2008年12月10日

歌声喫茶「風」

最後に「風」で歌ったのは、35年ほど前だったと思う。
夫婦喧嘩をして飛び出したものの行き場もなく、学生の頃に通い詰めた「風」で歌を歌って時間を潰していた。
ところが女房の勘というのはすごいもので、ここをぴたりと探し当てられてしまった。
歌を歌って私の怒りも収まっていたので、無事休戦(敗戦かな?)できた。
今日まで夫婦でいられるのは、もしかしたら「風」のおかげかも知れない。

郊外に引っ越し、すっかりご無沙汰になってしまったある日。
前を通りかかって懐かしく「風」の看板を見上げたが、店を開いている様子はなかった。
その時は、1階の薬屋さん「マツヤス薬局」がまだやっていたので、ご主人にお話を聞くことができた。
ご主人から聞いて初めて知ったのだが、「風」を開いていたのは「マツヤス薬局」の奥様だったのだ。
お身体を壊されて、やむなく「風」を閉めることになったのだが、「看板は残しておいて。」と言われているので、ということだった。
またいつか「風」を再開するつもりなのだな、再開されたら絶対に来ようと思っていたのだが、ついに「マツヤス薬局」のシャッターも降ろされてしまった。

「風」には、カウンター席が6つぐらい、4人がけくらいのテーブル席がやはり6つぐらいあったような記憶がある。
いつも満席に近く、ガラガラだった記憶はない。
伴奏はエレクトーンだった。その伴奏に合わせてリーダーが歌い、客が一緒に歌うのだ。
1曲歌い終わると、客席から「(歌集)何集の何番!」とリクエストが出る。
客は一斉にそのページを開いて、伴奏が始まるのを待つ。
今のカラオケのように、一人が歌い、他の人はろくに聞きもせずに曲探しという冷たさはない。
みんなが一緒だった。
みんなと歌いながら、知らなかった歌をずいぶん覚えた。
特に、山の歌、ロシア民謡、労働歌はよくリクエストされていた。

ママ(マツヤス薬局の奥様)は、いつも笑顔でカウンターの中にいた。
初めて「風」に入ったのは中学3年生の時だった。
当時は、中学生が喫茶店に入るのは禁止されていたかも知れない。
だが、昼飯のパンを買う金を2日我慢して貯め、「風」に通っていた。
初めての日は金がなくて歌集が買えなかった。(1冊100円ぐらいだったかなぁ?覚えてない。)
ママは笑顔で店の歌集を貸してくれた。

ある日こんなことがあった。
見るからにその筋らしいお兄さんと、その手下らしい人が店に入ってきてカウンター席に座った。
横目でチラチラ見ていると、お兄さんも「場違いなところに来ちゃったなぁ。」という顔をして、黙ってコーヒーを飲んでいた。
すると、ママが少しも臆することなくいつもの笑顔で、
「ほら、歌いなさいよ!」とお兄さんに歌集を手渡すと、照れたような顔で小さく開けた口で一緒に歌い始めた。
心の中で「すげー!ママ!」と感心することしきりだった。

あの頃の「同胞感」って、今、必要なんじゃないかなー。


【「風」跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 15:26
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2008年12月13日

高崎市立第二中学校

古いアルバムの中に、「高崎市立第二中学校」の空中写真があった。(写真クリックで拡大表示)
たぶん、昭和37年頃の写真だと思う。
右端にチョコっと写っているのが昭和36年開館の「音楽センター」だ。
「二中」という人文字の左右に建っているのが、旧陸軍高崎15連隊の兵舎で、これを教室として使っていた。
右側の校舎の上に建設中の建物が新校舎で、やっと隙間風の入らない、南向き窓のある校舎に入れたのは、翌年のことになる。
この頃、歌謡曲は西洋のポップスを日本語で歌うのが流行っていた。坂本九、中尾ミエ、木の実ナナ・・・なつかしー!
「サラリーマンは~、気楽な稼業ときたもんだー」植木等が歌っていた。
あの頃は、世間が何となく明るく、夢があった。

左の写真は、国土地理院が提供している「空中写真閲覧システム」のものだ。
昭和49年の撮影とある。
高崎15連隊の兵舎はすべて撤去され、音楽センター周辺も随分と整備されているのが分かる。
この年、小野田寛朗元陸軍少尉がフィリピンのルバング島で、旧日本兵として発見されている。
長嶋茂雄が引退したのもこの年だ。
流行語は「狂乱物価」「便乗値上げ」「ゼロ成長」・・・、あぁ、この頃から始まったんだな。
流行った歌も中条きよしの「うそ」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」
う~ん・・・。

そして、右の写真が現在のグーグルマップで見たものだ。
「二中」と「三中」が統合され、「高松中」となって、現在の場所(旧専売公社跡)に移転した。
「二中」の跡地には、「シティギャラリー」が建ち、「音楽センター」との間には「シンフォニーロード」が開通して、駅前から抜けられるようになった。
市庁舎は、移転して21階建ての高層ビルとなった。
道路も建物も良くなった。でも、人々の夢や幸せはあの頃と比べてどうなんだろう?

今、この付近を歩くと、昔はどんな風景だったのか思い出せないことがある。
でも不思議なことに、夢の中では今の風景ではなく、あの頃の風景の中を歩っている。
そんな時、昔の風景を知っていてよかったと、心から思う。


【高崎市立第二中学校跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 15:10
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2008年12月14日

堰代町(せきしろちょう)

昭和36年頃の堰代町の家並みである。(写真クリックで拡大)
堰代町は小さな町で山車(だし)は持っていなかったが、この日はちょうど成田町の山車が通過するところを、覚法寺の塀によじ登って撮影した。
左から2軒目と3軒目の間が、「高崎神社」の入り口になる。その角を右へ曲がると嘉多町(かたまち)、真っ直ぐ行けば四ツ屋町だ。

堰代町は、昔、用水を管理する役人の「方屋敷」と「城組屋敷」があったのでその名がついたという。(田島武夫著「高崎の町名由来」より)
写真をよーく見ると分かるのだが、道路に対して斜めに家が建てられていて、ちょうど鋸の刃のようにギザギザになっている。
郷土史家の土屋喜英氏の著書「続・高崎漫歩」によると、「中山道から高崎城を攻めるには、この高崎神社前の道か湯屋横丁を通るしかなく、この道を大勢の人数で一度に通過することができないように考えられていた」のだそうだ。
子どもの頃、この家並みのギザギザのところに兵が隠れるようになっているのだと聞いたことがある。本当か、嘘かは分からない。
ただ、この道はやたらと細い路地のある、妙に折れ曲がった道であったことは記憶している。

写真右の側溝にはいつも水が流れていた。
タニシやカワニナ、どじょう、ヒル、ヤゴなどが生息する、生物多様性に富んだドブ川だった。
このドブ川の少し上流に、鰻(うなぎ)屋さんがあった。
鰻の他にも鯉や金魚、泥鰌(どじょう)を店の生け簀(いけす)で飼っていたが、たまーに脱走する魚がいて、子どもにとってはそれが楽しみで、よくドブの中を漁ったりしていた。

その場所が、今はこんな風景になっている。
同じ場所にずっと残っているのは、高崎神社角の「友松綿店」だ。
車がすれ違うのもやっとだった道路は、片側2車線の広い道路になった。
昔、道の真ん中でベーゴマやメンコをして遊んでいたなんて、とても信じられないだろう。

いつの間にか、昭和も遠くなってしまった。

  


Posted by 迷道院高崎at 16:37
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2008年12月16日

高崎市立中央小学校

昭和35年頃の「高崎市立中央小学校」の正門である。

木造校舎の玄関には
「髙崎學校」の額が掲げられ、玄関の左傍らには「二宮金次郎」の石像が建っていた。

この学校は面白いことに窪地に建っているので、多くの児童は坂道を使って登下校していた。
雪が降って道が凍ると危険だったはずだが、怖い思いをしたという記憶はほとんどない。
むしろ面白がっていたような気がする。

学校のHPで沿革を見てみると、明治6年に「鞘町(さやちょう)小学校」として宮元町に創立したとある。
「鞘町小学校」創立については、上毛新聞社発行の「実録・たかさき」に面白いことが書いてある。
要旨はこうだ。

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田町に、「積小学館」という私塾を開いていた市川左近という人がいて、結構盛っていたらしい。
左近先生は、「ドケチ先生」と噂されるぐらいの合理主義者で、友人や知人から来た手紙の余白をメモ代わりに使い、食事は一汁一菜。
他人からお呼ばれされても一汁一菜で済ませ、残りを家に持ち帰ったという。
当然、巨額な金銭の所有者になっていた。
ところが、高崎にも学校ができると聞くや、ポーンと(当時)巨額な一千円(現在の1千万円位かな?)を寄付したので、住民は「あの、ドケチ先生が!」とびっくりしたそうだ。
当時、豪商たちは口実を作って寄付逃れをしていたらしい。
左近先生にとっても商売仇の「学校」ができるのだから、当然反対するだろうと思っていたら率先して寄付したので、豪商たちも後に続かざるを得なくなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

左近先生は、福沢諭吉の「学問のすすめ」を実践するために、倹約生活をしていただけで、ただの「ドケチ」ではなかったのだ。
生きたお金の使い方。現代人は一度立ち止まって、考え直す時期に来ているようだ。




現在の「中央小学校」の正門である。






「髙崎學校」の額は、今どこに掲げられているのだろうか。
「二宮金次郎」の石像は残っていたが、どことなく寂しげだったのが印象的だ。

最後に、今の校歌の前に歌っていた校歌らしきものを、思い出せる内に書いておこう。

♪遠く榛名の峰の雲
 流れてやまぬ烏川
 朝な夕なに仰ぎつつ
 ここに立つなり 中央校♪


※後日、旧・中央小学校校歌の歌詞を発見しました。
   ◇「発見!中央小の旧校歌」


  


Posted by 迷道院高崎at 12:01
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2008年12月21日

下和田の「方石(かくいし)」

高崎には「和田の三石」というのがあるそうだ。

「和田の立石(たていし)」
「上和田の円石(まるいし)」
「下和田の方石(かくいし)」

というらしい。

今日は、下和田の「方石」をご紹介しよう。
田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」によると、「方石」は現在若松町の佐藤病院の敷地内にあるという。

余談だが、昔のお年寄りは佐藤病院のことを「館出張」と呼んでいた。
「かんしゅっちょう」ではなく「たてでばり」と読む。
その由来については、佐藤病院の沿革をご覧いただきたい。

で、その佐藤病院へ「方石」を探しに行ったのだが、周囲をぐるりと回っても見つからない。
よっぽど、受付へ行って聞こうかと思ったら、「めっけた!」
室外休憩所の自販機と喫煙ボックスの陰に、ひっそりと隠れるように潜んでいた。

説明看板も何もないので、知らない人はただの石だと思っちゃうだろうな。
まぁ、見かけ「ただの石」なんだけど・・・。

前述の「高崎の名所と伝説」の中では、こんないわれが書いてある。
「この石が化け物に見えたので、源頼朝の馬が驚いて石を蹴ったという。それで『化(バケ)石』でもあり、『馬蹴石』でもある。」
また、地名で「馬上(バアゲ)」という所があったので、「馬上石」「バケ石」になったのだろうとも書いている。

さらに、郷土史家の土屋喜英氏は「高崎の散歩道」の中で、「この辺りに、『損馬堀(そんまぼり)』という深い堀があって、死んだ馬をこの堀に投げ捨てたそうである。」と書いている。
もしかすると、その馬たちの・・・。

ただの石も、調べてみると面白い。
皆さんも、佐藤病院の近くへお出かけになったら、一度探してみてはいかがですか?

  


Posted by 迷道院高崎at 17:53
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2008年12月23日

和田の「立石(たていし)」

今日は「和田の三石」の2つ目、「立石(たていし)」のご紹介だ。
(画像クリックで拡大)

高崎の古称が「和田」だというのはご存知の方も多いと思うが、田島武夫氏著「高崎の町名由来」によると、もっと前は「赤坂」と言っていたそうだ。
今の赤坂町の坂の土質が、赤埴(あかはに:赤色の粘土)で目立ったからのようだ。

田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」には、次のような話が書かれている。
赤坂の坂下には中山道西口の木戸があり、その傍らに「立石」はあったそうだ。
弘法大師行脚の節、この石に腰掛けられたというので「大師石」ともいう。
名石だというので、井伊直政が築城の時、他の場所に移そうとして十余人の人夫に担がせたが、途中で急に重くなって動かなくなったので、人々は怪しみ恐れてそのままに捨て置いたという。
元禄の頃、再び動かす必要ができたので、里人が「神と崇め祀るから」とお願いしたところ、数人で軽々と担ぐことができ、赤坂の観音堂境内(「長松寺」の西にあった)に移動した。
おこり(瘧:マラリヤ)を患う人が石に祈ると必ず治るというので、「おこり石」とも名づけられていた。

私が子どもの頃は、高崎神社境内の中央付近(現在の駐車場)にあったような気がする。
そんな偉い石とは知らず、上によじ登ったりして遊んでいた。
よく、バチが当たらなかったものだ。(いや、もしかすると、当たってるかも知れない・・・。)
今現在は、高崎神社(熊野社)石段脇の植え込みにある。
流石の「立石」も近代の重機にはたてつくこともできず、あちこちと動かされてしまったようだ。

【和田の立石】

(クリックで大きな地図が開きます)
  


Posted by 迷道院高崎at 17:07
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2008年12月24日

上和田の「円石(まるいし)」

今日はいよいよ「和田の三石」の3つ目、「上和田の円石(まるいし)」である。

「円石」は、成田町の成田山光徳寺の境内にある。
それがなぜ「上和田の・・・」となっているかという訳は、他の2つの石と同じく、名石ゆえの流転人生があったようだ。
いつもお世話になっている田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から、教えて頂くこととする。

「円石」はもともと上和田の畑の中にあった。
享保年間(1730年代)、善念寺(元紺屋町)の住職が地主に請い、その石を切らせて門前の石橋として利用した。
ところが、石橋にして人に踏ませたせいか、異変が起こるようになった。
天明9年(1789年)、善念寺の旦那で新町(あらまち)の矢島八郎左衛門という人が、この石橋を砂賀町の用水堀に掛けたが、明治11年(1878年)橋の架け替えで売り物となった。
これを買い取った土屋老平という人が、父武居世平歌碑として成田山光徳寺の境内に建立し、現在に至っている。
ということだ。

実は、この「円石」は一つの石を二つに切ったもので、もう一つの石は善念寺庫裡の池のほとりにある、とも書かれている。
それじゃ、そちらも見てこなくては片手落ち。
バチでも当たっては敵(かな)わないと思い、善念寺へ行ってみた。

だが、庫裡も分からず、池もどこにあるのやら分からない。
ただ、本堂右手の築山風のところに、どうもそれらしい石がある。
勝手にそれだと決めつけて、写真を撮ってきた。

それにしても、「和田の三石」を訪ねる小さな旅、なっから楽しませてもらった。

↓ 「円石」・・・成田山光徳寺



↓ 「円石」の片割れ・・・善念寺

  


Posted by 迷道院高崎at 11:34
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2008年12月26日

発見!中央小の旧校歌

拙ブログの「高崎市立中央小学校」の記事で、「今の校歌の前に校歌らしきものがあった」と、覚えていた歌詞を紹介したところ、異なる歌詞で覚えているというコメントをいただいた。

そう言われてみると、その校歌らしきものの楽譜や歌詞をもらった記憶がない。
5年生の時だったと思うが、運動会の「棒倒し」の時、入場行進の歌として覚えた気がする。
だから、口伝で受け継がれた歌だったのかも知れない。

コメントをいただいてから、この歌が気になって仕方がなかった。
中央小へ行けば、あるのかも知れないと思ったが、生来の人見知り癖がなかなか足を向かわせない。
そんな折、偶然、市立図書館「校歌アルバム 西毛編」という本を見つけた。
あった、あった!ありました!
まぎれもない、あの時歌っていた中央小の旧校歌だ。

出版は昭和57年、「あさを社」(高崎市乗附町)、編者は「ふるさとのうた保存会」主宰の横田金治氏とある。

早速、「あさを社」さんに電話をし、複写とブログ掲載の許可をお願いしたところ、快諾をしていただいた。
ご厚意に感謝して複写させて頂いたのが、左の楽譜だ。(楽譜クリックで拡大)

やはり、私の記憶していた歌詞とチョコっと違う。
しかも、歌詞は5番まであった。
だがその歌詞を見て、
「こりゃ、校歌としてずっと歌う訳にはいかないや。」と納得した。

この校歌、昭和17年頃のものとある。
昭和17年と言えば、太平洋戦争の真っただ中。ミッドウェー海戦で日本海軍が手痛い打撃を受けて、以降じわじわと米国に押されていくことになるが、まだ日本国民は勝利を信じていたころである。
校歌の3番、4番など、まさに当時の教育姿勢を物語っている。

3番の「御使御差遣・・・」など、どう読むのかも分からない。
たぶん、「おんし、ごさけん・・・」と読むのだろう。「天皇陛下がお遣わしになった使者」が学校に来たことを、誉れとして忘れるな、という訳だ。

中央小の新しい校歌が制定されたのは、昭和35年とある。
終戦になってからその間、旧校歌の1番だけが口伝されていた理由が、やっと分かった。  


Posted by 迷道院高崎at 13:09
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2008年12月28日

タイムトンネル

高崎は、路地の多い町だった。

区画整理や、都市計画で随分失われてはいるが、それでも少し歩くと路地の入口を見つける。

そこは、まるでタイムトンネルの入り口のようだ。
もう使われていない井戸の手押しポンプが、そこだけ時間が止まっているかのようにポツンと佇んでいる。
懐かしさと、その先にある未知のものへの期待に、ふと足を踏み入れてみたくなった。

← その路地は、やはりタイムトンネルだった!
そこだけ時空が捻じれているような、不思議な感覚に襲われる。

子どもの頃に嗅いだ、あの空気と同じ匂いを感じながら、ゆっくり歩を進める。





捻じれた時空を抜けて、ふと後ろを振り返ると、路地はもう真っ直ぐに戻っていた。





← 路地の角を直角に曲がると、あの頃の家の佇まいが、逆光の中に忽然と現れたのに吃驚した。

右手の家の庭から、突然、男の子と女の子が飛び出してきた。
「こんにちは。」と声をかけると、男の子は手に持った戦隊物の拳銃を、得意げに見せてくれた。
女の子は、本物そっくりな猫のぬいぐるみを抱いて、「こうすると、お話しするの。」と猫の頭を撫でると、猫は頭を振りながら「ミャー、ミャー」と鳴いた。
「バイバイ!」と言って手を振ってくれる子ども達の姿は、あの頃と何も変わっていない。
ただひとつ違っていたのは、男の子が「青っ洟」を垂らしていなかったことかな・・・。

今日の、タイムトンネルの冒険はここまで。
また、どこかのタイムトンネルを潜ってみたい。  


Posted by 迷道院高崎at 11:04
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2008年12月29日

チトン、チントシャン♪

柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)

いつ頃建てた家だろうか、板塀漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。

立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。

何しろここは高崎の花柳界、柳川町
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。

そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ。
芸者さんは、それに乗ってお座敷に行っていたようだ。
「輪タク」と言っても、若い方には想像がつかないかも知れない。
「二車(自転車)で引くタクシー」ということなのかな。
写真を持ってないので、こちらをご覧いただこう。
ただ、芸者さんを乗せるので、もうちょっと品があったような気がする。

古い話のついでに、「お富さん」の話もしちゃおう。
昭和29年に、春日八郎が歌って大ヒットしたのが「お富さん」だ。
この歌の作詞は山崎 正という人だが、この人は高崎市出身である。
「お富さん」の歌詞で「粋な黒塀 見越しの松に・・・」というのは、柳川町がモデルだという。
山崎 正は、「電気館」のすぐそばに「幌馬車書房」という古書店を開いていたが、それを知る人は少ない。

この日見た、粋な白塀の家は、昔から芸妓さんに三味線を教えているお師匠さんの家なんだろう。
残念ながら、この日は三味線のお稽古はしていなかったようだ。
でも、脳みその奥深くで確かに音が聞こえた。
チトン、チントシャン♪って・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:09
Comments(12)高崎町なか思い出◆高崎探訪

2009年01月03日

ひいらぎさま

ここ何年か、初詣は上中居町の「諏訪神社」へ行っている。

以前は、柴崎町の「進雄(すさのお)神社」だったのだが、最近はやたらと人出が多く、賽銭箱まで辿り着くのが容易でない。

25年ほど前の「進雄神社」は古色蒼然とした神社で、初詣客もそれほど多くなかった。
三が日まで麹の甘酒を振る舞っていたが、社殿を綺麗に造り直してからは、2日までになり、元日だけになり、とうとうなくなってしまった。

だからという訳でもないが、最近は静かな初詣のできる「諏訪神社」にしている。
ここは、今のところ元日に甘酒を振る舞ってくれる。
くどいようだが、だからという訳ではない。(ま、少しはあるかな?)

「諏訪神社」は、入口に「御祭禮」の提灯が無ければ通り過ぎてしまいそうな、細道の奥にある。

小ぢんまりした境内は、いかにも「村の鎮守の神様」という趣きだが、ちゃんと神楽殿もあったりして、由緒ありそうである。

社殿は、15段の石段を登った、こんもりした所にあるのだが、もとは古墳ででもあったのだろうか。

以前、宮司さんに聞いたことがあるのだが、「諏訪神社」の裏に「稲荷山」という古墳があったそうである。
その古墳は、道をつけるために崩されたようだが、そこに祀られていた「お稲荷さん」は、今、神楽殿の隣に移されている。

この「お稲荷さん」には、面白い言い伝えがある。(土屋喜英氏著「高崎漫歩」より)
明治になった直後、「高崎五万石騒動」という事件があったが、その時、江戸へ直訴に行った丸茂元次郎という人の身代りになって、ここの「お稲荷さん」が捕らえられたのだそうだ。
ところが、流石「お稲荷さん」で、縄を抜けて逃げてきたらしい。
その時の麻縄が「抜け縄」といわれ、社宝として大切に保存されているというのだが、一度見てみたいものだ。
後日、「抜け縄」を見せて頂く機会がありました。
こちらの記事をどうぞ。

この神社は、
通称「ひいらぎさま」と呼ばれているらしい。
神社の周りが柊(ひいらぎ)の木で囲まれているからだそうだ。

「ひいらぎ」といえば、葉の縁が尖っていて触ると痛いというイメージだが、この神社のの木はどれも古木で、葉が丸く、ちょっと見ると「榊(さかき)」のようである。
←左の写真の大木が柊の古木である。

「高崎漫歩」には、こう書いてある。

   「柊は若木の時には葉にとげがあり、
    古木になるにつれて、とげが取れて丸くなり、
    根張りは地上に出て広く踏ん張るのである。
    まるで人の一生を思わせるような木である。」


うーん、深い・・・。

  


Posted by 迷道院高崎at 21:07
Comments(2)◆高崎探訪

2009年01月04日

高崎に残る「湯屋」めぐり

高崎には、かつて「湯屋横丁」と呼ばれた小路が2つあったらしい。

ひとつは、本町2丁目から嘉多町へ、南北に抜ける小路。(写真:左)
もうひとつは、新町(あらまち)から下横町へ、東西に抜ける小路である。(写真:右)



下横町の方は湯屋はもうないが、本町の方には「成田湯」が残って、レトロな佇まいのまま営業している。
雰囲気を出すためにセピア加工してあるが、つい最近撮った写真である。
「本町支店湯」とあるから、きっと昔は成田町に「本店湯」があったのだろうが、今はどこにあったのか分からない。
ただ、成田町には「浅草湯」という、大正10年創業という銭湯が残っている。
88年も頑張って、続けて頂いていることに敬意を表したい。

そういえば、高崎には何軒くらいの「湯屋」(銭湯)が残っているのか、気になって調べてみたくなった。

石原良純「こんな時はタウンページが便利なんですよ。」と言っているのを思い出して調べてみると、先の2軒を入れて、全部で7軒ほど掲載されている。
「まだそんなに残っていたのか」、と思うと同時に、「もうそれしか残っていないのか」、とちょっぴり寂しくなった。

そこで自転車を走らせ、写真を撮ってきた。

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「成田湯本町支店湯」本町2 Tel:027-323-2973

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事



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「浅草湯」 成田町36-3 Tel:027-323-1745

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事



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「追分湯」 飯塚町214-10 Tel:027-362-5822

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事



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「藤守湯」 大橋町9 Tel:027-322-7553

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事



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「大和湯」 和田町4-4 Tel:027-322-8470

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事



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「滝の湯」 竜見町7-6 Tel:027-323-7170

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事



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「江木橋湯」 江木町237 Tel:027-323-7155

◇「めっかった群馬」さんの「とっておき探訪」記事




今や、希少価値となった高崎の「湯屋」巡り、皆さんもお早めに!!  


Posted by 迷道院高崎at 21:46
Comments(7)◆高崎探訪

2009年01月07日

屋台小路(やたいこうじ)

高崎に「屋台小路」というのがあるのをご存知だろうか?

恥ずかしながら、私は聞いたことがなかった。
実は、1月4日の「高崎に残る「湯屋」めぐり」の記事を書くにあたり、下横町にあったという「湯屋横丁」の写真を撮りに行った時に知ったのである。

その「湯屋横丁」がどこなのか分からず、1軒の酒屋さんに飛び込んでお訊ねをした。
その酒屋さんが、写真に写っている「宮山酒店」さんだ。
ご主人に伺うと、「湯屋横丁」は、そこから新町(あらまち)へ抜ける道だとすぐ分かった。
驚いたのは、ご主人がそのあたりの歴史について実に詳しく、滔々と語ってくれたことであった。
聞けば、「宮山酒店」は江戸時代から続く老舗で、ご主人はそこの四代目だと言う。
私が参考にしている土屋喜英氏の「高崎漫歩」も、ご一緒に編纂をしたと言うのだ。

その時ご主人に聞いた話が面白かった。
「湯屋横丁」を新町(あらまち)側から見ると、ちょうど「宮山酒店」が正面に見える。
「宮山酒店」に突き当たって、ちょっと北に寄ると、また西へ進む小路があり、直進するとお堀端に出る。
その小路が、「屋台小路」である。(写真の道)
新町(あらまち)からお堀端まで一直線の道にすればいいものを、敢えてちょこっと曲げてあるのには訳がある。
敵が高崎城に向かおうとして「湯屋横丁」を覗いた時、突き当たりで袋小路になっているように見せ、敵の侵入を防ぐようになっているらしいと、ご主人は言うのだ。

さて、話を「屋台小路」に戻そう。
この「屋台」というのは、「夜泣きそば」「赤ちょうちん」のそれではない。お祭りの「山車(だし)」のことだ。
確かに、私が子どもの頃は「山車(だし)」と言わずに「屋台(やたい)」と言っていた。
高崎の「山車」は、幅が3mほどある。
「屋台小路」の道幅はせいぜい5m。当時はもっと狭かったのではないだろうか。
これもおそらく、敵が大人数で城へ攻め込めないようにしてあるのだろう。

その狭い小路を、高崎中の「屋台」が通ったというので「屋台小路」と呼ばれたという。
そこを通ってどこへ行くかというと、高崎城の堀に沿って配置された武家屋敷を抜けて、高崎城主大河内氏の先祖の霊を祀ってある「頼政(よりまさ)神社」(高崎公園隣)へ行くのである。
武家屋敷には、やたらな者が入って来られないように、出入りできる道は制限されていたようだ。
そこで「屋台」は、この狭い小路を通って行かざるを得なかったという訳だ。(「高崎漫歩」より)

話ついでに、「宮山酒店」のことをもう少し。
「宮山酒店」は越後出身なので、屋号は「越後屋」というが、もうひとつ「火除屋(ひよけや)」という言い方もしていたそうだ。
高崎は、昔、大火が多かったらしいが、この付近で大火があった時に、「宮山酒店」の角で火が止まったということからの呼び名らしい。
昔の人は、大きな災いも粋な言葉で跳ね除けていたんだな、と感心する。
不景気なんぞに負けるな!日本人!!


【屋台小路】
  


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2009年01月08日

烟草横町(たばこよこちょう)

高崎の「横丁シリーズ」、今日は「烟草横町(たばこよこちょう)」である。

いつもお世話になっている「高崎漫歩」によると、「寄合町から田町へ出る道」とあるので、「ラメーゾン」のところから「中央銀座通り」へ東西に抜ける、左の写真の道であろう。

昔、田町には、毎月五のつく日と十のつく日に「絹市」が開かれ、この市の日に、たばこを売る露店が数軒この横町に出たところから「烟草横町」と呼ばれたそうだ。

高崎「たばこ」の関係は、意外と深いものがある。
高崎が江戸時代から「たばこ」の名産地だったということを、知らない人も多いのではないだろうか。
農大二高の奥に「館(たて)」という所があるが、ここで栽培していた「館たばこ」は、山名「光台寺たばこ」とともに、銘葉であったらしい。
明治時代、県別生産高は全国第二位だったそうだ。

明治37年、製造煙草専売法が議会で可決されると、いち早く、八島町に高崎煙草製造所が設けられた。(高崎市HP「たかさき100年」より)

右の写真は、その後、名前を変えて高崎地方専売局となった正門を背にした、私の父と姉の姿である。
おそらく、昭和15,6年頃、太平洋戦争開戦前後に撮影されたものと思われる。

父は消防団に入っていたので、戦地に駆り出されることは免れたが、もし出征していたなら、私は生まれてなかったかも知れない。

太平洋戦争での日本人戦死者は、
約310万人と言われている。
現在の高崎市の全人口が約34万人、群馬県の全人口でさえ約200万人である。
尊い命を犠牲にした310万の先人たちは、今日の日本の姿をどう見ているのであろう。
高天原で煙草をくゆらせながら、「困ったもんだ。」と笑っているかもしれないな。

【烟草横町】
  


Posted by 迷道院高崎at 10:48
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2009年01月10日

電気館通り

「電気館通り」という看板を付けた街灯が、まだ残っていることに驚いた。

「電気館」という名前を覚えている方は、もうそこそこのご年輩になっていることと思う。
かつて高崎に沢山あった、映画館の一つが「電気館」だ。


この映画館は、大映株式会社の映画を主に上映していた。
大映の当時のスターは、長谷川一夫、山本富士子、市川雷蔵、勝新太郎といった面々だ。
若い方にもご記憶があるかも知れないのは、「大怪獣ガメラ」とか「大魔神」か。
大映の映画が斜陽になってから、「日活ロマンポルノ」を上映する、ちょっと怪しい映画館になってしまった。
映画館を閉鎖してから一時期、「コンパ」という若者向けのスタンドバーがあったように記憶している。

その頃(昭和30年代)の映画は、映画と映画の間に「ニュース映画」というのが入った。
まだ、TVが普及していない頃、動くニュース映像は「へー!」というものがあった。
それまで白黒だった映像に、色がつき始めたのもこの頃だ。
カラーフィルムはまだ貴重な時代だったから、大事な場面だけカラーだった。
そもそも、「カラー」という言葉もなく、「天然色」と言っていた。だから「部分天然色映画」だったのだ。
全編通してカラーの「総天然色映画」になるのには、しばらく年月がかかった。
さらに時を経て、ワイド画面の「シネマスコープ」になり、音声もステレオの「立体音声」になっていく。
そしてやがて、TVやビデオに押されて、次々と映画館は閉鎖されていった。

「電気館通り」「烟草横町(たばこよこちょう)」を西に直進して、中央銀座通りを横切った先である。
「烟草横町」の写真を撮りに行って、久しぶりにこの通りに入ったが、「電気館」の建物も、看板も、街灯も残っているのを見て、一瞬にして40年前にタイムスリップしたような気分になった。

建物の脇を覗き込むと、その先には当時とあまり変わらぬ、雑然とした色街の風情も残っている。
電気館の北側には、高崎一の歓楽街「柳川町」の飲食店街がある。
細い路地が迷路のように入り組み、酔ったらなかなか出てこられないかも知れない。
この地域が、これからどのように変わっていくのか分からないが、古さと新しさを上手く調和させた街として残ってほしいと願う。
  


Posted by 迷道院高崎at 13:11
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2009年01月11日

古着横町(ふるぎよこちょう)

高崎の横丁シリーズ、今日は
「古着横町(ふるぎよこちょう)」である。

田町の「ひつじや」さんの角から、中紺屋町(なかこんやまち)を通って、中央銀座通りに抜ける道を、そう呼んでいたらしい。
今は、「古着」との関係を連想させるものは、まるでない。

根岸省三氏編集の「中山道高崎宿史」では、江戸時代の「図談抄」から、「古着横町」の様子をこう紹介している。

「川の外にむしろをしき古き帯、なへはめる衣等を商ふ、
 市日に群集し極めて盛なり(中略)
 古物は価安し、去ればよろしき人の足を止め買はんやは、
 買ふもの、失ひし人共に又わびしき人なれば、
 かかる市の賑はしきとぞ、
 世に貧しき人の絶へざるしるしなれ」


古文なので、正確には分からないが、
市の立つ日に、むしろを敷いて古い帯やヨレヨレの着物を売る貧しい人が、沢山集まってきた横町らしい。
売る方も買う方も「わびしき人」で、世の中に貧しい人が絶えることはないという証拠だと言っている。

この横町に、ちょっと趣のある家が残っているのを発見した。

「日本舞踊稽古所」と書かれた板看板が、時代を感じさせる。
「稽古」という言葉の響きが、またいい。
おそらく、かつては柳川町の芸妓さんがたくさん、踊りの稽古に通ったのであろう。
今はどんな方が稽古に来るのか、会ってみたい気がする。

その真向かいには、「石井呉服店」さんが、これまた粋な店を構えている。
その左隣は、「割烹バー Sin」さん。
店の前に、酒瓶がズラーっと並んで、飲んべぇのおいでを待っていた。

それはそうと、昔の子供は大概、膝や肘につぎ当てをした服を着ていたものだ。
兄のお下がりや、よその家の子の回しだから、生地もヨレヨレで、丈の短いつんつるてんの、それこそ「古着」を着ていた。
そこへもってきて、垂らした青っ洟を袖で拭うものだから、袖口はテカテカに光ってた。
世の中が豊かになって、つぎ当てのある服を着てる子なんぞ見なくなったなぁ。
と思っていたら、若者たちが破れた「古着」みたいなジーンズを、つぎ当てもせずに平気で履いて歩いてる。
分からんもんだなぁ・・・。

【古着横町】
  


Posted by 迷道院高崎at 10:10
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2009年01月12日

稲荷横丁(いなりよこちょう)

高崎の横丁シリーズ、
今日は市街地からちょっと外れの、「稲荷横丁」をご紹介しよう。

国道354号線の、相生町住吉町の境目の信号を左に入る、一方通行の細い道である。

写真角の「大野理髪店」さんから3軒左に、明治30年創業という「深澤陶器店」がある。
この店頭に、大きな信楽焼の「タヌキ」が置いてあるので、よい目印になるかも知れない。
「稲荷横丁」のとばっ口に「タヌキ」とは洒落がきついが、この日、どういう訳かこの「タヌキ」、ゴザで簾(す)巻きにされていた。


もっともこの近辺、昔は「キツネ」「タヌキ」も両方住んでいたらしい。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、「稲荷横丁」の南側、相生町上和田町の境には、かつて、水車の回る深い谷があって、「キツネ」「タヌキ」はその谷に生える草や、住民が捨てるゴミを餌にして暮らしていたという。
ところが、時代が進んで、水車がなくなり、ゴミも捨てなくなると、谷に餌がなくなってくる。
それでも「キツネ」「お稲荷さん」の上りでどうにか飢えをしのげたが、「タヌキ」はすっかり参ってしまう。
冬のある日、弱った「タヌキ」がよろよろと這い出して来て、息絶えたという。
その「タヌキ」は剥製(はくせい)にされて、赤坂町「長松寺」にあるというが、本当だろうか。



「稲荷横丁」に入って直ぐの左側に、朱色も鮮やかに、立派な「お稲荷さん」の祠がある。
「油揚げ」は無かったので、もう食べた後だったのだろうか。

毎度おなじみの土屋喜英氏等5人の著者による、「開化高崎扣帖」(かいか・たかさき・ひかえちょう)という本に、ここの「お稲荷さん」の面白い言い伝えが紹介されている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「お稲荷さん」の脇に、以前は公衆便所があった。
明治の初めに、ここの「お稲荷さん」高崎神社へ移されたことがあった。
その夜、白い着物を着た美しい娘が、町内の信者の夢枕に立って、
「私はこの町内に古くから住んでいた狐でございますが、今度、住まいを移されてしまいました。
しかしどうしても、元のすみかに戻りたいのでお願いに参りました。
あの便所の横でも良いから、ぜひ戻れるようにしてください。
もし願いが叶えられたなら、そのお礼に、ここから四里四方の信者には、きっと「下の病」(しものやまい)には罹らないようにしてあげます。」

と言って姿を消したという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここの「お稲荷さん」は、「玉姫稲荷」とも言われる女狐様である。
という訳で、女性がここの「お稲荷さん」にお参りすると、「下の病の治癒」、そして「子宝恵授」にご利益があるのだそうだ。
お悩みの方は、一度お参りしてみては?

【稲荷横丁】

  


Posted by 迷道院高崎at 10:14
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2009年01月14日

地獄堰(じごくぜき)

「地獄堰」という名前の水路が、ずーっと気になっていた。

「地獄堰」という名前を知ったのは、もう何年も前のことだが、どこをどう流れている水路なのか、調べてみたことはなかった。

江木町城東小学校の前にこんな石碑が建っている。

碑文には、
「恐ろしや 地獄の関と 思いしが
 悟ればここぞ 極楽の堰」

と刻まれており、ここにも「地獄」という言葉が登場する。



この石碑は、その先にある「円筒分水」施設ができたことを記念して、建てられたものであろう。


「円筒分水」は、長野用水を下流域の「倉賀野堰」「上中居堰」「矢中堰」そして「地獄堰」に、平等に分配するための施設で、1962年(昭和37年)に完成した。

昔、この付近を「八堰」と呼んでいたそうで、長野用水の支流となる水路がたくさん分岐していたのだろう。
田植え時期になると、それぞれの村の人が水を確保するために、この堰に集まってきたのだそうだ。
一応、各村の町歩に応じて取水することにはなっていたが、各村は人数を集めて、堰を挟んでお互いにけん制し、にらみ合いが続いたと「高崎漫歩」に書かれている。

水の確保に「地獄」を見た村人たちも、「円筒分水」ができてからは、安心して田植えに専念できるようになったというのが、先の「石碑」の碑文となったものと思われる。

さて、「地獄堰」であるが、「円筒分水」から分かれた水を、水路伝いに追ってみた。
するといきなり、水路の脇の細い道に、もう少しで落ちそうな姿で駐車している車を見かけた。
どうやら、道の奥の家の車のようだが、毎日こんな狭い道をバックで入れるているとは、まさに「地獄」の思いだろう。

さらに水路に沿って行くと、「電話金融」の看板を見つけた。
うーん、これもうっかり電話すると、「地獄」を見そうだ。
さすが「地獄堰」だ・・・。

「地獄堰」の水は、この後、高関町に入る。
高関は昔は「高堰」と書いたらしく、高低差のある堰で、その水の勢いを利用して水車が二か所にあったという。
そして水はさらに、南大類、柴崎、下大類、綿貫の田畑を潤しながら、井野川に流入していく。

かつて「地獄」を見た「水争い」も、人間の叡智と技で「極楽」に変えることができた。
だが、地球上ではいまだに、様々な「争いごと」が絶えることがない。
地球上の全ての人が、「極楽」を味わえる日は、いつになることだろう。

【地獄堰】


  


Posted by 迷道院高崎at 18:48
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2009年01月15日

なきんぞう

昨日「地獄堰」だったので、今日は上中居町にある「極楽寺」と洒落てみた。

正しくは「美濃院反町山極楽寺」というようだが、中世の時代、ここは「反町屋敷」と呼ばれる広い武家屋敷の一角だったそうだ。
寺の開基は、屋敷の主の反町美濃守信直(そりまち・みののかみ・のぶなお)とあるので、寺の名前がそうなったのだろう。
私が開基なら、さしずめ「迷道院高崎山恐妻寺」となるところだ。

この「極楽寺」の境内に、「笑地蔵(えみじぞう)」というのがある。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、古い記録には「本村南田甫ノ中字咲地蔵、仏躯自然石」とあって、もとは自然の石を「お地蔵様」として、祀っていたようだ。(「咲」は「笑」の本字とある。)

現在、「お地蔵様」の線刻画が彫られた板碑の土台が、その自然石なのだろうか。
板碑の後ろには、「昭和三十七年三月吉日 通町 二世 富田幸太郎建」と読める文字が刻まれているから、この時に板碑と合体されたのかも知れない。

さて、今日のタイトルの「なきんぞう」なのだが、
昔の人は、子どもの「夜泣き」に困った時、「笑地蔵」に供えてある一尺ほどの木片を借りてきて、子どもの枕元へ置き、夜泣きが治ると、借りたものに添えて子どもの名前などを書いた木片を供えたという。
「夜泣き」を治す「お地蔵様」は、いつの間にか「泣き地蔵」「泣きん蔵」と呼ばれるようになったのだそうだ。

今は、そのことを知る人も少なくなったのだろうか。
「笑地蔵」の前に、木片は供えられていなかったが、「高崎漫歩」に掲載されている写真には、はっきりと写っている。
少なくとも、昭和の時代までは「笑地蔵」に救われた人達がいたのだろう。

昔の人は、「お地蔵様」にすがってまで、子どもに「笑み」が欲しいと願っていた。
さて、科学万能といわれる現代、子どもの「笑み」はどのくらい増えたのだろう?
もしかして、泣かしてばかりいないだろうか?

「子どもが笑う」前に、「子どもに笑われる」大人にだけは、ならないようにしよう。

【極楽寺】
  


Posted by 迷道院高崎at 20:51
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2009年01月17日

高崎の「隠れキリシタン」

しだれ桜で有名な、下滝町慈眼寺「隠れキリシタンの墓」があるのをご存知だろうか?

日本に初めて「キリスト教」を伝えたのは、1549年ポルトガルのフランシスコ・ザビエルだという。

ザビエルは鹿児島に滞在中の80日間、日本人を観察し、ローマ法王にこんな報告をしている。
(和辻哲郎著「鎖国」より)

日本は今まで会って来た異教徒の中で一番すぐれている。
一般に善良で名誉を重んじる。
生活は、一般に貧しいが、貧しさを恥としない。
貧しい武士に対して、豊かな商人達が尊敬の態度をとっている。
武士は、いくら貧しくても、決して富める商人の娘とは結婚しない。(略)
また日本人は一般に善良で盗みを憎む。
罪悪が少なく、道理が支配する国である。(略)」

今の日本人が聞くと、気恥ずかしい思いがする。

だが、ザビエル来日47年後の1596年、豊臣秀吉は「キリシタン」の迫害を始める。
その後の徳川政権でも、迫害は続いた。
驚くべきは、明治になってからもなお「キリシタン」弾圧が強化・行われていたという事実である。
明治元年12月から始められた「配流」で、「キリシタン」達は九州から中国・四国・近畿の各地へ船と徒歩で強制移動させられた。
この迫害は、諸外国から「キリスト教徒を迫害するような野蛮な国とは、条約は結べない。」と拒まれる明治6年まで続くことになる。

それでも、ザビエルが来日してからの60年で、日本人「キリシタン」は30万人を超えたという。
九州・中国地方の信者は「隠れキリシタン」となって信仰を続け、迫害を逃れて関東・東北まで流れてきた。
キリシタン研究家の神原和荘氏によれば、「隠れキリシタン」が日本で一番多いのは群馬県らしい。

脚本家の田中澄江さんが、「群馬の隠れキリシタン」という本を出している。
読んでみると、日本の「キリシタン」迫害に至る要因が、いくつか出てくる。
1.旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)との、勢力拡大競争。
2.キリスト教の布教拡大を利用した、諸外国の貿易利権争奪競争。
3.自国の領土を奪われるのではないかという、猜疑心と恐怖。


これらの要因は、いまだに生き続け、地球上で様々な差別紛争を生みだしている。

春になると、「慈眼寺」には美しい「しだれ桜」が、人々の心を癒してくれる。

「宗教」とは、本来、人々を幸せにするはずのもの。
「宗教」によって人々が悲しむことのないように、地球上の一人ひとりが考えなければなるまい。

【隠れキリシタンの墓】
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Posted by 迷道院高崎at 11:56
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