2013年02月03日

八重の桜と小栗の椿(1)

今年の大河ドラマ「八重の桜」は、滑り出し好調のようですね。
会津はもちろん、おとなりの安中でも様々な取り組みで盛り上がっていますが、わが高崎はしーんとしております。
で今回は、高崎だって関係あるんだぞー!ってお話を一つ。

山本八重が、スペンサー銃を担いで会津鶴ヶ城に籠ったのは、慶応四年(1868)八月のことだそうです。
それを遡ること3ヶ月の閏四月四日(太陽暦:5月25日)、その会津に向けて密かに権田村(現高崎市倉渕町権田)を発つ一行がありました。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)の母・くに(63)、妊娠八ヶ月の妻・道子(30)、養子・又一の許嫁・鉞子(よきこ15)、それを護衛する家臣と、同行を志願した村民、総勢21名です。

その日、忠順はこのように言って最愛の家族を送り出したそうです。
わしのことについては心配致すな。
皆はすぐ此処を発って、越後を経て会津に行き、会津城の家老西郷頼母殿、同じく駿河台の吾が家をよく訪れた横山主税殿、さらには吾々が江戸を引き払う前日、訪ねてきた秋月悌次郎殿もおられる筈、事情を話してその方達を頼られよ。
きっと身の立つよう取り計らってくれるであろう。
お母様はもとより、於みち(道子)は身重な体、くれぐれも身をいとえよ。」
(小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」)

東山道先鋒隊副巡察使・原保太郎豊永貫一郎率いる高崎、安中、吉井三藩の兵800人(一説には千人)が、東善寺の正面と裏山の二手からなだれ込んできたのは、その翌日でした。
相当の戦いとなることを予想していた新政府軍が目にしたのは、平服のまま本堂中央に落ち着き払って端座している小栗主従4人の姿でした。
話せばわかると、抵抗もせず捕縛された小栗主従は、何の取り調べもないまま、一夜明けた四月六日、烏川水沼河原で斬首されてしまいます。

東善寺にある小栗上野介忠順の供養墓脇には、樹齢百数十年の椿の木が植えられています。

「崑崙黒(こんろんこく)」という、八重咲の黒椿だそうです。

それを見るには5月まで待たなければなりませんが、待ちきれない方はこちらをどうぞ。

忠順を護るかのように並ぶ家臣の墓にも、会津と関係の深いものがあります。

説明板に「戦死」とあるのは、彼らが護衛の途中から会津勢に加わり、新政府軍と戦って命を落としたからです。

さて、その経緯は、そして夫人一行の運命や如何に。(続く)


【小栗上野介忠順終焉の地】

【東善寺 小栗の椿】


  


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2013年02月10日

八重の桜と小栗の椿(2)

小栗上野介と別れて会津を目指した夫人一行の、苦難の逃避行が始まります。

亀沢大井家に避難していた夫人達は、四日夜半、護衛隊とともに闇夜の山道を吾妻境に近い大反(おおそり)に移動します。

西軍の探索の手が伸びる中、萩生村の名主・一場善太郎が命懸けで握り飯を届け、夫人一行は六日まで藪の中に身を潜めていました。

ところが、たまたま付近の民家を探索に来ていた吉井藩士・小林省吾に、発見されてしまいます。
しかし、ここに心温まる秘話があったのです。

そのことが、大正十二年(1923)刊行の「碓氷郡志」に記されています。
小林省吾
教育功勞者を以て其の名聲夙に聞ゆ。吉井藩士にして弘化元年十二月三日大字矢田に生る。廢藩後專力を普通教育の普及に致し、明治三十四年藍綬褒章を下賜せられたが、やがて肺患を得、明治三十七年五月二十三日遠逝す。
教育家として小林省吾の名は夙に知られたれども、血あり涙ある武士としての逸話は未だ之を知るもの少なし。
慶應四年海内騒擾を極め殺気充満せるの時、藩主の命を奉じ小栗上野介を権田村に討ち勇往邁進遂に上野介主従四名を捕縛するに至りしが、曾(かつて)其妻女の妊娠中なるを見て之を斬るに忍びず、草刈籠の中に潜ましめ、竊(ひそか)に人を附し若干の路銀を與(あた)へ、之を會津藩家老横山主税の許に落延びせしめたといふは、實に小林省吾の尋常一様の武士にあらざりしことが思はれる。」

このことは、長い間明かされることがなかったようですが、ある偶然から世に知られることとなりました。
昭和五十二年(1977)発行の「群馬県多野郡誌」には、このような追記がされています。
小林省吾の慈悲により一命を助けられた事實は、上野介一味残黨の外知るものなく、當事者たる小林省吾は敢て恩を沽(う)らず、遂にかゝる事實もあらはれざりしが、明治二十七年に至り多胡村向井周彌翁の中國漫遊に際し、廣島より宮島に至る船中において、はしなくも上野介の近臣某に邂逅し事の顛末を聞くに及び、初めて此の事實を知りたりといふ。
其の近臣某は其の當時、京都府屬で勳七等池田彰信といふ人であった。(向井周彌翁直話)」
小栗夫人護衛隊のひとり池田伝三郎のこと。後に京都で警察官となった。

このことがあってから、多数での行動は目立つとして、須賀尾から先は二手に分かれて進むことにします。

草刈籠の中で息苦しい思いをしていた小栗夫人は、ここからやっと山駕籠に乗り換えることができ、長野原から生須、花敷を経て和光原を目指します。

一方、小栗母堂鉞子は、万騎峠→応桑→洞口→小雨→和光原というルートを取ります。

苦難の末に和光原で落ち合った一行ですが、ここから再び二手に分かれ、次に落ち合う先は越後堀ノ内村とします。
母堂一行は、善光寺参りに扮して草津温泉から渋峠を越えて越後を目指します。
夫人一行は、野反池(野反湖)から秘境・秋山郷を経て越後を目指します。

今、野反湖へ行く途中の道端に「小栗清水」という看板が立っていますが、夫人達はここで渇いた喉を潤したということです。

この後、越後へ向かう夫人一行に、運命ともいうべき出来事がやってきます。(続く)

「小栗上野介一族の悲劇」は著者・小板橋良平氏が、小栗夫人一行の辿った道を大変なご苦労をされて実地踏査されたものです。
本ブログ記事は、そのご苦労に感謝しつつ、氏の著作を参考にさせていただきました。)


  


Posted by 迷道院高崎at 09:15
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2013年02月17日

八重の桜と小栗の椿(3)

小栗夫人一行が「野反池」のほとりを通過したのは旧暦の閏四月十二日、新暦では六月二日となります。

レンゲツツジは咲いていたのでしょうか。

権田村から夫人一行を護衛してきた10人に加え、道案内や駕籠方・荷役方・牛方として地元民9名が、これから先の秘境・秋山郷越えの難所に挑みます。

小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」には、同行した地元民の子孫からの聞き書きとして、次のようなエピソードが記されています。

大倉峠の峰付近まで来たとき、山本芳五郎が酒手をゆする心算で、『ここから帰らせてもらう。』と帰るふりをしたら、夫人の家来が突然刀を抜いたので、
『おらあー、あんなおっかねえ思いをしたのは生まれて初めてだ!』と後に述懐したという。

また渋沢から山駕籠に乗って、佐武流山麓から障子峰近くを通行中、疲労と悄愴に加えて妊娠八ヶ月余りのため、ストレスは極限状態に達していたのであろう。
イライラした夫人が
『まだ秋山へは着かぬか。』突然駕籠の中から叫んだ。
『もうじきでがんす。』駕籠かきが答える。
また半刻もすると我慢に耐えきれぬように、
『まだ着かぬか。』
『はあ、じきでがんす。』
またしばらく行くと、
『まだ着かぬか。』
『はあ、じきでがんす。』
また暫く行くと、ますます夫人は苛立って、
『まだ着かぬか。』
『はあ、じきでがんす。』
すると怒った小栗夫人は、
『お前たちは妖怪変化か!』と言うなり、懐剣を抜いた。
山本芳五郎じいさんが、当時を振り返って話してくれたという。」

このように大変な山行の末、一行がやっと信州・和山温泉まで辿り着き、疲れを癒すことができたのは、閏四月十三日のことでした。
和山温泉で二泊した後、再び山道を潜行して越後に入り、反里口(そりぐち)で一泊します。

この頃、東山道副巡察使・原保太郎、豊永貫一郎が、高崎・安中・吉井藩の兵を率いて、三国峠を越え会津討伐に向かっているという情報が、小栗夫人一行にもたらされます。

そして夫人の護衛隊は、驚くべき行動に出るのです。(続く)



  


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2013年02月25日

八重の桜と小栗の椿(4)

会津藩と、官軍を名乗る西軍との戦いは、越後上州の国境・三国峠から始まります。

弱冠30歳の会津藩小出島奉行・町野源之助(主水)は、慶応四年(1868)閏四月十一日、三百名を率いて三国峠の上州側「般若塚」に陣を構えます。

しかし一向に西軍のやってくる気配がないので、町野は半数を一旦小出島に帰還させ、自身は三国峠に最も近い越後浅外宿に本陣を置いて待機していました。

十五日の夕刻、その町野源之助に面会を求めてやって来た一行があります。
小栗夫人一行の護衛を勤める佐藤銀十郎以下10名の面々でした。

銀十郎は、上野介無念の最後の様子、会津への逃避行の最中であること、三国峠に攻めてくる西軍が殿の憎き仇であること、町野の隊に加わりその仇討をしたいということを、切々と訴えたのです。

町野は、快くその申し出を受け入れます。
そのやりとりを、小板橋良平氏はこのように綴っています。

小栗上野介様には、我が会津藩は誠に多くの御恩を蒙っている。
フランスの万国博覧会に我が藩の横山主税、蝦名郡治両名が留学生として派遣された時も、小栗様が幕府の出品責任者として、何くれとなくお世話に相成ったことは、我が藩一同感謝致しておるところ。また長州征伐の折、苦心捻出した莫大な軍資金も小栗様のお力。
小栗様が江戸より上州権田へお引き上げになる前日も、我が藩の神尾鉄之丞と秋月悌次郎がお別れに参上し、万一の場合は会津へおいで願いたいという話もあったと聞く。
それにつけても奥方は・・・」

はい。奥方様や御母堂様それに若殿の許嫁者日下鉞(くさか・よき)様は、我等の隊長中島三左衛門以下九名の者が護衛して、ひと先ず新潟へ向かっております。
御母堂様の御夫君小栗忠高様が新潟奉行として赴任され、そして任地で病没されました。
そのご遺体が新潟の法音寺に埋葬されておりますので、その墓参をされてから会津城に向かう予定であります。
今頃は十日町か堀之内村に着いている筈でございます。」
(小栗上野介一族の悲劇)

原保太郎、豊永貫一郎率いる西軍が、太鼓を叩きながら上州永井宿に入ったのは、閏四月二十二日頃だったようです。
その手勢は、小栗上野介主従惨殺に関わった高崎・吉井・安中藩をはじめ、沼田・前橋・伊勢崎・七日市・佐野の諸藩、合わせて千三百余名といわれています。

二十四日、ついに戦いの火蓋が切って落とされます。
銀十郎らの運命やいかに!(続く)


  


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2013年03月03日

八重の桜と小栗の椿(5)

会津軍は、上州側から「般若塚」に通じる狭い道に、数多くの大木を伐り倒し、大きな石を並べ、また、大きな釘を打ちこんだ厚い板を裏返して道に置き、そこに枯れ草をかけて隠すなど、障害物を設置して敵に備えていました。

一方西軍は、雨のために予定していた進撃を中止し、宿営していた永井宿の村民の中から、地形に詳しい三人を選んで敵情を偵察させます。
西軍の豊永貫一郎は、偵察から戻った三人から会津軍の設置した障害物の話を聞き、夜の内に多数の人足たちを動員して、密かに取り除かせたとあります。(小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」)

ところが、この件について西軍側であった高崎「新編高崎市史」では、少し違った書き方になっています。
原(保太郎)と豊永は、斥候隊として四、五人の吉井藩士を選抜し、その指揮を原がとった。
彼らは草木の生い茂る峠の間道をひそかに進み、般若塚に布陣する会津藩兵の様子を入念に偵察した。」

また、それに続けてこんな記述もあります。
二十三日、原・豊永らは、諸藩の隊長を本陣に集め、般若塚攻撃の作戦会議を開いた。
そこへ上野巡察使大音龍太郎の参謀として活躍する牧野再龍(龍門寺住職)が、単独で姿をあらわし、本陣で原と豊永に会見した。
その後牧野は、ただ一人で峠の般若塚へ向かった。牧野は、会津兵が狙い撃ちするのをかわしながら般若塚に至る道路、あるいは般若塚に築かれた砲台の様子などを偵察して原と豊永に報告し、沼田へ引き揚げていった。」
牧野再龍は、安政二年(1855)三十六歳で箕輪龍門寺十九世住職に就任。勤王思想に傾倒していたため「勤皇坊主」とか「官軍坊主」と揶揄された。
大音龍太郎とのつながりについては、いずれご紹介したいと思うほどドラマチックである。

さて、慶応四年(1868)閏四月二十四日早朝、西軍は三隊に分かれて「般若塚」攻撃を開始します。
まず、「新編高崎市史」の記述で見てみましょう。
豊永の指揮する高崎藩と佐野藩が本道を進み、その後に沼田・前橋の部隊が続いた。この部隊の一部は、途中の風反道から本隊と分かれ、般若塚の後ろに回った。
そして、原の率いる吉井と佐野の藩兵が、横手の谷道から法師温泉に向かった。
本道を進み、般若塚へ正面攻撃を仕掛けようとする高崎藩兵らの進軍は、困難を極めた。それは道が狭いこと、さらにこの日は霧が特に深く、30cmほど前のものも確認できないほどであった。
それに加えて般若塚の手前には、数多くの障害物が横たわっていたので、それらの排除や迂回路の確保に手間取った。」

ということで、会津軍の設けた障害物を知ってはいたが、事前に取り除くことはしていなかったようです。

では、「小栗上野介一族の悲劇」の方で見てみましょう。
いくらか辺りが白んできた二十四日の早暁、昨夜の小雨も小糠雨に変わった。しかし十メートル先も見えない深い霧が、大般若塚の陣地に立ち込めていた。
すると霧で見えない本街道の寺窪方面から数発鉄砲を射ちかけて来た。すわ敵と銃座に着いたが、また暫く静かになった。敵の斥候が探りのために撃ったのだろう・・・と思った。
ところが、それから僅かの間に、正面、左の山の頂上、そして右の九重九曲りの三方から、霧で見えない大般若塚の陣を目がけて乱射して来る。
これに負けずに会津陣も応戦する。また、小栗歩兵も、ここぞとばかり、『われら小栗上野介の家臣なり、主君のかたき!』と霧の中から応射した。」

記述はそれぞれ違っていますが、いずれにしても、兵力や火器の圧倒的な差に加え、三方から攻め立てられた会津陣営は次第に追い詰められ、三国峠の頂上まで退き、さらに湯沢宿まで退却します。

そして翌二十五日には、小出島まで陣を引きます。

この戦いで、会津軍は町野源之助の弟で副大将の久吉(ひさよし:17歳)と、2名の藩士(ともに21歳)が戦死しています。
小栗歩兵の面々はみな無事でしたが、主君・上野介の仇を討てずに退くことは、さぞかし無念であったでしょう。

さてその頃、長州藩・山形有朋薩摩藩・黒田清隆を参謀とする会津征討軍は、越後国高田で海岸と山道の二手に分かれ、一隊は小栗夫人一行のいる堀之内村を経て小出島を目指していました。

小出島小栗歩兵と、堀之内村小栗夫人一行の運命は!
(続く)


  


Posted by 迷道院高崎at 21:48
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2013年03月10日

八重の桜と小栗の椿(6)

越後中条村に宿泊していた小栗夫人一行は、閏四月二十日、堀之内村へ向かいます。

ここには、和光原で分かれ渋峠越えのルートをとった母堂一行が宿泊していたからです。
実に十二日ぶりの再会を果たした訳ですが、身辺に迫る危機を察知した一行は、二十三日には堀之内村を発ち新潟へ向かいます。

尾張藩兵を主力とする西軍別動隊が堀之内村に進撃してきたのは、その翌日、二十四日のことでした。
まさに危機一髪。

辛くも堀之内村を脱出した小栗夫人一行は、二十四日新潟に入り、小栗上野介忠順の父で、母堂・くににとっては夫である小栗忠高の墓参をしています。
安政元年(1854)新潟奉行を命じられた小栗忠高は、単身で赴任したその翌年に病没、松樹山法音寺に埋葬されていました。
忠高が江戸を発ってから十六年目にして、初めて墓参が叶った母堂は、亡き夫とどのような言葉を交わしたのでしょうか。

一方、二十四日に般若塚での戦いに敗れ、小出島に戻った町野隊小栗歩兵は、小千谷陣屋から井深宅右衛門山内大学の援軍を得て、二百余名の勢力で西軍の襲来に備えていました。

その西軍、長州藩・山形有朋と薩摩藩・黒田清隆を参謀とする、北陸道鎮撫総督軍の主力は海道軍として柏崎へ、土佐藩・岩村精一郎率いる山道軍は、二十四日に堀之内村を、二十六日には小千谷六日町を占領します。

三国峠から会津町野隊を追ってきた東山道鎮撫総督軍原・豊永勢も、二十七日に六日町に入りますが、既に岩村隊が来ていたため、ここで上州諸藩とともに沼田城下へ戻りました。

さて、六日町方面から展開してきた山道軍七百余名は、小出島から二里上流の浦佐に本陣を置き、堀之内村の別動隊とともに小出島を睨んでいました。

そして二十七日未明、ついに西軍の小出島攻撃が開始されます。

「小出町歴史資料集」に掲載されている「太政官日誌」に、その戦闘の模様が記されています。
二十七日、大イニ雨フル、官軍小出嶋ヲ攻撃ス、小出嶋ノ賊ハ会津其他ノ精鋭ニシテ、其数多カラズト雖(いえど)も頗(すこぶる)屈強ナリ、
敵、駅(宿)ノ河岸南西ニ巨材ヲ並列セルアリ、恰(あたか)モ好堅塁タリ、
賊兵ニ拠リテ劇シク発砲ス、時ニ薩・長一部ノ兵ハ、魚野川ノ上流ヲ渡リテ進ム、賊ノ斥候ニ逢フテ之ヲ遂斥シ、直チニ小出嶋ニ向フ、然レドモ、佐梨川前ニ横ハリ容易ク侵入スルコトヲ得ズ、
賊兵砲丸ヲ発スコト雨ノ如シ、薩・長ノ兵算ヲ乱シテ倒ル、其状極メテ惨ナリ、
之ヨリ先官軍壮士数人ヲ遣ハシ、佐梨川ノ上流ヨリ駅ノ東ニ至リ、火ヲ人家ニ放タシム、炎エン天ニ漲ル、堀之内ヨリ進ミタル奇兵ハ、初メ、河ヲ隔テ砲戦セシガ、賊兵小出嶋ノ急ナルヲ顧ミ、遂ニ民舎ニ火シテ逃ル、乃チ河ヲ渡リ四日町村ニ至ル、
此ノ時、薩・長ノ兵ハ既ニ小出嶋ノ駅中ニ突入ス、賊兵抗戦シ、白刃相接シ、叫呼奮戦ス、忽チニシテ、鮮血潦々河ヲ為シ、死屍累々山ヲ為ス」

会津軍は少数ながらよく善戦しましたが、如何せん圧倒的な西軍との兵力の前に撤退を余儀なくされました。
この戦いで、会津軍十四名、西軍十六名が戦死しましたが、小栗歩兵はみな無事で、町野隊とともに六十里峠を越えて会津に退きます。

その前日、小栗夫人一行もまた、最終目的地・会津に向けて新潟を出発していました。

さあ、いよいよ、舞台は会津の地に転じます。
そこで、小栗夫人一行を待っていたのは・・・。(続く)


  


Posted by 迷道院高崎at 09:33
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2013年03月24日

八重の桜と小栗の椿(7)

慶応四年(1868)閏四月二十七日、小出島攻防戦のまさにその日、小栗夫人一行は酒屋村会津藩陣屋に入ります。

そこには、小栗上野介と旧知の仲である秋月悌次郎が、陣屋副元締として詰めていたのです。

すでに小栗家臣の池田伝三郎が先行し、この度の一件を伝えておいたので、秋月上野介一族の悲運に深く同情し、援助の手を差し延べることを約します。
直ちに家老・西郷頼母に向けて特使を送り、それを聞いた西郷は、迎えとして駕籠三挺と馬一頭を陣屋へ派遣してきました。

二十七日の夜、差し向けられた駕籠に母堂夫人そして(よき)が乗り、馬には中島三左衛門が跨って酒屋陣屋を出、二十八日の夕刻には若松城下の紙問屋「湊屋」に到着しました。
権田村を出てから二十四日間、身も心も休まることのない苦難の旅を続けてきた一行でしたが、やっと、ここで旅支度を解くことができたのです。
妊娠八ヶ月という身重の夫人には、筆舌に尽くしがたい大変な旅だったことでしょう。
また、その無事をお守りする護衛隊の苦労もまた、並大抵のものではなかったでしょう。

中島三左衛門池田伝三郎は、「湊屋」に着いたその足で、会津藩若年寄・横山主税(常忠)の家を訪ねます。
亡き殿・上野介から、「会津へ行って、駿河台の吾が家をよく訪れた横山主税殿を頼れ。」と言われていたからです。
「八重の桜」で国広富之さんが演じるのは江戸家老の横山主税(常徳)で、常忠の祖父。

慶応三年(1867)に開催された「第2回パリ万国博覧会」に、幕府の特使として徳川昭武(慶喜の弟)以下28名が派遣されました。

その中に、留学生という名目で会津藩海老名季昌(24)と横山主税(20)がおり、彼らには、西洋の視察とくに教養と礼儀などを詳しく学ぶことが命じられていました。
その二人を推挙したのが、パリ万博出品責任者でもあった勘定奉行・小栗上野介だったのです。

さて、中島三左衛門池田伝三郎横山主税の屋敷を訪ねた時、主の主税は、西軍の攻撃に備えるべく西郷頼母と共に白河城(小峰城)に入っていました。
横山邸の留守を預かっていたのは、主税の祖母と母そして夫人と二歳の長男だけでしたが、小栗夫人一行を温かく迎え入れてくれました。

月が明けて五月朔日、薩摩藩士・伊地知正治(いぢち・まさはる)を参謀とする西軍700名は、奥羽越同盟軍2500名が守備を固める白河城へ攻撃を開始します。

西軍の巧妙な囮作戦により、三方から包囲攻撃を受けることとなった稲荷山に、自ら采配を振るわんと駆け上った横山主税は、敵弾を受けて壮絶な戦死を遂げてしまいます。

7時間に及ぶ激戦が終わってみると、西軍の死傷者20名ほどに対し、同盟軍の死傷者は約700人。
結果は西軍の圧倒的な大勝利となり、その後の戊辰戦争に大きな影響を与えていくこととなります。

激戦を物語るように、戦死した横山主税の遺骸を収拾することもできず、斬り取った首級だけが横山邸へ帰還します。
夫の首級を迎える主税夫人の悲しむ姿に、小栗夫人一行もまた涙したことでしょう。

要衝・白河城が西軍の手に落ちたことで、いよいよ若松城下にも危機が迫って参りました。
小栗夫人一行の運命やいかに。(続く)

(参考図書:「小栗上野介一族の悲劇」)




  


Posted by 迷道院高崎at 07:47
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2013年03月31日

八重の桜と小栗の椿(8)

大河ドラマのひと足先を進む、「八重の桜と小栗の椿」です。

横山主税が慶応四年(1868)五月朔日の白河の激戦で戦死してしまったことにより、そこに身を寄せていた小栗夫人一行は、西郷頼母の計らいによって、南原野戦病院へ入ったといいます。
(小板橋良平氏著「小栗上野介一族の悲劇」)

南原は、会津若松城から南へ10kmほどの所で、直接の戦場にはならなかったようです。

小板橋氏によると、小栗夫人が野戦病院へ入ったのは五月下旬であったろうということです。

まさに産み月となっていた小栗夫人は、六月十日この野戦病院で無事出産の日を迎えます。
女児でありましたが、まぎれもなく小栗上野介の血を受け継ぐ、ただ一人の実子誕生でありました。
その子は、母堂・くにの名をそのままもらい、クニと名付けられました。(あるいは国子とも)

乳飲み子を抱え、産後の養生も必要な小栗夫人は、戦火が迫るのを感じながらも、どこへ逃れることもなりません。
次々と運び込まれる負傷者を見ながら、この野戦病院で不安な日々を送ったのでありましょう。
その間、夫人護衛隊長の中島三左衛門と数人を残して、小栗歩兵達は再び会津の諸隊に加わって戦いに参加します。

列藩同盟軍は、相次ぐ白河城奪還の失敗、二本松城の陥落など西軍にじわじわと押され続け、八月二十一日に母成峠の戦いに敗れると、ついに西軍の若松城下進攻を許してしまいます。
白虎隊の少年74名が城内に招集されたのは、その翌日のことでした。
そして二十三日、籠城を指令する鐘の音が城下に鳴り響きます。
山本八重がスペンサー銃を携えて城内に入ったのは、まさにこの時です。

小栗歩兵達が加わった諸隊は会津各地で西軍と戦っていましたが、命を落とす者も出ました。
塚越冨五郎(23歳) 西海枝(さいかち)村一竿にて
佐藤銀十郎(21歳) 熊倉村にて

会津若松城は、ひと月もの間よく耐えましたが、九月十四日の総攻撃を受けて遂に堪らず、二十二日追手門先に白旗が立てられ、開城することとなります。

さてこの後、小栗夫人一行と小栗歩兵はどうなっていくのでしょうか。(続く)




  


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2013年04月07日

八重の桜と小栗の椿(9)

さて、前回は会津若松城が西軍の手に落ちて、乳飲み子を抱えた小栗夫人はいったいどうなるのか、というところまででした。

六月十日に出産を終えた小栗夫人は、しばらく南原野戦病院で養生していたであろうと推測されますが、若松城陥落後どこでどうしていたかは定かでないようです。
しかし、どうやら会津の地で年を越し、翌明治二年(1869)春に江戸へ向かったことは間違いなさそうです。

早川珪村(はやかわ・けいそん)という人が、郷土雑誌「上毛及上毛人」(上毛新聞社)に、大正十一年(1922)二月から11回にわたって連載記事「小栗上野介忠順」を執筆していますが、中島三左衛門と娘・さいから直接聞いた話を、次のように記述しています。
會津藩降伏騒亂鎮定後も尚滯留し、翌明治二年早春江戸に歸らんと會津を發したるも、道路險惡なる上、寒氣も亦峻烈、而して一般の人氣殺氣を帶び、婦女子同行の爲め人夫等に不當酒代等を強請せられたる事數回なり、」

本名:愿次郎、嘉永六年(1853)群馬郡台新田村名主・小池又兵衛の三男として誕生、後に群馬郡与六分村の早川家へ婿入りする。明治十九年(1886)高崎驛宮元町に移り、漢学を学ぶ。後に自分の目と耳で調べた上州の歴史を、早川珪村のペンネームで発表するようになる。
昭和四年(1929)没、享年77歳。

小栗夫人・みちと嬰児・クニ、高崎で処刑された養子・又一の許嫁・(よき)、そして母堂・くに、それを護って同行した中島三左衛門とその娘・さい塚越源忠中沢兼五郎、総勢八名。
江戸へ向かう道中もまた艱苦に満ちたものであったことが、珪村の文から読み取れます。

ようやっとたどり着いた懐かしい江戸東京と改名され、主君であった徳川慶喜駿府城へ隠居、東京城と改名された江戸城の主は天皇となり、敵であった西軍の首脳が支配していました。

小栗夫人は、生家である神田明神下の建部家へ立ち寄りますが、新政府の目を恐れて受け入れてもらうことができません。
自邸であった駿河台の屋敷には、土佐藩士・土方楠左衛門久元が住んでいるという、悲しい有様でした。

余談ですが、小栗邸には日本で最初の洋館がありました。
安政二年(1855)に起きた大地震江戸大火を経験した上野介は、安政七年(1860)遣米使節目付役としてアメリカへ渡った時、それらの災害から守るには日本の木造建築よりも西洋の石造りの建築が良いと考えたのです。

帰国してから、おそらくモデルハウスとしたかったのでしょう、石材と煉瓦を使った強固な洋館を自邸内に造ったのです。
ただ、攘夷論者からの反発を考慮してか、「洋館」とは呼ばず、「石倉」と呼んでいたそうですが。

土方久元は、その「石倉」がひどく気に入ったと見え、江戸城開城の際、小栗邸を接収して前哨本部として使用、そのまま個人の所有にしてしまいます。
ところが、夜な夜な上野介の亡霊が現れて久元を悩ますので、「官軍」と書いた護符をあちこちに貼り付け、供養を行いながら住んだというのですが、さて、どうだったんでしょう。
久元は、後に小石川に転居するのですが、「石倉」をそのまま移築したといいますから、上野介の亡霊もさぞかし唇噛んで悔しがったことでしょう。閑話休題。

さてさて、関東・東北をぐるっと回って江戸へ戻った小栗夫人ですが、いまだ安住の地に辿り着けません。
あともう少し、この話にお付き合いくださいませ。(続く)



  


Posted by 迷道院高崎at 10:55
Comments(4)小栗上野介

2013年04月14日

八重の桜と小栗の椿(10)

寄る辺なき江戸に留まることもできず、小栗夫人一行は静岡を目指して再び旅を続けます。
静岡には、小栗家に養子となった又一忠道の実父・駒井甲斐守朝温(ともあつ)が、徳川慶喜に従って移り住んでいたからです。

「上毛及上毛人」の中で、早川珪村氏はこう記述しています。
三左衛門隨從し静岡に至り駒井家と交渉し、忠順の遺子幼少殊に女子なるを以て、又一忠道の實弟某をして假に小栗家を相續せしめ、將に斷絶に瀕せる家名を繼續するを得たり」

本当なら、養子として迎えた忠道小栗家を継ぐはずでしたが、西軍により高崎の牢屋敷で斬首されてしまいました。
三左衛門が交渉したというのは、遺児・クニ(国子)が結婚するまでの間、忠道の実弟・忠祥(たださち)に小栗家を仮に相続してもらい、ともかく家名断絶だけは避けたいということでした。
三左衛門の懇願により、相続は認められることとなり、辛うじて小栗家は断絶を免れたのです。

そうこうする内、小栗夫人らの苦難な生活の様子が、三井の大番頭・三野村利左衛門の耳に届きます。

利左衛門は、駿河台の小栗家に仲間(ちゅうげん)として奉公したことがあり、それがきっかけで三井の大番頭にまで上り詰めた人物です。
※詳しくはこちらをどうぞ。
  三野村利左衛門

利左衛門は、東京深川三野村家別荘を、小栗夫人一家の住まいとして提供することを申し出ます。
もちろん、生活費一切の面倒も見ようというのでしょう。
中島三左衛門は大いに喜び、夫人らを深川まで護衛し、三野村利左衛門の手に送り届けました。

夫人らが住む家を確認して安心した三左衛門は、夫人らに別れを告げ、娘・さい小栗歩兵と共に、一年ぶりに故郷権田村へ帰ることができました。
権田村に戻った時の彼らの姿は、乞食同然であったといいます。
命令に依ったのでもなく、報酬を期待したのでもなく、数々の危険に身を晒しながら、夫人一行を護って困難な旅を続けた彼らの責任感の強さには、心底感服し、また深い感動を覚えます。

三野村利左衛門は明治十年(1877)57歳で亡くなりますが、その後も小栗夫人らは三野村家で面倒を見たようです。
しかし、その8年後の明治十八年(1885)、小栗夫人・みちは48歳の若さでこの世を去ります。
遺児・クニは、数えで18歳になっていました。

ひとり残されたクニを引き取ったのが、小栗上野介の従妹・アヤ子が嫁いでいた大隈重信でした。
そして、大隈重信夫妻が手はずを整え、前島密が媒酌人を引き受けて、20歳になったクニ矢野貞雄氏を婿に迎え、貞雄氏が小栗家第十四代の当主となります。
明治三十一年(1898)には、めでたく長男・又一が誕生し、小栗家の血筋が現在まで繋がっていくことになります。

因みに小栗家第十七代となるのは、上野介の玄孫にあたる漫画家・小栗かずまた(本名・又一郎)氏です。

上毛新聞社発行の雑誌「上州風」2001秋号に、かずまた氏が倉渕村を訪れた記事が載っています。

その中に、こんな話が書かれていました。
かずまたさんが、小栗上野介を知ったのは中学生のとき。
埋蔵金についてテレビで騒がれていたころ、父親から『うちの先祖の話だぞ』と教えられたという。
そして、初めて来村した時に、終焉の地・倉渕村に碑があることを知った。」

かずまた氏は、こう語っています。
小栗上野介は、完璧なエリート。あらゆる才能に恵まれ過ぎたため嫉妬も多かったのだと思う。
村の人たちは小栗公のすごさを理解し遺族を守ってくれた。だからこそ、今の僕がいるんですね。遠い昔の出来事で実感はありませんが、感謝したいです。」

大河ドラマ「八重の桜」も、そろそろ戊辰戦争に入っていくようです。
どうぞ、小栗上野介の罪なき斬首と、夫人一行の苦難の逃避行のことも重ね合わせながら、ご覧くださいますようお願い致します。

これにて、「八重の桜と小栗の椿」一巻の終わりと致します。
長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。




  


Posted by 迷道院高崎at 09:02
Comments(13)小栗上野介

2014年04月06日

例幣使街道 寄道散歩(5)

昭和五年(1930)発行の「上毛及上毛人」第153号に、故人早川圭村として「小栗父子の墓所に就て」という一文が掲載されています。

「小栗父子の墓所に就て」という表題ではあるものの、その内容は異なる3つの話しになっており、その内のひとつが、これからご紹介する「高崎本町に伝わる、味噌樽に隠された小栗上野介の二分金」の話しです。

では、抜粋でお読みください。
小栗父子の處斷せらるゝや所有物品は官軍の占領する所となり、家具その他の物品は權田村にて賣却せられたるが、高崎市本町三丁目飛彈屋(ひだや)事(こと)岩崎源太郎は家具の一部と味噌數十樽とを買取りたるに、其の味噌樽の底に無數の二分金が納めありたる爲め、俄かに富有となりたるも小栗の爲に一回の追善供養をも修せざりしと云へるが、其の後奇禍屢々(しばしば)ありて數年ならずして亦(また)元の赤貧となりたり」

小栗上野介忠順は慶応四年(1868)閏四月六日(太陽暦:5月27日)水沼河原で斬首され、養嗣子・又一もまた弁明のために赴いた高崎城下で、閏四月七日に斬首されます。

東善寺を襲った暴徒同様、新政府軍も、上野介が江戸から運んだ多額の軍資金が寺に隠されていると考えたようです。
上野介斬首後ただちに軍資金の隠し場所と思しきところを探索したものの発見する事はできず、代わりに鉄砲や刀などの軍装品、珍品などを押収して、上野介の首級とともに高崎安国寺に運び込みます。
おそらくそれらの珍品は、高崎に駐屯していた大音龍太郎など新政府軍の者たちが私したのでしょう。

さらに、東善寺に残した上野介の家財道具・雑物は、払い下げて金に換えようと考えます。
この払い下げに参加したひとりが、高崎宿本町の肴渡世・飛騨屋岩崎源太郎です。
源太郎は天保六年(1835)生まれということなので、この時、33歳でした。

源太郎は、勘定奉行までした小栗上野介の家財・雑物と聞いて、さぞかし珍品があるだろうと期待していたのでしょうが、目ぼしいものは既に新政府軍に持ち去られた後でした。
それでも、味噌なら店で売ることもできるだろうと、数十樽を買い取って帰ってきたのです。
もちろん、その味噌樽の中に二分金が隠されていようとは、夢にも思わずにです。

権田村から戻ってきた源太郎の店に、近くの蝋燭屋・清水元七が早速やってきます。
「殿様が食ってた江戸の味噌じゃ、さぞうまかんべえ。」と思ったのでしょう、二樽買い込んで帰ります。

その時の状況を、早川珪村はこう記しています。
其の時、同町の蠟燭淸水事(こと)淸水元七も飛彈源より味噌二樽の分買爲したるに、其のなかより巨多の二分判を發見せるを以て猶數樽の買受方を申込みたるも、飛彈源方にても已(すで)に二分判の在ることを發見したる後なれば需(もと)めに應ぜざりしと云へるが、淸水元七の家も不幸續きにて高崎にも住み難くなり東京に出でたる由なるが、今は如何なりしや知る人もなきに至れり。」

元七が帰った後、源太郎も味噌を掬い出そうとして初めて、中に隠し込まれた二分金を発見したようです。

そこへ、先ほどの清水元七「あと数樽売ってくれ。」とやってきます。
元七も味噌樽の中の二分金を見つけたのに違いありません。
すでにその理由を知る源太郎は、何と言って断ったのか分かりませんが、求めに応じなかったという訳です。

その後の源太郎について珪村は、「俄かに富有となりたるも、・・・數年ならずして亦元の赤貧となりたり」と言っています。

明治十八年(1885)発行「上州高崎繁栄勉強一覧」の上位に、「本丁(町)魚 飛彈屋源太郎」の名が見えます。

思いがけず手に入れた上野介の二分金が、家業を大きくする資金となったのでしょうか。
二分金が通用したのは、明治七年(1874)までだったそうですが。

さらに時を経た明治三十年(1897)発行の「高崎繁昌記」には、岩崎源太郎「飛騨屋」の他に2軒の「飛騨屋」が登場します。

きっと、支店か暖簾分けをした店なんでしょうね。
こうしてみると、珪村のいう「數年ならずして亦元の赤貧となりたり」というのは、どこまで真実なのか分からなくなります。

実は、岩崎源太郎は明治十九年(1886)52歳で他界し、赤坂町恵徳寺に葬られています。

後継ぎのいなかった源太郎は、越後で農業をしていた甥の森田増吉を養子に迎え、二代目源太郎として店を相続させていたのです。

ですので、明治三十年の「高崎繁昌記」に載っている岩崎源太郎は、二代目ということになります。

しかし、明治三十七年(1904)発行の「群馬縣榮業便覽」になると、岩崎源太郎の名前は見えなくなります。
二代目・源太郎も、明治三十三年(1900)に50歳の若さで急逝しているからです。

田原金次郎米木常吉は引き続き塩魚・乾物を商っていますが、「飛騨屋」の屋号は書かれていません。

本家がなくなって、そのまま屋号を使う訳にいかなかったのかも知れません。

それにしても、早川珪村はなぜこの一文を生前に投稿しなかったのでしょうか。
「上毛及上毛人」主宰の豊国覺堂が、文末に追記したこの一文が、何となくその理由を示唆しているような気がします。
覺堂曰、此稿は大正四五年の頃になりしものなるべし。
筆者(珪村)が小栗研究に没頭せしは明治四十二三年の頃よりと記憶す。當時吾等と數々談し合ひたる事あるなり。」

相当前に投稿されていたことが分かります。
何事も綿密な取材を行う珪村のことですから、きっと生き証人への聞き取りも重ねて投稿したことでしょう。
にもかかわらず、覺堂等編集者が話し合いをして、発表を控えたという風にとれます。
当時まだ実在する関係者への配慮があったのかも知れません。
あるいは、推測を含む内容が、常に検証を重んじる珪村の名を傷付けることを、危惧したのかも知れません。
その珪村も亡くなり、時代も昭和に入ってほとぼりも冷めたということで、抑えていた投稿文の発表に踏み切ったのではないでしょうか。

いずれにしても、あまり知られていないこの話、後世に語り継ぐことも必要だと思いました。

さて、次回からはまた、例幣使街道の散歩に戻るとしましょうか。

(参考図書:河野正男氏著「小栗上野介をめぐる秘話」)



  


Posted by 迷道院高崎at 08:23
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