信州姨捨は、棚田に映る「田毎の月」で有名です。
俳聖・松尾芭蕉が名月を見るために姨捨を訪れたのは、元禄元年(1688)の八月十五日。
そして詠んだ句が
「おもかげや 姥ひとりなく 月の友」
この句を刻んだ「芭蕉翁面影塚」を、白井鳥酔(しらい・ちょうすい)門弟の加舎白雄(かや・しらお)達が「長楽寺」境内に建立します。
明和六年(1769)にこの碑が建てられてから、境内に次々と文学碑が建てられるようになったそうです。
自らが俳句の宗匠で俳句結社「大正吟社」を設立した天来ですから、芭蕉ゆかりの聖地・姥捨に自分の句碑を建てたいと思ったのも当然だろうな、とただ漠然と思っていました。
しかし、今回の姨捨訪問で天来の句碑建立の詳しい経緯を知って、意外な事実に少し驚きました。
亀山さんから、矢羽勝幸氏著「姨捨・いしぶみ考」のコピーを頂戴しました。
その中に、天来の句碑について詳しく書かれている項があります。
矢羽勝幸氏は、天来について調べたようですが、かなり苦労されたようです。
しかし、ある時、古書店に天来の旧蔵俳書が出回ったことがあり、矢羽氏が入手したのが「更科めぐり鴈音の耳」という自筆稿本だったそうです。
ということで、句碑建立の経緯がこう書かれています。
ははぁ、天来から建碑を申し出た訳ではなかったのですね。
因みに文中の「悟友」とは、天来句碑に参与として名が刻まれている畔上悟友(あぜがみ・ごゆう)のことです。
このあと、着々と話しが進んでゆきます。
「建碑次第書」にも、除幕式は「昭和七年(1932)九月三日午後一時ニ十分振鈴 一同碑前に整列」と書かれています。
その時の写真が、これです。
この写真は、以前、高崎歴史資料研究会の中村茂先生から頂いたものです。
向かって碑の左隣に座っているのが天来ですね。
除幕式が終わってから、一同は畔上悟友宅に行って祝宴を開いたそうです。
実は今回、迷道院もその畔上悟友宅へ上がらせて頂くことになりました。
「瓢翁碑」の写真を撮っている時、下の道を歩く女性がいました。
亀山さんが、「あっ、畔上さん!」と声を掛けて、「高崎から天来の碑を見に来た人。」と紹介してくれました。
畔上さんはどこかへお出掛けになるところだったらしいのですが、「どうぞ、どうぞ。」と家の中に招き入れて下さいました。
そして「これが、悟友です。」と言って指さした写真を見て「あっ!」と思いました。
除幕式の写真で、天来の隣に並んで座っていたのが畔上悟友さんだったんですね。
ここで、「姨捨・いしぶみ考」に書かれている畔上悟友氏をご紹介しましょう。
一方、天来は、建碑二年後の昭和十一年十月に七十歳で死去しています。
畔上家を辞する前に、お二人の写真を撮らせて頂きました。
畔上文子さん八十八歳、亀山正明さん八十二歳、急な坂道も軽々と上り下りする、実に元気なお二人でした。
末永く姨捨の里でご健勝にご活躍下さい。
ありがとうございました。
俳聖・松尾芭蕉が名月を見るために姨捨を訪れたのは、元禄元年(1688)の八月十五日。
そして詠んだ句が
「おもかげや 姥ひとりなく 月の友」
この句を刻んだ「芭蕉翁面影塚」を、白井鳥酔(しらい・ちょうすい)門弟の加舎白雄(かや・しらお)達が「長楽寺」境内に建立します。
明和六年(1769)にこの碑が建てられてから、境内に次々と文学碑が建てられるようになったそうです。
自らが俳句の宗匠で俳句結社「大正吟社」を設立した天来ですから、芭蕉ゆかりの聖地・姥捨に自分の句碑を建てたいと思ったのも当然だろうな、とただ漠然と思っていました。
しかし、今回の姨捨訪問で天来の句碑建立の詳しい経緯を知って、意外な事実に少し驚きました。
亀山さんから、矢羽勝幸氏著「姨捨・いしぶみ考」のコピーを頂戴しました。
その中に、天来の句碑について詳しく書かれている項があります。
「 | 篠ノ井線の踏切りを長楽寺に向って50mほど下ると桜の木にとり囲まれた薄原がある。 ここが俗に月見畑といわれる更埴市の所有地で、観月のシーズンになるとかつては市役所の職員が草を刈って市民の行楽にそなえたという。 |
根津芦丈(ねづ・ろじょう)句碑をはじめ平林荘子(ひらばやし・そうし)、田毎句碑等六基の石碑はここに建てられている。 | |
そのもっとも下段に位置し、畔上真氏宅の隣に建立されているのが六基中最も古い天来句碑である。」 |
矢羽勝幸氏は、天来について調べたようですが、かなり苦労されたようです。
「 | 矢島天来は碑面によって群馬県高崎市の俳人で目の不自由な人であったことが知れる。 |
その俳系、履歴について高崎市立図書館にも問い合わせたがまったく分からず、わずかに中里昌之氏著『村上鬼城の研究』に大正年間、天来が高崎において大正吟社なる結社を持っていたことがわかったぐらいであった。」 |
しかし、ある時、古書店に天来の旧蔵俳書が出回ったことがあり、矢羽氏が入手したのが「更科めぐり鴈音の耳」という自筆稿本だったそうです。
「 | 本書は昭和七年夏、約一ヵ月ほど上山田温泉の清風園に滞在して姨捨の右の句碑(天来句碑)を建てた時の日記で、建碑にいたるまでの経緯がことこまかに記録されている。 |
公刊の建碑記念集の有無はわからないが、今日知るところの唯一の建碑記録であるようだ。」 |
ということで、句碑建立の経緯がこう書かれています。
「 | 天来が初めて姨捨に遊んだのは昭和六年のことで、その時上山田において宮原正翁から句碑建設の話をもちかけられた。 日記によれば当時天来は楽隠居の身で経済的にはかなり余裕がある様子である。 |
昭和六年七月十四日、横腹のハレモノのために、横臥中、姨捨から悟友が来訪して再三建碑の話をすすめられた。 以降も悟友から碑の設計等、勧誘の便りが来る。」 |
因みに文中の「悟友」とは、天来句碑に参与として名が刻まれている畔上悟友(あぜがみ・ごゆう)のことです。
このあと、着々と話しが進んでゆきます。
「 | 同年八月五日、療養もかねて上山田清風園に避暑。 同行は老妻、孫、女中を含め七人であった。 |
|
六日、宮原正翁、佐藤大公ともども自動車で姨捨の悟友宅(月守庵)を訪問。建碑費用の五円を渡す。 | ||
「月の山 盲滅法 のぼりけり」 瓢天来 | ||
長楽寺で住職と面談。再び車で武水別神社参拝した。 | ||
八月十五日、悟友の妻女(潔己)が清風園を訪問、天来から建碑費用十円を受領した。(略) | ||
二十九日、高崎の人大塚善造、野尻湖の帰途上山田の天来を訪問、大公と三人で姨捨へ。 碑の据付け完了。 大塚碑の傍らへ松の木二松を寄贈。 |
||
三十日、悟友、竹内良水来訪。 さらに大公来訪、建碑出費の精算、除幕式の相談をした。 その結果、式は九月三日午後一時挙行と決定する。」 |
その時の写真が、これです。
この写真は、以前、高崎歴史資料研究会の中村茂先生から頂いたものです。
向かって碑の左隣に座っているのが天来ですね。
除幕式が終わってから、一同は畔上悟友宅に行って祝宴を開いたそうです。
実は今回、迷道院もその畔上悟友宅へ上がらせて頂くことになりました。
「瓢翁碑」の写真を撮っている時、下の道を歩く女性がいました。
亀山さんが、「あっ、畔上さん!」と声を掛けて、「高崎から天来の碑を見に来た人。」と紹介してくれました。
畔上さんはどこかへお出掛けになるところだったらしいのですが、「どうぞ、どうぞ。」と家の中に招き入れて下さいました。
そして「これが、悟友です。」と言って指さした写真を見て「あっ!」と思いました。
除幕式の写真で、天来の隣に並んで座っていたのが畔上悟友さんだったんですね。
ここで、「姨捨・いしぶみ考」に書かれている畔上悟友氏をご紹介しましょう。
「 | 建碑の発起者ともいうべき畔上悟友氏は、本名は畔上政信、明治十六年下高井郡の野沢温泉に生まれ、はじめ材木屋をしていたが俳諧に熱中して家業を中断、昭和初年姨捨に移住した。 野沢時代は湯元の権利も持っていたという。 |
俳系は定かではないがよく全国を旅行し、多くの知名人と風交した。 | |
俳号を柳二坊といい、姨捨に定住してからは月守庵、月之本初世などと称した。(略) | |
碑面から確認される限りでは、昭和七年のこの瓢天来句碑が悟友発起で建てた第一号碑で、以下次々に姨捨を訪れる俳人を説いて句碑を建てさせ、現在の姨捨風景を現出させた。 月の都、俳諧の名所姨捨山の観光化に大きな役割を演じた人といえる。 |
|
昭和十七年五月五日、自宅において五十九歳で他界した。」 |
畔上家を辞する前に、お二人の写真を撮らせて頂きました。
畔上文子さん八十八歳、亀山正明さん八十二歳、急な坂道も軽々と上り下りする、実に元気なお二人でした。
末永く姨捨の里でご健勝にご活躍下さい。
ありがとうございました。