2023年05月27日

高崎唱歌散歩-31番 ♪それに続ける新町は・・・

それに続ける新(あら)町は
憲兵屯所に延養寺
ここに設けし授産場は
軍人遺族の為とかや

「新町」「あら町」とひらがな表記するようになったのは平成十八年(2006)。
多野郡「新町」(しんまち)と合併したので、同じ高崎で同じ漢字表記だとどっちか分からなくなるからという訳ですが、なにも「あら町」などという野暮な表記にしなくとも、多野郡だった方を「多野新町」とすればよかったのではないかと、今だに思っております。

「新(あら)町」について「高崎志」はこう書いています。
新町ハ連雀町ノ南ニ続ク、和田氏ノ時ヨリ民家アリ、地ノ旧名未詳、
昔此所ニ飯塚常仙ト云者アリ、此辺ノ荘屋也、
慶長四年井伊家当城ニ移徙アリシ日、常仙酒殽ヲ奉シテ祝賀シ、且其日竈火焚始ノ薪ヲ献ス、
此事ヲ嘉例トシテ是年城主ヨリ常仙ニ命ジテ五月端午殿閣諸門ニ菖蒲ヲ葺シメ、又其年ノ暮ニ松飾ヲナサシメラレシト也、今ニ至迄、城中諸門ニ菖蒲ヲ葺、門松ヲ建ルニ、此町ヨリ人夫ヲ出シテ其事ヲ為コトハ、井伊氏ノ嘉例也ト云、新町ノ名ハ其義未詳、城主ヨリ賜リシト云伝タリ、」
和田氏の頃すでに民家があった地で、慶長四年(1599)に井伊直政箕輪から移って来た時、荘屋をしていた飯塚常仙という人が酒肴や薪を献上して祝賀したところ、それから毎年城中諸門の飾り付けを命じられるようになり、城主から「新町」という町名を賜ったと伝わっているということですね。

「憲兵屯所」は、憲兵の詰所のようなもんでしょうか。
「兵の詰所」なんだから十五連隊の中に設ければ良さそうなものですが、その役務はあくまでも軍を取り締まる警察組織なので、営外に置いたのでしょう。

新町のここに「憲兵屯所」はありました。


大正五年(1916)の地図ではこうなっています。

ちょっと字が潰れていて読み取りにくいですが、「矢島八郎」の隣に「憲兵分隊」と読めます。
「憲兵分隊」の土地は、矢島八郎が宅地の一部を提供したからです。

昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」に、こう記載されています。
設置ノ始メハ第一憲兵隊群馬憲兵分隊ト稱シ、(明治)二十九年一月十三日、嘉多町覺法寺ニ事務所ヲ設ケ、前橋町ニ屯所ヲ置ク、同年五月十五日、今ノ廳舎落成ス、該地所ハ故八島八郎ノ寄附ナリ
同年四月、渋川、桐生兩町ニ屯所ヲ置カリシモ、三十六年六月十八日廢セラル。
同三十六年四月一日、今ノ名ニ改メラル、創立當時ハ群馬分隊首部及ビ高崎屯所ヲ置カレ、三十一年十二月一日高崎憲兵分隊本部高崎町憲兵屯所ト稱シタリ、三十七年四月一日、高崎憲兵分隊ヲ廢止シ、東京憲兵分隊高崎市分遣所トナリ、四十一年三月十日、宇都宮憲兵分隊高崎分遣所ト改正セラレ、同四十四年八月十五日編成法改正ノ結果、再ビ元ノ名稱、則チ高崎憲兵分隊ト偁シ・・・」
と、まぁ名称はコロコロ変わったようですが、「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)当時の正式名称は「宇都宮憲兵分隊高崎分遣所」で、巷では「憲兵屯所」で通っていたんでしょう。

この「憲兵屯所」が建設される五年前の明治二十四年(1891)、矢島八郎はここに家を新築します。
ところがその四年後、通町から出た火は663戸を焼く大火となり、矢島八郎の家も全焼してしまいます。
矢島邸の門は高崎城「子の門」を移築したものでした。


矢島は、焼け落ちた鯱鉾の破片を集めて屋根の辺りを見上げ、長大息をしていたと言います。
焼けて更地になったことも、「憲兵屯所」用地を提供する要因になったのかも知れません。

大正六年(1917)頃の「憲兵屯所」です。


昭和二十九年(1954)、「憲兵屯所」跡地は「前橋地方法務局高崎支局」になりました。


平成二十九年(2017)のGoogleストリートビューには、「憲兵屯所」への入口跡が写っています。
「金子写真館」「マスムラ酒店」の間が入口跡です。


「延養寺」については、過去記事をご覧ください。
   ◇史跡看板散歩-26 文学僧・良翁

さて、「ここに設けし授産場」ですが、これにも矢島八郎が関わっています。
「矢島八郎銅像建設趣旨書」に、こう記されています。
翁が七十年の生涯を通じて就中其功績の顯著・沒すべからざるは高崎上水道敷設と、廢兵遺族救助法の實施なりとす。(略)
若し夫れ廢兵遺族救護法に至っては、翁が一將功成りて萬骨枯るゝの悲慘事を日露戰役直後の事實によって見分し、國家が不具廢疾の軍人軍屬並に遺族に酬ゆる所の薄きを嘆き、三十九議會に該法律案を提出し、熱誠以て輿論に訴へ、遂に其目的を達せるもの・・・」



戦争さえなければ、そんな授産場も要らなかったんですよねぇ。


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2023年05月20日

高崎唱歌散歩-30番の続き ♪警察本部に郡役所

行けば四つ辻連雀町
ここも商業繁華の地
郵便局や新聞社
警察本部に郡役所

旧高崎城内に群馬県庁が置かれた明治五年(1872)、新紺屋町「金剛寺」「警察事務所」が置かれました。

「東宝映画館」があった所ですね。
「金剛寺」は慶長四年(1599)に箕輪から移ったと伝わっていますが、明治二年(1869)に江木町「無縁堂」に合併され、明治八年(1875)には廃寺になっています。

一時連雀町「安国寺」に置かれた「警察事務所」は、明治九年(1876)「高崎警察署」と改称し宮元町の町角に新築移転します。
しかし、その建物は狭隘と粗造という理由で、翌明治十年(1877)立派な二階建洋館を連雀町に新築して移転したのです。


警察組織は昭和二十三年(1948)国家警察と自治体警察(市警察)に二分され、「高崎警察署」「高崎市警察署」と改称されます。
翌二十四年に宮元町に移転されますが、昭和二十九年(1954)群馬県警察に統合されて、呼称はまた「高崎警察署」に戻りました。


昭和四十八年(1973)台町「県立高崎商業高校」跡地に移転し、現在に至ります。

つぎの「郡役所」は明治十一年(1878)の創立です。
この年、群馬県は利根川を境に東西に分割され、左岸(前橋側)を「東群馬郡」、右岸(高崎側)を「西群馬郡」とし、前橋高崎にそれぞれの「郡役所」を置いたのです。

高崎は、明治五年(1872)に定められた行政区画「大小区制」により「第五大区」となり、その「区務所」宮元町にあったので、それを「西群馬郡役所」にあてました。

なかなかおしゃれな洋館です。

明治十一年(1878)の明治天皇東北御巡幸の際には行在所として使われ、翌年は皇太后伊香保行啓の際にも御宿所にあてられたそうです。
しかし残念なことに明治二十八年(1895)四月、付近からの出火により灰燼に帰したとのことです。

類焼後、通町の大信寺に仮庁舎を置きましたが、十二月には連雀町に新庁舎を新築します。
その翌年明治二十九年(1896)の郡区制改正により、「東群馬郡」「勢多郡」になったことで、「西群馬郡」は「西」が取れて「群馬郡」になりました。


当時の高崎は、まだ小さな「高崎町」でした。


明治三十三年(1900)高崎「市」になって「群馬郡」から離脱しますが、「郡役所」は大正十五年(1926)に廃止されるまで高崎市に残っていました。


連雀町「警察署」「郡役所」の跡地は、つい最近までその関連施設に使われていました。


その跡地に造られた「藤五デパート」がなくなったのは、ずいぶん前のような気がするのに・・・。


  


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2023年05月13日

高崎唱歌散歩-30番 ♪行けば四つ辻連雀町・・・

行けば四つ辻連雀町
ここも商業繁華の地
郵便局や新聞社
警察本部に郡役所

連雀町の四つ辻は、高崎の元標です。
   ◇町の元標、道の元標

「連雀町」で思い出すのは、故高階勇輔先生です。
まだブログ駆け出しの13年前、初めて先生の楽しい講演を聴講したのですが、その時の演題が「連雀町今昔」でした。
さわりの部分をお聞きください。
(講演全体の動画はこちらから)

歌詞に出てくる「郵便局」「新聞社」「警察本部」「郡役所」は、こんな位置関係です。


まず「郵便局」ですが。
明治維新後の郵便取扱は民営の「郵便馬車会社」「中牛馬会社」が担っていましたが、明治六年(1873)に官営の「高崎郵便取扱所」が設置されます。
「高崎郵便局」と改称されるのは、その二年後です。

「高崎郵便局」は初め新(あら)町にありましたが、明治十八年(1885)に局舎が類焼し、明治二十四年(1891)連雀町に新局舎を造り移転してきます。
ところが、明治三十七年(1904)またもや類焼に遭い、翌三十八年(1905)に新築されたのがこの局舎です。


昭和二十年(1945)戦時疎開で、郵便業務は八島町、貯金保険業務は宮元町、電話業務は飯塚町に分散移転し、連雀町の局舎は取り壊されますが、その連雀町は終戦当日の同年八月十五日深夜に空襲を受けることになります。


そして二年後の昭和二十二年(1947)連雀町の元の場所に新局舎を再建するのですが、昭和二十六年(1951)一月またまた火災に遭ってしまいます。
よくよく火難の相があるようです。


その年の七月に急いで再建し、昭和三十四年(1959)には新たな局舎を建築します。
でもその局舎が使われたのはわずか十九年、昭和五十二年(1977)には高松町へ移転して現在に至ります。

話変わって、「新聞社」です。
連雀町にあった「坂東日報社」は、明治三十五年(1902)の創刊で、創立者は前橋の弁護士・大島染之助という人です。
当初の発行部数は「上毛新聞」を上回る勢いでしたが、集金がうまくいかず急速に部数を減らし、わずか四年で廃業することになります。


「坂東日報」の主幹を務めていた豊国覚堂は同紙廃刊の年、同じ連雀町「上野日日新聞社」を創立します。
しかし、一年経った明治三十九年(1906)吾妻出身の木檜(こぐれ)某に経営権が渡ると、豊国は翌四十年に第二次「坂東日報」を発刊します。
あくまでも、高崎での理想の新聞を発行したいという願いからだったといいますが、部数は伸びず明治四十二年(1908)再び廃刊となってしまいます。

一方の「上野日日新聞」は、大正二年(1913)前橋「上野新聞社」に吸収合併されます。
高崎の新聞社もこれまでかと思いきや、「上野新聞社」の方から連雀町「上野日日新聞」の社屋に移ってきてくれたのです。
その後、なんやかんやはありましたが、日中戦争以降の言論統制により、県内の新聞が「上毛新聞社」一社に統合される昭和十五年(1940)まで頑張り続けました。

ということで、高崎唱歌に歌われた頃の連雀町の新聞社は、「上野日日新聞社」と第二次「坂東日報社」の二社だったのでしょうね。

「警察本部に郡役所」は、次回に送りましょう。


  


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2023年05月06日

高崎唱歌散歩-29番 ♪九蔵町すぎ田町とて・・・

九蔵町すぎ田町とて
ここぞ名高き上州絹
五十(ごとお)の市の売買は
数万(すまん)の高に上るとか

「上州絹」については「新編高崎市史 通史編3」に、こう書かれています。
市域の村々で『女稼ぎ』として生産されていた絹は生絹(きぎぬ)と呼ばれるものが多かったが、玉糸を原料とする太織(ふとり)や真綿(まわた)もあわせて生産されていたのである。
これらの生絹や太織は、高崎や藤岡など最寄りの絹市で売買していたが、当時、江戸や京都の都市問屋商人の間では桐生を中心に織られていた綾織(あやおり)絹類を桐生綾、あるいは上州綾と呼んでいたのに対し、高崎市域を含む西上州の生絹を上州絹と呼んでいた。」

高崎藩は城下政策として、旅籠は本町と新(あら)町、紙は連雀町、そして絹・綿は田町というぐあいに、町ごとにできる商いを制限していました。
田町の「市」については、「高崎志」にこう書いてあります。
毎月五十ノ日市アリ、此市ニ限リテ絹綿売買アリ、元禄三年(1690)庚午八月ヨリ、他町ニテ売買スルヲ領主ヨリ禁セラルゝガ故也。」

市が開かれる「五十の日」とは、「五」「十」の付く日ということで、月に六回あるので「六斎市」とも言われます。
六回と言っても丁目毎には二回づつで、一丁目が十日と二十五日、二丁目が十五日と三十日、三丁目が五日と二十日に決められていたそうです。

市の立つ日には、江戸やその他の地から集まる仲買人が、常設店舗の前に仮設店舗(露店)を開き、近郷の農民が持ち込む生絹や太織を、口銭を取って売りさばくわけです。

その間、農民たちは町なかを見物し、絹が売れたお金で買物もしますから、”お江戸見たけりゃ高崎田町”の賑わいとなる道理です。

田町の絹市は明治になっても盛んに行われ、明治二十七年(1894)には通りから一歩入った所に、常設の「絹市場」が新設されます。



こうして高崎の商業を牽引していた「絹市場」ですが、昭和十七年(1942)に閉鎖されてしまいます。
戦時統制で全ての物資が軍事優先とされたからです。

戦後になって、「絹市場」跡地には「日本裏絹組合联合会」「群馬県絹人絹織物調整組合上州支部」が置かれ、その奥にあった「高崎絹株式会社」では、絹の卸が行われていました。


その「高崎絹株式会社」も昭和四十二年(1967)に問屋町へ移転して、「絹市場」跡地は駐車場になりました。
それでも十三年前は、まだおぼろげに面影を残していたのですが・・・。
   ◇すもの食堂から絹市場へ

「すもの食堂」も、「珍竹林画廊」も、「高井京染店」もなくなってしまいましたが、その代わりにこんな素敵な「田町絹市場」ができました。


この広場を使って月の何日か、「クラフト市」でもやったらどうでしょう。
かつての「六斎市」のような賑わいが取り戻せたらいいのにな、と思います。


  


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2023年04月29日

高崎唱歌散歩-28番 ♪末広町なる新道は・・・

末広町なる新道は
前橋市へと出づる道
左に建てる建物は
県立高崎女学校

「末広町」という町ができたのは意外と遅く、明治三十五年(1902)です。
「新道」ができたのは、それよりずっと前の明治二十四年(1891)頃で、「前橋新道」と呼ばれました。


「新道」ということは「旧道」がある訳でして、「高崎の散歩道 第5集」を読んでみましょう。
明治初期までの前橋道は、貝沢・下日高・新保田中・箱田・小相木を経て利根川を渡り、実正(さねまさ)の関所から前橋へ入るのが近道であった。」

上の地図で言うと、「前橋新道」より一本東の、高砂町から前橋へ向かう通称「実政(さねまさ)街道」です。

続きを読んでみます。
明治五年(1872)、高崎から前橋に県庁が移転すると、県庁裏の利根川に舟を並べて板を渡した舟橋・曲輪橋が仮設され(現在の群馬大橋のすぐ上手)、前橋・高崎間の近回りコースとして、内藤分(ないとうぶん)村(現在の石倉)から古市・江田・日高・井野・貝沢経由の新道開発が始まった。
これの開通が明治七年(1874)ごろ、それまであった村道、野道をつないだ幅3m足らずのバラス道で、蛇行している部分もかなりあった。
すでにこの時、沿道村民はこの道を、前橋新道とか前橋復還(往還?)と呼んでいた(貝沢町井田義助氏蔵「明治十年貝沢村地誌」より)。」
ということで、明治七年には「前橋新道」と呼ばれる道ができてた訳ですが、貝沢からは「実政街道」を使いました。

この道が、「御幸(みゆき)新道」と呼ばれた時期もあります。
その後、明治九年(1876)に高崎安国寺に戻っていた県庁が再び前橋に移転し、さらに明治十一年(1878)、明治天皇行幸という大事に先駆けて再び新道整備が行われ(略)、行幸を記念して、この道は『御幸(みゆき)新道』と名付けられたが、その呼び名も一時的なもので、その後自然に忘れ去られ前橋新道という呼び名の方が長く親しまれて現在まで残っているというわけである。」

その十年後、「前橋新道」は新しいルートに変わります。
しかし、この前橋新道の高崎側、本町三丁目から普門寺跡を通って末広町、飯塚(飯玉)の踏切をわたり、塚沢小学校裏のホザナ料理学校の辺までは、当時まだ開かれていなかった。
この区間の新道が開通するのは、明治二十一年(1888)から同二十四年(1891)にかけて行った、高崎前橋間の道路改修整備後のことである。」

こうして、「前橋新道」全線が開通した訳です。
この「前橋新道」は大正九年(1920)「国道九号線」となり、後に「国道17号線」となっていきます。

「県立高崎女学校」は明治三十二年(1899)の開校なんですが、その時まだ校舎ができておらず、一年間「春靄(しゅんあい)館」を仮校舎として使用していました。

新校舎の建築はその年の夏ごろから始まったそうですが、敷地は水田地帯だったので、すぐ北の土を掘り取って土盛りすることから始めたと言います。
そして、翌三十三年(1900)四月、本校舎が竣工します。
土盛り用の土を掘り取った所は、水が溜まって池になりました。



校庭の樹々は、明治三十七年(1904)に日露戦争を記念して職員・生徒一同が植樹した200本のシイノキと、明治四十年(1907)に卒業生の一人が寄贈した40本のクスノキだそうです。


つい最近、「高等女学校」跡である高崎中央公民館の庭に、こんな「名所旧跡案内板」が建てられました。



「案内板」は、もうひとつあります。



よく見ると、たしかにクスノキには補修した跡が残っています。


高崎が初めて空襲を受けたのは、昭和二十年(1945)七月十日でした。
以降、終戦当日となる八月十五日の深夜まで、たびたび空襲を受けることになります。



「高等女学校」が爆撃を受けたのは、八月五日の夜でした。

風船爆弾をつくるために運び込まれていた火薬が、爆撃により誘爆を起したといいます。
  ◇風船爆弾と高崎高等女学校(1)
  ◇風船爆弾と高崎高等女学校(2)

クスノキは、戦前・戦中・戦後を見ていたのですね。
そして今、「新しい戦前」という囁きを聞きながら、世の行く末をじっと見つめているようです。

「新しい戦中」が来ないことを祈らずにはいられません。


  


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2023年04月15日

高崎唱歌散歩-番外編 山田町の昇明社

明治三十年(1897)の「髙﨑街全圖」を見ると、山田町「昇明社」というのがあります。


どんな会社なんでしょう。
「新編高崎市史通史編4」の索引で「昇明社」を引くと、こんな表の中にありました。

明治二十三年(1890)にできた製糸会社で、須藤市之助という人が代表になっています。
しかし、表以外の記事は何もありません。

いろいろ調べていると、故高階勇輔先生が「商工たかさき」に連載していた「高崎産業経済史」に、少し記載がありました。
旭社は明治二十年現在で資本金額で第一位を占め、翌年、生産が軌道に乗って営業高一万円を超え、他社を圧倒する存在であった。(略)
他方、高崎の両替商の須藤清七による昇明社が設立されたのは明治二十三年のことである。
この二社がこの時期の高崎製糸業で支配的地位を占めていたとはいえ、製糸諸結社の簇生的状況の中から、都市商業資本による問屋制型改良座繰製糸によって高崎周辺部にその支配の網の目を張りめぐらすには至らなかった。」
おや?と思うのは、「須藤清七が設立」とあることです。
前掲の表では、代表者は須藤市之助となっていましたが・・・。

ここで、須藤清七について少し書いておきましょう。
高崎の大実業家でありながら、その生涯を著したものは意外と少ないのですが、多胡碑記念館和田健一氏の「石碑めぐり」の記事が実によくまとまっているので、使わせて頂きます。


少し補足すると、父は岡田平左衛門、母は竹女、清七の幼名は柳太郎
元旦の生まれだと言いますから、そこからして傑物です。
幼くして少林山達磨寺の僧に書算を習い、家業の農事を嫌って村の群童と商いごっこをして遊んでいたと言います。

志を抱いて江戸へ出たのは嘉永元年(1848)十四歳の時、働きぶりが主人に認められ、十七歳にして番頭として店の一切を任されるようになります。
独立を決意して鼻高村の故家へ帰ったのが安政三年(1856)(安政五年説もある)四ッ屋町に移って古着商を始めるのはその翌年のことです。

自分の衣類を売って得た金十円を元手に、日々古着を背負って市内外各地を行商して歩き、次第に売上を増やしていきました。
そして二十四歳で妻を娶り、妻の姓である須藤となります。
(参考図書:「上毛近世百傑伝」)

前掲「石碑めぐり」の文中、「蚕種業に転じて大失敗」というのが出てきますが、「上毛近世百傑伝」ではこう書かれています。
時に年廿七歳 后(の)チ高崎藩の竝用達(御用達)ヲ申付ラル君ハ 蠶種ヲ輸出セント欲シ 數萬枚ヲ越後國ヨリ買入レ 横濱ニ持チ往キタルニ 意外ニ失敗ヲ生ス
君數年ノ刻苦奔走貯蓄シタル金圓一時ニ消滅ス
嗚呼恐ル可キハ商業ナル哉」
それまでの貯蓄が一時に消滅したというんですから、えれーこん(えらいこと)です。

それにもめげず再び横浜で成功をおさめ、明治三年(1870)高崎九蔵町「第二国立銀行」の真ん前に両替店を開くわけです。


そして明治二十三年(1890)山田町に器械製糸工場を設立し、「昇明社」ブランドで海外貿易に乗り出します。



しかし、明治二十八年(1895)の「第四回内国勧業博覧会」の審査では、あまり良い評価を得られませんでした。

「昇明社出品は糸質不良にして絡交(らっこう:生糸を枠に巻き取る際に生糸に与える一定の秩序)不正、加うるに色沢(しきたく:色つや)また佳ならず」なんて言われちゃってます。

そしてやがて衰退していくのです。
「高崎産業経済史」の続きを読んでみましょう。
さて、「第三次全国製糸工場調査表」(1900年現在)には昇明社は掲載されていない。
また明治三十年の「勧業年報」に記載されたのを最後に、「年報」に登場しなくなる。
おそらく同社はこの頃から急速に衰退過程を辿ったものと推定される。」

明治三十三年(1900)65歳の清七は家政を嗣子・市之助に任せ、自身は別荘「椿荘」(現・暢神荘)で悠々老後を送ろうと思っていたようです。

が、高崎市に於いて水力電気事業の計画が起こり、もうひと頑張りすることになるのですが。

一方「昇明社」は、明治四十三年(1910)「信用販売組合甘楽社山田組」と改称されますが、昭和四年(1929)発行の「上毛産業組合史」には「経営を誤り中途で解散するの止むなきに至ったか」という記述があります。

さて、かつて「昇明社」があった場所は何処で、今はどうなっているんでしょう。
「昇明社」の住所は山田町9番地だということが分かっており、明治時代の道筋も割合と残っていますので、ここら辺だなと見当がつきます。


「高崎聖オーガスチン教会」の真ん前です。


「山田町」、なかなか面白い歴史をもつ町です。


  


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2023年04月08日

高崎唱歌散歩-27番の続き ♪北に連なる町々は・・・

九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町

九蔵町の北に連なるのは、椿町、高砂町、山田町です。


「椿町」(つばきちょう)は、慶長三年(1598)にできた町で、箕輪「椿山権現」を勧請する予定でその町名を付けたのに、井伊直政が慶長六年(1601)に佐和山へ移封することになっちゃったので、「椿山権現」の勧請は取りやめたけど町名は残ったという町です。

椿町で有名なのは、料亭「暢神荘」(ちょうじんそう)でしょう。



立派な庭園が自慢の老舗料亭です。

それもそのはず、かつての「高崎の三名園」のひとつで、唯一今に残る名園です。

その由来が、箸袋に記されています。


「暢神荘」を東へ行くと、「西郷山法華寺」に突き当たります。


このお寺について、「高崎志」はこう書いています。
昔箕輪椿山ニ法華堂トテアリシヲ、此ニ移ス、井伊直政ノ家臣西郷藤左衛門ト云者、中興シテ寺トス、
土俗相伝フ、慶長三年西郷藤左衛門町割検地ノ事ニアヅカリシガ、此地東北ノ隅ニシテ何レヘモ属シ難キ地ナル故、直政ニ請テ箕輪ノ法華堂ヲ移シ、中興シテ寺トスト云、故ニ西郷山ト号スト云伝タリ、」
「法華寺」を中興した西郷藤左衛門は、高崎城下町の町割をプランニングした人物だった訳です。

西郷家は名門で、徳川家康の側室・西郷局(さいごうのつぼね=お愛の方)は、二代将軍・秀忠の生母になります。
西郷局の従姉弟にあたるのが藤左衛門正員(まさかず)で、家康から井伊直政に遣わされ、箕輪の領地統治を担当していたと言います。(井伊直政家臣列伝 西郷正員 ~秀忠生母の一族~)

藤左衛門がプランニングした時の中山道は、本町から椿町を抜け、法華寺の前を南に折れて通町から倉賀野へ抜けるのが街道筋だったそうです。

藩主が井伊(十二万石)から酒井(五万石)になったので、中山道は椿町を通らず、手前の本町三丁目で南へ折れることになりました。
そうならなければ、椿町はもっと大きな町になっていたかもしれませんね。

「高砂町」(たかさごちょう)は明治五年(1872)にできた町で、それ以前は「江木新田」(えぎしんでん)と呼ばれていました。
過去記事がありますので、ご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-31 高砂町(1)

「山田町」(やまだちょう)は、「龍見町」と同じように、江戸詰めの高崎藩士を受け入れるためにつくられた町で、赤坂村の地内だったので「赤坂郭」と呼ばれました。
今も、それを彷彿させるような建物が残っています。


「山田町」という町名になるのは明治六年(1873)なんですが、なぜ「山田町」なのか、ちょっと不思議です。

田島桂男氏著「高崎の地名」にはこう書かれています。
この赤坂郭が、城の艮(うしとら:丑と寅の間、東北のこと)にあたり、艮は山の意味を持っていることから命名された。」

「高崎の散歩道 第十二集上」での金井恒好氏もこう書いています。
艮は鬼が出入りするという鬼門の方位。
鬼は伝説上の山男であることから、鬼門である艮の方位を山と見立てて山の字を、また、赤坂郭は赤坂村の田地に置かれたので田の字をとり、これを組合わせて山田町と命名した。」

鬼が出入りする町なんて、あまり縁起の良い町名とは言えませんよね。
教養・博識に富んだ昔の人がそんな町名を付けるでしょうか。

私なりにちょっと調べてみたのですが、そもそも「鬼門」という考え方は、中国の「山海経」(せんがいきょう)という伝説的地理書や中国民話に出てくるもののようです。
ものによって多少のちがいはありますが、おおよそこんな話です。
滄海(東海)のなかに度朔山(どさくさん)があり、山上には大桃木がある。
三千里にもわたって曲がりくねり、枝の間の東北方を鬼門といい、そこは萬鬼(ばんき)が出入りするところとなっている。
山上には二神人がいて、萬鬼をみはっていた。
悪害をもたらす鬼は葦の縄で縛ってとらえ、虎の餌食とした。」
(Wikipedia)
ということから隠居が思いついたのは、こうです。
赤坂郭はたしかに鬼門ではあるけれども、「山」の上には二人の神人がいて、鬼が悪さをしないようにちゃんと見張っているから大丈夫だよ、これから発展して「田町」のように栄えるんだよ。
そんな思いを込めた町名だったのではないかと、ひとり思っている次第です。

「山田町」については、もう少し書きたいことがあるので、また次回に続けましょう。


  


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2023年04月01日

高崎唱歌散歩-27番 ♪九蔵町には大雲寺・・・

九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町

「九蔵町」という町は、その由来からして面白い町です。
過去記事「史跡看板散歩-28 九蔵稲荷」をご覧ください。

「大雲寺」は、高崎城の鬼門除けとして慶長四年(1599)に箕輪から移されたお寺です。


もう14年前になりますが、高崎歴史資料研究会代表の中村茂先生から「大雲寺に山本勘助の子孫の墓がある」と教えて頂き、驚いたことがあります。
今では、多くの人に知られているようです。

「大雲寺」には他にも有名人のお墓がいくつもあります。
寺所蔵の市重要文化財「水墨雲龍図」を描いた武居梅坡とそれに補筆した娘婿の梅堤、梅坡の養父で歌人の武居世平の墓が並んで建っています。


梅坡梅堤の作品は、あの「和泉庄御殿」にもありましたね。



武居世平の歌は、成田山光徳寺にある和田三石のひとつ「上和田の円石」に刻まれています。


絵師とすれば、江戸末期から明治にかけて活躍した高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(歌川芳輝)の墓も「大雲寺」にあります。

ただ、どこにあるのかちょっと分かりにくい。
芳輝の本名は芳三郎、江戸日本橋から上州高崎の旅籠屋「壽美餘志」(すみよし)を営む田中家へ婿入りします。
その田中家の墓域が北東隅にあるのですが、芳輝の墓は物陰にひっそり隠れるように建っています。

戒名「流芳院永寿椿翁居士」がようやく読めました。

芳輝の子と孫は、それぞれ有名な旅館や割烹店を営みます。
  ◇駅から遠足 観音山(35)

それに因む三基の墓石が同じ墓域に並んで建っています。

台石に「宇喜代」「高崎館」「錦山荘」と刻まれているのが読めるでしょうか。
そのどれもが閉館してしまったのは、誠に残念なことです。

九蔵町は、高崎城鬼門除けの「寺町」でしたが、明治に入って二つの銀行が建ち並ぶ「銀行街」になりました。

その先駆けとなったのが、「第二国立銀行」「茂木銀行」です。
過去記事がありますので、そちらをご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-117 旧第二国立銀行と茂木銀行跡

さて長くなりました。
「北に連なる 椿高砂山田町」については、次回ということに。


  


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2023年03月25日

高崎唱歌散歩-26番 ♪本町一・二・三丁目・・・

本町一・二・三丁目
商店櫛比(しっぴ)軒ならべ
新規を競ひて売出(うりいだ)
市内第一繁昌地

現在の本町一・二・三丁目の区割りはこうなっています。


「櫛比」とは、「櫛の歯のように隙間なく並んでいる様子」を言うそうです。
明治三十七年(1904)「群馬県営業便覧」に載っている本町の商店群ですが、たしかに、びっしりと並んでいます。

その中で聞き慣れないのが「勸工塲」(かんこうば:勧工場)でしょう。

「勧工場」については、「新編高崎市史 通史編4」にこう書かれています。
第一回の内国勧業博覧会が明治十年(1877)八月に東京で開かれた。
これは各種の国際博覧会に触発され、かたわら政府の掲げる殖産興業の実をあげるために企画されたもので、上野公園を会場として開催された。
出品物の即売も行われ、好評のうちに終了したのち、残った商品を処分するため新たに陳列所を設け販売した。これが勧工場のはじまりであり、のち各地に私設勧工場が続出した。
高崎でも明治二十一年(1888)、本町一丁目の北側に勧工場が開店した。
これまでの伝統的な商いのかたちであった「座売り」を排除して、掛け値なく「正札販売」に徹し、取扱品目も玩具・文房具・化粧品・食料品を除く雑貨類を商う小型のデパート方式の店舗が現れたのである。
勧工場の出現は、当時の商人に衝撃を与え、商店近代化に影響を与えた。」

「高崎繁昌記」にイラストが載っています。


中の様子は、こんな感じでした。
店内の商品はガラスケースに揃えられ、U字形の回遊性をもたせた店舗にハイカラな雰囲気を漂わせて陳列されていた。
建物の持ち主がいて、出店者を募り、彼らの支払う出品料が家賃に相当した。通常、出品料は一円五十銭から二円五十銭であった。」
(新編高崎市史 通史編4)

出店者の一覧が「高崎繁昌記」に載っています。


建物は、明治十八年(1885)に建てられた「北部連合戸長役場」を利用したそうです。


「勧工場」の出現により、人々の買い物スタイルも変化します。
これまで中流以上の家庭では買物は自宅に取り寄せて品選びをする慣習があったが、勧工場商法は、彼らをショッピングに赴かせ、陳列商品の中から自由に選んで買物したり、ウィンドーショッピングを楽しむこともできるようになった。」
(新編高崎市史 通史編4)

後に、新紺屋町にも「勧工場」ができましたが、大正末期になって共に廃業となったそうです。

法政大学イノベーション・マネジメント研究センター発行の「ショッピングセンターの原型・勧工場の隆盛と衰退」の中に、東京市の勧工場数の推移を表にしたものがあります。

これを見ても、大正期に向かって急速に数が減っているのが分かります。

同センターの南亮一氏は、その原因をこう考察しています。
老舗や有名店にとっては出店するほどの魅力がなかったということであろう。
勧工場は、自前で店舗を出せない弱小業者の集まりになりがちであった。
勧工場が誕生した当初は、陶器や美術品、最新の雑貨類など、各地の有力な手工業者などが自慢の品を出品していたが、富国強兵政策のもとで我が国の工業化、大量生産化が進むにつれて新しく生み出された工業製品のうち、あまり品質のよくないものを仕入れて勧工場で売って稼ごうとする人が増えた。
次第に「勧工場物」とは品質が悪い商品の代名詞となってしまった
売れ行きが悪くなると価格競争が起きて価格が下落し、それが商品の質の低下に拍車をかけた。
正価販売は勧工場の特長のひとつだったはずだが、勧工場の店のなかには勝手に値引きして販売する者も現れた
店員の質も問題となった。
当時、老舗の小売店では丁稚として店で働き始めた若者に対し、年長者が商いをする上での様々な知識を伝えていた。
店舗は教育の場でもあったのである。ところが、勧工場の小さな売り場は、低賃金で雇われた者が一人で店番をすることが多く、十分な教育を受けることもないまま店を任されることが多かった。
若い店員たちは店員同士で無駄話をしたり遊ぶことが少なくなかった。
こうした店員の質の低さは人々の勧工場に対する印象を悪化させた
当然、こうした勧工場に対する評価の急速な悪化は勧工場内で商売してみようという小売業者らの意欲を削ぐことになり、館内で商売をしていた小売業者らの求心力をなくし、勧工場から有力なテナントがひとつまたひとつと抜けていった。」

これは東京の勧工場についての考察ですが、高崎でも似たようなことがあったのかも知れません。
思うに、勧工場自身の問題もあったでしょうが、一般商店の方も「勧工場方式」の良いところを取り入れて、人々の満足度を上げていったということもあったのではないでしょうか。

さて、その後の本町通りの変貌ぶりを見てみましょう。

【昭和三十六年(1961)の本町通り】

まだまだ櫛の歯は健在のようです。

【昭和四十七年(1972)の本町通り】

まだ元気ですよ。

そして現在。
【令和四年(2022)の本町通り】

仕舞屋(しもたや)が増え、空地や駐車場が増えて、櫛の歯もずいぶん欠け落ちてしまいました。
再び「櫛比の町」にするには、どうしたらよいのでしょう。
「人々の満足度を上げる」、これは古今問わず、商売繁盛や町活性化の変わらぬキーワードであるのでしょうが・・・。

本町に関する過去記事はたくさんあります。
この際ですから、ずらっと挙げときますか。
お時間のある時にでもどうぞ。
  ◇史跡看板散歩-11 高崎の根本・本町
  ◇本町今昔物語(1)
  ◇本町今昔物語(2)
  ◇本町今昔 蔵探し(1)
  ◇本町今昔 蔵探し(2)
  ◇本町今昔 蔵探し(3)
  ◇本町今昔 蔵探し(4)
  ◇本町今昔 蔵探し(5)


  
タグ :本町勧工場


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2023年03月18日

高崎唱歌散歩-25番の続き ♪請地町より成田山・・・

請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する

「威徳寺」の山号「慈応山」「成田山」になった経緯は、「更正高崎旧事記」に書かれています。
同駅本町平民後藤保五郎(旅館堺屋)ナル者、発起シ、下総国海上郡成田山新勝寺ヨリ、不動尊及二童子ノ古像ヲ請待シ、威徳寺ヘ成田山出張(でばり)ヲ設置セン事ヲ出願セシニ、是亦許可アリテ、乃チ同寺旧廟ヲ用テ不動尊ノ堂宇トセリ。」

「成田山出張」を設置した後藤保五郎という人は、「威徳寺」参道入り口で「堺屋」という旅館を営んでいました。

保五郎さんが何故そうしたのかまでは書かれていませんが、そもそも「威徳寺」は元藩主の祈願所で、檀徒衆がいる訳でもなく、寺を維持していくのは大変なはずです。
そこで名のある「成田山」の分院を勧請すれば参詣する人々で賑わい、檀徒も増えるのではないかと考えたのでしょう。

そんな保五郎さんの願いが叶い、明治十年(1877)五月、成田山不動尊の入仏が成りました。
しかし、そうすぐに効果が現れた訳でもなかったようです。
境内に建つ「中興開山 阿闍梨宥海之碑」にこう刻まれています。


(そも)當山ハ當市本町初代後藤保五郎成田山不動明王ヲ信仰スルコト深ク 同九年髙﨑城三ノ丸ヨリ城主ノ霊廟ヲ現地ニ移シ 下総ヨリ本尊ヲ勸請シ成田山出張所ヲ創設セシニ基ス
然レトモ業未タ草創ニ属シ 基礎確立セス前途ノ事業蓋シ尚尠(すくな)シトセス」

そこで、阿闍梨宥海(あじゃり・ゆうかい)が中興の祖として活躍することになるのです。
まずは宥海和尚の経歴です。
成田山光徳寺中興開山阿闍梨宥海和尚ハ 千葉縣印旛郡吉岡村松本儀左衛門ノ三男 安政四年四月八日生ル
十歳ニシテ千葉郡平山邨(むら)東光院宥正和尚ノ室ニ入リ 慶應三秊(年)得度ス 師ニ随テ四度加行ヲ修シテ 盛範阿闍梨ヨリ傳法灌頂ヲ受ケ 明治七秊(年)師跡東光院ヲ繼ク 同年髙照阿闍梨ヨリ三寶院流ノ秘奥ヲ傳フ
同九秊(年)照輪教正ノ徳ヲ慕ヒ成田山ニ到リ 薫陶ニ浴シ大ニ其ノ材ヲ識ラレ 選ハレテ同十七年當山ニ留錫ヲ命セラル
阿闍梨ハ 時ノ本山法主照鳳大僧正ヨリ㝡モ(最も)信任ヲ蒙リ 主任トシテ執行ヲ委任セラル」
ということで、本山の命により宥海和尚が「成田山威徳寺」に着任したのは、明治十七年(1884)のことでした。

さてそこから、様々な改革が始まります。
先ツ(まず)永代日護摩講ヲ組織シ 漸次ニ教線ヲ擴張シ境内地購入整理 大門道路買入修築 伽藍改増築ヲ行フ
同四十五秊(年)遂ニ埼玉縣ヨリ光徳寺ノ寺名ヲ移轉シ 爰ニ始メテ寺院公稱ノ宿志ヲ遂ク
次ニ奉賛會ヲ組織シ 會員千餘ヲ獲教勢愈盛ナリ」
護摩講を組織し、境内や参道を整備し、伽藍も増改築し、奉賛会員は千人を超えます。
さらに、埼玉にあった「光徳寺」という寺名を、明治四十五年(大正元年/1912)に移転したとあります。

実は「威徳寺」は、明治四十年(1907)すでに富岡「施無畏寺」(せむいじ)に合併され廃寺となっていたのです。



こうして「成田山威徳寺」「成田山光徳寺」となった訳ですが、宥海和尚の改革はまだ続きます。
昭和六年多野郡ヨリ阿弥陀堂ヲ移シ 髙嵜十職千餘名ノ奉スル聖徳太子ヲ本尊ニ加ヘ 太子ノ帝國學藝創設ノ洪徳ヲ唱讃ス」

その「太子堂」がこれです。


こんな経緯で、「成田山光徳寺」「月の下旬の七八日 老若男女群集する」までになりました。
昭和八年(1933)、宥海和尚の喜寿と在職五十周年を記念し、信徒たちによって「中興開山 阿闍梨宥海之碑」が建てられました。

その四年後の昭和十二年(1937)、宥海和尚は八十二歳で遷化されました。


合掌。


  


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2023年03月11日

高崎唱歌散歩-25番 ♪請地町より成田山・・・

請地町より成田山
不動明王縁日は
月の下旬の七八日
老若男女群集する

現在の「請地(うけち)町」です。


もとは「赤坂村」「前請地」という字(あざ)でしたが、明治三十五年(1907)に「請地町」になりました。


「請地」という地名の由来はあまり定かではないようですが、田島桂男氏著「高崎の地名」には、こう書いてあります。
『請地』は『請田』と同じ意味と考えられる。
これは、小作を永く勤めあげた人に対して、地主がその労に報いるために、あがりのよい田を贈ることがあり、これを『請田』といった。
もう一つ、大地主から、誰かがある地域の田を引き受けてきて、働き手を手配し、田植えから収穫までをすることも『請田』といった。
したがって、地主から誰かがもらった田地、あるいは、誰かが耕作、作物の栽培、収穫を請け負った土地のことと考えられる。」

「高崎の散歩道 第十二集上」では、金井恒好氏が少し違う説を唱えています。
これは、中世の荘園時代に発生した地名ではなかろうか。
荘園の荘官・地頭・名主(みょうしゅ)などが、荘園領主(荘園の持ち主で、本所・領家ともいう)と契約して、毎年一定の年貢を納めることを請け負い、その代わりに、荘園の支配や管理一切の権利を任される制度や、その権利を持つ者を請所(うけどころ、うけしょ)といった。
この仕組みにとって、請所、つまり荘官・地頭・名主などに年貢を取り立てられて支配された土地を、『請地』といった。(略)
請地の権力を強めた者は、鎌倉中期以後は地頭が、室町になると守護が、室町後期になって百姓の力が増大すると名主や百姓が請所の権利を握るようになった。
これを地下請(じげうけ)、百姓請、村請などといい、土地によっては、農民の手で村を管理する力が強まった。(略)
推測であるが、もとは赤坂荘全体が請所の支配下(請地)にあったが、荘園時代が衰え、請所制度がくずれていく過程で、ここだけ遅くまで請所の支配が残っていたのか、あるいは、百姓請が根強く残っていたのか。
他の土地は、それぞれ特色ある地名が育って行っても、ここだけは昔の制度が地名として名付けられて残ったのかも知れない。」

「前請地」の南に接していたのが字「町浦」ですが、やはり明治三十五年(1907)に「成田町」になりました。

「町浦」「町裏」で、本町の裏っ側だからですね。

その「町浦」にある「成田山」が町名の由来となりました。

現在の寺名は「光徳寺」ですが、上の地図では「威徳寺」となっています。

「威徳寺」は高崎城内にあった、大河内家の祈願寺です。


その「威徳寺」の由緒と「町浦」に移された経緯が、「更正高崎旧事記 五巻」に載っています。
服部権云、威徳寺ハ旧城内三丸坤(ひつじさる:西南)方ニアリテ、旧領主大河内家累世ノ木主(もくしゅ:霊牌)ヲ安置シ、且輝貞朝臣ノ世ニ当リ、五代将軍常憲院殿ノ特恩ヲ以テ、報恩ノ為メ該寺ニ一(ひとつ)ノ廟宇ヲ建築セラレ、霊牌ヲ安置シ奉リ、頗ル輪奐(りんかん:広大で壮麗)ノ美ヲ尽シ、尊重セラルゝ事啻(ただ)ナラズ。
然ルニ王政復古廃藩置県ノ時ニ際シ、旧城郭一円、陸軍省所轄トナルニ拠リ、其時ノ住持手塚良覚、明治九年(1876)六月中、高崎駅接壌北ノ方、赤坂村第三十六番地梶山氏持地ヲ卜(ぼく:吉凶判断)シ、耕地ヲ変換シテ清潔ノ地トナシ、爰(ここ)ニ移転セン事ヲ出願セシニ、速ニ許可アリタリ。」
城内が陸軍所轄になったので、明治九年(1876)に移したという訳です。

いま「威徳寺の内陣」が高崎市指定重要文化財となって、境内に残っています。
最近、近くまで行って見ることができるようになりました。


「威徳寺」の山号は「慈応山」だったんですね。

この後「慈応山」「成田山」に、「威徳寺」「光徳寺」に変わっていく訳ですが、ちょっと長くなりそうなので、次回へ送ることに致しましょう。


  


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2023年03月04日

高崎唱歌散歩-番外編 大橋町の和泉庄御殿

大橋町「和泉庄(いずしょう)御殿」のことが、上毛新聞に載りました。


過日、見学の機会を得、ブログへの掲載も快くご承諾頂きました。
ただ、あまりにも技術的・美術的見どころ満載の建物で、とてもとても私ごときの知識と語彙力では表現することができません。
そこで、評価は皆さんご自身にお任せしたいと思い、スライドショーにしてみました。
ご覧ください。


吉田家当主は代々庄八を名乗っていますが、初代は南蛇井生まれで「荘八」と書いて「しょうはち」と読ませ、元紺屋町の商家で修行の後、田町に店を構えたのだそうです。

屋号「和泉屋」「庄八」なので通称が「和泉庄」(いずしょう)、その五代目・庄八が接待用に建てたのが「吉田御殿」とも「和泉庄御殿」とも言われるこの建物です。

五代目・庄八の略歴が、昭和三年(1928)発行の「人事興信録」に載っています。

五代目は先代の弟だったんですね。
16歳の時に家督を継いだというんですから驚きです。
あれ?と思うのは、「金融業」となっていることです。

明治三十年(1897)の「高崎繁昌記」では、「和泉屋」の主は吉田啓三郎の名前になっています。

この人が先代なんでしょうね。

家督相続をした明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」では、啓三郎庄八の連名になっています。

でも、「金融業」とは書いてありません。

金融に関係するとすれば、明治三十一年(1898)に設立した「高崎銀行」の設立者の中に、吉田庄八の名前があります。

これが五代目・庄八だとすると十歳ということになります。
まさかですよねぇ。
「人事興信録」には、五代目・庄八を継ぐ前は「佐太郎」という名前だとありましたし・・・。
分かりません。

「佐太郎」といえば、昭和四十二年(1967)に田町の長老たちが集まって「田町昔ばなし座談会」というのをやってるんですが、その席で佐太郎さんのエピソードが語られています。
いくつか抜粋してみましょう。(多少、編集しています。)
佐々木 佐太郎さんって人は、よっぽど変わっていたんですね。
織茂 とにかく珍談続出で、一時間や二時間では語り尽くせないほど、いろいろの実話を聞いておりますけれどね。
佐々木 とにかく、電燈があのまわりの家には全部ついていたのだが、あの家だけはランプだったんだ。
織茂 早起きの家でね。
佐々木 正月のお元日には、近所へみんなダルマを配ったんだね。
田口 くれるんですがね、こっちはそれが迷惑でした。
佐々木 大晦日で、みんな夜、遅いでしょう。その次ぐ朝、早くドンドン戸を叩くんでね。
昔は、みんなヨロイ戸みたいな小さな窓が付いていましたね。
そこを開けると、そこへダルマさんをにゅっと出すんだね、黙って。
織茂 梅山の親父さんが古着屋の小僧さんだった頃、甚兵衛の材料になるものを何か持って来いって。四時だよ、四時に持って来いって。
それで玉田寺の四時の鐘が鳴り終わるのを待って木戸を開けて「ごめん下さい」って入って行ったら、とても機嫌がよくてね、「お前は実に頭がいい。四時の金を背負って入って来た」と言って、後ですぐ番頭さんが三宝に金田の饅頭を百五十個載せて持ってきたんですってよ。
佐々木 気に入ると米一俵でもくれてやったんだから・・・。
織茂 子どもがお堀へ落っこったんですね。それで、運送曳きが抱き上げてみたら、これは和泉庄の坊ちゃんだ、大変だってんで、運送車に乗せて引っぱってきて、「坊ちゃんがお堀に落っこったんで連れてきました」って言うと、「この野郎、ふてえ野郎だ。おらあちの倅だと思って、おべっかいにおべんちゃら使いやがって。さっさと米一俵持って帰りやがれ」ってんで、番頭に米を背負わせて持たせてやったってんだね。
片山 これは黙って取っておけばいいんですけれどね。礼に行くと・・・。
織茂 また、取り返されちゃうんだ。
片山 持って行かれちゃうんです。
【発言者】佐々木芳治郎(一丁目区長)、織茂利一(オリモ洋服店社長)、
     田口小次郎(田口タンス店社長)、片山弘(テーラー片山社長)


ま、豪快な人だったようですが、いいものを残していってくれました。

「和泉庄御殿」をこれからどのように残していくのか、多くの課題がありそうですが、クラウドファンディングという良い仕組みもあるので、行政と市民が知恵を出し合って守っていけたらと、切に切に思っております。


  


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2023年02月25日

高崎唱歌散歩-24番 ♪橋を渡れば大橋町・・・

橋を渡れば大橋町
渋川行きの馬車鉄道
長野直江津方面に
飯塚駅のステーション

「住吉町」の北端を流れる「長野堰」は、むかし「大川」と呼ばれており、三国街道に架かる橋は「大橋」と呼ばれていました。
現在、「大橋橋」なんて名前になっちゃってますが・・・。


その「大橋」を町名にしたのが「大橋町」です。
「大橋町」には「中山道鉄道(現・信越線)」の線路を挟んで、南に「飯塚駅(飯塚停車場)」、北に「群馬馬車鉄道株式会社」がありました。


「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)に高崎-渋川間を通っていたのは「鉄道馬車」でした。
過去記事「電車みち」をご覧ください。

「中山道鉄道」「飯塚停車場」は明治十八年(1885)に開業した駅です。

過去記事「高崎唱歌散歩-2番 ♪汽車の線路はたて横に・・・」もご覧ください。

これ、「大橋町」にあるんだから「大橋停車場」となりそうなものですが、停車場ができた当時ここはまだ「飯塚村」で、「大橋町」はできてなかったんです。


明治二十二年(1889)に高崎が町制を施行した時、線路から南の飯塚村高崎町に編入されます。
そしてそこが「大橋町」になるのは明治三十五年(1902)です。

しかし、「大橋町」になってもなお停車場は「飯塚停車場」のまま、大正十二年(1923)に「北高崎駅」となってしまいます。


ヒトとモノの往来が盛んな三国街道と鉄道駅を有する「大橋町」は、次第に人家や商店が増え、周辺の村や町を取り込みながら成長していきました。
現在は、こんな大きな町になっています。


その「大橋町」に、「御殿」と呼ばれる建物があるのを皆さんご存知でしょうか。
次回はそのお話をいたしましょう。


  


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2023年02月18日

高崎唱歌散歩-23番 ♪北一面を見渡せば・・・

北一面を見渡せば
遙かに聳ゆる榛名山
山と高きをたたくらぶる
高崎中学茲にあり

「室田道」を歩きながら北一面を見渡したんですね。


明治三十五年(1902)に「台町」になる前は「台原」と呼ばれていたくらいですから、今のように建物もなく、遙か榛名山までスカッと見渡せたのでしょう。


「山と高きをたたくらぶる」「たたくらぶる」って何でしょう?
辞書を引いても出てきません。
たぶん「たたえくらぶる」じゃないですかね。
高崎中学の気高さは、榛名山「讃え比べられる」ほどである、という意味なのでしょう。
高崎市民の誇り高き学校だったんですね。

その「高崎中学」=「群馬県立高崎中学校」が開校されたのは明治三十一年(1898)です。
昭和十三年(1938)には上和田から乗附に移転をし、昭和二十三年(1948)「県立高崎高等学校」になりました。
詳しくは過去記事「史跡看板散歩-4 高崎中学校跡」をご覧ください。

では、今回はこの辺で。


  


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2023年02月11日

高崎唱歌散歩-22番 ♪ここは水道水こし場・・・

ここは水道水こし場
住吉町の西の方
新に名づけし台町は
榛名参りの街道よ

「水こし場」「水濾し場」で、水を濾過する浄水場です。
正式名称は「高崎水道貯水所」という簡易水道の施設でした。


明治二十一年(1888)に完成した簡易水道の水は、高崎中心部の15ヵ町に供給されました。

詳しくは、「高崎唱歌散歩-2番続きの続き ♪水道や・・・」をご覧ください。

簡易水道の恩恵に預かれたのは本町・嘉多町・連雀町・鞘町・田町・中紺屋町・寄合町・白銀町・元紺屋町・九蔵町・新紺屋町・新町・砂賀町・檜物町・椿町の15ヵ町で、高崎43ヵ町の内わずか4割の戸数でしかありませんでした。

「剣崎浄水場」からの本格的な上水道が完成するのは明治四十三年(1910)ですから、「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には「水こし場」は現役で稼働していた訳です。

「住吉町」の西にある「台町」は明治三十五年(1902)に成立した町で、江戸時代は「赤坂村字台原」と言われていたそうです。


「榛名参りの街道」は、その「台原」の南側に沿った道で、「室田道」と呼ばれていました。


起点は「稲荷横丁」で、下並榎上並榎我峰本郷を経て室田に至り、そこから榛名参りの「榛名道」と、草津の湯を目指す「草津道」とに分かれます。


古い道なので沿道には面白い史跡がいろいろあります。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」や、「高崎の散歩道 第八集」に詳しいので、ぜひそれらを携えて散歩をお楽しみくださいませ。

  


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2023年02月04日

高崎唱歌散歩-21番続きの続き ♪北に曲がれば三国道・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

坂を上り切った角に、「大津屋」という薬種問屋がありました。

屋号からして、出は近江国の人なんでしょう。

その建物の壁には、「三国道」「中仙道」の文字が書いてあったそうです。

ここが「中山道」から「三国道」(三国街道)への分岐点です。
壁に道しるべを書いたのは、しょっちゅう道を聞かれて面倒だったんでしょうね、きっと。

ところで、その「大津屋」なんですが、創業はいつで、いつ店を閉めたのか、はっきり書いてある資料が見つかりません。

「新編高崎市史 資料編9」に、元禄期(1688~1704)に描かれたらしいと言う「高崎宿・倉賀野宿往還通絵図面」があります。
それで「大津屋」があった所を見ると、「六之助 紺屋」となっています。


ずっと下って、文化十年(1813)の「遠御構筋絵図」で見ると、字が潰れていて読みにくいのですが、「㐂兵衛」(喜兵衛)と読めそうな文字が書いてあるので、この人が滝川喜平のご先祖らしいです。

しかしこの時点ではまだ薬種問屋ではなかったようです。

というのは、20年後の天保二年(1831)「中山道高崎宿往還絵図」に、「百姓 喜平治」となっていますので。


では、いつから薬種問屋になったのか。
万延元年(1860)の「覚法寺絵図」を見ると「滝川」と苗字が付いており、土地も三ヵ所を有しています。

推測ですが、この間に薬種業を始めて財を成したのではないでしょうか。

その「大津屋」当主・滝川喜平についても、あまり詳しいことを書いたものがありません。
明治十八年(1885)発行の「上州高崎繁栄勉強一覧」でも、頭取となるほどの人物なんですけどね。


図書館の司書さんにお手伝い頂いて、ようやく見つけたのがこれです。

右の「帝国信用録」では、瀧川文二郎瀧川喜平という名前があります。
開業年月の欄があるんですが、残念ながら「維新前」としか書かれていません。
左の「人事興信録」を見ると、文二郎は先代の喜平の所に婿に入って、高崎銀行の取締役をしていたようです。
先代が亡くなると喜平の名を継いで「大津屋」を相続し、他にもいろいろな事業の役員を務めていました。
また「妹すゑは東京・・・高木耕治に嫁せり」とありますが、この高木氏が日本橋の「瀧川支店」の主です。

さて、そんな「大津屋」ですが、店を閉めたのはいつ頃なんでしょう。
これも、はっきり書かれたものが見つかりません。

昭和二十八年(1953)に撮影された写真には「大津屋」が写っています。


しかし昭和三十六年(1961)の「住宅案内図」では空地になっていますので、その8年間の間に姿を消してしまったようです。


跡地には、しばらくガソリンスタンドがありましたが、現在は覚法寺の駐車場になっています。


角に道しるべの木柱が一本立っていますが、「中山道」としか書いてありません。

「大津屋」のことを知っている人なら、ここは
「↕中山道 →三国道」とでもしたところなんでしょうが・・・。

さて、「大津屋」でずいぶん長居をしてしまいました。
「三国道」に入るとすぐ「四ッ屋町」です。
「赤坂町」との境界は、高崎城の「遠構え」でした。
現在の「弥助鮨」南側の側溝がその痕跡です。


「高崎散歩」の歌詞では「四ッ谷」になっていますが、この町に住んでいた郷土史家・土屋喜英氏の著書「高崎漫歩」には、こんな記述があります。
四ッ屋を四谷と東京なみに書いたこともあったようで、古い記録には時々四谷が出てくるが、谷があった様子はなく、近くに四阿屋(あずまや)宮と言う祠があり、それから四屋としたか、あるいは創設当時四軒の家でもあったかとも考えられる。
四ッ屋町が本町から独立したのは正徳元年(1711)で、四年には、十八戸の家があったというから四軒の家があったというのもどうかと思う。」
と、まぁ町名の由来はハッキリしないようです。

小さな「四ッ屋町」を過ぎると、「相生町」「住吉町」と続きます。


「相生町」は、宝暦六年(1756)に赤坂村小泉市左衛門という人が家を造り始め、同九年(1759)に高崎城主・大河内輝高「相生町」と命名したのだそうです。
「相生町」には面白い話がいくつかありますので、過去記事でご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-10 稲荷横丁

「住吉町」ができたのは明治三年(1870)で、町名は三つの候補を紙に書いて、なんと籤引きで決めたと言います。
落選した二つの町名は「竹川町」「真砂町」だったそうですが、結果的にみると一番佳い町名が選ばれたように思います。

余談ですが、私めの名前も高崎神社で示したいくつかの中から引いて決めたんだと、親父が言ってました。


  


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2023年01月28日

高崎唱歌散歩-21番の続き ♪長松恵徳両寺院・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

「長松寺」と中山道を挟む感じで「恵徳寺」があります。
暫くぶりで来たんですが、だいぶ参道の雰囲気が変わりましたね。


石仏が並んでお出迎えです。

「菩薩岳(ぬれ菩薩)」とあります。


墓地入り口にも、立派な石仏がたくさん並んでいます。
多くは観音さまですが、不動明王もいます。

あれ?
この辺に「しょうづかばば」の石像があったはずなんですけど、無くなっちゃいましたね。

この鐘楼も前はなかったです。

鐘を撞くには厳しいお定めがあるようで。


いろいろ変わってるので、ちょっと気になって確認したくなったお墓があります。
ひとつは一路居士・馬場一郎のちょっと変わったお墓。

もうひとつは小栗上野介の隠し金を手に入れたという飛騨屋・岩崎源太郎のお墓です。

どちらも、以前と同じ場所にあったのでホッとしました。

赤坂側の参道にも石仏がずらっと並んでいます。


その中に、「閻魔さん」と仲良さそうに肩を並べた「しょうづかばば」がいました。

右側が「しょうづかばば」です。

多くの人の咳を止めてあげたのでしょう、すっかりお顔が磨り減っています。

参道入り口の築地塀に、寺の由緒を書いた石板が埋め込まれています。

「井伊直政が伯母のために箕輪の日向峰に創立、直政が高崎に移った時に城北の榎森に移し、酒井家次が現在地に移した。」ということで、おおよそ「高崎志」(寛政元年/1789)によるものと思われます。

これが「高崎寿奈子」(宝暦五年/1755)では、若干異なっています。
「井伊直政が箕輪矢原に一宇を開基して恵徳寺と号し、直政が高崎に移る時に寺も日向峰という所へ移り、その後今の所へ寺を造立する。
日向峰は今の熊野小路御給人屋敷の辺である。」

ということで、「日向峰」は箕輪ではなく、高崎の本町一丁目から高崎神社への道沿い辺りらしいのです。

さらに、「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)の「赤坂町」の項に、「恵徳寺旧記」によるとしてこう書かれています。
此旧記ニヨレバ、(それまでは竹藪だった)寺場ヲ開墾ナシ続テ人家モ立並、給人衆ノ居住アルヲ以テ町名(給人町)トス。
後、給人衆ハ日向峯ヘ引移サレタルト云。(略)
(さて)日向峯ハ今ノ覚法寺ノ辺也。」

築地塀の石板には、「高崎という地名は恵徳寺の永潭和尚が井伊直政に進言した」とも書いてあります。
このことについては、過去記事にたっぷり書いてありますので、そちらをご覧ください。
  ◇駅から散歩 観音山(6)
  ◇駅から散歩 観音山(7)
  ◇駅から散歩 観音山(8)

あぁ、21番の歌詞は、まだ半分しか進んでません。
「北に曲れば三国道 四ッ谷相生住吉町」は、また次回へ繰り越しですね。


  


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2023年01月14日

高崎唱歌散歩-番外編 長松寺の石澤久夫作品

「長松寺」山門にある、石澤久夫氏作の石碑。

銘板の「吾唯知足 足る足らざるは心にある」は、如何にも石澤氏らしい言葉です。

石澤久夫氏をご存じない方もいらっしゃるでしょうか。

私が石澤久夫氏に初めてお会いしたのは、12年前に江木町の敬西寺で行われたJAZZライブでした。
  ◇土徳のご縁から

その後も何度かお会いする機会を得たのですが、ある時「長松寺の襖絵も描いたんだよ。」とお聞きして見に行ったことがあります。
平成二十六年(2014)の九月でした。
それは、本堂の須弥壇を挟んだ左右の間の襖に描かれていました。


「自然の説法」対話 朝~昼(静寂の哲学)という題が付いています。

面白いのは裏面です。
一見、海面に突き出る岩を描いているように見えますが・・・、


海に見えたのは、たくさんの女性の顔でした。

「人間帰化」現代千体人覚えの書(女面の図)という題が付けられています。

その西面の襖絵は至極シンプルで、題は「地中訓」です。


須弥壇西側の間の襖絵は、
「自然の説法」対話 夕~夜(静寂の哲学)

その裏面、
「人間帰化」現代千体人覚えの書(男面の図)

東面は、「天中訓」です。


本堂の西の壁面に絵画が掛かっていたので見ると、これも石澤氏の作品で「集まる人々」という題が付いていました。


山門の石碑は平成二十七年(2015)の作品ですが、その年の上毛新聞にこんな記事が載っていました。


今回伺ってその油彩画も写真に収めたかったのですが、ちょうど額装に出しているところだそうで、見ることができませんでした。
その代わりというと変ですが、たしか以前訪ねた時は無かったと思う「忠長自刃の間」の襖絵が、石澤氏の作になっていました。



平成二十九年(2017)二月、巨匠・石澤久夫氏は八十四年の生涯を全うしました。
いま、「長松寺」墓地のいかにも石澤氏らしい墓石の下で、安らかに眠っています。


合掌。


  


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2023年01月07日

高崎唱歌散歩-21番 ♪坂を上りて赤坂町・・・

坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町

「群馬県営業便覧」で見る、明治三十七年(1904)の赤坂町です。

意外なのは、「木賃宿」とか「旅人宿」とかが多いことです。
8軒もの宿が並んでいます。
それと、お菓子屋さんが4軒もあります。
いずれのお菓子屋さんも宿の近くにあるというのは、何か意味がありそうです。

町の中ほど、旧中山道を挟んで北に「長松寺」、南に「恵徳寺」(営業便覧に威徳寺とあるのは間違い)があります。
「長松寺」の隣には「高崎北尋常小学校分教場」と書かれています。
「北尋常小学校」は、児童数が増えた「高崎尋常小学校」の分校として明治三十三年(1900)請地町(うけちまち)に開校しますが、そこに収容しきれない児童のために充てたのが「長松寺」の分教場でした。

ところが、当時は貧困のため就学できない児童が多かったようで、とくに女子の多くは家事に従事しているか、子守奉公に出されていたと言います。
「高崎市教育史 上巻」には、こんな記述があります。
当時、赤坂町の長松寺は、高崎市北尋常小学校の仮分教室として使用されていた。
寺内では、毎日、北小学校の児童たちが勉強しているのであるが、境内では、いつも数人の子守が、あるものは赤ん坊を背負い、あるものは幼児を連れて遊んでいる。
その言動を見るとまことに粗野であるから、知らず知らずのうちに幼児に悪影響を及ぼし、また、子守自身の将来にとっても良くないことは明らかである。」

その状況を見ていた長松寺住職・山端息耕(やまはた そっこう)は、北小学校校長・小林茂と協力して、明治三十六年(1903)分教場内に「樹徳子守学校」を開校します。

同校の基本方針は、
「お守り第一」(幼児を大切にすること)
「勉強第二」(幼児の機嫌のよい時に勉強する)
だそうです。

義務教育の普及により子守児童も減少してきた昭和十四年(1939)に「高崎樹徳学校」と改称しますが、昭和十九年(1944)に閉校となります。

その校舎は昭和十六年(1941)に創設された「日の丸保育園」の園舎としても使用され、平成十三年(2001)に閉園された現在もその姿は残されています。




ふと山門の足元を見ると、こんな石碑がありました。

サインを見ると、あの石澤久夫氏の作でした。
そうだ、「長松寺」石澤氏の菩提寺でした。
なので、寺には石澤氏の作品がたくさん残っています。

引き返してその写真を撮らせて頂いたので、次回、ご覧頂くことといたしましょう。


  


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2022年12月31日

高崎唱歌散歩-20番 ♪畝傍の橋をうち渡り・・・

畝傍の橋をうち渡り
赤き御堂は観音堂
和田の三石その一つ
大師の石はここにあり

「畝傍の橋」は、「神武天皇遥拝所」「得利稲荷」の間に架かっていた橋です。

右端に写っているのが、「得利稲荷」の鳥居でしょう。

「神武遥拝所」側から「畝傍橋」を渡ると、「得利稲荷」「長松寺」の間の坂道「神武坂」に出る訳ですが、下って南に行くと赤い御堂の「観音堂」があるという歌詞です。


この「観音堂」は今「恵徳寺」の参道に移されています。
過去記事でご覧ください。
  ◇史跡看板散歩-116 赤坂町十一面観世音

ですが、そもそもこの「観音堂」はどういう由緒のものなのか、それが書かれている資料にはあまりお目に掛かったことがありません。
僅かに、参道に建つ「十一面観世音」碑に刻まれているくらいです。


碑文を書き出してみましょう。
十一面觀世音由來
大同元年ノ創立ニシテ上野国三十三番靈場札所ノ一也
古來由緒アル武将守本尊ナリト傳フ 建暦二年和田義盛
没落ノ時八郎義国相州葛西谷ヨリ落ト云シ本郡和田
山ニ來住ス 寛喜二年當地ニ移住シ和田家一族亡靈菩提
ノ爲該佛堂ヲ再興シ尊像ヲ奉安ス天正十八年和田家滅亡
慶長三年城主井伊直政深ク之ヲ崇敬シ堂宇ヲ再建セリ
寛文十年以降明治維新ニ至ル迄落合家之ヲ尊崇ス 明
治四十二年恵徳寺ニ合併シ境内ニ奉安ス
昭和五年八月二日 恵徳寺第二十六世 須田達宗
寺世話人惣代 横山文四郎 国峰源三郎 淺見弁次郎
建設者 落合喜三郎 落合卯之吉
    落合義三郎 石澤カク
    落合松次

創立は大同元年(806)ということで、平安時代の初頭です。
大河で小栗旬の策謀に倒れた和田義盛の子孫が、一族菩提のために仏堂を再興したとあります。
天正十八年(1590)に和田氏が滅亡すると仏堂は荒れ、これを慶長三年(1598)に井伊直政が再建し、寛文十年(1670)以降明治維新までは落合家が守っていたと。
恵徳寺境内に移したのは、明治四十二年(1909)だったことが分かります。
高崎唱歌がつくられたのは明治四十一年(1908)ですから、当時は歌詞の通りまだ長松寺の西にあったんですね。

ということで、おおよそのことは分かったのですが、なぜ「落合家」というのが突然出てくるのか分かりませんでした。
それが偶々なんですが、他の調べ事をしている時に「上毛及上毛人」(昭和5年11月第163号)「高崎恵徳寺の観音について」(堀口熏治)という一文を発見しました。

その中に、「落合家文書」というのが出てきて、その経緯が書いてありました。
上野國群馬郡髙崎赤坂町十一面觀世音菩薩、是行基菩薩の御作なり。
往昔は上和田今の觀音塚の所に年久しく鎮座ありしに、佛詣の便り惡しき故、今の赤坂御門の處・往還の通りなる川御門の北の方森の内に移し奉る。
然るに御城主井伊兵部大輔殿の御時當城を廣く成し給ふに依て、通丁城内になるに付御堂を長松寺境内の脇、森の内に移し奉る。
此所に在事年來久し、實に落合和泉(武田信玄の家來なり、浪人して當地赤坂に住す)より三代の孫、愚祖七兵衛正重・深く尊像を崇み靈驗を蒙る事度々なり、則宮殿を寄付す。
又同苗權三郎正純信心日々に増し、境内の狭き事を悲み、御城主安藤對馬守殿へ奉願寛文十戌年境内を開き三間四面の御堂を造立し、同年三月十八日入佛供養し奉る(前通り兩側屋舗も其節出來するなり)
權三郎に兩人の子あり、長子七兵衛正信・益寿修覆を加へ石燈籠敷石等新に寄附す
次男武平正吉・御城主松平右京太夫殿へ奉願、元祿十四巳年銅屋根に再建立す、同十一月二十日入佛供養し奉り感應いよいよ多く、記すに暇あらず、
愚子心願有るにまかせ剃髪染衣の身となり、境内に住し尊像に奉仕すること數年なり、所々佛詣の善男善女驗機驗應冥機冥應其數多し。
 享保十五庚戌年六月 落合和泉五代孫
             俗名 落合武平正吉
             法名 得蓮社即譽夢覺

これを見ると、「十一面観音」像は上和田「観音塚」(どこでしょう?)という所に祀られていたが、参詣するのに不便な場所だったので、往還の通り沿い(後の高崎城赤坂御門の所)に移したようです。
現在の高崎郵便局の西、高松中学校のテニスコート辺りか。

しかし、高崎城を造る時に城内に入ってしまうので長松寺の西に移したということです。
落合氏は武田信玄の家来だったが、浪人して赤坂に住んでいたので、移って来た十一面観音を崇敬するようになり、代々守ってきたという訳なんですね。
五代目の落合武平正吉に至っては出家して境内に住んだというのですから、その信仰の篤さは尊いものがあります。

さて、その「観音堂」跡は現在どうなっているのでしょう。
「萬延元年覚法寺絵図」と比べてみると、意外なほど昔の道筋が残っていて、場所の特定ができるもんです。


「中村染工場」隣の空地が「観音堂」跡でした。


いま、その空地には住宅が建ち始めています。


次の歌詞に出てくる「大師の石」は、現在「高崎神社」境内にある「和田三石」のひとつ「立石」で、「観音堂」と一緒に移設されてきたものです。
  ◇和田の「立石(たていし)」

そうか、「立石」が急に重くなって動かなかったのは、井伊氏の立ち退き命令に和田氏の霊がゴネたということか・・・。


  


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