2025年03月08日

室田街道 無いもの散歩(1)

相生町の交差点を西に入る細い道が「室田街道」です。


この細道は「稲荷横丁」と呼ばれています。
しばらく来てなかった間に、ずいぶん景色が変わってしまいました。
9年前に書いた記事の景色と比べてみて下さい。
  ◇史跡看板散歩-10 稲荷横丁

「深澤陶器店」の看板だぬき、元気にしてるかなぁ。
お稲荷さんの隣の八百屋さん(八百幸青果)も店じまいしたようです。

訂正です!
稲荷横丁そだちさんからコメントを頂きました。
たまたまお休みだったんだそうです。
隠居の早とちりでした。すみませんface07

お稲荷さんから80mほど行くと、レンガ造りの倉庫が目に入ります。

看板には「本醸造酒 泉末広 岡村合名」と書いてあります。

ここには昭和六年(1931)創業の「末広酒造」という造り酒屋があって、「泉末広」「観音櫻」という銘柄を製造していました。
昭和初期の不況で経営が苦しかった時、岡村桂次郎という人の協力を得て「岡村合名会社」となり酒造を続けていたのですが、昭和四十年代中頃の都市計画により、ここが第一種住宅地域に指定されてしまいます。
そのため、ここで酒を造ることができなくなってしまいました。
工場はなくなってしまいましたが、長野県佐久市の老舗酒造「黒澤酒造」に製造委託をすることができ、それにより現在も岡村合名会社のブランドで販売されているのだとか。
(岡村合名会社HPより)


よかった、よかった。

レンガ倉庫の相向いに、かつて、こんな洒落た建物があったらしいです。


土屋喜英氏著「高崎漫歩」には、こう書かれています。
稲荷横丁を上和田町へ入った所に、大きな木に囲まれた友松家の別宅がある。(略)
変わった型の屋根の小さな家が庭の中に建っているのが目につく。
銅ぶきの屋根は方形の型をしたもので、郊外の墓地にある寮や、小さなお堂の屋根によくある型である。
友松家にあるものは、お堂ではなく、茶室である。」

茶室があったという友松家は、明治三十七年(1904)創業の製綿・製麺業を営む友松喜平家のことです。


「蛭子(えびす)屋」号の店舗は相生町の三国街道沿いにありました。


上和田町の別邸にあったという茶室は、玉村「玉斎楼」(ぎょくさいろう)の茶室を移設したものだそうです。

「玉斎楼」とは何か、なぜ高崎友松家にあるのかというお話は、また次回。





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Posted by 迷道院高崎at 06:00
Comments(2)◆高崎探訪