さて、ここで「実政の渡し」についておさらいをしておきましょう。
文献によって微妙な食い違いはあるのですが。
まず「わたしたちの城南」(出版:前橋市立城南小学校)の記載です。
関所は、宗甫分側にあったんですね。
昭和二十五年(1950)発行の「宗甫分今昔物語」(出版:宗甫分青年明星会)に、それらしき絵が載っています。
この関所について、「利根川の水運」(出版:群馬県教育委員会)にこう記載があります。
「実政の関所」は、明治元年(1868)に廃止されます。
渡し舟も廃止されたため、本町の名主・問屋・組頭が架橋の請願をしますが、実現しなかったようです。(角川日本歴史地名大系)
そこで、前橋桑町の宮内文作、小相木村取締・梅山幸八、名主・梅山孝七、宗甫分村名主・林登平、船頭・万平らが発起人となり、明治三年(1870)ここに舟橋が架けられたそうです。(利根川の水運)
明治六年(1873)頃に作成された「壬申地券地引絵図」に、宗甫分村の舟橋が描かれています。
しかし利根川は名にしおう天下の暴れ川、おそらく毎年のように流されていたのでしょう。
「日本歴史地名大系」(出版:平凡社)には、明治十一年(1878)四月四日に舟橋の一部が流失したので渡舟で急場をしのぎ、九月二十四日には新しい舟橋を架けたという記述もあります。
翌十二年(1879)になって、ようやく念願の橋が架けられます。
橋の名前は「就安橋」(しゅうあんばし)、これで安心に就けるという意味合いだったんでしょうが、その願いも虚しく、架橋したその年の秋には早くも流失してしまったということです。
しかし、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測図」には「就安橋」が描かれているのです。
どういうことなんでしょうか。
「わたしたちの城南」には、こんなことが書かれています。
明治十八年(1885)「実政の渡し」の上流1.3㎞、内藤分村(現石倉町)と対岸の紅雲分村(現紅雲町)の間に「利根橋」が架橋されたのです。
「利根橋」は、当時としては珍しい通行無料の橋だったので、「実政の渡し」を使う人がいなくなったという訳です。
とは言え、小相木村と宗甫分村との行き来は相当遠回りになる訳ですから、住民はさぞ不便だったことだったでしょう。
その不便は、昭和五十三年(1978)に「南部大橋」が開通するまで続いたのですから。
さて、では、その「南部大橋」を渡って旧宗甫分村へ行ってみましょう。
「南部大橋」の上から小相木の「実政の渡し」付近を眺めると、こんな感じです。
宗甫分側に渡ってみましたが、「実政の関所」跡という標示はどこにも見当たりません。
この辺だったのかなぁ、という場所から小相木側を望んでみました。
辺りをふらついていると、神社がありました。
「水神宮」とあります。
中を覗くと、素敵な格天井です。
境内には立派な石碑が建っていて、「宗甫分村」や「水神社」の歴史が分かりやすく刻まれていました。
これを見ると、「就安橋」が流された後、幾度か渡船を通したとありますね。
前掲の「壬申地券地引絵図」では、ここに「水神社」が描かれています。
町名は昭和四十二年(1967)に南町二丁目になりましたが、「宗甫分」という名称は近くの公園に残っています。
歴史ある地名に、誇りを持っているんでしょうね。
再開した「実政街道」の追跡も、これを以て最終回といたします。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
文献によって微妙な食い違いはあるのですが。
まず「わたしたちの城南」(出版:前橋市立城南小学校)の記載です。
「 | その昔、日光に至る「あづま道」の要所として、「真政の渡」はその渡船場としてさかえました。 |
上杉謙信の武将宇佐美真政がこの辺りを渡河点として造ったので、その名前をとって真政の渡といわれたそうです。 | |
この真政の関所は、南町二丁目(旧宗甫分)にあって、真政の渡場をおさえていました。 | |
古老の話によると、関所当時の御番所あとの石垣が、つい最近までありましたが、アイオン台風(昭和二十三年)ですっかりつぶされてしまいました。 | |
『関所には槍を持った役人がいて、手形がなければ通ることができませんでした。 通行人は川からあがってくると、御番所前に平らな飛石が敷いてあって、その上を下駄を持ってはだしで通されたそうです。』ということでした。」 |
関所は、宗甫分側にあったんですね。
昭和二十五年(1950)発行の「宗甫分今昔物語」(出版:宗甫分青年明星会)に、それらしき絵が載っています。
この関所について、「利根川の水運」(出版:群馬県教育委員会)にこう記載があります。
「 | 大渡関所と同じ、元和二年(1616)に前橋南部の宗甫分、利根川左岸崖上に実政の関所が設置された。 実政は、実正・真政・真正などとも書く。 |
崖下には、対岸の小相木とを結ぶ渡舟があり、重要な交通路であった。 | |
実政の番所には、五人程の役人がいたといわれるが、寛文年間に、それまで大渡においた筏番二人を当番所に移し、筏改めを実政番所で行うようになった。」 |
「実政の関所」は、明治元年(1868)に廃止されます。
渡し舟も廃止されたため、本町の名主・問屋・組頭が架橋の請願をしますが、実現しなかったようです。(角川日本歴史地名大系)
そこで、前橋桑町の宮内文作、小相木村取締・梅山幸八、名主・梅山孝七、宗甫分村名主・林登平、船頭・万平らが発起人となり、明治三年(1870)ここに舟橋が架けられたそうです。(利根川の水運)
明治六年(1873)頃に作成された「壬申地券地引絵図」に、宗甫分村の舟橋が描かれています。
しかし利根川は名にしおう天下の暴れ川、おそらく毎年のように流されていたのでしょう。
「日本歴史地名大系」(出版:平凡社)には、明治十一年(1878)四月四日に舟橋の一部が流失したので渡舟で急場をしのぎ、九月二十四日には新しい舟橋を架けたという記述もあります。
翌十二年(1879)になって、ようやく念願の橋が架けられます。
橋の名前は「就安橋」(しゅうあんばし)、これで安心に就けるという意味合いだったんでしょうが、その願いも虚しく、架橋したその年の秋には早くも流失してしまったということです。
しかし、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測図」には「就安橋」が描かれているのです。
どういうことなんでしょうか。
「わたしたちの城南」には、こんなことが書かれています。
「 | 時は移り、お金のいらない利根橋ができたので実政の渡しの客はなくなって、今の南町二丁目(旧宗甫分)は、全く陸の孤島のようなところになってしまいました。」 |
「利根橋」は、当時としては珍しい通行無料の橋だったので、「実政の渡し」を使う人がいなくなったという訳です。
とは言え、小相木村と宗甫分村との行き来は相当遠回りになる訳ですから、住民はさぞ不便だったことだったでしょう。
その不便は、昭和五十三年(1978)に「南部大橋」が開通するまで続いたのですから。
さて、では、その「南部大橋」を渡って旧宗甫分村へ行ってみましょう。
「南部大橋」の上から小相木の「実政の渡し」付近を眺めると、こんな感じです。
宗甫分側に渡ってみましたが、「実政の関所」跡という標示はどこにも見当たりません。
この辺だったのかなぁ、という場所から小相木側を望んでみました。
辺りをふらついていると、神社がありました。
「水神宮」とあります。
中を覗くと、素敵な格天井です。
境内には立派な石碑が建っていて、「宗甫分村」や「水神社」の歴史が分かりやすく刻まれていました。
これを見ると、「就安橋」が流された後、幾度か渡船を通したとありますね。
前掲の「壬申地券地引絵図」では、ここに「水神社」が描かれています。
町名は昭和四十二年(1967)に南町二丁目になりましたが、「宗甫分」という名称は近くの公園に残っています。
歴史ある地名に、誇りを持っているんでしょうね。
再開した「実政街道」の追跡も、これを以て最終回といたします。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。