前回の続き、上和田町の友松家別邸にあったという「玉斎楼(ぎょくさいろう)茶室」のお話です。

「玉斎楼」について、土屋喜英氏著「高崎漫歩」にはこう書いてあります。
「萬屋」は、玉村宿のここにあったようです。
さて、「玉斎楼」の主人・玉斎について「玉村町誌」には、こう書かれています。
「上毛及上毛人」第255号の田村東谷著「宮崎竹坡と千輝玉斎」の中では、こうです。
「毛野」第8巻第4号、吉田庄三郎筆「玉村の千輝玉斎に就いて」には、別の情報も出てきます。
玉斎さんが婿入りしてからの「萬屋」は隆昌を極めていきます。
ふたたび、「毛野」からです。
そして、
しかし、時の流れ、時勢を止めることは難しい。
その後の「玉斎楼」について、「高崎漫歩」はこう結んでいます。
その友松家も、現在は数件の住宅に変わり、「玉斎楼の茶室」も無くなってしまいました。
この目で見ておきたかったなぁ。
ところが、ある方からこんな情報を頂きました。
「友松家を解体したのは井上工業で、茶室は丁寧に解体してすべての部材はどこかに保管されたはずです。」と。
さらに、
「一時、高崎公園内に復元しようという話があったが、実現しなかった。
井上工業が倒産してしまったので、茶室の部材がどうなったのか分からないが、何処かに残っているんじゃないか。」と仰います。
残っていることを心から祈り、吉報がもたらされることを心底願っております。

「玉斎楼」について、土屋喜英氏著「高崎漫歩」にはこう書いてあります。
「 | (玉村宿の)旅籠屋は軒を連ねて並び、これらの旅籠には飯盛女といわれた女郎がいた。中には女郎屋を専業とする宿もあった。 |
明治初年には三十六軒の女郎屋があり、中でも萬屋(よろずや)の玉斎楼は近隣に聞こえていた。(略) | |
玉斎楼は、桧造り総二階で、部屋数八十室、全盛時代には、女郎の数が四、五十人といわれた。 | |
主人の玉斎は多芸多才な人物で、特に画才に優れ、多くの作品を残している。 | |
この庭に、玉斎の好みで建てたのがこの茶室で、訪ねて来る文人墨客と点茶に興じていた。」 |
「萬屋」は、玉村宿のここにあったようです。
さて、「玉斎楼」の主人・玉斎について「玉村町誌」には、こう書かれています。
「 | 千輝玉斎(ちぎら・ぎょくさい)、名は幸兵衛、玉斎は雅号である。 |
当町に来たのは、はっきりしたことは分からないが、文政期の始め頃、与六分村の早川与六家に一時草鞋を脱ぎ、旅籠万屋仙蔵娘ゑいの許に婿入りした。 | |
玉村へ来る前は吾妻郡中之条に居たことは、当町でも中之条でも語り伝えられている。 | |
出生については、中之条とも御家人筋ともいわれているがはっきりしない。 | |
中之条で育った家は紺屋で、今でもその場所を言い伝えている。」 |
「上毛及上毛人」第255号の田村東谷著「宮崎竹坡と千輝玉斎」の中では、こうです。
「 | 此の人(玉斎)は中之条町曲尺(かね)の手という坂町の中處に生まれた人である。 |
本姓は町田氏、其處に角一という是も姓は町田という舊豪家があるが、其の東隣の一段低い屋敷に生まれた人なのである。 | |
二十四五歳の頃、家勢の零落を傷みて家出し、何処を巡り行きしか其の末に玉村町に到り、酒を売り居りし孀婦(そうふ:夫と死別して再婚していない女性)の店に入り込み、其の姓千輝を冒し・・・」 |
「毛野」第8巻第4号、吉田庄三郎筆「玉村の千輝玉斎に就いて」には、別の情報も出てきます。
「 | 幸兵衛は寛政二年(1790)、吾妻郡中之条町染物業町田某方に生まれ、幼児より家業柄絵を好み、長じて上絵師となり、生来の筆才ある上に、非常な勉強家ゆえ、画の百科事典ともいうべき北斎漫画によって独習し、遂に一家を為したるもので、その人物画は意匠斬新、筆意軽妙なるは驚くばかりである。」 |
玉斎さんが婿入りしてからの「萬屋」は隆昌を極めていきます。
ふたたび、「毛野」からです。
「 | (玉斎は)本業に熱心なるは勿論、風流豪奢を極め、其養子栄助は一層本業のみに精進したので、家運益々隆昌して、世人同人の玉斎なる雅号をそのまま屋号として呼ぶを習としたのである。(略) |
雅号玉斎とは玉村の頭字と北斎の斎とを採って附け、内心同町第一人者と自尊していたのであろうと思う。」 |
そして、
「 | 『玉村宿の玉斎』は上州第一ともいうべき青楼(せいろう:妓楼、遊郭)で、江戸八百八町その華名を知らぬ者はない程で、上州路へ入ったらまず玉斎へ草鞋を脱げという諺が、江戸の文人墨客の間に言触されていたのである。(略) |
当時有名な画人墨客は殆んど玉斎に遊び、倶に清談研磨したのである。 | |
同町南側に間口十数間、奥行数十間の広大な地域に、明治末期までは母屋、離れ家、茶室、四阿等建ち並び、これに配する中庭の立派さは今に世人の語り草に残っている。(略) | |
かくて玉斎は風流三昧に一生を送り、八十三歳の高齢で明治五年(1872)六月九日大往生を遂げたのである。」 |
しかし、時の流れ、時勢を止めることは難しい。
その後の「玉斎楼」について、「高崎漫歩」はこう結んでいます。
「 | 明治維新後の玉村の衰退は激しく、華燭は日々消え失せていった。 |
玉斎楼も例にもれず、茶室は新町の某医師に買い取られ、やがて友松喜平氏により現在地へ移築された。」 |
その友松家も、現在は数件の住宅に変わり、「玉斎楼の茶室」も無くなってしまいました。
この目で見ておきたかったなぁ。
ところが、ある方からこんな情報を頂きました。
「友松家を解体したのは井上工業で、茶室は丁寧に解体してすべての部材はどこかに保管されたはずです。」と。
さらに、
「一時、高崎公園内に復元しようという話があったが、実現しなかった。
井上工業が倒産してしまったので、茶室の部材がどうなったのか分からないが、何処かに残っているんじゃないか。」と仰います。
残っていることを心から祈り、吉報がもたらされることを心底願っております。
前の記事へ<< >>次の記事へ