高崎の「横丁シリーズ」、今日は「烟草横町(たばこよこちょう)」である。
いつもお世話になっている「高崎漫歩」によると、「寄合町から田町へ出る道」とあるので、「ラメーゾン」のところから「中央銀座通り」へ東西に抜ける、左の写真の道であろう。
昔、田町には、毎月五のつく日と十のつく日に「絹市」が開かれ、この市の日に、たばこを売る露店が数軒この横町に出たところから「烟草横町」と呼ばれたそうだ。
高崎と「たばこ」の関係は、意外と深いものがある。
高崎が江戸時代から「たばこ」の名産地だったということを、知らない人も多いのではないだろうか。
農大二高の奥に「館(たて)」という所があるが、ここで栽培していた「館たばこ」は、山名の「光台寺たばこ」とともに、銘葉であったらしい。
明治時代、県別生産高は全国第二位だったそうだ。
明治37年、製造煙草専売法が議会で可決されると、いち早く、八島町に高崎煙草製造所が設けられた。(高崎市HP「たかさき100年」より)
右の写真は、その後、名前を変えて高崎地方専売局となった正門を背にした、私の父と姉の姿である。
おそらく、昭和15,6年頃、太平洋戦争開戦前後に撮影されたものと思われる。
父は消防団に入っていたので、戦地に駆り出されることは免れたが、もし出征していたなら、私は生まれてなかったかも知れない。
太平洋戦争での日本人戦死者は、
約310万人と言われている。
現在の高崎市の全人口が約34万人、群馬県の全人口でさえ約200万人である。
尊い命を犠牲にした310万の先人たちは、今日の日本の姿をどう見ているのであろう。
高天原で煙草をくゆらせながら、「困ったもんだ。」と笑っているかもしれないな。
いつもお世話になっている「高崎漫歩」によると、「寄合町から田町へ出る道」とあるので、「ラメーゾン」のところから「中央銀座通り」へ東西に抜ける、左の写真の道であろう。
昔、田町には、毎月五のつく日と十のつく日に「絹市」が開かれ、この市の日に、たばこを売る露店が数軒この横町に出たところから「烟草横町」と呼ばれたそうだ。
高崎と「たばこ」の関係は、意外と深いものがある。
高崎が江戸時代から「たばこ」の名産地だったということを、知らない人も多いのではないだろうか。
農大二高の奥に「館(たて)」という所があるが、ここで栽培していた「館たばこ」は、山名の「光台寺たばこ」とともに、銘葉であったらしい。
明治時代、県別生産高は全国第二位だったそうだ。
明治37年、製造煙草専売法が議会で可決されると、いち早く、八島町に高崎煙草製造所が設けられた。(高崎市HP「たかさき100年」より)
右の写真は、その後、名前を変えて高崎地方専売局となった正門を背にした、私の父と姉の姿である。
おそらく、昭和15,6年頃、太平洋戦争開戦前後に撮影されたものと思われる。
父は消防団に入っていたので、戦地に駆り出されることは免れたが、もし出征していたなら、私は生まれてなかったかも知れない。
太平洋戦争での日本人戦死者は、
約310万人と言われている。
現在の高崎市の全人口が約34万人、群馬県の全人口でさえ約200万人である。
尊い命を犠牲にした310万の先人たちは、今日の日本の姿をどう見ているのであろう。
高天原で煙草をくゆらせながら、「困ったもんだ。」と笑っているかもしれないな。
【烟草横町】