越後の米を江戸に運ぶため、倉賀野河岸に通ずる古道を「米街道」と呼んでいたといいます。(「高崎の散歩道 第四集」より)
その「米街道」の通り道にあったのが、前回ご紹介した「柴崎の辻」です。
今日は、その「柴崎の辻」から、愛車「赤チャリ号」に跨って越後方面(あくまでも方面です・・・)へ向ってみましょう。
「道しるべ」には「北 下大類ヲ経テ前橋市ニ至ル」と書いてあるものの、この付近は近年の道路建設によってまるで姿を変えています。
そこで、昔の地図を探しに県立図書館まで行き、明治四十年測量の地図を入手して、たぶんこの道だろうという見当をつけてみました。
「柴崎の辻」から100mも行かぬ内に、左側の墓地の中に建っている、大きな石碑に目が留まります。
「柴菴黒石翁碑」と書いてあるようなのですが、碑文はすべて漢文。
暫くその前に佇んではみたものの、教養の無い悲しさで、何が書いてあるのか分かりません。
後で調べてみる※ことにして(諦めて)、先へ進みましたが、150mも進むと、もう水田にぶつかってしまいました。
一旦右折して、「元島名・倉賀野線」に出て再び北進します。
すぐ、「下大類町西」交差点に出ますが、その先を見ると斜め右に入る細い道があるじゃありませんか。
この道に違いないと、先に進んでみます。
突き当りに出現するのが、屋根にシャチホコを乗せた大きな家です。
ここを、右折します。
少し行くと、小振りながら立派な造りのお宮がありました。
傍らには、「根岸満都多顕彰碑」というのが建っており、衆議院議員・中曽根康弘題額と書いてあります。
道なりに進んで直角に曲がると、キャッチボールをしている子どもがいます。(いつもいる訳ではありません・・・)
正面の倉庫を巻くように、右折し、左折すると「高崎・伊勢崎線」に出ます。
車に注意しながら横断すると、左前方に「福田寺」の大きな甍(いらか)が見えてきます。
正面の背の高いビルは、高崎健康福祉大学の短期部です。
突き当りを左折すると「福田寺」ですが、今日は右折します。
右折したら、なるべくゆっくり歩いてみて下さい。
「おっ!」と思うほど、昔の風情を残した風景や建物が、道沿いに沢山残っているのです。
かつてこの道が「米街道」であったということを、納得させる佇まいです。
知らなければ通り過ぎてしまいそうな、ここが、古道への曲がり角です。
グンブロガーのDREAMさんが、「坂の向こうに…」で仰るように、曲がり角、坂、樹木に覆われた暗い道・・・には、「この先どうなってるんだろう?」という、不思議な期待感を覚えます。
男はいつまで経っても子どもだなぁと思うのは、こんな時です。
長くなってきましたので、この続きは、また次回ということに。
その「米街道」の通り道にあったのが、前回ご紹介した「柴崎の辻」です。

「道しるべ」には「北 下大類ヲ経テ前橋市ニ至ル」と書いてあるものの、この付近は近年の道路建設によってまるで姿を変えています。
そこで、昔の地図を探しに県立図書館まで行き、明治四十年測量の地図を入手して、たぶんこの道だろうという見当をつけてみました。

「柴菴黒石翁碑」と書いてあるようなのですが、碑文はすべて漢文。
暫くその前に佇んではみたものの、教養の無い悲しさで、何が書いてあるのか分かりません。
後で調べてみる※ことにして(諦めて)、先へ進みましたが、150mも進むと、もう水田にぶつかってしまいました。
一旦右折して、「元島名・倉賀野線」に出て再び北進します。
※ | 調べてみました。→◇柴菴黒石翁のこと |

この道に違いないと、先に進んでみます。

ここを、右折します。

傍らには、「根岸満都多顕彰碑」というのが建っており、衆議院議員・中曽根康弘題額と書いてあります。

正面の倉庫を巻くように、右折し、左折すると「高崎・伊勢崎線」に出ます。

正面の背の高いビルは、高崎健康福祉大学の短期部です。
突き当りを左折すると「福田寺」ですが、今日は右折します。
右折したら、なるべくゆっくり歩いてみて下さい。
「おっ!」と思うほど、昔の風情を残した風景や建物が、道沿いに沢山残っているのです。
かつてこの道が「米街道」であったということを、納得させる佇まいです。

グンブロガーのDREAMさんが、「坂の向こうに…」で仰るように、曲がり角、坂、樹木に覆われた暗い道・・・には、「この先どうなってるんだろう?」という、不思議な期待感を覚えます。
男はいつまで経っても子どもだなぁと思うのは、こんな時です。
長くなってきましたので、この続きは、また次回ということに。