和田町・・・

並榎町より上和田町
ここに鉱泉湧出す
神武天皇遥拝所
ここは桜花の名所なり

湧出していたのは、通称「奥の湯」と言われた「上和田鉱泉」です。


「神武天皇遥拝所」とその界隈のことは12年前に記事にしていますので、ご覧ください。
  ◇「神武坂」界隈
  ◇続・「神武坂界隈」

ところが、実はその記事で「上和田鉱泉」の場所を間違えてました。
その後入手した昭和三十六年(1961)の住宅案内図を見て分かったのです。

けっこう広い敷地だったんですね。

ご近所に「上和田鉱泉」をご存知の方がいて、ここにあったんだと教えて頂きました。


この水路に水車があって、それで鉱泉を汲み上げていたんだそうです。


それともう一つ、過去記事にも出てきますが「神武三階湯」というのがありました。

こちらの方は「草津鉱泉」となってますから、湯に草津の湯の花でも入れてたんでしょうか。

「神武三階湯」の場所は合ってたんですが、凹んでる左の家までが敷地で、その左端が風呂の焚口だったそうです。


「三階湯」全体の写真を見たことはなかったのですが、先日、高崎市歴史民俗資料館の大工原さんが「迷道院さんに見せたい絵葉書がある」と言って見せてくれたのが、この写真です。

おーっ!左端の三階建が「神武三階湯」ですね。
煙突も写ってます。
後ろの高台が「神武天皇遥拝所」です。
桜が満開のようですがカラーでないのが残念です。

で、無理やりカラーにしてみました。


今は幻の「上和田リゾートパーク」でした。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年12月10日

高崎唱歌散歩-18番 ♪其外水利を応用し・・・

其外水利を応用し
染物業や製糸業
社名にしるき旭とて
日に増し造る国の富

常盤町・歌川町・並榎町には水路が沢山ありました。


その水路の水を利用していたのが、染物屋さんです。
明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には、常盤町に2軒、歌川町に2軒の染物屋さんが載っています。

いま常盤町にある「中村染工場」も明治三十年(1897)創業ということですから、載っていてもよさそうなんですが、便覧が途中で募集中止になったようなのでそのせいかも知れません。

「中村染工場」が利用していたのは高崎城「遠構え」の水で、長松寺裏から神武坂を下ってくる水路です。


その水路はここで二本に分かれ、一本は南に曲がって「中村染工場」の裏を通ります。

今は暗渠になっていますが、昔はこの水路で染物を洗っていた訳です。
水路をずーっと辿っていくと、赤坂から下って来る道に出ます。

交差した水路はさらに南へ下っていきます。
あぁ、この角にあった公共栓は無くなっちゃったんだ。

聞けば、自動車がぶつかったんだとか。
こらっ!ですね。

さらに南へ辿ると、中央小学校の所に出ます。

水路はここから右に曲がってもう一本の水路と合流し、最終的に烏川に落ちることになります。

「中村染工場」の所から別れたもう一本の水路は、「美保酒類」の脇を通っていきます。


この水路を辿って行くと、「山田文庫」の脇を通って、赤坂から下って来る道と交差します。


道を渡った所に、かつては水車が回っていたらしいです。



さて次の歌詞、「社名にしるき旭とて」ですが。
これは、明治十九年(1886)茂木惣兵衛が地元商人の橋本清七、絹川嘉平二らと共に立ち上げた製糸所「旭社」のことです。
烏川沿いにありました。

絵葉書の写真では工場の姿はよく分かりませんが、高い煙突がシンボルです。
滔々と流れる烏川の水を動力源として利用した訳です。

「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には「茂木製糸所」と改称していたのですが、商標にはちゃんと「ASAHISYA SEISHI」と標記されています。


「旭社」「茂木製糸所」の歴史については、過去記事でご覧ください。
前回の「小島鉄工所」とも大いに関係があるんです。
  ◇高崎の絹遺跡(第三話)

それにしても、昔の人は身近で小さな水力をなんと上手に利用していたものかと思います。

いま電力不足が深刻だと騒がれていますが、昔の人を見習って、小水力を利用した地産地消型の発電を普及させたいものです。
原発だけは、もう真っ平ご免です。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年12月03日

高崎唱歌散歩-17番 ♪空にたなびく煤煙は・・・

空にたなびく煤煙は
常盤歌川並榎町
中に聳ゆる煙突は
地方に名高き鉄工場

その鉄工場が、歌川町「小島鉄工所」です。



明治四十三年(1910)発行の「高崎商工案内」には、こう記載されています。
沿革 當工場は文政六年(1823)の創業にして專ら農具 喰器等を製造し来たりたるに、世運の進歩に伴ひ明治二十二年(1889)より漸次に擴張し、蒸氣機關及だらい盤其他仕上げ器械を据附け、諸機械類ヲ製造販賣するに至れり
製造品目 車輪、製鑵(缶)、諸機械、建築用鐵物、鋤、鍬、鍋、釜
販路 長野、新潟、栃木、埼玉、東京、群馬の一府五縣及東北地方
電動力 十馬力
石油發動器 拾五馬力
一ヶ年製産額 八萬圓
職工 百拾名

「小島鐡工所200年史」によると、「九蔵町に居住する小林氏が下並榎村地内の筏場(いかだば)に吹場(ふきば:金属の精練場所)を設けて営業を始めた」とあります。
その創業はいつなのかというと、文化六年(1809)とされています。
社地にある「筏場稲荷」の石灯籠に刻まれている年を、創立年としているのだそうです。

「筏場」のことについては、「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にこう書かれています。
筏場ハ常盤町入口ノ木戸外ヲ云、烏川ヲ渡リ板鼻ニ行ク中山道ノ往還也、
此地ヲ筏場ト呼ブコトハ、昔信州本山ヨリ来ル材木ヲ、此河岸ニテ筏ニ組テ、江戸ニ下ス故ニ名ツク、(略)
右ノ方ニ船頭小屋五軒アリ、是昔本町ヨリ出シ置シ番人、或いハ筏士等ノ子孫也、今ハ渡守トナル、故ニ船頭ト呼トナリ、・・・」


明治四年(1871)に「筏場」「五軒町」(赤坂)下ノ町」の一部とを併せて出来たのが「歌川町」です。


12年前、この辺のことを記事にしていました。
  ◇煉瓦つながり

平成十六年(2004)につくられたお散歩マップもな、かなかいいです。
  ◇「赤坂・常盤・歌川めぐり」

小島鉄工所の歴史を、もう少し「200年史」から拾ってみましょう。
小島弥兵衛は天保十五年(1844)六月、吾妻郡原町(東吾妻町)の鋳物師小島七左衛門別家(分家)の由緒をもって、京都の真継(まつぎ)家から免許状を取得したことから、以後小島姓を名乗るようになった。
当時の鋳物師は梵鐘・半鐘・鰐口などのほか鍋・釜・鉄瓶・火鉢など日常品も造り、「鍋屋」の屋号もあった。(略)
明治二年(1869)に、三代目小島彌平(1853~1931)が十六歳の若さで家業の「鍋屋」を継いだ。
明治初年の内に、彌平は江戸時代以来の「鋳物師」(いもじ)の株を継承する高崎唯一の鋳物業者となった。
明治十七年(1884)、皇居二重橋造営に際し、設計者久米民之助氏の依頼により、橋桁及び装飾部を製造したことは、彌平がようやく頭角を現してきたことを示した。
彌平の鉄工所は、明治二十二年(1889)を重要な節目に、明治二十年代から三十年代にかけて、最初の大きな革新を遂げた。
地域のあらゆるニーズに対応する鉄工所は、地域産業の近代化の進展に対応して機械製品の生産への進出を図り、また、キューポラ導入をはじめとする日本鋳造業自体の近代化に対応して、工場・設備も近代化、機械化を推進していった。即ち、工場敷地を3000坪に拡張するとともに、主要工場を大規模で頑丈な煉瓦造りとし、その他工場を整然と配置した。
敷地内に煉瓦製造所が設けられ、煉瓦は自製された。」

「キューポラのある町」「鋳物の町」で有名な川口の鋳物職人の多くは、この「鍋屋」で修行した人達だったそうです。

大正五年(1916)の「髙崎市街全圖」を見ると、「小島鉄工所」の北方に「小島別邸」というのがあります。

ここが、13年前に記事にした五輪坂の名庭園「望浅閣」です。  

当時はすぐ崖下が烏川だったので、舟で乗付ていたようです。


歌川町で誕生した「小島鉄工所」は、花も嵐もあったであろう長い歴史を乗り越えて、昭和四十四年(1969)群馬八幡に新工場を建設して移転しました。
跡地には「パークレーン高崎」が、高崎唯一のボウリング場として残っています。


この辺、これからまだまだ変わっていくんだろうなぁ。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年11月26日

高崎唱歌散歩-16番 ♪堰代町に蟹下苑・・・

堰代町に蟹下苑(かにしたえん)
これも市中の一名所
更に田圃を打過ぎて
電燈会社に牧牛場

「堰代町」(せきしろちょう)は明治六年(1873)に成立した町で(四年あるいは七年とする説も)、江戸時代には用水を管理する「堰方役人」と、城郭及び周辺の守備を任された「城代組」の屋敷があったので、堰方の「堰」と城代の「代」をとって町名にしました。



「蟹下苑」というのは、貴族院議員・桜井伊兵衛の別荘でした。

過去記事「蟹下苑」にも書いているのですが、私の通学路沿いにありました。
朝、家を出ると高崎神社境内の貸本屋さんに寄り、本殿の横を通って行きます。

境内裏の細い路地を抜けて、

右に曲がると細くて急な坂道の上に出ます。

左側の塀の中が「蟹下苑」で、私が子どもの頃はネットフェンスだったので、中の草叢たる状態を目にすることができました。

今は坂を下りると中央小学校ですが、高崎唱歌の頃はまだ田圃で、その先に電燈会社「高崎水力電気会社」があった訳です。


そして、その隣にあったのが「栗本牧場」です。


明治十三年(1880)旧武州忍藩藩士・栗本秀雄の創立だそうですが、明治三十年(1897)の「高崎繁盛記」では、「牛乳搾取所 牧牛社 栗本信作」と表記されています。


いつから「栗本牧場」という名前になったのか分かりませんが、明治四十三年(1910)の「高崎商工案内」ではその名前で広告が出されています。


昭和二十五年(1950)に牧場はやめて乳製品の生産工場「上毛食品工業」となり、販売は「栗本牛乳」として行うようになります。

昭和三十四、五年(1959、60)の中央小学校の写真です。
下の方に写っているのが、「上毛食品工業」「栗本牛乳」です。

昭和六十二年(1987)には矢島町に新工場を建てて移転しています。

一方、「高崎水力電気」は大正十年(1921)に「東京電燈」に合併され、その跡地を含む田地に宮元町から「中央尋常高等小学校」が移って来たのは大正十二年(1923)です。

現在の中央小学校東門のイチョウがある辺りが「高崎水力電気会社」、手前のマンションの所が「栗本牛乳」でした。

中央小学校も変わりました。

平成十九年(2007)に新築された校舎はずいぶん小さくて、その分、校庭がずいぶん広くなったように感じます。

児童数が少なくなったんでしょうね。
私が入学した時なんぞは1クラス50人、それが7クラスもあったんですから。

貧しい家が多かったのに、何でこんなに子どもがいたのかなぁ。

いまの少子化対策、何かが違ってんじゃないかい?


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年11月19日

高崎唱歌散歩-15番 ♪門徒宗なる覚法寺・・・

門徒宗なる覚法寺
寺門の前を過ぎ行けば
境内広き祠あり
熊野の神社鎮座せり

「覚法寺」の宗派を、高崎唱歌では「門徒宗」と言っていますが、高崎寿奈子では「浄土真宗」、高崎志では「一向宗」となっていて、まちまちです。
現在は「浄土真宗」で落ち着いていますが、これは開祖以来の歴史的宗名論争が戦後まで続いたことによるもののようです。
詳しく知りたい方は、こちらをご参照ください。

現在の山門と本堂は西の堰代町側を向いていますが、その時代時代であちこち向きを変えていたようです。


「高崎志」にはこう書いてあります。
北向、近頃迄門及諸堂皆南向ナリシヲ、安永三年甲午二月類焼ノ後、アラタメテ北向トス
本堂 東向、八間ニ九間、瓦葺、本尊阿弥陀ノ木像ヲ安ズ。

明治三十年(1897)頃の絵図では「高崎志」の記述通り、門は北向き、本堂は東向きです。


実は私、堰代町に住んでいたことがありまして、東向きの家でした。
その我が家から道越しに撮った「覚法寺」は、たしかに本堂の背中が見えてます。

門と本堂が現在の西向きになったのは、堰代町側の道路が拡幅された昭和五十四年(1979)のことです。

道路拡幅前の、「覚法寺」北西角から見た堰代町側の通りです。


それが今ではこんなですから。

なんとまぁ、様変わりしたもんです。

嘉多町側にあった「寺門の前を過ぎ行けば」、突き当りが、「熊野神社」です。


「熊野神社」の由緒と沿革を、「新編高崎市史 資料編14」から引用します。
和田義国の子、小太郎正信は、寛元年中(1243~47)に赤坂明神の社地榎森(烏川の左岸、現在の和田橋附近)に二ノ宮・熊野・御霊の三社を勧請した。
その後慶長三年(1598)井伊直政が高崎築城と町割りの際に熊野社(熊野大権現)を榎森から赤坂の諏訪神社の社地(今の高崎神社の地)に移し、高崎の総鎮守とした。
以後歴代高崎藩主が崇敬した二ノ宮社は城内に残し井伊氏の鎮護神とし、御霊(五霊)社は貝沢の地に移して祀っている。
熊野神社は明治三年(1870)に社格制度により村社となり、さらに同十八年(1885)三月に郷社となった。
明治四十年(1907)八月二十四日、当時の市域最大の合併が行われた。
即ち境内末社十二社、および市内十四町にあった二十八社を合併し、同時に郷社高崎神社と改称した。
その後同年九月十七日には宮元町頼政神社境内の神明宮、同九月二十七日には弓町の稲荷神社、さらに同四十三年(1910)五月九日、下並榎村(並榎町)字幅の神明宮と境内末社四社を合併、同年十月二十日には北通町稲荷神社を相次いで合併、合計市内十七町鎮座の三十六社を合併して、文字通り高崎の代表的な総鎮守となった。
大正十四年(1925)三月三十一日、市域で唯一、県下では玉村八幡宮と共に十番目の県社に昇格した。(略)
昭和四年、美保神社の分霊を祀り、大国神社と合わせゑびす講を始めた。」

ということで、今では誰もが知る「県社 高崎神社」です。


私が小学校へ入学する頃の「高崎神社」は、こんな感じでした。

入学衣装はすべて「寅さん」が揃えてくれました。
  ◇あの頃みんな(?)貧乏だった
この頃の貧乏話なら腐るほどあります。
  ◇人情ラーメン物語

閑話休題。
昭和四十五年(1970)には結婚式場「新生会館」(現ホワイトイン高崎)がオープンし、昭和五十六年(1981)には現在の新しい社殿が完成しました。
境内も私が子どもの頃とは随分と様変わりしました。
この辺には、本多さんという駄菓子屋さんがありました。

貸本もやってて、私は常連客でした。
小学校へ行く時に前の日に借りた漫画本を返し、学校が終わるとまた本多さんに寄って、漫画本を借りてから家に帰るという毎日でした。
一冊借りるのに三冊はただで立ち読みするような子どもだったので、本多さんとすれば嫌な客だったにちがいありません。

「高崎ライオンズクラブ」の事務所になっているこの建物の所には、土俵があって、夏祭りかなんかの時は、素人相撲大会をやってましたね。

旅回りの見世物とか、お化け屋敷とかが小屋掛けしてたのもこの辺でした。
今は石段の上に移された手水舎も、ここにありました。


駐車場になっている所には、神楽殿というか舞台というかがありました。

縁日には、旅回り一座が芝居や奇術、アクロバットに歌謡ショーで楽しませてくれました。
市民参加の、のど自慢大会なんてのもありましたね。
みんなが一番興奮するのが「福投げ」で、舞台の上から投げられるお菓子とか、商品が当たる福くじを夢中になって奪い合ったもんです。

県社への「昇格記念之碑」も、ずいぶん台石が低くなっちゃいました。

因みに、ふくれっ面で写ってるのは中学一年生の私です。
初めてかけた眼鏡で物はよく見えるようになりましたが、世間のことはまるで見えてない生意気盛りです。

「ホワイトイン高崎」は二年後をめどに建て直しが計画されており、敷地の一部も売却されるそうです。


バス停の前辺りが、我が家だったんですよね。
狭いながらも、楽しい我が家でした。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年11月05日

高崎唱歌散歩-14番 ♪左に折れて嘉多町を・・・

左に折れて嘉多町を
尚も進めば柳川町
戸毎にかがやく軒提燈
往来の人も織る如し

新紺屋町を左に折れると「嘉多町」です。

看板は「ゑびす通り」となっています。
この通りの突き当りにある「高崎神社」に、「ゑびす様」を祀る「美保大國神社」があって、かつては11月20日の「ゑびす講」にはこの道端に多くの露天商が並び、沢山の参詣者が行き来した通りです。

「嘉多町」「片町」で、江戸時代には通りの北側だけに藩の組屋敷があったそうです。
武士以外の人びとが住めるようになったのは明和八年(1771)からです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)


尚も進んだ嘉多町交差点から南の通りは、「柳川町」の本通りである「柳通り」です。

左角の車が止まっている所にはむかし交番がありました。
明治四十三年(1910)の「群馬県営業便覧」を見ると、当時は右角にあったんですね。

お堀端の方から来ると、「柳通り」はここで突き当りになってました。
本町まで抜けたのは、大正の初め頃だったようです。
その突き当たった所に「薬種商 石川實之助」って書いてあって、その右隣に「小間物商 志倉商店」というのがありますが、ここが俳人・志倉西馬の養家です。

その相向いが、すき焼きで有名だった牛肉店「信田」(のぶた)です。
歴史のある店でしたが、4年前に建物も解体されて現在は駐車場になってしまいました。



駐車場になったおかげで、明治期創業の老舗小料理店「前田屋」がゑびす通りから見えるようになりました。



夜はこんな感じ。


明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「前田屋」の紹介が載っています。
嘉多町通りに在り、屈指の鰻屋なり。
華客(とくい)も澤山ありて信用厚き老舗なりしも、近頃は少し客足の減ぜしやとの評判あれども、なかなかの繁昌なり。」

「柳川町」はけっこう広い町です。
「柳通り」から東側一帯がいわゆる花街、飲み屋街です。


昭和二年(1927)発行の「高崎市史 上巻」に、「柳川町」の沿革が載っています。
明治初年迄ハ、今ノ本通リ(柳通り)以東ハ卑濕(ひしつ:土地が低くてじめじめしている)ノ地ニシテ、蘆葦(ろい:アシ・ヨシ)雑草叢生シ、加之(しかのみならず)溜潦(りゅうろう:水たまり)所々ニ点在シ、道路ノ如キ固(もと)ヨリナク、實ニ白晝(白昼)狐狸躍ルノ寂寞(せきばく:ひっそりとして寂しい)地ナリ、元城ノ防禦地帯タルガ爲ナリ、之レヲ北郭ト偁セリ、
明治六年三月四日、是レニ柳川町ト命名シタリ、
而シテ彼ノ坎地(かんち:低い土地)ハ、明治五年六月、田中祭八ナルモノ、家作ノ許可ヲ得タリ、今ノ電氣館以北五百七十五坪ナリ、爾来次第ニ人家ノ建築アリ、以テ現時ノ如ク、料理店絃妓(げんぎ:芸者)ノ住ム所トナリ、通路狭隘、人家櫛比シ、日夜嬌音絃聲斷ヘズ、粉黛(ふんたい:化粧)ノ嬌姿ト、遊冶(ゆうや:遊びふける)ノ粹客ト、往來頻繁、昔日ノ狐狸去ッテ跡ナク、眞ニ隔世ノ感アリ。」
白昼、キツネやタヌキが出るような草ぼうぼうの湿地帯を、明治五年(1872)田中祭八という人物が家を建てる土地として認可を得たのが、花街、飲み屋街「柳川町」の始まりだったんですね。

その土地は、もと高崎藩の「馬場」だったところだそうです。(更正高崎旧事記)


現在も、その形がほぼそのまま残っています。

「馬場」「バー場」になったという訳で・・・。

また「柳川町」と言えば「芸者さん」です。
大正二年(1913)発行の栗田暁湖著「前橋と高崎」の中に、「高崎花柳界の沿革と変遷」という項があります。
高崎に初めて藝妓の出來たのは、實に此明治の二年高崎市に常設芝居が許可された時が初めで、二名の芸者が東京から輸入されたのに初まって居る。
四十五年を經過した今日では三業、共同の兩見番(けんばん)に五十六名の藝妓と、十名の半玉とがあって、二百に近い白首(しらくび:酌婦)と共に花の高崎を彩り、紅灯緑酒の巷に三絃(しゃみ)の音〆(ねじめ)を緩めて、意氣地も張りも其方除け(そっちのけ)の極めて當世式に御繁昌をして御座る。」

「三業見番」というのは、料理屋・芸者屋・待合の三業者が集まってつくる組合事務所のことで、私が子どもの頃にまだありました。憶えてますここ。


(「高崎のサービス業と花街史」昭和42年根岸省三氏編)

大人は、(芸者)置き屋」って言ってましたね。
前を通ると、いつも三味線の音が聞こえて、門の前に「輪タク」が止まっていました。

「戸毎にかがやく軒提燈 往来の人も織る如し」も、今は昔の物語。
柳川町がまだ元気だった頃の地図があります。


懐かしく思う方も多いことでしょう。
じっくり味わってくださいな。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年10月29日

高崎唱歌散歩-13番 ♪それより鍛冶町檜物町・・・

夫れよりかぢ町(鍛冶町)檜物町
鞘町過ぎて中紺屋
寄合町に新紺屋
寄せ(寄席)に芝居に勧工場(かんこうば)

高崎の町なかには、井伊直政が高崎城を造って箕輪から移った時に、職人ごと移した町がいくつかあります。
歌詞に出てくる鍛冶町・紺屋町・鞘町もそうで、城に近い場所に配置されています。


田島桂男氏著「高崎の地名」に、それぞれの町のことが分かりやすく書かれています。
鍛冶町
かじちょう
この町は、高崎に城下町ができはじまったときからの職人町で、実は箕輪から職人とともに町の名前まで移って来た町である。
慶長年間のこの街の住人は全て刀工、鍛冶職人であった。
檜物町
ひものちょう
町名はこの町に「桧物師」が多く住んでいたことによる。「桧物」とは、ヒノキ、マツ、サワラなどの薄い板を曲げて作る「曲げ物」のことで、これは、食器や勝手用品として欠かせないものであった。
鞘町
さやちょう
慶長年間、井伊直政による箕輪からの移城とともに、城下にいた様々な人たちも、新生高崎へ移って来た。
この町へは、刀の鞘をこしらえる鞘師が多く住んだので「鞘町」の名がつけられた。
中紺屋町
なかこうやまち
この町も古くは紺屋職人の多い町であった。「中」は「元」と「新」の「紺屋町」の中間に位置していたことからつけられた名で、古くは「三紺屋」とも、ひとつの「紺屋町」を作っていた。
寄合町
よりあいちょう
町名は、いろいろな職人、商人が入り混じって居住していたのでつけられた名で、慶長三年(1598)井伊直政の箕輪から高崎への移城にともない、八戸が藩の許可を受けてここへ移住した。
新紺屋町
しんこうやまち
この町は、城とともに箕輪から移転してきた職人や町人が多く住んだが、中でも紺屋職人が多かった。
町名は、「元紺屋」に対する「新紺屋」の意味でつけられた。

それぞれの町に、どのような職種の人がいたのかをまとめて下さった方もいます。

これを見ると、「中紺屋町」の方がより「寄合町」っぽい感じですが。

さて、「寄席に芝居に勧工場」「寄席」ですが、大正六年(1917)発行の「高崎商工案内」に、こうあります。
寄席としては嘉多町に睦花亭あるのみ、明治三十一年(1898)に創立されたる松田亭より引續ぎたるものにして現在は吉田喜平治氏の經營なり。」
「松田亭」「睦花亭」に改名したのは明治四十四年(1911)頃、閉館になったのは昭和の初めらしいです。
(新編高崎市史 通史編4)
場所が嘉多町となっていますが、資料によって異なります。

明治三十七年(1904)発行の「群馬県営業便覧」には「席亭 松田」として載っているのですが、柳川町のようでもあり、どうも場所がはっきりしません。


昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」では新紺屋町になっています。
「睦花亭(寄席) 新紺屋町」
寄セ席トシテハ、外ニ鞘町ニ共樂館ト偁セシモノアリシガ夙ニ閉場シ、今日僅カニ此ノ一亭アルノミ、

次の「芝居」については、「高崎商工案内」「劇場」として書かれています。
高崎市における劇場としては株式会社高崎高盛座(八島町)及び藤守座(新紺屋町)の二あり、前者の創立は明治三十七年(1904)後者は明治十三年(1880)の創立にして藤守座は藤守文衞氏の經營なり。」

「藤守座」の場所はここです。


「藤守座」は、その後何度かの変遷を経て、映画館「オリオン座」になります。


その「オリオン座」も平成十五年(2003)に閉館し、長らく廃墟のような姿になっていました。


ところが嬉しいですねぇ、去年カフェに生まれ変わったと言うじゃありませんか。



最後が「勧工場」です。
「高崎の散歩道 第十二集下」に吉永哲郎氏が書いたものを引用します。
明治十年(1877)東京で第一回内国勧業博覧会が開かれた。
明治政府の殖産興業の実をあげるためのものであった。
後、大阪に勘商場、東京に勧業場が設けられ、見本展示即売の店が出現した。
こうした今日のショッピング・センターの形式の店舗が明治三十年代に全国に普及し、高崎にも本町の小保方商店の隣の足袋商西山と菓子製造峰村利三郎商店との間に、「勧工場」が出現したのである。明治二十二年(1889)のことであった。
買い物をする楽しさを庶民が知り始めるきっかけになったのである。
一般には本町の勧工場より、現在の東宝劇場の入口の右にあった勧工場が親しまれていた。」



「東宝」か、懐かしいな。
夜8時くらいから「ナイトショー」なんてのがあって、一本だけの上映なので安く観られて、父がよく連れて行ってくれたっけ。
帰りには、すぐ前の「さまた食堂」でラーメンを食べて。
でも、いま思うと、母が一緒だったことってほとんど記憶にないなぁ。
きっとお金がなかったんだろうな。
あ、涙が出てきそう。
今日はここまで!


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年10月22日

高崎唱歌散歩-12番 ♪宮元町の東なる・・・

宮元町の東なる
下横町に向雲寺
白龍山の興禅寺
和田の七騎の墓所

「下横町」は、江戸時代には新町(あらまち)の一部で「下ノ横町」と言われていたが、明治十年(1877)城主のための栽園であった「前栽町」を併せて新町から分離独立したそうです。(田島桂男氏著「高崎の地名」)



「向雲寺」については、過去記事をご覧ください。

「興禅寺」についても過去記事があるのですが、「和田の七騎の墓所」とは知りませんでした。

まず「和田の七騎」ですが、七騎と聞いて思い付くのは「矢中七騎」です。
両者は違うのか同じなのか、いくつかの書籍を見てみましたが分かりません。
かくなる上はと、図書館の司書さんにお力を借りることにしました。
すると流石、「上野国郡村誌」に答えがあると教えて頂きました。

明治十六年(1883)頃編纂された「上野国群馬郡邨志 巻十一」(昭和五十六年発行「上野国郡村誌6群馬郡(3)」)「矢中村」の項に、こうありました。
天正三年乙亥五月遠州長篠ノ役、和田ノ城主和田右兵衛太夫信業、武田勝頼ノ為ニ鳶巣ヲ守ル、
徳川氏ノ将酒井忠次ト戦ヒ大敗して従兵或ハ死シ或ハ創(きずつ)キ、信業殆ト免(まぬが)レス、
信業ノ臣松本九郎兵衛、真下下野、大沢備後、秋山縫殿亮、栗原内記、福島嘉兵衛、長島因幡七騎、苦戦捍護(かんご:防護)僅ニ和田城ニ帰ヲ得ル、
勝頼大ニ感賞シ、退口七本槍ト称シ、又和田七騎ト称ス、其名遠邇(えんじ:遠近)ニ震フ、
信業其戦功ヲ賞シ、矢中村千八百五拾八石五斗余ノ地ヲ七騎ニ賜フ、世因テ矢中七騎ト称スト云フ、
其裔孫今猶村中ニ存スル者アリ」

なるほど、傷ついた和田信業(業繁?)を退却させるために踏みとどまって戦ったので「退口七本槍」、あるいは「和田七騎」と呼んだのが武田勝頼で、褒美として矢中村の土地を与えたので、世の人達は「矢中七騎」と呼んだという訳ですか。

「矢中七騎」の何人かの屋敷跡は、調査・推定されています。

大沢備後の屋敷跡には、「大澤備後守定吉誕生屋敷跡」碑というのも建っています。

そして「矢中七騎」の墓については、「群馬郡西部村志 巻八」(「上野国郡村誌5 群馬郡(5)」)「興禅寺」の項に記載がありました。
境内墓地ニ和田氏及ヒ同旗下七騎ノ墓ト称フル五輪塔数基アリ、文字剥落シテ見ヘカラス」

その見えからぬ文字を読もうとした人が土屋補三郎(老平)です。
明治十五年(1882)に著した「更正高崎旧事記 四巻」「下横町 興禅寺」の項に、こう書いています。
老平云、当寺三昧所和田氏ノ古墳石塔アリト里老口牌ニモ云伝フ。
予是レガ石塔ニ文字アリ磨滅シ読得ルアタハズ。サレドモ文字ノ形チ有リ、古苔ヲ払ヒ水モテ洗ヒミルニ其文字石塔下台ニアリ
前住当山 桂堂和尚 宝徳三年 三月念三日
☐☐三☐ ☐☐☐☐ 時永禄☐☐ 八月廿三日
叟妙☐大 ☐☐☐☐ 時天正三年 十月九日
石塔七基ノ内三基ノ文字如此 桂堂和尚ハ東谷院主ニテ 他二基ハ年号ノミヨク顕レタリ。
(さて)其年月日ニテモ其某ヲ知ラント欲スルニ由ナシ。
然レハ和田氏族ノ墳墓ト一向ニ言テ止ベキ歟(か)。」
七基の内三基の石塔は読める文字もあったが、桂堂和尚以外は誰の墓石か分かりようもなかったと言います。
最後の一節はよく分かりません。「和田氏族の墓だと言われれば仕方ないか。」ということなのでしょうか。

その石塔は興禅寺「三昧所」(さんまいしょ)にあると書いてあります。
「三昧所」というのは、死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂のことだそうです。
「高崎志」(寛政元年(1789)川野辺寛著)にその場所が書いてありました。
 「地蔵堂 和田七騎卵塔
地蔵堂ハ出端ノ木戸外ノ左ニアリ、興禅寺ノ三昧場也、堂八間三間、瓦葺、本尊地蔵ノ木像ヲ安ズ、享保十三年建立ト云リ、
堂ノ西ニ墓所アリ、和田氏及臣下七騎ノ墓トテ古キ五輪アリ、文字見ヘス

というので、興禅寺「地蔵堂」へ行ってみましたが、それらしいものはありません。
興禅寺の墓地は全て「八幡霊園」へ移されているので、そっちにあるのかと思って行ってみました。

が、どれがそうなのかよく分かりません。

そしたら、昭和二年(1927)発行の「高崎市史下巻」興禅寺の項に、こんな記述があるじゃありませんか。
高崎志其他ニ和田七騎ノ墓アリト云フモ今日ハ全クナシ」
あ、なんだ、今は無いんだ。

下之城「徳昌寺」には、「和田一族の墓」と伝わるのはあるんですけどね。



ないのかなぁ、「七騎」の墓。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年10月15日

高崎唱歌散歩-11番 ♪十五連隊戍衛地は・・・

十五連隊戍衛(じゅえい)地は
松風清き高松町
昔ゆかしき城跡に
朝夕聞ゆラッパの声(ね)

「戍衛」「戍」「武器を持って国境をまもる兵。また、屯(たむろ)=守備兵の詰めている所」のこと。
「衛」「城や門を守る人・組織」のことで、軍隊が駐屯する土地を「戍衛地」あるいは「衛戍地」というようです。

高崎城跡が軍隊の戍衛地になったのは、根岸省三氏著「高崎の明治百年史」によると明治六年(1873)説と明治八年(1875)説があるようですが、フランス人医師ヴィダルの旅行記「江戸から新潟への旅」に、明治六年に高崎城内でフランス式の訓練をしている軍人の一団のことが書かれていますので、六年説が正しいのでしょう。

その頃の、まだ高崎城天守閣「御三階櫓」が残っている営内の写真です。


営内に駐屯する軍隊の呼称は度々変わるのですが、馴染みのある「十五連隊」という呼称はいつから始まったのかというと、明治十七年(1884)でした。
正式名称は「陸軍歩兵第十五連隊」です。
当時の兵員数は下士50人、兵卒306人とあります。

明治二十三年(1890)には1,449人に増えていますが、長野県出身の人が多かったんですね。


「十五連隊」は後の日清・日露戦争で乃木将軍の指揮下に入りますが、「高崎の明治百年史」にこんなことが書かれています。
高崎連隊と乃木希典将軍との関係はなかなかに深く、将軍は始めて高崎に兵営が設けられ高崎鎮台の分隊と称せられた明治十七年頃(?)に来任し、高崎市高砂町の某家に下宿しておられ、また日露戦役の際には、将軍の令息勝典、保典の両名が高崎連隊付として出征し、旅順港激戦で戦死されている。」
「高砂町の某家」とはどこなのか、気にはなりますが分かりません。

現在「乾櫓」が建っている右側が、兵営の「正門」でした。


「正門」は初め高崎城の「大手門(追手門)」の場所(下図3⃣)でしたが、営内が見通せてしまうというので少し南へ移動させたようです。(下図4⃣が「乾櫓」)


石垣の上に立派な松の木があり、その根方には「飛龍松之記」という石碑が建っています。



碑にはこう刻まれています。
飛龍松之記
明治二十六年秋於髙﨑近郊
有近衞師團小機動演習之擧
天皇陛下親臨閲之
後行觀兵式於此地
干時十月二十二日也
於是植一松樹以標駐驛之跡
傳之永遠号曰飛龍松
歩兵第十五聯隊長 
河野通好撰併書

と言うのですが、ここに立つ松の木はどうやら「飛龍松」ではないらしいのです。
「高崎の明治百年史」に、こうあります。
(飛龍松)の位置は第三大隊の前庭で(現第二中学校と、裁判所との堺のあたり)ここに後年碑が建てられた。
この碑は現在は、連隊跡の解放によって、連隊の外堀の土堤、旧営門右側のその上に移されていて、そこに古来からある大松があり、あたかもその松が飛龍の松の如き感じを与えるが、飛龍の松は既に枯れてない。」

ということで、本当の「飛龍松」はここにあったようです。

今ある松は正しくは「大手の松」と言うそうです。
でも、ま、いいでしょう、「飛龍松」で。

旧高崎城内は明治十年(1877)「高松町」と定められました。
町名の由来について、昭和二年(1927)発行の「高崎市史」では「有名ナル露ノ松ヲ記念センタメ命ゼシナリ」となっています。
「露の松」というのは、城内にあった不思議な松の木のことで、寛政元年(1789)川野辺寛著「高崎志」にこう書かれています。
梅雨(露)松ハ 二(ノ)丸北方ノ土居上ニアリ  古木ニシテ枝ヲ垂ル 入梅節ニ至レバ其葉黄ニ變シテ枯ルガ如シ 出梅ニ及テ靑葱(せいそう:青々と茂ること)ニ復(もど)ル 故ニ土俗梅雨松ト名ツク」
梅雨に入ると葉っぱが黄色く枯れたようになって、梅雨が明けると青々となるというんですね。
面白い話ですが、いつ枯れるか分からないような松の木を町名の由来とするというのも、どうなんでしょう。
現に「高崎市史」にも「明治ノ初年全ク枯死ス」と書いてあるんですから。

「高崎市史」よりずっと前、明治十五年(1882)に土屋補三郎(老平)が著した「更正高崎旧事記」(こうせい・たかさき・くじき)には、こう書かれています。
高松ノ名称ハ、松ハ延齢ノ木ニテ疆(きょう:限り)ナキヲ祝ヒ、以テ松ノ名ニ高ヲ冠ラシムハ高ハ大イナル意ニアレバ也。
又松ハ松平氏ノ領セシ城ノ名残アリテ、是モ由アルナリ。(略)
往古当地ヲ松ガ崎ト称セシ旨伝承アリ、且高崎ノ高ノ一字ヲ取、高松町と号クル也。」
こちらの方が納得できそうですね。

「もてなし広場」の北西角に、もう一つ「十五連隊」に関する松があります。

昭和九年(1934)の陸軍大演習に於いて、天皇陛下が営内で講評したのを記念して植えた松で、「振武松」というんだそうです。

昭和四十三年(1968)に建てられた「十五連隊」の顕彰碑が、音楽センター前広場にあります。

「明治百年」の記念として建てられたものらしく、「十五連隊」の戦歴がズラズラと刻まれています。

もうひとつ、昭和五十一年(1976)に建てられた「歩兵第十五聯隊趾」碑もあります。

その根元の「趾碑之由来」碑にも、「顕彰碑」よりもさらに詳しい戦歴が刻まれていますが、その末尾に刻まれている言葉が心を打ちます。
憶えば 此の地に兵営が創設されて七十二星霜 この間練武の貔貅(ひきゅう:勇ましい兵)三十数万 華と散った英霊実に五万二千余柱の多きを算(かぞ)え 寔(まこと)に痛恨の極みである
茲に県内外の関係者相寄り相議(はか)り 嘗ての正門歩哨の位置に 聯隊創設の日を卜(ぼく:良し悪しを判断)し 上毛の銘石を副えて趾碑を建立 史実の一端を録し 祖国鎮護の礎石となった英魂を慰め その往昔を偲び 以て戦禍の絶無と揺るぎなき人類の平和を冀求(ききゅう:強く願い求める)し祈念する」

私も、心から冀求、祈念します。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年10月08日

高崎唱歌散歩-10番 ♪明治三十七八年・・・

明治三十七八年
日露戦役記念園
其外(そのほか)高崎裁判所
学校市役所ある処

前回9番の歌詞の最後は「大手前の広小路」でした。
「大手前」は高崎城大手門(追手門)前のことで、連雀町との喰い違い木戸内側の広場でした。
明治四十三年(1910)の図では15連隊の「営門」となっていて、その前の道路はまさに「広小路」です。

「営門」前の三角部が「日露戦役記念園」です。

下の写真で玉石垣に囲まれている所がそうです。


記念園の中には戦歿慰霊碑とか戦利品とかがあったんでしょうか。
別角度から撮影されてる写真で見てみましょう。


ちょっと分からないですね。

「日露戦役記念園」が、なぜここに設けられたのか。
「新編高崎市史 通史編4」にそれをうかがわせる記述があります。
明治三十七年(1904)の「坂東日報」によると、五月二十五、二十六日にかけての、十五連隊緒戦の南山の戦闘で、これを占領した翌日に、市民有志の「高崎源兵隊」の提灯行列が行われている。
さらに高崎市主催の大祝勝会は「旅順陥落の日を待て之を行う筈なり」と付記されている。
五月十七日号には「高崎の提灯行列順序」と題する記事がみられ、「高崎市にては、本日一大提灯行列を挙行すべく既にその準備に着手した」と報じた。
旅順陥落を待っての祝賀行進の準備は、市長を委員長に、各町組長を委員として進められた。
各町は先頭に提灯を立て、隊列には女子と十六歳未満のものは除く、などの規則も定められ、十五連隊営門前広場を集合地として、市内を一巡するコースと市内四十八町の行列順序も設定され、旅順陥落、その時を待つばかりとなった。」
ということで、大祝勝会の集合場所を記念して造ったのが「記念園」だったのでしょう。
祝勝会の陰で、十五連隊の将校65人、下士以下1,690人、そして戦病者191人の命が失われました。

「日露戦役記念園」の後ろにあるのが「裁判所」です。


明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」には、
創設當時は高崎商業学校前の空地、即ち陸軍省用地の處にありて高崎區裁判所と稱す。
明治十年(1877)十二月今の處(現スズランの所)に新築移轉して熊谷裁判所前橋區裁判所高崎支部と稱す。
二十三年(1890)十一月前橋地方裁判所高崎支部を設置せらる。(略)
現廳舎は明治三十年(1897)中、東京下谷區二長町區裁判所を移轉建造する者也。」
とあります。


しかしこの庁舎は大正四年(1915)失火により全焼し、翌年再築されています。
ところがこの庁舎も昭和二十年(1945)八月十四日の空襲によってまたもや焼失し、戦後再建されます。
私の記憶に残っているのは、その建物でしょう。
ついぞ門の中へ入ることはありませんでしたが、威厳を感じさせる門構えと木造の建物でした。

その「裁判所」も、昭和三十九年(1964)高松町の現在地に移転し、跡地は昭和四十三年(1968)「スズラン百貨店」になりました。
その「スズラン百貨店」も、令和六年(2024)にはリニューアルされるそうですね。


最後の歌詞、「学校市役所ある処」「学校」「市役所」はここにありました。


詳しくは、過去記事をご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-14 高崎小学校跡(その1)
  ◇高崎町役場と町奉行所

あぁ、明治もだけど、昭和も遠くなったなぁ・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年10月01日

高崎唱歌散歩-9番の続き ♪池水澄みて魚躍る・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「池水澄みて魚躍る」ってのがよく分からないんですよね。
大手前に池があったという話は聞かないし、「お堀」の水が澄んでたという記憶もないんですけど、「高崎唱歌」がつくられた頃は澄んでたんでしょうか。
フナとかクチボソはいましたね。ザリガニもいてよく釣って遊んでました。

今は切り通しの所のお堀を覗くと、エサをもらえるとでも思うのか、沢山の鯉が集まってきます。


税務署と労基局の間を抜けた所は、高崎城の「巽(辰巳)門」で、15連隊時代も営門として使われていました。


シンフォニーロード開通によって、今は跡形もありません。


でも橋の名前に、「辰巳」の名称が残っています。


「高崎唱歌」の頃、ここには学校がありました。

明治三十年(1897)の地図では「発育学校」、大正五年(1916)の地図では「国振学校 深井幼稚園」となっています。

「発育学校」とは聞き慣れない名前ですが、福沢諭吉「文明教育論」の中にこんな一節があります。
学校は人に物を教ふる所にあらず、唯其天資の発達を妨げずして能くこれを発育する為の具なり。
教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり。
斯の如く学校の本旨は所謂教育にあらずして、能力の発育にありとのことを以て之が標準となし、顧て世間に行はるる教育の有様を察するときは、能く此標準に適して教育の違はざるもの幾何あるや。
我輩の所見にては我国教育の仕組は全く此旨に違へりと言はざるを得ず。」
「教育」でなく「発育」であるべきだというのですね。

この言に賛同したのでしょうか、高崎の教育者・深井仁子が明治十五年(1882)に設立したのが、私立の「発育学校」でした。
貧しい家庭の子どもを受け入れたので「貧乏学校」とも呼んだようです。
「高崎の散歩道 第十二集下」に、こんな記述があります。
明治の小学校ができた頃、誰もがよろこんで通学したのではなかった。
親の中には働手がなくなるとして反対する者もいた。小学校へゆけることは贅沢な家庭と考えられてもいた。
この深井学校は、小学校へあまりゆかない子弟を中心の学校であった。
家塾のような学校で、障子には、生徒が何度も練習した習字の半紙がはってあったという。
真っ黒の障子である。
深井先生も決して楽な生活ではなかったようだ。」

「発育学校」は、明治三十五年(1902)「国振(くにふり)学校」と改称します。
発育(教育)が国を振興させるという考えなのでしょう。
さらに明治四十年(1907)には学校の一階部分を使って「深井幼稚園」をも開園します。

深井仁子は大正七年(1918)に他界し養女のダイが後を継ぎますが、そのダイも大正九年(1920)に他界し、学校と幼稚園は廃滅してしまいます。
現在、観音山清水寺の石段に深井仁子の顕彰碑が建っています。過去記事をご覧ください。

その学校の相向いに「教会堂」「高崎教会」というのがあります。


ここは、明治十七年(1884)「西群馬教会」として設立され、明治二十五年(1892)頃「高崎教会」と呼ぶようになりました。


設立当初、信者数は増加していきますが、明治二十五年(1892)頃から急激にその数が減少します。


その理由が「新編高崎市史 通史編4」に書かれています。
このころ教会にとって大変な時期であった。
神道・仏教勢力によるキリスト教演説会や教会での信徒集会・礼拝への嫌がらせや妨害が相次ぎ、特に高山照光なる人物とその一味によって続けられてきた高崎教会への妨害は、ついに二十一年四月一日の夜の集会で、高山一味と扇動された一部聴衆による、会堂内の器物損壊事件に発展した。
高山は警察によって逮捕されたが、教会員や家族に大きな不安を与えた。
高山の背後関係ははっきりしないが、高山は「耶蘇退治神道大幻灯会」などを開催しているので、「大物」神官の関与も否定できない。」

市史では「大物神官」としか書かれていませんが、「高崎教会百年小史」でははっきり氏名が書かれています。
高山照光は高井東一等と共謀して、耶蘇教退治神道大幻燈会という会を二箇所の寺院で開き、我等の名を指し、図を示して、数百人の会衆に向って暴言と誹謗を吐き続けたのである。
宗教家の体面を汚し徳を落とし、憐れむべきことであり、悲しむべきことである。」
高崎神社宮司。郷土史研究家。

明治十七年(1884)に建てられた教会の建物は、修繕を繰り返してきたものの、昭和十一年(1936)頃にはまるでお化け屋敷のようであったと小史に書かれています。
そこで、教会堂新築の計画が持ち上がり、昭和十四年(1939)めでたく竣工となりました。


シンフォニーロード建設により、創立の地・宮元町から高崎駅東の東町へ移転したのは昭和六十年(1985)、現在に至ります。


さて、「大手前の広小路」については、次回、10番でお話することと致しましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年09月24日

高崎唱歌散歩-9番 ♪公園出でて宮元町・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「高崎公園」からお堀に沿って南北に長いのが、「宮元町」です。

明治四年(1871)にできた町で、(頼政神社)のにあるということです。

それまでは「奉行所」やその役宅、領内の米の作柄や年貢をみたてる米見役人が住む「米見町」(こめみちょう)、代官の役宅がある「代官町」という、いわば行政街でした。
明治維新で、南の「代官町」は江戸から引き揚げてきた藩士を住まわせる「南郭」になりました。


堀の土塁を切り通して付けた、公園から高崎市役所前を通ってシンフォニーロードへ抜ける道です。

私が小学生の頃は、たしか土塁はまだつながってたように思います。
土塁の上に胡桃の木が何本かあって、落ちた実を拾いに土塁の上に登ったりしてました。

昭和三十六年(1961)の住宅案内図ではもう道が抜けていますので、土塁が切られたのは私が中学生の頃らしいです。


そうそう、私、5歳くらいの時、宮元町に住んでたことがあるんです。
上の住宅案内図でが付いてる辺りです。
写真右側の青い看板が建ってる辺りだと思うんですけど、当時は行き止まりの狭い路地でした。


中島さんというお宅に間借りしてたんです。
写真はたぶん、そこのお庭で撮ったものだと思います。
庭にニワトリがいましてね。
生みたての卵って温かいんだって初めて知りました。

初めてと言えば、手押しポンプの井戸も初めてでした。
5歳の私が顔を洗うのは至難の業でして、水を出して手にすくおうとすると止まっちゃうんですから。何回やっても。
まるでチャップリンの無声映画か、ドリフのコントです。

中島のおじさんには、とても良くしてもらいました。
おじさんは、前橋の「片原饅頭」に勤めてて、時々「片原饅頭」(余りものだったのかな?)を持ってきてくれました。
もう冷えて硬くなってましたが、焼いて食べるとすごく美味しかったです。
また、私が文字を読めることを知って、「こども新聞」も取ってくれました。

一年くらいの間借り生活でしたが、我が家の暮らしは困窮してました。
その頃の母との思い出を綴った過去記事がありますけどね。

あぁ、すっかり感傷に浸ってしまいました。

切り通しの先に「税務署」とその職員の社宅がありました。
現在の市役所前広場の所ですね。


15連隊時代は、「将校集会所」「偕行社(かいこうしゃ)が置かれていました。

「偕行社」 旧陸軍将校の親睦を目的とする団体で、後に共済組合的存在として軍服など軍装品の販売も行っていた。

その前は、高崎藩主・大河内家の別邸があったそうです。

右下におしゃれな石灯籠が立っていますが、これの一部が市役所前広場に残っています。

木も、大河内家別邸時代のものが何本も残ってるそうです。
それぞれに、説明看板があるといいですね。

さて、だいぶ長くなりましたので、続きは次回ということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(2)◆高崎探訪

2022年09月17日

高崎唱歌散歩-7、8番 ♪更に踵(きびす)を廻らして・・・

更に踵(きびす)を廻らして
畦道(あぜし)東に辿り行き
頼政神社伏しをがみ
遊ぶは高崎公園地

「観音山」から踵を廻らして東に辿る畦道は、今の「観音道路」ではなく旧道です。
旧道については、過去記事をご覧ください。

「聖石橋」まで来ると、向こう岸左手に「頼政神社」の森が見えます。


その「頼政神社」を伏し拝んで、「高崎公園」に入ります。

松柏芝生に生ひ茂り
夏はすずみに冬は雪
いとどさやけき碓氷川
河鹿ほたるの名所なり

「高崎公園」の成り立ちは、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」にこう書いてあります。
抑々(そもそも)當公園設置ノ起原ハ、明治九年附近ノ有志者相議シ、大染寺ノ廃墟及ビ其庭園ヲ利用シ、多少ノ花卉(かき)ヲ寄附シ設置セルモ千餘坪ノミ、」
廃寺になった「大染寺」の跡地を付近の有志が整備したものだという訳です。
「大染寺」については、過去記事をご覧ください。

公園の烏川側に、「大染寺」ゆかりの「高崎八景」という石板が設置されています。


昭和四十三年(1968)発行「高崎市史 第三巻」掲載の「高崎寿奈子」(たかさきすなご)(宝暦五年(1755)西田美英著)に、こう記載されています。
享保(1716~1735)の始めの頃、城中風雅の士、此山より見る所の八景詩歌発句を集め、一軸となして大染寺に納む。
所謂八景は
 烏川渡舟 浅間暮雪 清水晩鐘 半田夕照
 石原晴嵐 佐野落雁 古塁夜雨 少林秋月
是なり。」
「此(この)山」というのは、「頼政神社」の社殿が建つ古墳のことらしいです。
残念ながら、この八景を描いた画幅は行方知れずになっているそうです。

ただ、この「高崎八景」、天保十年(1839)につくられた別バージョンがあるんですね。
「群馬風土記 通巻26号」に、俳山亭主人氏寄稿の「上毛老談紀」という一文があり、そこに氏が所蔵する「高崎八景」の画幅が掲載されていました。

それぞれの画題は享保版と微妙に異なっています。
なお、天保版の「鷹城」とは「高崎城」のことだそうです。

さて公園の話に戻しますが、明治九年に整備はしたものの、公園としてはちょっと見劣りするものだったようです。
再び「高崎市史 下巻」
園ノ側ニ監獄アルノミナラズ、徒ラニ(いたずらに:無駄に)児童ノ遊戯場タルニ止マレリ、」


そこで、園地の改修を試みるのですが、
明治十九年改修ヲ加ヘシモ見ルニ足ラズ、加之(これに加え)陸軍作業場ヲ旁ニ置カレ、其南部ハ所謂(いわゆる)南郭(みなみくるわ)ノ人家アリ」
という具合です。


しかし、明治三十三年(1900)にわかに公園の整備が加速します。
明治三十三年市制施行ニ至リ始メテ市會ノ議ニ上リ、爾来次第に擴張ヲ策シ、三十九年二月監獄署ノ移轉ヲ始メトシ、陸軍作業所ヲ乘附ノ地ト交換シ、人家ヲ移轉セシメ、小澤奎次郎ニ設計ヲ囑シ着々工事ヲ起セリ」
これでだいぶ公園らしくはなって来たようです。


「高崎唱歌」に詠われたのはこの頃のことなんでしょうが、その後、あることがきっかけで公園の整備はさらに進みます。
時恰(ときあたか)モ明治四十三年、一府十四縣、聯合品評會ヲ本縣ニ開カレ本市ニ教育部ヲ置カルゝニ際シ、急速ニ工事ノ進行ヲ見、加フルニ本市多年ノ計畫タル水道工事モ完成シ、剰水ヲ以テ池中一大噴水ヲ設ク、
池畔ニ樹竹花卉ヲ点綴(てんてい:散らばせ)シ、怪石奇岩ヲ配シ天然ノ美ト、人工ノ妙ト、相俟ツ(あいまつ:互いに作用しあって)ヲ始メテ本市ノ公園トシテ耻(はじ)ザルニ至レリ」

ということで、ようやく高崎市として恥ずかしくない公園となった訳です。

でも、まだ木々が幼くてちょっと寂しい感じ。
噴水も、まだ鶴の像がありません。

鶴の像については、「新編高崎市史 通史編4」にこんな記述があります。
大正八年(1919)六月、上野動物園から寄贈された丹頂鶴の一番(ひとつがい)を、市は高崎公園で飼養することにした。
また、泉水を設け、中に岩山を築いた鶴の像は、井上保三郎の寄附によるものであった。」
鶴の像が寄附されたのは昭和三年(1928)、昭和天皇の即位奉祝を記念してのことだそうです。

今は木々も大きくなりました。


「高崎市史 下巻」には、こんな記述もあります。
池水ノ流末ヲ暗渠ニ導キ、崖上ヨリ崖下ニ飛瀑トナリ潨然(そうぜん:音を立てて)之ニ懸ル、又池中ニ入リ其流末淙々(そうそう:淀みなく)烏川ニ入ル」
池の水は滝になって崖下に落ちて下の池に入り、そこから烏川に流れ込んでいたというのです。

大正三年(1914)の地図には、その二つの池が描かれています。


滝は二段になっていて、「雌雄の滝」という名が付けられていました。


崖下の公園は「下公園」と呼ばれていました。


戦後「下公園」は国道で削られ、「雌雄の滝」「比翼連理の滝」となりました。

もう少し流量を増やしたいですね。

さて、公園にて少し遊び過ぎました。
今回は、この辺で。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年09月10日

高崎唱歌散歩-6番 ♪茲に暫く憩ひつつ・・・

茲(ここ)に暫く憩ひつつ
今来し方を見渡せば
数万(すまん)のいらか立ちならび
景色ぞいとど優りける

「茲(ここ)」というのは「観音山」でしょう。
山上、あるいは石段の楼門上から高崎市街を遠望してるんだと思います。

山上からの景色は、清水寺の売りでした。
明治四十二年(1909)発行の「上毛遊覧」という本に広告が載っています。


遡って明治二十五年(1892)には、その景色が脚気療養に良いということで、こんな広告まで出しています。


下の写真は、聖石橋からの観音道路が開通しているので、昭和七年(1932)以降のものだと思うのですが、まだまだ片岡は田畑が広がり、遠く高崎を望めばまさに「数万のいらか立ちならび」という景色です。


聖石橋が真正面に見えますので、おそらく清水寺の楼門から撮影されたものでしょう。

今は楼門最上階へは上ってくれるなと、階段にビニールテープが張られています。

ま、上ったとしても木々が大きくなってしまっていて、下界を望むことはまったく出来ないのですが。


現在の市街遠望スポットといえば、山頂駐車場でしょう。


今や片岡地区まで家々がびっしり立ち並び、「数万のいらか」「数十万のいらか」となっています。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年09月03日

高崎唱歌散歩-5番 ♪春は藤波秋は月・・・

春は藤波秋は月
眺めもさえて烏川
橋を渡りて観音山
四時の散策此の処

「春は藤波」は、馬場若水の「藤花園」のことでしょう。
そこから烏川の眺めを愛でながら、橋を渡って「観音山」へという訳です。
「橋」はもちろん「聖石橋」

大正時代の写真だそうです。

まだ木橋ですね。
「聖石橋」の変遷については、過去記事でご覧ください。

木橋の維持管理はたしかに大変だったようで、明治四十五年(1912)にも架け替えが行われています。


昭和六年(1931)にコンクリート橋に架け替えられるのですが、コンクリート橋と木橋の二つの「聖石橋」が並んで写ってる珍しい写真があります。

風情という点では、木橋の方がいいなぁ。

その後、昭和二十六年(1951)には烏川河畔に国道10号線(現18号線)が開通し、昭和四十三年(1968)と四十五年(1970)に橋の左右に歩道が設けられ、平成十九年(2007)に全面拡幅されて今の姿になりました。


そして「観音山」ですが、「高崎唱歌」の頃にはまだ「白衣大観音」はありません。
「白衣大観音」が建立されるのは昭和十一年(1936)、そのずっとずっと前から「観音山」だったのです。

「清水寺」の本堂は山の麓にあり、本尊の千手観音を祀る「観音堂」が山上にあったので、人々はその山を「観音山」と呼んだのです。

因みに「高崎唱歌」の当時、「観音山」髙崎市ではなく隣の片岡村でした。


でも、高崎市民には「四時の散策此の処」だったんでしょうね。
そうそう、「四時」は時刻ではなく「四季」のことです。
今も昔も、四季折々楽しめる高崎市民憩いの山です。
もっともっと活かしていきたいものです。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年08月27日

高崎唱歌散歩-4番 ♪若松町に光明寺・・・

若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂
豊川稲荷は龍広寺
坂を下りて藤花園

若松町にある「光明寺」、左側のお堂が「夢に名を得し愛染堂」です。



なぜ「夢に名を得し」なのかは、過去記事をご覧ください。

次に「豊川稲荷は龍広寺」ですが、龍広寺の山門を潜って本堂の左手前にあるのがその「豊川稲荷」です。

鳥居の扁額には「豊川吒枳尼天」と書いてあります。
お稲荷さんと「吒枳尼天(だきにてん)」との関係は、なかなかややこしいです。
書き始めると長くなるので、詳しく知りたい方はWikipedia「荼枳尼天」をご覧ください。

現在では「龍広寺」でお稲荷さんを連想する方は少ないと思うのですが、「高崎唱歌」をつくった頃は参拝に訪れる人が多かったようです。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、こう書かれています。
寺内に陀枳尼天の堂あり、里人豊川稲荷と呼ぶ。
花柳社會の参拝者多し。」

さて次の歌詞「坂を下りて藤花園」は、おそらく皆さん、何のことだろうと思ったのではないでしょうか。
「坂」というのは龍広寺前の坂で、「車坂」と呼ばれていたそうです。

この坂を下ったところに、「藤の花の園」があったというのです。

「高崎の散歩道 第十二集下」を読んでみましょう。
『藤花園』は通称『藤だな』『馬場の藤』といわれた。
高崎藩士で教養人菅谷帰雲の門人馬場若水の家であった。
聖石橋のガソリンスタンドの裏の低地、今は住宅が密集していてその面影はないが、花の頃には茶店も出て、たまご、だんご、ところ天など食しながらの花見客でいっぱいになった。」

昭和三十六年(1961)の住宅地図を見ると、そのガソリンスタンドの近くに馬場姓の家もあります。


この辺から見ると、春には「藤花園」の藤の花がきれいに見えたんでしょうね。


「藤花園」の主・馬場若水については、「新編高崎市史」に高崎藩士とあるだけで、詳しいことは書いてありません。
何かに載ってないかと思って探してみると、平成二十二年(2010)発行の「群馬風土記(通巻101号)」に、草津町文化財調査委員の須賀昌五氏が寄稿した「馬場若水の漢詩」中に生い立ちが記載されていました。

それによると、若水は天明二年(1782)高崎藩の飛び地越後国一ノ木戸の郡奉行・馬場喜通(よしみち)の嫡子として生まれ、父の帰任により高崎に来たとあります。
「諱(いみな)は喜登(よしとみ)、字(あざな)は公淵(こうえん)、若水(じゃくすい)と号した。」というので、高崎藩分限帳にその名があるかと思って探したのですが、馬場姓の藩士は何人かいるものの、同じ名は見つかりません。

しかし、昭和三十四年(1959)根岸省三氏編「高崎人物年表」を見ると、また別の記載がありました。
「名は喜澄、通称大助、字公淵、高崎藩臣にして詩、画をよくし・・・」
通称「大助」とあるので、もういちど分限帳を見直すと、文字は違うのですが馬場大輔という名が何ヵ所かにありました。
この人が若水だとすれば、天保三年(1832)時点の役職は祐筆、石高は50石となっています。

因みに、若水さんはとても温泉好きな人だったようで、頻繁に各地の温泉を訪れては、そこで漢詩を詠んでいます。
いくつか抜き出してみましょう。
浴草津温泉
独浴温泉間暇辰 独り浴す温泉間暇の辰(とき)
横伸両足杲天真 横に両足を伸ばし天真を杲(あきらか)にす
莫言愚痴貧生命 愚痴を言う莫(なか)れ貧生に命ぜん
保養茲身奉二親 保養の茲(こ)の身二親に奉ずるを
気持ちよく入浴している幸せを感じ、両親に感謝し孝行しなくちゃという気持ちが湧いてきてるのでしょうね。

伊香保浴中作
温泉非療数年痾 温泉は数年の痾(やまい)を療(いや)すに非ずや
何好遅留繋帰騎 何ぞ好んで遅留し帰騎を繋ぐや
寄寓送迎皆薄俗 寄寓の送迎 みな薄俗
(湯宿の客の対応は薄情である)
去人吝嗇来人利 去る人は吝嗇に来る人は利なり
(去る客には出し惜しみ、来る客には喜んで迎える)
数年の病気療養のための温泉通いも、伊香保温泉にはあまりいい印象を持たなかったようですね。

歿年は「高崎人物年表」では天保五年(1834)、「馬場若水の漢詩」では天保九年(1838)となっています。


【「藤花園」推定地】



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪