今年の大河ドラマ「八重の桜」は、滑り出し好調のようですね。
会津はもちろん、おとなりの安中でも様々な取り組みで盛り上がっていますが、わが高崎はしーんとしております。
で今回は、高崎だって関係あるんだぞー!ってお話を一つ。
山本八重が、スペンサー銃を担いで会津鶴ヶ城に籠ったのは、慶応四年(1868)八月のことだそうです。
それを遡ること3ヶ月の閏四月四日(太陽暦:5月25日)、その会津に向けて密かに権田村(現高崎市倉渕町権田)を発つ一行がありました。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)の母・くに(63)、妊娠八ヶ月の妻・道子(30)、養子・又一の許嫁・鉞子(よきこ15)、それを護衛する家臣と、同行を志願した村民、総勢21名です。
その日、忠順はこのように言って最愛の家族を送り出したそうです。
東山道先鋒隊副巡察使・原保太郎、豊永貫一郎率いる高崎、安中、吉井三藩の兵800人(一説には千人)が、東善寺の正面と裏山の二手からなだれ込んできたのは、その翌日でした。
相当の戦いとなることを予想していた新政府軍が目にしたのは、平服のまま本堂中央に落ち着き払って端座している小栗主従4人の姿でした。
話せばわかると、抵抗もせず捕縛された小栗主従は、何の取り調べもないまま、一夜明けた四月六日、烏川水沼河原で斬首されてしまいます。
東善寺にある小栗上野介忠順の供養墓脇には、樹齢百数十年の椿の木が植えられています。
「崑崙黒(こんろんこく)」という、八重咲の黒椿だそうです。
それを見るには5月まで待たなければなりませんが、待ちきれない方はこちらをどうぞ。
忠順を護るかのように並ぶ家臣の墓にも、会津と関係の深いものがあります。
説明板に「戦死」とあるのは、彼らが護衛の途中から会津勢に加わり、新政府軍と戦って命を落としたからです。
さて、その経緯は、そして夫人一行の運命や如何に。(続く)
会津はもちろん、おとなりの安中でも様々な取り組みで盛り上がっていますが、わが高崎はしーんとしております。
で今回は、高崎だって関係あるんだぞー!ってお話を一つ。
山本八重が、スペンサー銃を担いで会津鶴ヶ城に籠ったのは、慶応四年(1868)八月のことだそうです。
それを遡ること3ヶ月の閏四月四日(太陽暦:5月25日)、その会津に向けて密かに権田村(現高崎市倉渕町権田)を発つ一行がありました。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)の母・くに(63)、妊娠八ヶ月の妻・道子(30)、養子・又一の許嫁・鉞子(よきこ15)、それを護衛する家臣と、同行を志願した村民、総勢21名です。
その日、忠順はこのように言って最愛の家族を送り出したそうです。
「 | わしのことについては心配致すな。 |
皆はすぐ此処を発って、越後を経て会津に行き、会津城の家老西郷頼母殿、同じく駿河台の吾が家をよく訪れた横山主税殿、さらには吾々が江戸を引き払う前日、訪ねてきた秋月悌次郎殿もおられる筈、事情を話してその方達を頼られよ。 | |
きっと身の立つよう取り計らってくれるであろう。 | |
お母様はもとより、於みち(道子)は身重な体、くれぐれも身をいとえよ。」 |
(小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」)
東山道先鋒隊副巡察使・原保太郎、豊永貫一郎率いる高崎、安中、吉井三藩の兵800人(一説には千人)が、東善寺の正面と裏山の二手からなだれ込んできたのは、その翌日でした。
相当の戦いとなることを予想していた新政府軍が目にしたのは、平服のまま本堂中央に落ち着き払って端座している小栗主従4人の姿でした。
話せばわかると、抵抗もせず捕縛された小栗主従は、何の取り調べもないまま、一夜明けた四月六日、烏川水沼河原で斬首されてしまいます。
東善寺にある小栗上野介忠順の供養墓脇には、樹齢百数十年の椿の木が植えられています。
「崑崙黒(こんろんこく)」という、八重咲の黒椿だそうです。
それを見るには5月まで待たなければなりませんが、待ちきれない方はこちらをどうぞ。
忠順を護るかのように並ぶ家臣の墓にも、会津と関係の深いものがあります。
説明板に「戦死」とあるのは、彼らが護衛の途中から会津勢に加わり、新政府軍と戦って命を落としたからです。
さて、その経緯は、そして夫人一行の運命や如何に。(続く)
【小栗上野介忠順終焉の地】
【東善寺 小栗の椿】