昨年の6月に、「高崎唱歌散歩-33番 ♪寿橋を過ぎ行けば・・・」という記事で、高崎の老舗料亭・岡源について書いたことがあります。
その中で「前橋の馬場川通りにも支店があった」と書いたのですが、その記事を見た方からつい最近こんなメールを頂戴しました。
願ってもないお話で、ぜひという返事をさしあげたところ、早速にご祖母様から聞いたという昔話を教えて頂きました。
お話によると、東京に住んでいた高祖母・小林志づさんが高崎の岡源に奉公に入り、頑張ってのれん分けをされて開いたのが、「前橋岡源」だということです。
見せて頂いた戸籍簿によると、志づさんは明治十一年(1878)小林定次郎、てい夫妻の三女として、東京市芝区愛宕下町に生まれています。
志づさんが「前橋岡源」を開いたのがいつなのかは分かりませんが、明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には「岡源支店」の名前が見えます。
これを見ると、事業主は「岡田しづ」となっていますので、志づさんは「高崎岡源」の岡田氏と婚姻していたようです。
「ふるさとの想い出写真集 前橋」に、明治四十三年(1910)の「前橋岡源」の写真が載っています。
しかしその後、志づさんは岡田氏と離婚して前橋の鯨井国蔵と一緒になりますが、それも大正十一年(1922)には離婚して小林姓に戻っているようです。
「岡源」の事業主も大正四年(1915)には「鯨井しづ」、昭和八年(1933)には「小林しづ」となっています。
志づさんにはお子さんがいなかったのでしょうか、鯨井国蔵と離婚したその年に、東京市四谷区坂町の田原金太郎、リユウ夫妻の三男・芳雄を養子に迎えています。
そして小林姓になった芳雄に、大正十三年(1924)前橋市一毛町岡田大助、あき夫妻の長女・てるを娶ります。
芳雄は明治三十三年(1900)、てるは明治三十七年(1904)の生まれです。
メールをくださった拓一さんのお話では、てるさんの父・大助さんには借金があって、毎日借金取りが来るので、てるさんはそれが嫌で一念発起し、「前橋岡源」で頑張って働いたと聞いているそうです。
その頑張る姿を見て、志づさんは嫁に取ったんでしょうね。
その後、志づさんとてるさんは力を合わせて、「前橋岡源」を隆盛させたということです。
昭和に入ってからの「前橋岡源」の掲載広告です。
昭和六年(1931)の「前橋商工案内」の広告には、「新築新装落成」「余興場の設備完成」と書かれています。
隆盛を極めていた「前橋岡源」ですが、戦争は老舗料亭にも容赦なく禍をもたらします。
昭和二十年(1945)八月五日の前橋大空襲で、「前橋岡源」も焼失してしまいます。
拓一さんのメールをご覧頂きましょう。
再建された新岡源の場所は、旧岡源の馬場川を挟んだ反対側、現・アーツ前橋の所です。
拓一さんに昔話をしてくれたご祖母・節さんが、「前橋岡源」に働きに来たのは昭和二十四年(1949)のことだそうです。
現在95歳、ご健勝でいらっしゃいます。
その後の「前橋岡源」は、経営を多角化していきます。
前橋の住宅地図によって、その変遷を見てみましょう。
長い歴史を有する「前橋岡源」も、昭和六十二年(1987)頃その幕を閉じたようです。
そして、その場所は昭和六十三年(1988)に「西友WALK館」となり、平成二十五年(2013)に「アーツ前橋」となって現在に至ります。
多角経営中の面白いエピソードも聞かせて頂きました。
貴重なオーラルヒストリーでした。
前橋の歴史にはとんと疎い迷道院高崎ですが、おかげさまで少し勉強することができました。
ありがとうございました。
その中で「前橋の馬場川通りにも支店があった」と書いたのですが、その記事を見た方からつい最近こんなメールを頂戴しました。
「 | はじめまして、小林と申します。 |
私の祖母が前橋岡源で働いていて、そこの長男と結婚し、祖母から昔話をよく聞いていたので、岡源にまつわる情報を調べています。 | |
昨日今日、岡田家の古い戸籍を前橋市役所で入手いたしました。 母方の曾祖母、小林(旧姓岡田)てるさんとのつながりがあります。 |
|
もしよければ、岡源に関する情報を共有して頂けると助かります。」 |
願ってもないお話で、ぜひという返事をさしあげたところ、早速にご祖母様から聞いたという昔話を教えて頂きました。
お話によると、東京に住んでいた高祖母・小林志づさんが高崎の岡源に奉公に入り、頑張ってのれん分けをされて開いたのが、「前橋岡源」だということです。
見せて頂いた戸籍簿によると、志づさんは明治十一年(1878)小林定次郎、てい夫妻の三女として、東京市芝区愛宕下町に生まれています。
志づさんが「前橋岡源」を開いたのがいつなのかは分かりませんが、明治三十七年(1904)の「群馬県営業便覧」には「岡源支店」の名前が見えます。
これを見ると、事業主は「岡田しづ」となっていますので、志づさんは「高崎岡源」の岡田氏と婚姻していたようです。
「ふるさとの想い出写真集 前橋」に、明治四十三年(1910)の「前橋岡源」の写真が載っています。
しかしその後、志づさんは岡田氏と離婚して前橋の鯨井国蔵と一緒になりますが、それも大正十一年(1922)には離婚して小林姓に戻っているようです。
「岡源」の事業主も大正四年(1915)には「鯨井しづ」、昭和八年(1933)には「小林しづ」となっています。
志づさんにはお子さんがいなかったのでしょうか、鯨井国蔵と離婚したその年に、東京市四谷区坂町の田原金太郎、リユウ夫妻の三男・芳雄を養子に迎えています。
そして小林姓になった芳雄に、大正十三年(1924)前橋市一毛町岡田大助、あき夫妻の長女・てるを娶ります。
芳雄は明治三十三年(1900)、てるは明治三十七年(1904)の生まれです。
メールをくださった拓一さんのお話では、てるさんの父・大助さんには借金があって、毎日借金取りが来るので、てるさんはそれが嫌で一念発起し、「前橋岡源」で頑張って働いたと聞いているそうです。
その頑張る姿を見て、志づさんは嫁に取ったんでしょうね。
その後、志づさんとてるさんは力を合わせて、「前橋岡源」を隆盛させたということです。
昭和に入ってからの「前橋岡源」の掲載広告です。
昭和六年(1931)の「前橋商工案内」の広告には、「新築新装落成」「余興場の設備完成」と書かれています。
隆盛を極めていた「前橋岡源」ですが、戦争は老舗料亭にも容赦なく禍をもたらします。
昭和二十年(1945)八月五日の前橋大空襲で、「前橋岡源」も焼失してしまいます。
拓一さんのメールをご覧頂きましょう。
「 | 祖母によると空襲後は直ぐに前橋岡源を再建する状況になく、現朝日町、旧百間町へ引っ越したそうです。 仕事をできる状況になく、朝日町で過ごさざるを得なかったようです。 |
終戦後2,3年経って、てるさんは古材でも何でもいいからと、岡源を再建したとのことです。 | |
てるさんは桂離宮がとても好きで、同じような部屋をつくった。 洋館もあり、進駐軍が来てダンスをしていた。 昭和二十八年に宮様がお越しになられ、そのために檜風呂等を新しくした。 |
|
次男の英男さんが、東京の料亭で修行した後、前橋岡源で働くようになりました。 英男さんは味覚がよく、料亭のメニューを作るのに長けていました。 食料が普通に手に入らなく、てるさんがお客を頼って闇市から酒や食料を仕入れて商売をしていた。」 |
再建された新岡源の場所は、旧岡源の馬場川を挟んだ反対側、現・アーツ前橋の所です。
拓一さんに昔話をしてくれたご祖母・節さんが、「前橋岡源」に働きに来たのは昭和二十四年(1949)のことだそうです。
現在95歳、ご健勝でいらっしゃいます。
その後の「前橋岡源」は、経営を多角化していきます。
前橋の住宅地図によって、その変遷を見てみましょう。
年度 | 営業内容 |
昭和34年 | 岡源、前橋ゴルフガーデン |
昭和41年 | 岡源、美家古鮨(店舗貸)、馬場モータープール |
昭和43年 | レストラン岡源、美家古鮨、馬場モータープール、前橋スカイレーン(ボウリング場)、前橋バッティングセンター |
昭和45年 | レストラン岡源、美家古鮨、馬場モータープール、前橋スカイレーン |
昭和56年 | レストラン岡源、馬場モータープール、前橋スカイレーン、フェニックス群馬(台湾雑貨) |
昭和59年 | レストラン岡源、フェニックス群馬、オカゲンパーキング |
昭和62年 | 記載なし |
長い歴史を有する「前橋岡源」も、昭和六十二年(1987)頃その幕を閉じたようです。
そして、その場所は昭和六十三年(1988)に「西友WALK館」となり、平成二十五年(2013)に「アーツ前橋」となって現在に至ります。
多角経営中の面白いエピソードも聞かせて頂きました。
「 | 前橋バッティングセンターとゴルフ場、馬場モータープールは、(拓一さんの)大叔父・雄三さんが経営していた。 |
美家古鮨は岡源が場所を貸していた。 一部屋貸してほしいという人がそこに住みつつ岡源の手伝いをしていた。 良い人でもあったので寿司屋の場所を貸した。 |
|
フェニックス群馬は大叔父の英男さんが経営をしていて、台湾雑貨を扱っていた。 てるさんには、『変なものばかり台湾から買って来て』と叱られていた。」 |
貴重なオーラルヒストリーでした。
前橋の歴史にはとんと疎い迷道院高崎ですが、おかげさまで少し勉強することができました。
ありがとうございました。