2022年10月01日

高崎唱歌散歩-9番の続き ♪池水澄みて魚躍る・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「池水澄みて魚躍る」ってのがよく分からないんですよね。
大手前に池があったという話は聞かないし、「お堀」の水が澄んでたという記憶もないんですけど、「高崎唱歌」がつくられた頃は澄んでたんでしょうか。
フナとかクチボソはいましたね。ザリガニもいてよく釣って遊んでました。

今は切り通しの所のお堀を覗くと、エサをもらえるとでも思うのか、沢山の鯉が集まってきます。


税務署と労基局の間を抜けた所は、高崎城の「巽(辰巳)門」で、15連隊時代も営門として使われていました。


シンフォニーロード開通によって、今は跡形もありません。


でも橋の名前に、「辰巳」の名称が残っています。


「高崎唱歌」の頃、ここには学校がありました。

明治三十年(1897)の地図では「発育学校」、大正五年(1916)の地図では「国振学校 深井幼稚園」となっています。

「発育学校」とは聞き慣れない名前ですが、福沢諭吉「文明教育論」の中にこんな一節があります。
学校は人に物を教ふる所にあらず、唯其天資の発達を妨げずして能くこれを発育する為の具なり。
教育の文字甚だ穏当ならず、宜しく之を発育と称すべきなり。
斯の如く学校の本旨は所謂教育にあらずして、能力の発育にありとのことを以て之が標準となし、顧て世間に行はるる教育の有様を察するときは、能く此標準に適して教育の違はざるもの幾何あるや。
我輩の所見にては我国教育の仕組は全く此旨に違へりと言はざるを得ず。」
「教育」でなく「発育」であるべきだというのですね。

この言に賛同したのでしょうか、高崎の教育者・深井仁子が明治十五年(1882)に設立したのが、私立の「発育学校」でした。
貧しい家庭の子どもを受け入れたので「貧乏学校」とも呼んだようです。
「高崎の散歩道 第十二集下」に、こんな記述があります。
明治の小学校ができた頃、誰もがよろこんで通学したのではなかった。
親の中には働手がなくなるとして反対する者もいた。小学校へゆけることは贅沢な家庭と考えられてもいた。
この深井学校は、小学校へあまりゆかない子弟を中心の学校であった。
家塾のような学校で、障子には、生徒が何度も練習した習字の半紙がはってあったという。
真っ黒の障子である。
深井先生も決して楽な生活ではなかったようだ。」

「発育学校」は、明治三十五年(1902)「国振(くにふり)学校」と改称します。
発育(教育)が国を振興させるという考えなのでしょう。
さらに明治四十年(1907)には学校の一階部分を使って「深井幼稚園」をも開園します。

深井仁子は大正七年(1918)に他界し養女のダイが後を継ぎますが、そのダイも大正九年(1920)に他界し、学校と幼稚園は廃滅してしまいます。
現在、観音山清水寺の石段に深井仁子の顕彰碑が建っています。過去記事をご覧ください。

その学校の相向いに「教会堂」「高崎教会」というのがあります。


ここは、明治十七年(1884)「西群馬教会」として設立され、明治二十五年(1892)頃「高崎教会」と呼ぶようになりました。


設立当初、信者数は増加していきますが、明治二十五年(1892)頃から急激にその数が減少します。


その理由が「新編高崎市史 通史編4」に書かれています。
このころ教会にとって大変な時期であった。
神道・仏教勢力によるキリスト教演説会や教会での信徒集会・礼拝への嫌がらせや妨害が相次ぎ、特に高山照光なる人物とその一味によって続けられてきた高崎教会への妨害は、ついに二十一年四月一日の夜の集会で、高山一味と扇動された一部聴衆による、会堂内の器物損壊事件に発展した。
高山は警察によって逮捕されたが、教会員や家族に大きな不安を与えた。
高山の背後関係ははっきりしないが、高山は「耶蘇退治神道大幻灯会」などを開催しているので、「大物」神官の関与も否定できない。」

市史では「大物神官」としか書かれていませんが、「高崎教会百年小史」でははっきり氏名が書かれています。
高山照光は高井東一等と共謀して、耶蘇教退治神道大幻燈会という会を二箇所の寺院で開き、我等の名を指し、図を示して、数百人の会衆に向って暴言と誹謗を吐き続けたのである。
宗教家の体面を汚し徳を落とし、憐れむべきことであり、悲しむべきことである。」
高崎神社宮司。郷土史研究家。

明治十七年(1884)に建てられた教会の建物は、修繕を繰り返してきたものの、昭和十一年(1936)頃にはまるでお化け屋敷のようであったと小史に書かれています。
そこで、教会堂新築の計画が持ち上がり、昭和十四年(1939)めでたく竣工となりました。


シンフォニーロード建設により、創立の地・宮元町から高崎駅東の東町へ移転したのは昭和六十年(1985)、現在に至ります。


さて、「大手前の広小路」については、次回、10番でお話することと致しましょう。


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2022年09月24日

高崎唱歌散歩-9番 ♪公園出でて宮元町・・・

公園出でて宮元町
堀べに沿ふて右左
池水澄みて魚躍る
大手前の広小路

「高崎公園」からお堀に沿って南北に長いのが、「宮元町」です。

明治四年(1871)にできた町で、(頼政神社)のにあるということです。

それまでは「奉行所」やその役宅、領内の米の作柄や年貢をみたてる米見役人が住む「米見町」(こめみちょう)、代官の役宅がある「代官町」という、いわば行政街でした。
明治維新で、南の「代官町」は江戸から引き揚げてきた藩士を住まわせる「南郭」になりました。


堀の土塁を切り通して付けた、公園から高崎市役所前を通ってシンフォニーロードへ抜ける道です。

私が小学生の頃は、たしか土塁はまだつながってたように思います。
土塁の上に胡桃の木が何本かあって、落ちた実を拾いに土塁の上に登ったりしてました。

昭和三十六年(1961)の住宅案内図ではもう道が抜けていますので、土塁が切られたのは私が中学生の頃らしいです。


そうそう、私、5歳くらいの時、宮元町に住んでたことがあるんです。
上の住宅案内図でが付いてる辺りです。
写真右側の青い看板が建ってる辺りだと思うんですけど、当時は行き止まりの狭い路地でした。


中島さんというお宅に間借りしてたんです。
写真はたぶん、そこのお庭で撮ったものだと思います。
庭にニワトリがいましてね。
生みたての卵って温かいんだって初めて知りました。

初めてと言えば、手押しポンプの井戸も初めてでした。
5歳の私が顔を洗うのは至難の業でして、水を出して手にすくおうとすると止まっちゃうんですから。何回やっても。
まるでチャップリンの無声映画か、ドリフのコントです。

中島のおじさんには、とても良くしてもらいました。
おじさんは、前橋の「片原饅頭」に勤めてて、時々「片原饅頭」(余りものだったのかな?)を持ってきてくれました。
もう冷えて硬くなってましたが、焼いて食べるとすごく美味しかったです。
また、私が文字を読めることを知って、「こども新聞」も取ってくれました。

一年くらいの間借り生活でしたが、我が家の暮らしは困窮してました。
その頃の母との思い出を綴った過去記事がありますけどね。

あぁ、すっかり感傷に浸ってしまいました。

切り通しの先に「税務署」とその職員の社宅がありました。
現在の市役所前広場の所ですね。


15連隊時代は、「将校集会所」「偕行社(かいこうしゃ)が置かれていました。

「偕行社」 旧陸軍将校の親睦を目的とする団体で、後に共済組合的存在として軍服など軍装品の販売も行っていた。

その前は、高崎藩主・大河内家の別邸があったそうです。

右下におしゃれな石灯籠が立っていますが、これの一部が市役所前広場に残っています。

木も、大河内家別邸時代のものが何本も残ってるそうです。
それぞれに、説明看板があるといいですね。

さて、だいぶ長くなりましたので、続きは次回ということに。


  


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2022年09月17日

高崎唱歌散歩-7、8番 ♪更に踵(きびす)を廻らして・・・

更に踵(きびす)を廻らして
畦道(あぜし)東に辿り行き
頼政神社伏しをがみ
遊ぶは高崎公園地

「観音山」から踵を廻らして東に辿る畦道は、今の「観音道路」ではなく旧道です。
旧道については、過去記事をご覧ください。

「聖石橋」まで来ると、向こう岸左手に「頼政神社」の森が見えます。


その「頼政神社」を伏し拝んで、「高崎公園」に入ります。

松柏芝生に生ひ茂り
夏はすずみに冬は雪
いとどさやけき碓氷川
河鹿ほたるの名所なり

「高崎公園」の成り立ちは、昭和二年(1927)発行の「高崎市史 下巻」にこう書いてあります。
抑々(そもそも)當公園設置ノ起原ハ、明治九年附近ノ有志者相議シ、大染寺ノ廃墟及ビ其庭園ヲ利用シ、多少ノ花卉(かき)ヲ寄附シ設置セルモ千餘坪ノミ、」
廃寺になった「大染寺」の跡地を付近の有志が整備したものだという訳です。
「大染寺」については、過去記事をご覧ください。

公園の烏川側に、「大染寺」ゆかりの「高崎八景」という石板が設置されています。


昭和四十三年(1968)発行「高崎市史 第三巻」掲載の「高崎寿奈子」(たかさきすなご)(宝暦五年(1755)西田美英著)に、こう記載されています。
享保(1716~1735)の始めの頃、城中風雅の士、此山より見る所の八景詩歌発句を集め、一軸となして大染寺に納む。
所謂八景は
 烏川渡舟 浅間暮雪 清水晩鐘 半田夕照
 石原晴嵐 佐野落雁 古塁夜雨 少林秋月
是なり。」
「此(この)山」というのは、「頼政神社」の社殿が建つ古墳のことらしいです。
残念ながら、この八景を描いた画幅は行方知れずになっているそうです。

ただ、この「高崎八景」、天保十年(1839)につくられた別バージョンがあるんですね。
「群馬風土記 通巻26号」に、俳山亭主人氏寄稿の「上毛老談紀」という一文があり、そこに氏が所蔵する「高崎八景」の画幅が掲載されていました。

それぞれの画題は享保版と微妙に異なっています。
なお、天保版の「鷹城」とは「高崎城」のことだそうです。

さて公園の話に戻しますが、明治九年に整備はしたものの、公園としてはちょっと見劣りするものだったようです。
再び「高崎市史 下巻」
園ノ側ニ監獄アルノミナラズ、徒ラニ(いたずらに:無駄に)児童ノ遊戯場タルニ止マレリ、」


そこで、園地の改修を試みるのですが、
明治十九年改修ヲ加ヘシモ見ルニ足ラズ、加之(これに加え)陸軍作業場ヲ旁ニ置カレ、其南部ハ所謂(いわゆる)南郭(みなみくるわ)ノ人家アリ」
という具合です。


しかし、明治三十三年(1900)にわかに公園の整備が加速します。
明治三十三年市制施行ニ至リ始メテ市會ノ議ニ上リ、爾来次第に擴張ヲ策シ、三十九年二月監獄署ノ移轉ヲ始メトシ、陸軍作業所ヲ乘附ノ地ト交換シ、人家ヲ移轉セシメ、小澤奎次郎ニ設計ヲ囑シ着々工事ヲ起セリ」
これでだいぶ公園らしくはなって来たようです。


「高崎唱歌」に詠われたのはこの頃のことなんでしょうが、その後、あることがきっかけで公園の整備はさらに進みます。
時恰(ときあたか)モ明治四十三年、一府十四縣、聯合品評會ヲ本縣ニ開カレ本市ニ教育部ヲ置カルゝニ際シ、急速ニ工事ノ進行ヲ見、加フルニ本市多年ノ計畫タル水道工事モ完成シ、剰水ヲ以テ池中一大噴水ヲ設ク、
池畔ニ樹竹花卉ヲ点綴(てんてい:散らばせ)シ、怪石奇岩ヲ配シ天然ノ美ト、人工ノ妙ト、相俟ツ(あいまつ:互いに作用しあって)ヲ始メテ本市ノ公園トシテ耻(はじ)ザルニ至レリ」

ということで、ようやく高崎市として恥ずかしくない公園となった訳です。

でも、まだ木々が幼くてちょっと寂しい感じ。
噴水も、まだ鶴の像がありません。

鶴の像については、「新編高崎市史 通史編4」にこんな記述があります。
大正八年(1919)六月、上野動物園から寄贈された丹頂鶴の一番(ひとつがい)を、市は高崎公園で飼養することにした。
また、泉水を設け、中に岩山を築いた鶴の像は、井上保三郎の寄附によるものであった。」
鶴の像が寄附されたのは昭和三年(1928)、昭和天皇の即位奉祝を記念してのことだそうです。

今は木々も大きくなりました。


「高崎市史 下巻」には、こんな記述もあります。
池水ノ流末ヲ暗渠ニ導キ、崖上ヨリ崖下ニ飛瀑トナリ潨然(そうぜん:音を立てて)之ニ懸ル、又池中ニ入リ其流末淙々(そうそう:淀みなく)烏川ニ入ル」
池の水は滝になって崖下に落ちて下の池に入り、そこから烏川に流れ込んでいたというのです。

大正三年(1914)の地図には、その二つの池が描かれています。


滝は二段になっていて、「雌雄の滝」という名が付けられていました。


崖下の公園は「下公園」と呼ばれていました。


戦後「下公園」は国道で削られ、「雌雄の滝」「比翼連理の滝」となりました。

もう少し流量を増やしたいですね。

さて、公園にて少し遊び過ぎました。
今回は、この辺で。



  


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2022年09月10日

高崎唱歌散歩-6番 ♪茲に暫く憩ひつつ・・・

茲(ここ)に暫く憩ひつつ
今来し方を見渡せば
数万(すまん)のいらか立ちならび
景色ぞいとど優りける

「茲(ここ)」というのは「観音山」でしょう。
山上、あるいは石段の楼門上から高崎市街を遠望してるんだと思います。

山上からの景色は、清水寺の売りでした。
明治四十二年(1909)発行の「上毛遊覧」という本に広告が載っています。


遡って明治二十五年(1892)には、その景色が脚気療養に良いということで、こんな広告まで出しています。


下の写真は、聖石橋からの観音道路が開通しているので、昭和七年(1932)以降のものだと思うのですが、まだまだ片岡は田畑が広がり、遠く高崎を望めばまさに「数万のいらか立ちならび」という景色です。


聖石橋が真正面に見えますので、おそらく清水寺の楼門から撮影されたものでしょう。

今は楼門最上階へは上ってくれるなと、階段にビニールテープが張られています。

ま、上ったとしても木々が大きくなってしまっていて、下界を望むことはまったく出来ないのですが。


現在の市街遠望スポットといえば、山頂駐車場でしょう。


今や片岡地区まで家々がびっしり立ち並び、「数万のいらか」「数十万のいらか」となっています。


  


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2022年09月03日

高崎唱歌散歩-5番 ♪春は藤波秋は月・・・

春は藤波秋は月
眺めもさえて烏川
橋を渡りて観音山
四時の散策此の処

「春は藤波」は、馬場若水の「藤花園」のことでしょう。
そこから烏川の眺めを愛でながら、橋を渡って「観音山」へという訳です。
「橋」はもちろん「聖石橋」

大正時代の写真だそうです。

まだ木橋ですね。
「聖石橋」の変遷については、過去記事でご覧ください。

木橋の維持管理はたしかに大変だったようで、明治四十五年(1912)にも架け替えが行われています。


昭和六年(1931)にコンクリート橋に架け替えられるのですが、コンクリート橋と木橋の二つの「聖石橋」が並んで写ってる珍しい写真があります。

風情という点では、木橋の方がいいなぁ。

その後、昭和二十六年(1951)には烏川河畔に国道10号線(現18号線)が開通し、昭和四十三年(1968)と四十五年(1970)に橋の左右に歩道が設けられ、平成十九年(2007)に全面拡幅されて今の姿になりました。


そして「観音山」ですが、「高崎唱歌」の頃にはまだ「白衣大観音」はありません。
「白衣大観音」が建立されるのは昭和十一年(1936)、そのずっとずっと前から「観音山」だったのです。

「清水寺」の本堂は山の麓にあり、本尊の千手観音を祀る「観音堂」が山上にあったので、人々はその山を「観音山」と呼んだのです。

因みに「高崎唱歌」の当時、「観音山」髙崎市ではなく隣の片岡村でした。


でも、高崎市民には「四時の散策此の処」だったんでしょうね。
そうそう、「四時」は時刻ではなく「四季」のことです。
今も昔も、四季折々楽しめる高崎市民憩いの山です。
もっともっと活かしていきたいものです。


  


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2022年08月27日

高崎唱歌散歩-4番 ♪若松町に光明寺・・・

若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂
豊川稲荷は龍広寺
坂を下りて藤花園

若松町にある「光明寺」、左側のお堂が「夢に名を得し愛染堂」です。



なぜ「夢に名を得し」なのかは、過去記事をご覧ください。

次に「豊川稲荷は龍広寺」ですが、龍広寺の山門を潜って本堂の左手前にあるのがその「豊川稲荷」です。

鳥居の扁額には「豊川吒枳尼天」と書いてあります。
お稲荷さんと「吒枳尼天(だきにてん)」との関係は、なかなかややこしいです。
書き始めると長くなるので、詳しく知りたい方はWikipedia「荼枳尼天」をご覧ください。

現在では「龍広寺」でお稲荷さんを連想する方は少ないと思うのですが、「高崎唱歌」をつくった頃は参拝に訪れる人が多かったようです。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、こう書かれています。
寺内に陀枳尼天の堂あり、里人豊川稲荷と呼ぶ。
花柳社會の参拝者多し。」

さて次の歌詞「坂を下りて藤花園」は、おそらく皆さん、何のことだろうと思ったのではないでしょうか。
「坂」というのは龍広寺前の坂で、「車坂」と呼ばれていたそうです。

この坂を下ったところに、「藤の花の園」があったというのです。

「高崎の散歩道 第十二集下」を読んでみましょう。
『藤花園』は通称『藤だな』『馬場の藤』といわれた。
高崎藩士で教養人菅谷帰雲の門人馬場若水の家であった。
聖石橋のガソリンスタンドの裏の低地、今は住宅が密集していてその面影はないが、花の頃には茶店も出て、たまご、だんご、ところ天など食しながらの花見客でいっぱいになった。」

昭和三十六年(1961)の住宅地図を見ると、そのガソリンスタンドの近くに馬場姓の家もあります。


この辺から見ると、春には「藤花園」の藤の花がきれいに見えたんでしょうね。


「藤花園」の主・馬場若水については、「新編高崎市史」に高崎藩士とあるだけで、詳しいことは書いてありません。
何かに載ってないかと思って探してみると、平成二十二年(2010)発行の「群馬風土記(通巻101号)」に、草津町文化財調査委員の須賀昌五氏が寄稿した「馬場若水の漢詩」中に生い立ちが記載されていました。

それによると、若水は天明二年(1782)高崎藩の飛び地越後国一ノ木戸の郡奉行・馬場喜通(よしみち)の嫡子として生まれ、父の帰任により高崎に来たとあります。
「諱(いみな)は喜登(よしとみ)、字(あざな)は公淵(こうえん)、若水(じゃくすい)と号した。」というので、高崎藩分限帳にその名があるかと思って探したのですが、馬場姓の藩士は何人かいるものの、同じ名は見つかりません。

しかし、昭和三十四年(1959)根岸省三氏編「高崎人物年表」を見ると、また別の記載がありました。
「名は喜澄、通称大助、字公淵、高崎藩臣にして詩、画をよくし・・・」
通称「大助」とあるので、もういちど分限帳を見直すと、文字は違うのですが馬場大輔という名が何ヵ所かにありました。
この人が若水だとすれば、天保三年(1832)時点の役職は祐筆、石高は50石となっています。

因みに、若水さんはとても温泉好きな人だったようで、頻繁に各地の温泉を訪れては、そこで漢詩を詠んでいます。
いくつか抜き出してみましょう。
浴草津温泉
独浴温泉間暇辰 独り浴す温泉間暇の辰(とき)
横伸両足杲天真 横に両足を伸ばし天真を杲(あきらか)にす
莫言愚痴貧生命 愚痴を言う莫(なか)れ貧生に命ぜん
保養茲身奉二親 保養の茲(こ)の身二親に奉ずるを
気持ちよく入浴している幸せを感じ、両親に感謝し孝行しなくちゃという気持ちが湧いてきてるのでしょうね。

伊香保浴中作
温泉非療数年痾 温泉は数年の痾(やまい)を療(いや)すに非ずや
何好遅留繋帰騎 何ぞ好んで遅留し帰騎を繋ぐや
寄寓送迎皆薄俗 寄寓の送迎 みな薄俗
(湯宿の客の対応は薄情である)
去人吝嗇来人利 去る人は吝嗇に来る人は利なり
(去る客には出し惜しみ、来る客には喜んで迎える)
数年の病気療養のための温泉通いも、伊香保温泉にはあまりいい印象を持たなかったようですね。

歿年は「高崎人物年表」では天保五年(1834)、「馬場若水の漢詩」では天保九年(1838)となっています。


【「藤花園」推定地】



  


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2022年08月20日

高崎唱歌散歩-3番 ♪市の南のはづれなる・・・

(まち)の南のはづれなる
下和田町に龍見町
次なる町は鎌倉町
往古鎌倉街道よ

明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「町名の由来」というのが載っています。
當市は從来”宿”又は”驛”と稱し群馬郡の一部たりしが、明治十二年東西二郡に分劃して西群馬郡に編入せられ、二十二年四月より高崎町と稱せり。
三十三年四月市制を實行す」

「西群馬郡」の頃は「高崎」もまだ小さなものでした。


「下和田村」は明治二十二年(1889)「高崎町」が成立した時に合併します。
合併前の明治六年(1873)「下和田村」の一部を分割してできた町が「龍見町」です。
上の「高崎市全圖」「高崎」の右下に出っ張ってるのがそれです。

高崎歴史資料研究会の中村茂先生が編集・発行された「高崎藩分限帳集成(下)」に、明治六年(1873)の「龍見町居住者名簿」というのがあり、そこに「龍見町の由来」が記載されています。
明治維新封建制度の瓦解と共に藩主の家族高崎に移住し、定府の士卒凡(およ)そ三百余戸も亦(また)遂に此に移り新設或は寺院に寓居せしが、明治元年冬、南、赤坂、和田の三郭(くるわ)を設け、大に邸宅を新築し以て是等士卒の居住ニ充つることゝし、仝(どう)二年初夏、其の落成と共に此処に引移らしめたり。
和田郭は赤坂村及下和田村の一部壱万六千六百余坪を分割して設けられ、町家と区別し純然たる屋敷町なりしが、明治六年三月区画設置の際、其位置旧城の巽位(辰巳)に當るを以、左氏傳荘公二十九年の項中なる凡土功龍見而畢務の句を採り龍見町と命名せるなり。」
じょうふ(江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態)

前半の部分では、江戸詰め藩士およそ三百戸余りが高崎に移り、家を新設したり寺院に寓居したが、明治元年(1868)に南郭、赤坂郭、和田郭を設け、明治二年(1869)ここに引っ越したと書いてあります。

後半は和田郭について書かれており、赤坂村下和田村の一部を分割(買収?)して屋敷町を設けたとあります。
その次に「龍見町」と命名した由来が書いてあります。
旧高崎城の(たつみ)の方角(南東)に位置するので「たつみ町」なのですが、その文字を「巽町」でもなく「辰巳町」でもなく「龍見町」にしたという部分が難しいです。

中国の古い歴史書「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)に出てくる、「凡土功龍見而畢務」という句から「龍見」という字を採ったというんですね。
昔の人の博学・博識には頭が下がります。

その「凡土功龍見而畢務」は、塚本哲三氏編著によれば、「凡(およ)そ土功(どこう)は、龍見えて務めを畢(おわ)れば」と読み、「およそ土木のことは、龍星が見える頃(旧暦九月)には農業が終わるから」という意味だとか。
「龍星」とは、今の「さそり座」の頭部にある星で、この頃の夕方に東方に見えるんだそうです。

前掲「明治六年龍見町居住者名簿」を見ると、「和田郭」には121名の居住者がいます。
宅地は広い家で1反1畝20歩(1157㎡=350坪)、一番狭い家が1畝20歩(165㎡=50坪)です。

さて、次なる町が「鎌倉町」
そんな町名聞いたことがないという方もいらっしゃるでしょうか。
「龍見町」の西北にあった町です。

現在は「若松町」に含まれています。


田島桂男氏著「高崎の地名」から引用させて頂きます。
髙崎ができる前、「和田宿」の時代から「植竹」と呼ばれ、赤坂村の一部であったところである。
町としては明治六年(1873)になって誕生した。
町名は、地内を古道である鎌倉街道が通っていたのでつけられた町名である。
この町は大正十四年(1925)分割されて、若松町と竜見町とになった。
一時的には「植竹町」と呼ばれていた時代もあった。」
「高崎市全圖」にも、「鎌倉町」の下に「植竹」と書かれていますね。

「鎌倉街道」と言えば、もう12年も前になりますが、この辺をうろつき回ったことがありました。

お時間があったら、過去記事をご覧くださいませ。
   ◇鎌倉街道探訪記(4)
   ◇鎌倉街道探訪記(5)
   ◇鎌倉街道探訪記(6)


  


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2022年08月06日

高崎唱歌散歩-2番 これでおしまい♪水道や・・・

「春日堰取水場」の完成は明治四十一年(1908)十一月十二日でしたが、そこから「剣崎浄水場」まで水を送る「導水管」の工事に着手したのは、ちょうど一年後の明治四十二年(1909)十一月八日でした。
四十一年九月から着工されていた「剣崎浄水場」の工事との関係だったのでしょう。

現在、「導水管」は国道406号線の道路下に埋設されているそうですが、最初はその南の丘陵部を通っていたようです。


しかし、その具体的な経路はよく分かりません。
「高崎市水道誌」を拾い読みしてみても、
水道線路は前記神山町を基点とし・・・
線路に沿ひたる地名
碓氷郡里見村大字上里見村・中里見村・下里見村、同郡八幡村大字若田村・八幡村・剣崎村・・・
導水管線路は概して丘陵起状する処なるを以て、従て盛土を要する個所多く・・・
此部分の地理は現今(注、大正末年)神山町内県道にして、古老の伝ふる所、往昔烏川の流れし所なりと言ふに・・・
という具合で、何とも漠然としています。

ただ、実は二年前、偶然にも、その「導水管」が埋設されていたという場所を教えて頂いたことがあります。
その方は、「水道みち」と仰ってました。

「水道みち」を地図上で延長していくと、「ベイシア」の南側丘陵部の道につながっていそうです。

行ってみると、ヘアピンカーブの所に、「水道みち」だったらしい痕跡を見つけました。


「水道みち」らしき痕跡は、ヘアピンカーブを横切って、さらに南東方向へ向かっています。

その痕跡をずーっと行くと、「向井住民センター」の脇を通って「郷見神社」のところに出ます。

境内から南東の方向を見ると、遠くに「城山稲荷」が見えます。

「導水管」からの水漏れが原因ではないかとも言われた、土砂崩落災害が発生したところです。

「高崎市水道誌」「導水管」の写真が掲載されてました。
(注:崩落現場のものではありません)

土管だったんですね。
仕様も書かれています。
引用水管は円管口径壱尺二寸(36.4cm)とす
管は混凝土管にしてその割合「セメント」一、洗砂三なり
混凝土管は上部の土圧に耐ゆるの為、充分之を厚く作り掘鑿せり
地面を搗き固めて之を据付け接合部には麻を詰め込みこれに調合「セメント」一、砂一の「モルタル」を充填し粘土を以て囲繞す

「城山稲荷」からも、「水道みち」らしき道が南東へ向かって切れ切れに続いているように見えます。


近くをウロウロしていると、面白いものを見つけました。

切り通しのように見えますが、それにしてはきれいに石が積まれています。
よく見ると、こんな文字が刻まれていました。

これ、もしかすると、「導水管」を架け渡すための橋脚だったんじゃないでしょうか。

さらにウロウロすると、少し離れた所に「第五號」というのもありました。



「第六號」は明治四十二年(1909)、「第五號」は明治四十三年(1910)竣工となっています。
探せば、まだどこかに「第一號」「第四號」が残っているのかも知れません。

さて、「春日堰取水場」から3,908間(7.1km)、「水道みち」を通って敷設された「導水管」「剣崎浄水場」に接続され、ついに高崎市内に上水道が供給されたのは明治四十三年(1910)十一月三十日のことでした。


112年後の今も、現役で活躍しています。


信州大学の中本信忠教授は「日本一おいしい水」だと評価しています。


帰りがけに「若田浄水場」内の「水道記念館」へ寄ってみたら、「あれ?」と思うものを見つけました。


やっぱり、あの橋脚らしきものは「導水管」用だったようです。

やれやれ、これで「高崎唱歌」二番を、どうにか終わらせることができました。
ふぅー。


【導水管橋脚第六号】

【導水管橋脚第五号】


  


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2022年07月23日

高崎唱歌散歩-2番 まだまだ続く♪水道や・・・

水道の話、続きます。

明治三十三年(1900)初代高崎市長になった矢島八郎は、水道敷設こそ最も大きく、最も急を要する事業として取り組むこととしました。
就任翌年、県の技師や土木工手に委嘱し、3つの水源候補地の検討が始まります。
「高崎市水道誌」で見てみます。
1. 群馬郡片岡村大字清水観音山渓谷に堰堤を築き、貯水池及び濾過池をつくり、鉄管により自然流下で送水する。
2. 碓氷郡里見村大字上里見字上山(神山?)町春日堰上に引入口を取り、掘鑿して八幡村大字剣崎村剣崎山頂に送水する。
3. 碓氷郡礒部村大字中礒部村諏訪神社裏手に引入口を取り、山腹に沿って群馬郡片岡村大字乗附村に送水する。

検討の結果、第二案の上里見春日堰から取水し、剣崎山頂に浄水装置を設けて高崎市内に送水する路線が最適ということになり、さらに調査が続けられます。
調査は明治三十五年(1902)三月に終了し、翌三十六年四月水道調査委員により「水道敷設設計概略」が取りまとめられます。

この計画による水道敷設費は、577,755円44銭9厘と試算されています。
その費用をどう捻出しようとしたかというと、
・国庫補助申請 200,000円
・県費補助申請 100,000円
・公借金(日本勧業銀行) 270,000円
・市費負担 7,755円44銭9厘
と算段しています。

この間の県との交渉におけるエピソードが、昭和五年(1930)五月四日の「東京朝日新聞」に載っていました。


このような苦労をしながら国・県・勧業銀行との交渉を進め、里見村長とも本契約を締結までこぎつけたのですが、明治三十七年(1904)二月に勃発した日露戦争により、待望の水道敷設は中止のやむなきに至ってしまいます。
関係者の無念、察するに余りあります。

そして日露戦争が終わった翌年の明治三十九年(1906)、矢島八郎は市長の任期六年となり、二期目の市長再任に意欲を燃やしていました。
六月、矢島八郎は議場において、今後の高崎市が進めるべき基本方針である「市是」について大演説を行います。
その「市是」の真っ先に掲げたのが、「水道敷設」でした。
就中、水道敷設事業ノ如キハ市ノ盛衰興亡ニ関スル刻下ノ最要急務ニ属スルヲ以テ、市ハ全力ヲ集注シテ其完成ヲ速カナラシメザルベカラズ。」

二期目の市長就任を目指す矢島八郎の前に、元高崎町長を務めた生沢一太郎が名乗りを上げます。
「新編高崎市史通史編4」に、次のような話が載っています。
選挙の日が近づくと生沢は直接矢島を訪ねて、市是の十二項目は私がやり遂げるから次期市長はぜひ私にやらせて欲しいと頼んだ。
しかし、上水道を始めとする多くの継続事業を残す矢島は、生沢の申し出を拒絶、選挙は避けられない情勢となった。(略)
次期市長を選ぶ十七日の市会は、出席者二十九人、選挙の結果は第一候補に十七票の過半数を得た生沢一太郎が当選、(略)
選挙で争うと新聞に報じられた矢島前市長は、市是の直接の実行は生沢新市長に任せ、市の元老として背後で生沢市政を支える立場を選んだ。」

前市長・矢島八郎は、明治四十年(1897)四月水道敷設工事顧問に就任します。
そして、十一月三日、里見村神山の取水場予定地において起工式が執り行われました。

「工事方法書」に、取水場の仕様が示されています。
川岸に擁壁を築きて沿岸の土留となし、其中に口径一尺二寸の鋳鉄管を布し、其管頭は附するに金属製の塵芥除けを以てし、管末には制水扉を設く。
河水は自然に管内に流入して内径九尺の円井に入り、井内に於いて更に塵芥除け金網を過ぎ、導水管に入りて浄水場に流下するものとす。」

明治四十一年(1908)十一月十二日、「春日堰取水場」は竣工しました。
「高崎唱歌」がつくられたその年ですが、新しい水道が敷設されるのには、さらに二年の歳月が必要でした。
「電燈電話に水道や 文明機関備はりて」という歌詞は、完成した暁にはという大きな期待を込めたものだったんでしょうね。

現在の「春日堰頭首工(取水口)」です。


水門には「昭和二年五月 竣工里見村」と刻まれています。

明治のものではなかったのですね。
その頃の取水口の姿を知りたかったのですが、当時の写真を見つけることはできませんでした。

さて、この後、「春日堰取水場」から「剣崎浄水場」までの「導水管」が敷設されていったわけですが、今回もまた長くなりました。
次回に続けましょう。
終わりませんねぇ、♪水道や・・・。


【春日堰頭首工】



  


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2022年07月09日

高崎唱歌散歩-2番 続きの続き♪水道や・・・

前回の「電燈・電話」に続き、今回は「水道」の話です。

高崎の飲用水は、長らく「新井堰」の水が利用されてきましたが、幕末から明治にかけて住民の数が急増してくると問題が発生してきます。
「新編高崎市史通史編4」に、こう記されています。
江戸時代の貞享四年(1687)の高崎宿の人口は5,734人で、それから169年後の安政三年(1856)は7,784人である。
この間の増加を一年平均で見ると12人となる。
明治十一年(1878)の高崎の人口は16,115人であるから、22年前の安政三年と比較してみると、一年平均で379人の増加である。
幕末から明治にかけてのこのような急増は人々の居住環境を変化させた。
それまでの長い間大切にされてきた水路に、下水が流入するようになったのもその一つである。
家庭用の井戸が掘られるようになったが、その井戸でも良質の飲料水を得ることは難しかった。
水を生み出す地層そのものが汚染されてきたのである。
こうして、人間の生存に欠かせない良い水を求める声が、人々の間に高まっていった。」

そこで、明治二十一年(1888)「新井堰」に簡易浄水場を設け、高崎中心部の15ヵ町に簡易水道水が供給されるようになります。


浄水場は通称「水こし場」と呼ばれ、「高崎唱歌」22番にも、
「ここは水道水こし場 住吉町の西の方・・・」
と歌われています。

その浄水設備の構造が「新編高崎市史資料編9」に載っています。
水道口は住吉町地内に、
長さ八尺(2.4m)・幅十二尺(3.6m)・深さ六尺(1.8m)の沈定盤と、
長さ九尺(2.7m)・幅二間(3.6m)・深さ六尺(1.8m)の濾過器と、
長さ十尺(3m)・幅十二尺(3.6m)・深さ三尺(0.9m)の溜井函等を設け、
総て煉化石造とし、内部へハ木製の仕切函を置き、器の底はコンクリートを以て修築し・・・」

【戦後発掘された簡易水道浄水場】


この簡易水道を保守・管理するために、「水道巡視人」という人が任命され、その心得が定められました。
第一条 水道の全体を監守するため巡視人一名を置く
第二条 巡視人ハ一日二回以上水道の全体を巡視すべし
第三条 巡視人ハ貯水池及供用汲井等に異状または破損あるを認むるときは、其状況を郡役所に報道すべし
第四条 巡視人ハ出張郡吏の指揮に従ひ、貯水池掃除等の事を所理すべし

「巡視人」のいで立ちも定められています。
第六条 巡視人ハ水道巡視の際必ず制規の被服を着用すべし
第七条 巡視人被服ハ紺小倉にして袖先に水字の徽章を附す、帽は独逸形にして正面に水字の徽章を附す
うーん、イメージが湧くような湧かないような・・・。

こうして運用された「簡易水道」ですが、そこは「簡易」の限界があり、大雨の時には濾過しきれずに、蛇口から小魚などが出てくることもあったようで。 → ◇蛇口から魚?

「高崎市水道誌」にも、このような記述があります。
十五ヵ町の水道は成ったが、降雨あれば水門を締め、また、長野堰その他水路の修繕等による断水がしばしばあり、ときには一ヵ月近く停水のこともあって、完全な水道を求める動きが起きてきた。
また、水道未設置の町内(高崎全戸数の約六割)からも強い要望が出てきた。」

そこで、新水源を求めて調査が開始されるのですが・・・、
明治二十八年頃、群馬郡中川村大字大八木村の猪之川(井野川)べりの湧水を時の助役深井寛八らが実地踏査した。水道の新しい水源を求めての動きである。
水質は飲料水として適切と認定され、噴出量も一見必要量を満たすかに認められたが、永久の水源として、将来の水脈の変化を測定するによしなく、信をおくに足る調査結果が得られないまま、さたやみとなった。

同じころ、倉賀野町の長野堰田用水利用は高崎の末流に当たり、旱魃に苦しむことが多かったので同町の富豪松本勘十郎主唱により、吾妻川に取水場を設け、高崎を通過して同町に引く計画が立てられた。
当時、高崎は水道の改善拡張を望んでいたおりであり、ときの県知事中村元雄は高崎に来て、この際、倉賀野の企画に協力し、高崎の飲料水の確保をはかるようにとすすめた。
そこで高崎において同川の水質を調査したところ硫酸過量で飲料水に適しないものと判明。
このようなことから、この計画も中止された。

また、明治三十年、現在の長野堰支流新井堰の水道取入口に沈澄池・沪過池の新設について調査を大森俊次郎に依頼したが、水頭及び余地なく見込みなき旨の報告があった。
なお、取入口を並榎村に移して沈澄池を設置する案もあったが、田用水組合との交渉困難のため立ち消えになった。」
という具合で、なかなか新水源を得ることは出来なかったのです。

明治三十三年(1900)高崎に市制がしかれると、初代市長・矢島八郎は水道敷設を最大かつ喫緊の事業として取り組みます。
話は長くなりますので、続きはまた次回。


  


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2022年07月02日

高崎唱歌散歩-2番 続き♪電燈電話に水道や・・・

汽車の線路はたて横に
電燈電話に水道や
文明機関備はりて
(まち)の繁栄日に進む

今日は電燈電話の話です。

高崎市内に初めて電燈の灯りがともったのは、明治三十七年(1904)でした。
田村民男氏著「群馬の水力発電史」にこう書かれています。
高崎市では須藤清七、小林弥七らによって、明治36年6月25に高崎水力電気会社が資本金10万円で設置され、本社を常盤町に置いた。
同年9月12日、烏川上流の室田町上室田地区に上室田発電所の建設に着手し、翌37年8月30日に竣工し、11月に完成した小島変電所の落成を待って高崎市に送電を開始した。
しかし、実際にランプに代わって高崎市の各家庭に電燈がついたのは37年12月1日であった。」

「高崎水力電気」の本社はここにありました。

今の「中央小学校」がある場所ですね。
そばにある「コ」の字形は高崎城の角馬出し跡、通称「ぼうず山」です。

建物はこんなでした。

手前の木柵は、たぶん明治十三年(1880)創業の「栗本牧場」だと思います。

明治三十七年(1904)版「高崎繁昌記」に、電力供給の規模が書かれています。
開業当日の既設の分2,500余燈、取得中のものを合すれば4,000燈に上るの盛況を呈し、且つ水源発電地は天然好地形をなし、費用少なくして、水力豊富、燈光熾盛なる為め、1個月終夜燈16燭光75銭、同10燭光55銭のみ、其廉価と好成績とは全国60有余の電燈会社中第一に位し・・・」

また「上室田発電所」については、
水源地は市外十哩(マイル)を距(へだ)て群馬郡上室田山中に在りて、烏川の水流を125尺の高処(字、本荘)より直下の低地に導き茲(ここ)に発電所(字、初越)を構成し、有効動力450馬力、(略)其発電機(3相交流300kwペルトン水車直結式)4台を用うるに足るの規模を有するも、目下は発電機を1台に止め300kw(即ち450馬力、7,500燈)を発生せしむる・・・」
とあります。


「上室田発電所」は、「室田発電所」として現在も稼働しています。


開業以降の利用者増加は目覚しいものがあります。


高崎水力電気の電力は、鉄道の発展にも大きく貢献します。
明治43年(1910)には高崎-渋川間の全面電化(チンチン電車)、大正13年(1924)には高崎-下仁田間の全面電化(上信電鉄)がなされます。

話変わって、電話の話。
高崎前橋に遅れること三年、明治三十九年(1906)ようやく加入数160で電話業務が開始します。
電話局は、連雀町「高崎郵便電信局」に併設されました。


加入者には「通話せんとするときの心得」というのが配布されたそうです。(新編高崎市史資料編9)
一、 電話加入者が、任意の加入者に向って通話せんとするときは、先づ電話器に向って、受話器の懸りし儘、発電器の取手を数回々転して、次に電話器に(受話器を?)外して耳に当て、交換手の出づるを待たる可し
二、 交換手出でゝ、モシモシ何番と問ふときは、直ちに呼出さんとする番号、(例えば100番又は200番の如し)を答へ、相手加入者の出でゝ、応答するを待つ可し
三、 暫く待ちて相手加入者出でざるときは、又受話器を懸けて、数回発電器を廻し、受話器を耳に当てゝ暫時待つ可し
四、 此場合に於て交換手出でしときは、未だ出ませんと答へ、若し相手加入者出でしときは、直ちに通話す可し
五、 通話中には、決して発電器を廻す可からず
六、 終話の時は、一旦受話器を懸金物に懸けて、発電器を一、二回々転し、然らざれば、交換手に終話を知らしむること、能わざるなり
(以下省略)
まぁ、えらく面倒くさいですね。
それでも「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)には加入者は225に増え、高崎停車場前にも公衆電話が設置されて、加入者以外の人も掛けることが出来るようになりました。

面白い話があって、「高崎新聞」のアーカイブ「初めて電話が通じた日」に、こんな逸話が載っています。
戦後、電信電話公社が発足し、通信需要も大きく伸びた。しかし、まだ交換手が手動でつないでいた時代で、しかも高崎電話局の設備は旧式で、高崎から東京に電話を申し込んで相手が出るまで5時間かかっており、「鉄道よりも遅い」と不評をかっていた。」
戦後になってもまだこんな具合ですから、明治時代はもっと大変だったんでしょうね。
いや、もしかすると加入者数が少ないからもっと早くつながったのかな?

さて、歌はこの後「水道や」と続くのですが、また次回ですね。


  


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2022年06月18日

高崎唱歌散歩-2番 ♪汽車の線路はたて横に・・・

汽車の線路はたて横に
電燈電話に水道や
文明機関備はりて
(まち)の繁栄日に進む

明治四十三年(1910)の「旅行案内高崎市略図」に、当時の高崎を通る「汽車の線路」が載っています。



まず明治十七年(1884)上野-高崎間に「たての線路」が開通します。(その辺の物語は、こちらをご覧ください。)

それまで馬車で12時間掛かっていたものが、わずか4時間で行けるようになりました。
これを「高崎線」と呼びたいところですが、「高崎線」という呼称は、明治三十九年(1906)の国有化時に大宮-高崎間を以て定められたもので、当時は「中山道鉄道」と呼ばれていたようです。
東京京都を鉄道で結ぶために、中山道沿いに鉄道を敷設しようという計画の一環だったからです。

この計画に基づき、明治十八年(1885)には高崎-横川間も開通し、三国街道と交差する場所に「飯塚駅」が開業します。大正八年(1919)北高崎駅と改称)

ところが、政府は翌明治十九年(1886)突然「中山道鉄道」の建設を中止し、幹線鉄道を東海道に変更することを決めます。
「中山道鉄道」は、山岳地帯が多いので難工事が予想され、工期や工費がかさむというのが理由だったそうです。

その難所の一つが横川-軽井沢間の碓氷峠で、勾配がきつくて汽車が上ることができず、乗客は駅で降り、街道を歩いて峠越えするしかありませんでした。
そこで、高崎の矢島八郎、前橋の高瀬四郎が発起人となり、中山道の街道上にレールを敷設して馬車で客車を曳かせる「碓氷馬車鉄道を明治二十一年(1888)に開業します。
詳しくは、小林収氏の「碓氷峠の歴史物語」をご覧ください。


路線距離19.1km、所要時間2時間30分、一日4往復の運行でした。
2時間30分とはずいぶん掛かったもんだと思いますが、歩くとなれば時速3kmとしても6時間半弱掛かる訳ですから。

横川-軽井沢間にアプト式の鉄道が敷かれ、汽車で峠を越えられるようになったのが、明治二十六年(1893)です。
これで高崎-直江津間が全通し、明治二十八年(1895)「信越線」と改称されるのです。
なお、アプト式鉄道開通により用済みになった「碓氷馬車鉄道」の資材一切は、「群馬鉄道馬車」株式会社が購入、その年の内に高崎-渋川線に転用敷設されました。

さて、つぎに「横の線路」ですが、上野-高崎間が開通したその年、高崎-前橋間も開通しています。
ただし「前橋」とは言っても、利根川に鉄橋を架けることができなかったために、手前の内藤分村(現石倉町)の「内藤分ステーション」で線路は止まっています。



ようやく利根川に鉄橋が架かったのは明治二十二年(1889)、これにより高崎-小山間が全通しました。
現在の両毛線ですが、正式にその呼称となるのは、20年後の明治四十二年(1909)です。

もう一本の「横の線路」「上野鉄道」です。

東京上野行ではなく、下仁田へ行く「上野(こうづけ)鉄道」です。
現在の「上信電鉄」ですが、まだ電車ではなく汽車でした。



明治二十九年(1896)発行の「上野鐡道株式會社線路圖」というのがあります。


その中の「鐡道局御調査報告書及經済表」という項に、「上野鉄道」の売り文句が記されています。
本線沿道産物ニ乏シカラズ 中小坂鐵山ハ下仁田ヲ距(へだた)ルヿ(こと)西方壹哩(1マイル)ニシテ毎年ノ産額貮千噸(2000トン)ヲ下ラズ
靑倉ニ石灰山アリ 富岡ニ製絲塲アリ 其他材木、薪炭、砥石ノ産出尠(すく)ナカラズ
之等ハ總テ他地方ニ運出スルモノニシテ 而シテ米穀、魚、鹽、生繭、石炭及日用ノ物品ハ全ク他方ノ輸入ヲ仰カザルヲ得ズ
故に本鐵道ニ因テ得ル所ノ公益ハ 實ニ少ナカラザルベシ」

これを見ると、沿線で産出される資源の輸送に力点が置かれているのがよく分かります。
この文書が発行された翌年、明治三十年(1897)に営業が開始されたのですが、その成績は目論見通りにはいかなかったようです。


これを救う手立てとなったのが鉄道の電化なんですが、それは大正十三年(1924)まで待たねばなりませんでした。

だいぶ記事が長くなってしまいました。
歌の続き「電燈電話に水道や」については、次回ということに。


【内藤分ステーション跡】


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2022年06月04日

高崎唱歌散歩-1番 ♪中仙道に名も高き・・・

中仙道に名も高き
高崎市(まち)は上野(こうづけ)
商工業の首脳の地
人口三万八千余

私の両親は「高崎唱歌」がつくられた明治四十一年(1908)生まれですが、父は久留馬村本郷、母は八幡村山名の産なので、残念ながら三万八千余には含まれてません。
今年の高崎市の人口は4月末時点で369,891人ですから、114年間でほぼ10倍になった訳です。

市制が敷かれた明治三十三年(1900)からの人口の推移を、グラフにしてみました。


近隣町村との合併により、人口が増えてきたことがよく分かります。
市域面積と世帯数の変化も併せて見てみましょう。
面積世帯数人口
明治33年 4.87k㎡5,924戸32,467人
昭和5年 28.04k㎡12,246戸59,928人
昭和15年 35.58k㎡14,504戸71,002人
昭和26年 41.77k㎡20,807戸100,053人
昭和30年 71.26k㎡25,896戸125,195人
昭和31年 87.87k㎡27,861戸134,426人
昭和32年 89.34k㎡28,818戸137,046人
昭和38年 93.96k㎡37,736戸160,123人
昭和40年 110.56k㎡43,397戸173,887人
平成元年 110.72k㎡78,604戸236,109人
平成18年 401.01k㎡130,705戸340,881人
平成21年 459.41k㎡150,899戸374,622人
令和元年 459.41k㎡156,353戸368,667人
令和3年 459.41k㎡162,415戸371,878人

平成二十一年(2009)の合併以降、世帯数は増えているのに人口は伸び悩んでいるのが分かります。
やはり、少子化ということなんでしょうか。

高崎市制100周年記念としてつくられた「高崎かるた」に、こんな札があります。


子どもを産みやすい、育てやすい、そんな市(まち)であって欲しいと思います。


  
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2022年05月28日

号外! 絵葉書になった高崎の明治・大正・昭和

今日からです!
高崎市歴史民俗資料館の企画展「絵葉書になった高崎の明治・大正・昭和」


「高崎唱歌」の風景もありそうで、楽しみ、楽しみ。
行ってみましょう、行ってみましょう!


【高崎市歴史民俗資料館】


  


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2022年05月21日

「高崎唱歌散歩」始めます

明治四十一年(1908)中央小学校校長・深井小五郎により、市内の名所を織り込んだ「高崎唱歌」というのが創作され、小冊子になっています。


その「高崎唱歌」をもとにした吉永哲郎氏の「高崎唱歌散歩」という文が、昭和五十五年(1980)高崎観光協会発行の「高崎の散歩道 第十二集下」に掲載されています。
それによると、「高崎唱歌」の小冊子は縦10.8cm、横14cm、20頁余で、連雀町の兵用図書日用雑貨の清水商店から発行されたとあります。

滋野金城という人が書いている序文を、一部抜き書きしてみましょう。
世間往々龍動(ロンドン)の月、巴里(パリ)の花あるを知りて我が国に三笠の月吉野の花あるを知らざる者あり、これ遠くに走りて近きを忘れ高きを思ふて卑きを忽(ゆるがせ)にする者とやいはまし」

難しい文ですが、吉永氏が解説してくれています。
まずは自身の土地のことを知ってこそ世間がひらける。足元をよく見ようと、現代の地方の時代の意味の一端を思わせる序文である。」

114年前に書かれた序文ですが、まさに、いま現在の高崎人に突き付けられている命題でもあるように思います。

ということで、次回から「高崎唱歌」の歌詞に沿って、令和の高崎を巡ってみることにいたしましょう。

因みに、吉永氏著「高崎唱歌散歩」の簡易版は、「高崎新聞」のサイトから閲覧できます。



  
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2022年05月14日

号外! 高崎五万石騒動芸能文化祭

5月28日(土)高崎総合福祉センター・たまごホールで、「高崎五万石騒動文化祭」が開催されます。
ぜひ、ぜひ、お出掛け下さいませ。




【たまごホール】



  


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2022年05月07日

史跡看板散歩-番外編 剣磨石と立石

「権田の七つ石」の内、「鳴石」「イボ石」「腹切り石」「ゆるぎ石」は現物を見ることができ、「ゴンゾウ石」はここにあったという場所を見ることができました。

残るは、あと2つですが。
公民館の塚越さんに頂いた資料には、こう書かれています。
剣磨石
(ケンズリ
 イシ)
剣磨石は権田字滝ノ沢にあります。
昔、竜が昇天する時に、竜の尾剣で石を揉み穿った穴があるといいます。
※現在その所在は不明です。
立石
(タテイシ)
立石は権田字立石原にあります。柱状の大きな石が立っていることから起こりました。
この石から立石原という地名になりました。
※よく目立つ石であったため、榛名古道の道しるべの一つになっていたと考えられます。
現在は周囲の樹木が大きくなってしまったため、遠くから見ることができません。

「剣磨石」は所在不明、「立石」は見ることができないと書いてあります。

ところが塚越さんによると、その二つの石を見たことがあるという人がいるというのです。
「鳴石」集落にお住いの戸塚さんという方だというので、さっそく訪ねてみました。

戸塚さんのお話では、自宅のすぐ下を流れる「至り沢」に、てっぺんに穴が開いている大きな石があるといいます。
「滝ノ沢」でなく、「至り沢」ですか。
戸塚さん自身も、「それが剣磨石かどうかは分からないが」とは仰るのですが。
近くだというので行ってみようと思いましたが、けっこう深い沢で、電気柵が張り巡らされていたので諦めました。

後日、地図を持って再訪し、この辺だという場所を教えて頂きました。


残る一つ、「立石」ですが、戸塚さんのお話からすると、相当な山の中らしいです。
何度もその辺の山へ猪狩りに行っていた戸塚さんも、木々の葉が茂っている時は気付かなかったと言います。
ここも、地図上でこの辺だという場所を教えてもらいました。


若い時なら、すぐにでも探しに行くところですが、今はちょっと自信がありません。
このブログを見た人で、見つけたよという人は、ぜひご一報を。
ただ、猪が出没するらしいので、くれぐれも気をつけて頂きますように。

さて、これで曲がりなりにも「権田の七つ石」を調べることができたのですが、もうひとつ、「七つ石」になくて「五名石」に入っている、「夫婦石」(めおといし)というのがあるんです。
でも・・・、
夫婦石は権田字至り沢にあります。大きな石が重なり合っていることから、この名前で呼ばれました。
※至沢川の河川工事で失われてしまいました。」
ということで、もう無くなっちゃったようです。

そこで、権田ではないのですが、別の「夫婦石」をご紹介しましょう。
場所は、「落合の双体道祖神」のすぐ上です。



ふ~ん、なるほどね。


2016年5月からスタートした「史跡看板散歩」シリーズは、今回を以て完結といたします。
長い間お付き合い頂いた読者の皆様方に、厚く御礼申し上げます。
このあと、どんなシリーズにするか只今思案中であります。
始まりましたら、またよろしくお願い申し上げます。


  


2022年04月23日

史跡看板散歩-番外編 権三(ごんぞう)石

倉渕公民館の塚越昇さんから頂いた資料に、「権田七つ石」の一つ「ゴンゾウ石」のことが書かれています。
  「権三石」というのは、中央小学校校門の所より30mほど西方の県道端(柳原氏宅上手)にありました。
3mくらいの馬の背形をした巨石でありましたが、県道改修の時に取り除かれてしまい、今はその姿を見る由もありません。
現在「権三石」の上に建っている柳原氏のお宅は、元々「権三石」の下方にあったといいます。
「権三石」は昔の草津街道の端にその巨体を横たえていた訳です。
柳原氏の話によれば、子どもの頃「権三石」は子どもたちの遊び場で、馬の背形の上を滑り台のようにして遊んだとのことでした。
「権三石」の語源については、「権田石」が訛ったものか分かりませんが、柳原氏の説によれば「昔、権三という無宿者がこの石のそばに小屋掛けして住んだので、権三石と呼んだのではないか。」とのことであります。

権田の信号の手前、旅館「権田館」の道向かい、写真手前の赤い屋根の家が柳原氏宅です。


柳原氏宅は今どなたも住んでらっしゃらないので、近くの理容店「つかごし」さんのご主人にお話を伺いました。
ご主人も「権三石」の実物は見たことがないということでしたが、「県道が拡幅される前はこの辺にあったらしい。」と現地まで案内してくださいました。

今は石段の下り口になっていますが、その辺にあったようです。

柳原氏宅を建てる時、「権三石」はその基礎石に使われたのではないかというお話でした。

「権三石」が再び姿を見せるのは、柳原氏宅が解体される時ということなのでしょうか。
その時、「権三石」のことが人々の記憶から消えていないことを祈ります。


【権三石があった場所】


  


2022年04月16日

号外! 高崎藩主・大河内松平家まつり

この春、やけに、高崎藩主・大河内松平家に関するイベントが催されます。

県立歴史博物館では、本日から「春の特別展」として、「高崎藩のお殿様ー大河内松平家の至宝ー」を開催。


関連行事として、講演会と展示解説もあります。


さらに、高崎史志の会では、大河内松平家の現当主をお招きしての講演会開催です。


これは見逃す訳にいきませんね。
みなさんも、ぜひお出掛け下さいませ!


  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(0)◆高崎探訪

2022年04月09日

史跡看板散歩-番外編 ゆるぎ石

倉渕公民館の塚越さんに頂いた資料に、こうあります。

動石(ユルギイシ)は権田字小倉、原田家の庭にあります。
少し力を加えると揺るぐことから動石と呼ばれました。
石の上に小さい窪みがあり、水を入れて揺すると水がこぼれたといいます。
しかし、関東大震災の頃から動かなくなったそうです。」

塚越さんのお話では、原田家は現在空き家になっているそうですが、その庭の池の中にあるということでした。

「ゆるぎ石」があるという小倉地区は、「権田栗毛」伝説ゆかりの「お母衣明神」から、さらに1kmほど行って右へ入ったところです。


しばらくウロウロしましたが、空き家らしき建物は見つかりません。
と、ちょうどお庭に出てきた方がいらっしゃったので、お尋ねしました。
「この付近にゆるぎ石というのがあると聞いてきたんですが・・・。」
「あぁ、あるよ。案内しようか。」と仰るので、ありがたくお願い致しました。

着いた先には立派な家屋が建っていましたが、たしかに空き家らしく荒れた庭が広がっています。


「ゆるぎ石」は、この篠薮の中にあるんだそうですが・・・。

びっしりと生い茂った藪が、中を覗くことを拒否しています。

すると、案内してくださった方が中へ入って藪を押し開けて下さいました。


何やら石らしきものは見えたのですが、はっきりした姿は分かりません。


さらに身体を使って押し開いて下さって、「これがそうだよ。」と教えてくれました。

「ゆるぎ石」はしっかりと土台石になっていて、もはや揺るぐことはなさそうです。
案内して頂かなかったら、まず分からなかったでしょう。
ありがとうございました。

「失礼ですが、お名前は?」とお聞きすると、
「原田です。」と仰います。
「あれ?こちらの空き家も原田さんですよね。」と言うと、
「この辺はみんな原田なんだよ。ここん家は、亀沢温泉をやるんでここから出て行ったんだよ。」と言います。

「亀沢温泉」には、一度、行ったことがあります。
ひなびた素敵な温泉でしたが、今は閉館しているようです。
「はしご湯のすすめ」というサイトに、営業していた頃の記事が載っていました。 → ◇亀沢温泉

時という流れも、多くのものを流し去っていくのですね。


【ゆるぎ石】