2012年10月17日

控帳 「取ると施すとの二つに止まれり」

夫れ国家の政体は多端(たたん)なるが如しといへども 
 之を要するに 取ると施すとの二つに止(と)まれり。

国の政(まつりごと)は多岐にわたっているように見えるが、要は、(民から)取ることと、(民に)施すことの二つだけである。
(富田高慶著「報徳記」より)

これは、財政破綻に陥っていた陸奥国相馬中村藩の家老・草野正辰が、二宮金次郎に復興の教えを乞いに行った時、金次郎が語った言葉。

中村藩(現在の福島県相馬市)は高六万石だが、元禄から正徳にかけての開墾で石高以上に田畑が増え、領民は豊かな暮らしができていた。
それを見た藩は検地をやり直し、新たに三万八千石分の年貢を徴収することにした。
これにより、藩の米蔵と金蔵は溢れんばかりとなり、それに応じて藩士たちの俸禄も増え、その生活は節倹を忘れ奢侈に流れるようになった。

一方、年貢が重くなったことで領民の生活は衰え、加えて天明期の大飢饉により、飢渇・死亡・離散する者おびただしく、村は人が減り、戸数が減り、増えるのは荒地ばかりとなった。
ために、藩の年貢収納は三分の一に減り、やがて蓄えもなくなって、藩自体が困窮することとなる。
藩は隣国や江戸の豪商から米や金を借り、膨らんだ借金で、もはや一年の租税では利息も返せぬ状態に陥る。

その時、藩主・相馬益胤(ますたね)に意見具申したのが、郡代を務めていた草野正辰(まさたつ)と池田胤直(たねなお)。
二人は、藩主自ら飲食・衣服を節約し、藩士の俸禄を減じ、万事一万石の大名の収支を基準にして節倹に励むよう忠言する。
これが藩主の心を打ち、二人を家老職に就けて復興に取り組むこととなった。

藩政がやっと安定しかかった時、天保期の飢饉が襲い、蓄えは再び底をつき、ついに二宮金次郎の力を頼ることとなった。
その時、金次郎が語ったのが、冒頭の「夫れ国家の政体は・・・」という話だった。
現代語訳で全文を見てみよう。

そもそも藩の政務は複雑多岐にわたるようでありますが、要約すれば、取ること、施すことの二つに尽きます。
この二つをおろそかにして何がありましょう。
盛衰も安危も、この二つに由来します。存亡・禍福もそうです。
ところが世間では、国の盛衰の理由を考えない。これでどうしてその衰廃を興すことができましょうか。
なぜなら、取ることを優先すれば国は衰え、民は窮乏し、恨みの心が生じ衰弱が加わる。
ひどいときには国家を傾け、滅亡に至らしめるほどである。
施すことを先にすれば国は栄え、民は豊かになる。領民はよく帰順し、上下とも富み、百代を経ても国家はますます平穏である。
聖人の政は恩恵を施すことを第一の務めとし、あえて取ることに心を用いない。
暗愚な主君は取ることを優先して、施すことを嫌う。
国がよく治まることもまた乱れることも、その原因はすべてここにあるのです。(略)
まず与えなければ民はその生を安んずることはできません。
民が貧しい時には我儘(わがまま)で邪(よこしま)になる。
ついに年貢は減少し、土地は荒廃し、上下の大きな心配となります。
与えることを第一にする時には、民はその生を楽しみ、なりわいを楽しみ、土地は毎年に開墾され、生活に必要な物資に困ることはなく、国の衰廃は求めても得られなくなります。(略)
私が荒廃した土地を開墾し、百姓を慈しみ、その恩恵が他領にまで及んだのは特別なことではない。
ただ与えることを第一の務めとしたためです。
相馬藩が衰えて貧しいといっても、大いに恩恵を施し、領民を慈しむときには、どうして復興しないことがありましょう。」
(児玉幸多氏編「二宮尊徳」【報徳記】より)


金次郎のことを、もう少し調べてみたくなった。


  


Posted by 迷道院高崎at 18:56
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2012年10月31日

控帳 「二宮金次郎のこと」

二宮金次郎のことについて、知らないことが多かった。

特に、成人してからの金次郎については、ほとんど知らなかった。

児玉幸多編「二宮尊徳」、長澤源夫編「二宮尊徳のすべて」から拾ってみた。

身長6尺(182cm)・体重25貫(94kg)・足袋は11文半(27cm)。 声は野太く、雷のようであった。

祖父・銀右衛門は、常に節倹を守り家業に力を尽くし頗る富有であったが、父・利右衛門は村人から善人と呼ばれるほどで、人に与えたり貸したりすることを厭わず、そのため数年で衰貧極る状態となった。
それでもその貧苦に甘んじ、人に与えたものの報いを求めようとはしなかった。

天明七年(1787)、父・利右衛門(35)、母・よし(21)の長男として、相模国足柄上郡栢山村(現・小田原市)に誕生。
付けられた名前は「金郎」であった。
32歳の時、小田原藩主・大久保忠真(ただざね)から「行為奇特、村為相成」として表彰され、1年間の租税を免除されるが、その証文に「金郎」と記載されたため、以降、公の場では「金郎」を用いるようになった。
「尊徳」は56歳の時に名乗った諱(いみな)で、「たかのり」と読む。

5歳の時に酒匂川が氾濫、利右衛門の田畑はすべて石河原となり、ますます家計困窮する。

病気の父に代わり、12歳から酒匂川堤防復旧の夫役に出る。
小さくて一人前の仕事ができないのを嘆き、力不足の代わりにと夜中まで草鞋を作り、翌朝人々に渡した。
また、草鞋を売った金で、酒好きの父のために一日一合の酒を買う。

14歳の時、父・利右衛門没す。
一家四人の生計を立てるため、朝は早くから山で薪を伐り、夜は遅くまで草鞋を作る毎日となる。
各地に建つ二宮金次郎像は、この14歳の時の姿である。
この像の元となった薪を背負い本を読みながら歩く姿は、明治二十五年(1892)出版の幸田露伴著「二宮尊徳翁」の口絵から。

16歳の時、母・よし没す。
弟二人は母の実家へ、金治郎は伯父・万兵衛に引き取られる。
油菜を土手で栽培し菜種八升を得て夜学の灯明に使ったという話や、農民の捨てた苗を荒地に植えて1俵の籾を得たという話は、この頃のもの。

18歳の時、万兵衛方を出て名主・岡部伊助方に奉公し、習字・読書の教えを受け、岡部父子が招いた学者の講義を室外から聞いて学ぶ。
空いた時間で農耕をし、米5俵を得る。

19歳で岡部方を辞し、親戚名主・二宮七左衛門方に寄食する。
酒匂川堤防の普請で貰った賃金は名主に預け、一貫文貯まると村内の貧困者に分け与えた。

20歳の時、廃屋となった自家を修理してここに移り、父が質に入れた下々田を買い戻す。
24歳の時までに買い戻し或いは買い入れた田畑は一町四反五畝二十歩となり、二宮家再興なる。
お礼参りとして、江戸見物、伊勢参り、京都・奈良・大阪などを巡拝する。

26歳の時、小田原藩家老・服部十郎兵衛の中間となる。
これが、後に各地の財政再建に取り組む発端となる。

服部家は、禄高千三百石であったが、借金が千両余あり返済することができなくなっていた。
金治郎が見事に家を再興した話を聞き、服部家の家政復興を依頼してきた。
金治郎は農民の身で武士の家の再興などできないと固辞したが、再三再四の依頼についに引き受けることとなった。

金治郎服部家の収支を分析し、借金を5年間で返済することを決めて十郎兵衛と下男下女に、その道筋を説いた。
その仕法(方法)は、毎年の収入から毎年の返済額を引き、残った額で生活をするように節倹に努めるというものであった。
この「分度」(生活に必要な基準を決める)・「勤倹」(倹約をして余剰を生み出す)・「推譲」(余剰分を自・他に譲る)という考え方が、「報徳仕法」の基本となる。

5年後、借金はすべて返済し尽くし、三百両の金が残った。
金治郎は、このうち百両は主家非常時の費用にと十郎兵衛に、次の百両は服部家非常時の費用にと奥方に、残り百両は節倹に努めた下男下女の褒美に分け与え、自分は一切の報酬も手にしなかった。

36歳の時、小田原藩主・大久保忠真の命を受け、下野国桜町領(現・栃木県二宮町及び真岡市)の復興を10年の計画で着手する。
しかし、様々な人の妨害・讒言に阻まれ、7年経っても進捗は芳しくなかった。
思い余った金治郎は江戸からの帰途消息を隠し、成田山で二十一日間の断食修業を行う。満願の日、桜町代官が迎えに来て帰任するが、これ以降、村人の心も変わり仕法は順調に推移する。
その後、桜町での成果を聞き及んで、各地から仕法を懇願してくるようになる。

安政三年(1856)、金治郎は仕法中の日光今市で70歳の生涯を閉じるが、この間、携わった仕法は全国610ヵ所余り。

金治郎は謙遜な人物で、自らの功績をあまり語ろうとしなかったが、門人の富田高慶(とみた・たかよし)が安政三年(1856)に「報徳記」を、福住正兄(ふくずみ・まさえ)が明治十七年(1884)に「二宮翁夜話」を著し、金治郎を語る原典となっている。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:22
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2012年11月07日

控帳 「二宮金次郎 天保の大飢饉を救う」

ユーチューブで、こんなのを見つけた。
平成十七年(2005)放送、NHK「その時歴史が動いた」第233回。
途中、はしょっているところもあるが、「報徳記」の内容をよくまとめているように思う。







金治郎の史跡を訪ねてみたくなった。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:36
Comments(2)二宮金治郎

2012年11月18日

栢山へ行ってきちゃいました(1)

二宮金治郎の生誕地、神奈川県小田原市栢山を訪ねてみました。

←この石玉垣は、あの真珠王・御木本幸吉氏が寄贈したものだそうです。


大正四年(1915)に中央報徳会が建てた「二宮翁誕生遺蹟之碑」には、このようなことが刻まれています。
(略)明治四十二年 三重縣鳥羽町ノ人御木本幸吉氏 其ノ地久シク湮晦(いんかい:埋もれ隠れること)ニ属スルヲ憾(うら)ミトシ 貲(し)ヲ出シテ此ノ地ヲ購(あがな)ヒ 工ヲ起シテ適當ノ設備ヲ爲シ 其ノ歳十一月十五日ヲ以テ土工ノ一切ヲ竣(お)へ 其ノ地積ヲ挙ゲテ之ヲ本会二寄附セラレタリ(略)」

その御木本幸吉氏が寄贈した259坪の敷地には、今、「尊徳記念館」が建っています。

「尊徳記念館」は、昭和三十年(1955)建設の旧記念館を、昭和六十三年(1988)「二宮尊徳生誕200年祭」事業で改築したものです。

記念館では、尊徳の遺品や資料が展示され、その生涯と偉業が模型やアニメで分かりやすく紹介されていました。

この「回村の像」は、身長180cmという金治郎の等身大で造られているそうです。

金治郎は毎日欠かさず村の隅々まで回り歩き、村民の艱難・善悪、農業に精を入れているかいないかを、ただ黙って見究めたといいます。

「二宮翁夜話」には、こんな風に書かれています。
深夜或は未明、村里を巡行す、惰(だ:怠け)を戒るにあらず、朝寝を戒るにあらず、可否を問はず、勤惰を言はず、只自(みずから)の勤として、寒暑風雨といへども怠らず、一、二月にして、初て足音を聞て驚く者あり、又足跡を見て怪む者あり、又現に逢ふ者あり、是より相共に戒心を生じ、畏心を抱き、数月にして、夜遊・博奕・闘争等の如きは勿論、夫妻の間、奴僕の交、叱咤の声無きに至れり」

金治郎の生まれた家が、今もなお残っているというのは驚嘆に値します。

父・利右衛門が家督を継いだ時の二宮家は、二町三反六畝余の田畑を所有していた中流農家だったということで、31坪余のけっこう大きな家です。

「報徳記」によると、母が亡くなった時は「家財既に尽き、田地も亦(また)(ことごと)く他の有(もの)となる、残れるもの徒(ただ)に空家而巳(のみ)という状態だったようですが、ここの看板によると、家も隣村の人に売られて他所に移されたとあります。

売られた先がよかったのでしょうが、普通の農家の住宅として使われながら「金次郎さんの生家」として、大事にされてきたそうです。

「尊徳没後百年祭」にあたり、所有者から譲渡を受けて、昭和三十五年(1960)この地に戻り復元されました。

生家のそばに、尊徳の訓え「貧富訓」を刻んだ碑が建っています。

金治郎は、自分に相応した生活の基準を「分度」と言っていますが、遊楽と勤勉が「分度」の内か外かによって、自ずと貧にもなれば富にもなるということです。
今でもそのまま当てはまる言葉ですね。

さて、この後、近くの尊徳遺跡を回りましたが、そのお話しはまた次回。


  


Posted by 迷道院高崎at 09:32
Comments(4)二宮金治郎

2012年11月21日

控帳 「五常 亡八 至誠」

「五常」とは、儒教で説く5つの徳目、「五徳」とも。
「仁」・・・思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうこと。
「義」・・・利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
「礼」・・・人間社会の上下関係で守るべきこと。
「智」・・・学問に励み、知識を重んじること。
「信」・・・言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。


「忘八」とは、仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を忘れること。


「至誠」とは、きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。


「二宮翁夜話」より。

翁曰、我が道は至誠と実行のみ、故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし(及ぼすことができる)、況(いわん)や人に於るをや、故に才智弁舌を尊まず
才智弁舌は、人には説くべしといへ共(説くことはできるかもしれないが)、鳥獣草木を説く可からず(説くことはできない)、鳥獣は心あり(心があるので)、或は欺くべしといへ共(欺けるかもしれないが)、草木をば欺く可からず(欺くことはできない)
古語に、至誠神の如しと云といへ共、至誠は則(すなわち)神と云も不可なかるべきなり、凡(およそ)世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬものと知るべし」

さらに、
古語に、内に誠あれば必ず外に顕(あら)はるゝ、とあり、瑕(きず)なくして真頭の真直なる柿の売れぬと云事、あるべからず、
(それ)何ほど草深き中にても薯蕷(ヤマイモ)があれば、人が直(すぐ)に見付て捨てはおかず、又泥深き水中に潜伏する鰻(ウナギ)(ドジヨウ)も、必ず人の見付て捕へる世の中也、されば内に誠有て、外にあらはれぬ道理あるべからず、此道理を能(よく)心得、身に瑕のなき様に心がくべし」


迷道院独白。
いま、「信を問う」と荒野で呼ばわる声がする。
問いたきものは、公約にあらず、政策にあらず。
ただその者たちの至誠なり。
内に誠あれば必ず外に顕わるという。
見逃すまい、見逃すまい。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:33
Comments(4)二宮金治郎

2012年11月25日

栢山へ行ってきちゃいました(2)

金治郎が母没後に引き取られたという、伯父・万兵衛のお宅が現存していました。

もっと遠くに引き取られていったものと、勝手に思っていたのですが、金治郎生家のすぐ隣でした。

「報徳記」による万兵衛は、「甚(はなはだ)吝(やぶさか)にして慈愛の心薄し」と散々の言われようですが、さすがにこの看板では、「金次郎を早く一人前にしようという親心で・・・」となっています。

もうひとつ、この看板で気になったのは、「金治郎は18歳の時に人の手に渡っていた家を買い戻し」となっていることです。
生家跡にあった看板では「隣町に売られた家が戻ってきたのは、昭和三十五年」となっていました。
「報徳記」では、金治郎万兵衛宅を辞して帰った時は、
「僅かに虚屋(あきや)を存すと雖も、数年無住の故を以て大破に及び蔓草軒を蔽へり」
となっています。
さて、その真実や如何に?

万兵衛宅のすぐ近くに、村人の捨てた苗を金治郎が用水堀に植えて米一俵を得たという場所が、公園として残されています。




すごいなー!と思ったのは、そこを報徳小学校(校名もいい!)の学習田として、子どもたちに米作りの体験をさせていることです。

ここは、「日本の米づくり100選」指定水田にもなっています。

次は、金治郎のお墓があるという「善栄寺」へ行ってみました。

お墓といっても、金治郎の遺体は日光今市に葬られており、「善栄寺」二宮一族の菩提寺ということから、遺歯・遺髪を持ち帰って埋葬してあるということです。

境内には、座って宙を見つめ、何やら書いている金治郎の像があります。

この「善栄寺」では寺子屋を開いていたようですが、万兵衛の家に寄食していた金治郎が、寺子屋に通えたとは思えません。

また、箱に入れた砂に文字を書いて練習していたといいますから、紙の草子に筆で字を書いているこの姿は、作者の創作イメージなのでしょう。

台座には、「積小為大」(せきしょういだい:小を積みて大と為す)と刻まれていました。
「積小為大」について、「二宮翁夜話」にはこう書かれています。
大事をなさんと欲せば、小さなる事を怠らず勤むべし、小積りて大となればなり、凡(およそ)小人の常、大なる事を欲して小さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて出来易き事を勤めず、夫故(それゆえ)(つい)に大なる事をなす事あたはず、 夫(それ) 大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり
(たとえ)ば 、百万石の米と雖(いえど)も粒の大なるにあらず、万町の田を耕すも其(その)(わざ)は一鍬づゝの功にあり、千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一簣(もっこ)の土よりなる事を明かに弁(わきま)へて、励精小さなる事を勤めば、 大なる事必なるべし、 小さなる事を忽(ゆるがせ)にする者、大なる事は必出来ぬものなり」 

手にしている草子には、「音もなく香もなくつねに天地(あめつち)は」と刻まれています。

これは、「二宮翁夜話」のしょっぱなに出てくる、金治郎の詠んだ道歌の一節です。

我が教へは書籍(しょじゃく)を尊まず。故に天地(あめつち)を以って経文とす。予が歌に
   音もなく 香もなく常に天地は
          書かざる経を くりかへしつゝ
とよめり。
此のごとく日々繰返し繰返して示さるゝ天地の経文に、誠の道は明らかなり。(略)
則ち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(みの)るが如き、万古不易(ばんこふえき:いつまでも変わらないこと)の道理により、誠の道に基きて、之を誠にするの勤をなすべきなり。」

手前の小さな墓石が、金治郎の遺髪と遺歯を納めたお墓です。

百五十回忌の菩提塔には、「一日に一字づつ習えば 一年に百六十五字になるぞ この小僧」と墨書されています。
まさしく「積小為大」を表していますが、気になるのは最後の「この小僧」です。

金治郎が野良仕事に出ようと善栄寺の門前まで来ると、一人の少年が真新しい手習いの草子を持って、寺に入るところでした。
呼び止めた金治郎が、少年の筆と草子を借りて書いたのが、「一日に・・・」という言葉だったそうです。

その言葉で少年を励ましたというのですが、だとしたら「この小僧」は余分でしょう。
おそらく、砂に字を書いて憶えた金治郎の、恵まれた少年への負けん気の表れだったと思うのですが、いかがでしょうか。

遺跡めぐりはまだ続きますが、長くなりましたのでまた次回。



  


Posted by 迷道院高崎at 08:24
Comments(4)二宮金治郎

2012年11月28日

控帳 「予が見たる二宮尊徳翁」

明治三十七年(1904)袋井学術講話会に於ける、内村鑑三の講演大要より抜粋。

(内村鑑三)は嘗(かつ)て『日本及日本人』(後に『代表的日本人』と変更)なる一書を英文にて著し之を世に示したり。
録する処、西郷隆盛、日蓮上人、上杉鷹山公等なりしが、之を読んで英米人の尤も(最も)驚嘆せしは二宮尊徳先生なりしと云ふ。
彼らが異教国と称するこの国に、かくの如き高潔偉大の聖人あらんとは、彼らの意外とせしところなりしと見ゆ。
(も)し欧米人が詳(つまび)らかに先生の性行閲歴を知りえたらんには、恐らく先生を以って世界における最高最大の人物に数ふるならん。(略)

近年日本に産出せられたる書物の中にて尤も大なる感化力あるものは、二宮先生の報徳記に若(し)くものなし。予が小児らに先(ま)づ読ましめたきものは即ちこの書なり。(略)
何故にこの書がかく偉大なる感化力を有するや、他なし、之れ真正の経済なるものは道徳の基礎に立たざる可からざることを、先生の事業生涯を以って説明したるものなればなり。
即ち身を以ってこの問題の解決を為したるなり。先生は経済と道徳の間に橋をかけたり。先生の一生は経済道徳問題の福音なり。この意味において報徳記は一部のクラッシック(古典)也。経書なり。

(そもそ)も現今経済を論ずるものは大抵倫理道徳と関係もなきものと為すものの如し。(略)
アダムスミスの『富国論』は著名なり。邦人皆之を読みて経済学上の大著となす。然れども彼は之をその倫理学の一篇として書きたるものなり。
然るに現今英米の学者輩、経済学を以って単に利慾の学問とせり。(略)
先生は否(しか)らず。道徳は原因にて、経済は結果なりと断じたり。至誠勤勉正直にして初めて経済の成立するものなりとせり。(略)
今日の経済学者は先づ算盤を手にす。先生は先づ至誠の有無を質(ただ)す。吾人、先生に学ぶところなきか。

今や不景気の声高し。この救済策を以って先生に問はば先生必ず云はん。先づ之を救わざる可からず。不景気の救済は不道徳の救済ならざる可からずと。
今時の人、ややもすれば挽回策を以って農工銀行や商業銀行の設立によると為す。然れども人心腐敗すれば斯くの如きものは却って之れ不景気の前駆となり、破産の機関となり了(おう)せん。(略)
畢竟(ひっきょう:つまる処)経済の本(もと)は金にあらずして人の心にあるなり。
此の点に於いて、先生の経済論は実に敬服の外なきなり。今の経済学者は、只之を以って金銭利慾の問題となして、人の意志に関する無形の倫理道徳の問題なるを知らず、真に憐れむべきにあらずや。」
(岩波書店「内村鑑三選集4 世界の中の日本」)




  


Posted by 迷道院高崎at 18:55
Comments(2)二宮金治郎

2012年12月02日

栢山へ行ってきちゃいました(3)

善栄寺から東へ400mほど行くと、酒匂川の土手に出ます。

金治郎の家の田畑をことごとく石河原にした暴れ川とは、とても思えないほどゆったりと流れています。

土手には、見事な松の並木。

この松並木の苗は、金治郎が植えたという話が伝わっています。

ここに建つ「二宮翁之遺跡」碑には、「先生若年ノ頃松苗二百本ヲ植ヱラレシ所ナリト傳フ・・・」と刻まれています。

ただ、この話は「報徳記」にも「二宮翁夜話」にも出てきません。

明治四十一年(1908)出版の留岡幸助「二宮翁逸話」に出てくる話だということが後で分かりました。

留岡幸助はこの本を執筆するにあたって、栢山まで行き、金治郎の実弟・三郎左衛門の玄孫にあたる二宮兵三郎他から、話を聞いています。

「二宮翁逸話」が書かれた時には、金治郎の植えた松の並木があったようですが、神奈川県のHPによると、残念ながら、今はもうないということです。
しかし、それを偲ぶ松並木が大切に守られているということは、素晴らしいことだと思いました。

酒匂川の空をカギになって飛ぶ渡り鳥を見ながら向かった先は、金治郎が夜学に使う油を得るため、油菜の種を蒔いたという仙了川の堤です。



「報徳記」によると、伯父・万兵衛に「夜学の為に灯油を費す事、恩を知らざるもの也。」と叱られ、泣きながら謝ったという金治郎ですが、
我不幸にして父母を喪(うしな)ひ、幼にして独立することあたはず、他人の家に養はれ日を送るといへども、筆道文学を心懸ずんば一生文盲の人となり、父母伝来の家を興すこと難(かた)かるべし、我自力を以て学ぶ時は其の怒りに触ること無かる可し」
と考え、この川べりの地を起こして油菜の種を蒔き、菜種七、八升を得ることができました。
これを町の油屋へ持って行って油と交換し、夜学を続けるわけです。

それでもなお万兵衛は、「汝自力の油を求め夜学すれば我が雑費には関せずといへども、汝学びて何の用をかなすや。無益の事を為さんより深夜に至るまで縄をなひ我が家事を補ふ可し。」と、金治郎を叱ります。

そこで金治郎は、
夜に入れば必ず縄をなひ、筵(むしろ)を織り、夜更(よふけ)人寝るに及びて毎夜竊(ひそか)に灯火を点じ、衣を以って之を覆ひ他に灯光の漏れざるやうになし、筆学読書鶏鳴に及びて止む。」
と、「努力」などという一語ではとても言い尽くせない行動をとります。

これが後に、何事も他人のせい社会のせいと怨まず諦めず、与えられた環境の中で自分のできることを至誠を以って行うという、金治郎の行動の原点になったように思います。

仙了川に架かる、その名も「油菜橋」から、日本の象徴・富士山の気高い姿が望めます。

少年・金治郎は、時に農民を苦しめる酒匂川の流れと、気高い富士山の姿を日々見ながら、天と地と人との関わりを深く心に刻んでいったに違いありません。

願わくは金治郎の提唱し実行した「報徳」の思想が、気高き富士のように、日本という国の象徴とならんことを。

尊徳史跡巡りは、まだ続きます。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:49
Comments(2)二宮金治郎

2012年12月05日

控帳 「金治郎の公約」

小田原藩主・大久保忠真(ただざね)公に、下野国桜町領(現・栃木県芳賀郡二宮町、真岡市)の復興を命じられた金治郎は、「私にすべてを任せてくれるなら、十年で復興させる。」と、忠真公に約束する。

その「公約」に至る経過を、「報徳記」から抜粋する。

旗本・宇津家が知行する桜町領の状況は、次のようであった。
元禄年中までは戸数四百五十軒なりしが、連年離散のもの多く、文政度(文政年間)に至りては僅かに百四五拾軒を残せり。
互に利を争ひ、争論訴訟絶ゆることなく、動(ややも)すれば相闘ふに至れり。
故に衰貧極り、田野荒蕪(こうぶ)し、渺茫(びょうぼう:果てしなく)として民家狐狸の住居となるもの多く、収納中古(むかし)四千苞(ぴょう:俵)を納めしに、僅(わずか)に八百苞を納む。
宇津家の艱難も亦(また)(きわま)れり。」

当初、「農民の自分にそのようなことはできない。」と固辞する金次郎に、忠真は礼を尽くして再三にわたる命を下す。
これ以上断ることはできないと覚悟した金治郎は、次のように答える。
(それがし)数度の命に応ぜず、君(きみ)之に令すること已(すで)に三年、辞する所を知らず。
止む事を得ずんば(かの)地に至り、土地人民衰廃の根元、再復成不成の道を熟視し、然る後受命の有無を決すべし。
今予め其の命に随ふこと能(あた)はず。」

そして金治郎は桜町領へ赴き、数十日掛けて一軒一軒訪れて、農民の貧富の度合いや勤勉であるか怠惰であるかを観察、また田畑や野の地味、水利の難易などを調査し、風土・民心・再建の可否を見究めた上で、こう報告した。
土地瘠薄(せきはく:痩せている)にして人民の無頼怠惰も亦(また)極る。
然りと雖(いえど)も之を振起するに仁術を以てし、邑民旧染の汚俗を革(あらた)め、専(もっぱ)ら力を農事に尽す時は再興の道なきにあらず。
而して仁政行われざる時は、仮令(たとえ)年々四千石の貢税を免ずといへども、彼の貧困は免ることあるべからず。(略)

厚く仁を施し其の艱苦を去りて安栄に導き、大いに恩沢を布きて其の無頼の人情を改め、専ら土地の貴き所以(ゆえん)を教へ、力を田圃に尽さしむるにあり。
然して此の興復の用度幾千万金なるや予め其の数を定め難し。

「復興にはどの位の金が必要になるか分からない。」と言いながら、次のような願いを忠真公にする。
前々、君(きみ)彼の土地再復を命ずるに、許多(いくた)の財を下し玉ふ(給う)。 是を以て其の事成らず。
以後之を興復せんに必ず一金も下し玉ふことなかれ。

「復興する資金を出してはならんとは、一体どういうことか。」と問う忠真公に、その理由を次のように語る。
(きみ)財を下せば邑宰(ゆうさい:名主)村民共に此の財に心奪はれ、互に財の手に入らんことを欲し、下民は邑宰の私(自分勝手)を論じ、宰官(さいかん:村役人)のものは下民の私曲(しきょく:自分の利益だけを考えて不正なことをする)而已(のみ)を憂ふ。
互に其の非を論じ、其の利を貪(むさぼ)り、終(つい)に興復の道を失ひ、弥々(いよいよ)人情を破り、事(こと)廃するに至れり。
(これ)用財を下し玉ふの災なり。

「ではどのような手段で復興させるのか。」との問いには、こう答える。
荒蕪を開くに荒蕪の力を以てし、衰貧を救ふに衰貧の力を以てす、何ぞ財を用ひんや。(藩財を使う必要があるでしょうか)
荒田一反を開き、其の産米一石有らんに、五斗を以て食となし、五斗を以て来年の開田料となし、年々此の如くにして止めざれば、他の財を用ひずして何億万の荒蕪と雖も開き尽すべし。
(わが)神州往古開闢(かいびゃく)以来、幾億万の開田其の始(はじめ)、異国の金銀を借りて起したるには非(あら)ず。必ず一鍬よりして此の如く開けたるなり。
今荒蕪を挙げんとして金銀を求むるは、其の本を知らざるが故なり。
(いやしく)も往古の大道を以て荒蕪を挙げんに、何の難きことか之あらん。」

その上で、すべてを任せてもらえれば、十年で二千俵の貢納ができるまで復興させることを忠真公に約し、命を受けることとなる。
そして、自らの田畑・家財は全て売り払って復興資金とし、妻子を連れて桜町へ移り、あらゆる妨害にも屈することなく、約束通り十数年で三千石を産する地に復興させた。

宇津家の税収入は八百石から二千石に増収し、領民は三千石から二千石に減税となった。
なおかつ、余剰の一千石を年々備蓄できるようになり、これが小田原藩を天保の大飢饉から救うこととなる。


迷道院独白
公約は、斯くありたし。
・事前の実態調査を徹底的に行い、問題点を究明する。
・その上で、実現可能な目標(いつまでにどの位)を定める。
・どのような手段でその目標を実現するかを明確にする。
・誠心誠意、説明を尽くす。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:58
Comments(8)二宮金治郎

2012年12月09日

小田原城へも行ってきちゃいました

金治郎の良き理解者であり支援者であった大久保忠真の居城、小田原城です。

高崎城と同じく、明治維新後、城内の建造物はほとんど取り壊されました。

しかし、明治四十二年(1909)二の丸平櫓の修築工事が行われたのを機に次々と復元工事が行われ、昭和三十五年(1960)ついに、RC構造ではありますが天守閣の復元を成し遂げます。

その後も、昭和四十六年(1971)に常盤木(ときわぎ)門、平成九年(1997)銅(あかがね)門、平成二十一年(2009)には馬出(うまだし)門と、実に二の丸平櫓修築から100年の歳月をかけて復元をしています。
羨ましい限りであります。

その間、城内にあった行政施設は城外に移転していきますが、趣のある建物はそのまま残して利用しています。
観光案内所
旧・市立図書館
小田原城歴史見聞館
旧・小田原第二尋常小学校講堂

天守閣の南側、二の丸小峰曲輪の一角に、明治二十七年(1894)創建の「報徳二宮神社」があります。





社殿の礎石には、天保の飢饉の際、金治郎が開けさせた小田原藩米蔵の礎石が使われているそうです。

由緒によると、「二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により」創建されたとありますが、その中心となった人物が「二宮翁夜話」の著者・福住正兄(ふくずみ・まさえ)でした。

父の勧めで金治郎に弟子入りした正兄(当時の名は大沢政吉)は、他の弟子に比べて多くの教示・教訓を直接金治郎から聞くことができたといいます。
その理由を「二宮翁夜話」の自跋(じばつ:後書き)で、こう述べています。

同門皆帯刀者なれば随行に便ならず。予は帯刀せざるを以て何れの出張にも随(したが)はざる事なし。(略)
秋冬の長夜、師無聊(ぶりょう:退屈)堪玉はず(たえたまわず:耐えられず)予をして古書を朗讀せしめ、心に適する處あれば其章に就て講説あり。来狀の開封にも、文案の執筆にも又同じく講説あり。
朝暮夜具の片づけ、茶飯の給仕、夜は肩を打ち腰をもみ、出張には刀を擔して(たんして:担いで)随ひ次席に待せり。
總て教訓を多く聞けるは此故なり。」

正兄は、箱根湯本の老舗・福住旅館(現・萬翠楼福住)に養子に入ることが決まり、5年間の門人生活を終えます。
養子に入った時の福住旅館は、それより10年ほど前の火災がきっかけで、経営状態は火の車となっていました。
そこで正兄は、金治郎に学んだやり方で、わずか一年で経営の立て直しを成功させてしまうのです。

その福住旅館に、明治二十四年(1891)の夏、たまたま内務大臣・品川弥二郎が宿泊します。
正兄は、品川金治郎の思想と偉業について熱く語り、金治郎への贈位を願い出ます。
正兄の話に感動した品川は早速内閣へ提案し、その年の11月には従四位の贈位が決定します。
それを機に正兄二宮神社の創設に奔走しますが、明治二十五年(1892)その完成を見ることなく69歳の生涯を閉じました。

神社の境内には、当然の如く金治郎像が建っていますが、戦前に造ったブロンズ像で残っているのは、この一体だけだそうです。

戦時中の金属供出で、全国に設置された金治郎像は石やコンクリートに変わりましたが、そうしてでもその姿を残そうとしたのは、単に戦時教育のためだけではなく、金治郎が多くの人に敬慕されていたからではないでしょうか。

すぐそばに、大人になった金治郎のブロンズ像も建っています。

三現主義の金治郎らしい姿です。

説明板には、「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」と書かれています。

まだまだ知りたい金治郎さんですが、生誕地のルポはここまでと致します。
今度はいつか、金治郎さんが建て直した地を訪れてみたいと思います。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:24
Comments(4)二宮金治郎

2012年12月19日

控帳 「天理と人道」

「二宮翁夜話」より

翁曰(いわく)、夫(それ)人道は人造なり、されば自然に行はるゝ処の天理とは格別なり。
天理とは、春は生じ秋は枯れ、 火は燥(かわ)けるに付、 水は卑(ひくき)に流る、昼夜運動して万古易(かわ)らざる是なり。
人道は日々夜々人力を尽し、保護して成る。
故に天道の自然に任すれば、忽(たちまち)に廃れて行はれず、故に人道は、情欲の侭(まま)にする時は、立ざるなり。(略)
(それ)人の賤む処の畜道は天理自然の道なり、尊む処の人道は天理に順ふといへども 、又作為の道にして自然にあらず。(略)
天理と人道との差別を、能(よく)弁別する人少し。
(それ)人身あれば欲あるは則(すなわち)天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ、堤は崩れ堀は埋り橋は朽る、是(これ)(すなわち)天理なり。
然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、 堤は築立(つきたて)、堀はさらひ、橋は掛替るを以て道とす。」

(それ)世の中、汝等が如き富者にして皆足る事を知らず飽くまでも利を貪り不足を唱ふるは、大人のこの湯船の中に立て、屈まずして湯を肩に掛けて、 湯船はなはだ浅し、膝にだも満たずと、罵るが如し。
(もし)湯をして望(のぞむ)に任せば、小人、童子の如きは、入浴する事あたはざるべし。
(これ)湯船の浅きにはあらずして、己が屈まざるの過(あやまち)なり。
(よく)此過を知りて屈まば、湯忽(たちまち)肩に満て、おのづから十分ならん、何ぞ他に求る事をせん。世間富者の不足を唱る、何ぞ是に異らん。(略)
(それ)仁は人道の極なり。(略)
近く譬(たとう)れば、此湯船の湯の如し、是を手にて己が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向ふの方へ流れ帰る也。是を向ふの方へ押す時は、湯向ふの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る、少く押せば少く帰り、強く押せば強く帰る、是天理なり。」

(それ)人体の組立を見よ、人の手は我方へ向きて我為に弁利に出来たれども、 又向ふの方へも向き、向ふへ押すべく出来たり、是人道の元なり。
鳥獣の手は、是に反して、只我方へ向きて我に弁利なるのみ。
されば、人たる者は他の爲に押すの道あり
然るを、我が身の方に手を向け我為に取る事而已(のみ)を勤めて、先の方に手を向けて他の為に押す事を忘るゝは、人にして人にあらず、則(すなわち)禽獣なり。
(あに)恥かしからざらんや。」


迷道院独白
此度の選挙結果を見て、株価は上がり円の価値は下がったとの由。
是すなわち天理、禽獣の道と見ゆ。
人道あらば、疾うに出来たることならむ。


  


Posted by 迷道院高崎at 13:04
Comments(2)二宮金治郎