夏の間、草に覆われ尽くしてその姿を見られない「聖石」が、冬から春にかけて、その姿を現します。
と言っても、石の上にある赤い鳥居がなければ、なかなか見つけることは出来ませんが。
その鳥居と「水神様」と言われている石碑がいつごろ建てられたのか、ずっと気になっていました。
私が子どもの頃はなかったんです。
過去記事に、鳥居も石碑もなかった頃の写真があります。
◇聖石が見えてます!
「水神様」の碑を見れば、建立された日が分かるはずなのですが、それは中州にあるので川を渡らなくてはなりません。
ずっとためらい続けていたのですが、1月のある日、意を決して川を渡ってみることにしました。
「聖石」が見える時期はちょうど水の少ない時期になります。
子どもの頃、川を渡る「川越え」とか「川越し」とかいう遊びがあって、がき大将が先頭に立って「波のたってる所を渡るんだぞ。」って、チビどもを先導してましたっけ。
波のたってないところは深いから危ないというんですね。
そんなことを思い出しながら川を越え、無事「聖石」にたどりつきました。
昔から見ると、ずいぶん土砂に埋もれてしまった感じです。
さっそく碑を確認してみます。
「水神」の文字は、堀越呼雲の書でした。
呼雲は、明治四十四年(1911)高崎市江木村の村長・堀越子之平とさくの四男として生まれました。
本名は悦太郎、高崎中学校を卒業後、日本大学商科に進み、卒業後中国へ渡り、敗戦まで北京に居住して中国全土を歴訪して金石学・金石文・法帖を研究したという書家です。
気になっていた碑の建立年月は昭和三十五年(1960)十一月、建立者は高崎冷蔵株式会社社長・須藤剛となっていました。
鳥居の柱にも銘版があったので、それも確認してみました。
すると、昭和三十四年(1959)三月吉日となっていて、どうやら先に鳥居を建てて、その8ヶ月後に碑を建てているんですね。
「高崎冷蔵株式会社」は昭和九年(1934)高橋鎌太郎により創業。(高崎商工人名録、越・佐傑人譜)
八島町の「ピカデリー」のそばにありました。
その「高崎冷蔵㈱」が、なぜ「聖石」に「水神様」を祀ったのか。
これがどうも分からないんです。
「高崎冷蔵㈱」は既になく、社史のようなものも残っておらず、当時の新聞にも「広報高崎」にもそれに関する記事は載っていませんでした。
となれば、もう、迷道院が勝手な推測をさせて頂くしかないでしょう。
「聖石」に鳥居が建つひと月前、聖石橋で悲しい事故が起きています。
鳥居は、この少年の慰霊と、このような悲劇が二度と起きぬようにと祈念して、建てられたのではないでしょうか。
しかしその願いも虚しく、鳥居建立の翌月、またもや聖石橋上で事故が起きてしまいます。
記事の最後に県の土木出張所が、「事故は橋が狭いからではなく、通行人や自動車の不注意だ。今のところ改修の予定は全然ない。」と言ってますが、10年後の昭和四十五年(1970)ようやく「聖石橋」に歩道が設けられました。
また、「聖石」の下流には「あやめがフチ」という「魔の渕」があり、大勢の人が犠牲になっているそうです。
昭和三十四年(1959)四月に少年四人の命を奪った崖崩れがあった場所も、この「あやめがフチ」だそうです。
水を司る「水神様」を祀ったのは、その様な悲惨な水難事故の防止を願ってのことだったのではないかと思うのですが、さぁ、どうなんでしょう。
さて、「聖石」にはむかし舟をつなぎとめていた時の穴が開いていたようです。
いま、それはどうなっているんでしょう。
辛うじて痕跡を残していました。
どなたかが、塩ビ管を入れてモルタルで固定して下さっていますが、きわどい状態ですね。
「聖石」の上流側の土砂は、水の勢いで深くえぐれています。
この先、「聖石」はどうなってしまうのか、心配になってきました。
何とかならないものでしょうか。
と言っても、石の上にある赤い鳥居がなければ、なかなか見つけることは出来ませんが。
その鳥居と「水神様」と言われている石碑がいつごろ建てられたのか、ずっと気になっていました。
私が子どもの頃はなかったんです。
過去記事に、鳥居も石碑もなかった頃の写真があります。
◇聖石が見えてます!
「水神様」の碑を見れば、建立された日が分かるはずなのですが、それは中州にあるので川を渡らなくてはなりません。
ずっとためらい続けていたのですが、1月のある日、意を決して川を渡ってみることにしました。
「聖石」が見える時期はちょうど水の少ない時期になります。
子どもの頃、川を渡る「川越え」とか「川越し」とかいう遊びがあって、がき大将が先頭に立って「波のたってる所を渡るんだぞ。」って、チビどもを先導してましたっけ。
波のたってないところは深いから危ないというんですね。
そんなことを思い出しながら川を越え、無事「聖石」にたどりつきました。
昔から見ると、ずいぶん土砂に埋もれてしまった感じです。
さっそく碑を確認してみます。
「水神」の文字は、堀越呼雲の書でした。
呼雲は、明治四十四年(1911)高崎市江木村の村長・堀越子之平とさくの四男として生まれました。
本名は悦太郎、高崎中学校を卒業後、日本大学商科に進み、卒業後中国へ渡り、敗戦まで北京に居住して中国全土を歴訪して金石学・金石文・法帖を研究したという書家です。
(堀越呼雲のすべて)
気になっていた碑の建立年月は昭和三十五年(1960)十一月、建立者は高崎冷蔵株式会社社長・須藤剛となっていました。
鳥居の柱にも銘版があったので、それも確認してみました。
すると、昭和三十四年(1959)三月吉日となっていて、どうやら先に鳥居を建てて、その8ヶ月後に碑を建てているんですね。
「高崎冷蔵株式会社」は昭和九年(1934)高橋鎌太郎により創業。(高崎商工人名録、越・佐傑人譜)
八島町の「ピカデリー」のそばにありました。
その「高崎冷蔵㈱」が、なぜ「聖石」に「水神様」を祀ったのか。
これがどうも分からないんです。
「高崎冷蔵㈱」は既になく、社史のようなものも残っておらず、当時の新聞にも「広報高崎」にもそれに関する記事は載っていませんでした。
となれば、もう、迷道院が勝手な推測をさせて頂くしかないでしょう。
「聖石」に鳥居が建つひと月前、聖石橋で悲しい事故が起きています。
鳥居は、この少年の慰霊と、このような悲劇が二度と起きぬようにと祈念して、建てられたのではないでしょうか。
しかしその願いも虚しく、鳥居建立の翌月、またもや聖石橋上で事故が起きてしまいます。
記事の最後に県の土木出張所が、「事故は橋が狭いからではなく、通行人や自動車の不注意だ。今のところ改修の予定は全然ない。」と言ってますが、10年後の昭和四十五年(1970)ようやく「聖石橋」に歩道が設けられました。
また、「聖石」の下流には「あやめがフチ」という「魔の渕」があり、大勢の人が犠牲になっているそうです。
昭和三十四年(1959)四月に少年四人の命を奪った崖崩れがあった場所も、この「あやめがフチ」だそうです。
水を司る「水神様」を祀ったのは、その様な悲惨な水難事故の防止を願ってのことだったのではないかと思うのですが、さぁ、どうなんでしょう。
さて、「聖石」にはむかし舟をつなぎとめていた時の穴が開いていたようです。
いま、それはどうなっているんでしょう。
辛うじて痕跡を残していました。
どなたかが、塩ビ管を入れてモルタルで固定して下さっていますが、きわどい状態ですね。
「聖石」の上流側の土砂は、水の勢いで深くえぐれています。
この先、「聖石」はどうなってしまうのか、心配になってきました。
何とかならないものでしょうか。
【聖石】