今年も、2月14日のバレンタインデーから3月14日のホワイトデーまで、「赤い糸祈願祭」が催されています。
この赤い糸は、観音さまの光背にあたる「光音堂」までつながっています。
「光音堂」は昭和五十四年(1979)に落慶、慈眼院のご本尊・聖観世音菩薩の座像が安置されています。
このご本尊は、願いごとを一つだけ叶えて下さるというので、別名「一願観音」とも呼ばれ、特に縁結びにご利益があるということです。
今まであまり知られていなかった「一願観音」ですが、「赤い糸祈願祭」のおかげで少しづつ知られてきたようで、嬉しく思います。
「光音堂」の石段脇にもうひとつ、あまり知られていないものがあります。
「一路観音碑」といいます。
「一路」と聞いて、「一路堂」あるいは「一路堂カフェ」の名前を思い浮かべた方もいらっしゃるでしょう。
はい、その「一路」です。
「馬場一路」あるいは「一路居士」という人物の名前ですが、5年半ほど前に書いた記事がありますのでご覧ください。 → ◇一路堂と一路居士
「一路観音碑」は、三十三観音に因んで全国に三十三基(他に番外として四基)建てられましたが、その内の二基が高崎にあるのです。
昭和四十二年(1967)一路氏の三回忌供養として、生前親交のあった東京中野の「百観音明治寺」に、千代香夫人が一路氏の観音画を刻した板碑を建立したのが最初でした。
その翌年、前述した「光音堂」石段脇に、二基目の「一路観音碑」が建てられました。
そして、その六年後に建てられたのが、「一路堂」です。
「一路堂と一路居士」にも書いてある通り、生前大仰なことを嫌った一路居士を慮(おもんばか)って、崖下の窪地を選んで建てられました。
「一路堂」が建つ前の、その崖地の写真が残っています。
よくまぁ、こんな場所に建てようなどと思ったものです。
依頼を受けて設計と施工管理にあたったのがこの人。
ブルーノタウトの日本で唯一の弟子と言われる、水原徳言(みはら・とくげん/よしゆき)氏です。
あまり知られていないかもしれませんが、水原氏の設計によるものは高崎のあちこちで目にします。
◇知の巨人・水原徳言が遺したもの(高崎新聞)
◇高崎五万石騒動義人堂にある「慰霊碑」も、そうです。
昭和六十一年(1986)発行の「上州路No.150」に、水原徳言氏の書いた「一路堂のこと」という一文があります。
その中に、水原氏の一路堂に対する思いが述べられていますので、ご紹介しましょう。
いま、一路堂を訪れる時、「なんて歩きにくい坂なんだ。」とか、「なんでこんな場所に造ったんだ。」とか思うかも知れませんが、その経緯を知ると、かえってそれが「一路堂」の価値なんだと思えてきませんか。
少し前まで、特別な時でもないと入れなかった「一路堂」が、今はカフェとなって誰でも気軽に入れるようになりました。
あとは、「一路堂」の本来の目的である、一路居士の遺作をいつも展示して、皆さんに見てもらえるようにすることでしょう。
この赤い糸は、観音さまの光背にあたる「光音堂」までつながっています。
「光音堂」は昭和五十四年(1979)に落慶、慈眼院のご本尊・聖観世音菩薩の座像が安置されています。
このご本尊は、願いごとを一つだけ叶えて下さるというので、別名「一願観音」とも呼ばれ、特に縁結びにご利益があるということです。
今まであまり知られていなかった「一願観音」ですが、「赤い糸祈願祭」のおかげで少しづつ知られてきたようで、嬉しく思います。
「光音堂」の石段脇にもうひとつ、あまり知られていないものがあります。
「一路観音碑」といいます。
「一路」と聞いて、「一路堂」あるいは「一路堂カフェ」の名前を思い浮かべた方もいらっしゃるでしょう。
はい、その「一路」です。
「馬場一路」あるいは「一路居士」という人物の名前ですが、5年半ほど前に書いた記事がありますのでご覧ください。 → ◇一路堂と一路居士
「一路観音碑」は、三十三観音に因んで全国に三十三基(他に番外として四基)建てられましたが、その内の二基が高崎にあるのです。
昭和四十二年(1967)一路氏の三回忌供養として、生前親交のあった東京中野の「百観音明治寺」に、千代香夫人が一路氏の観音画を刻した板碑を建立したのが最初でした。
その翌年、前述した「光音堂」石段脇に、二基目の「一路観音碑」が建てられました。
そして、その六年後に建てられたのが、「一路堂」です。
「一路堂と一路居士」にも書いてある通り、生前大仰なことを嫌った一路居士を慮(おもんばか)って、崖下の窪地を選んで建てられました。
「一路堂」が建つ前の、その崖地の写真が残っています。
よくまぁ、こんな場所に建てようなどと思ったものです。
依頼を受けて設計と施工管理にあたったのがこの人。
ブルーノタウトの日本で唯一の弟子と言われる、水原徳言(みはら・とくげん/よしゆき)氏です。
あまり知られていないかもしれませんが、水原氏の設計によるものは高崎のあちこちで目にします。
◇知の巨人・水原徳言が遺したもの(高崎新聞)
◇高崎五万石騒動義人堂にある「慰霊碑」も、そうです。
昭和六十一年(1986)発行の「上州路No.150」に、水原徳言氏の書いた「一路堂のこと」という一文があります。
その中に、水原氏の一路堂に対する思いが述べられていますので、ご紹介しましょう。
「 | 馬場千代香夫人の願いを受け入れて橋爪良恒師の定められた敷地が慈眼院山下、心なき行楽の人々が空缶や空瓶を投げ棄てる松林の傾斜地であった。 |
私はご相談をいただいてその敷地が面白いと思った。 多くの人がこの山を喧騒の渦中に誘うことに専心しているのだから、この清雅の生涯を遂げた人(一路居士のこと)に静寂の山気を友とするため、これ以上のところはあるまい。 |
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私は地形の模型を作って、その上に建ててはこわして想を練った。 そして得た私の案は必ずしも建立を志す人の満足を得られなかったかも知れないが、昭和四十九年五月三日、ようやく落慶に至り得た。 |
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幾度も滑る粘土の敷地に転んで泥にまみれ苦しんだが、そんなことより工事中の狂乱物価、石油ショックの相場高騰には泣かされた。 | |
今も私は一路堂を訪れると、あの物価変動を恨む。 そこここに悔いを残す跡を見るのだ。」 |
いま、一路堂を訪れる時、「なんて歩きにくい坂なんだ。」とか、「なんでこんな場所に造ったんだ。」とか思うかも知れませんが、その経緯を知ると、かえってそれが「一路堂」の価値なんだと思えてきませんか。
少し前まで、特別な時でもないと入れなかった「一路堂」が、今はカフェとなって誰でも気軽に入れるようになりました。
あとは、「一路堂」の本来の目的である、一路居士の遺作をいつも展示して、皆さんに見てもらえるようにすることでしょう。