「観音山公園保勝会設立趣旨」 |
地方繁栄ノ方策ハ元ヨリ多岐ナリト雖(いえど)モ名勝ヲ開発宣布シテ盛ニ外客ヲ誘致スルハ其ノ捷径(しょうけい:近道)ノ一(ひとつ)ナラズンバアラズ、 |
観音山ハ高崎市唯一ノ名勝ニシテ市ノ西南端ニ位シ、山勢高峻ナラズト雖モ平野ニ崛起(くっき)スルガ故ニ眺矚(ちょうしょく:眺め)頗(すこぶ)ル雄大、 |
而シテ春ハ桜花爛漫トシテ彩香ヲ漂ハシ、秋ハ紅楓燦然(さんぜん)トシテ錦繍(きんしゅう)ヲ織リ四時ノ風趣窮マル所ナリ、 |
遠近来リ遊ブモノ常ニ絶エズ、殊ニ山頂観音堂ハ坂上田村麻呂将軍ノ勧請ニシテ古来地方人ノ崇信篤ク、年次ノ縁日ニハ賽者四方ヨリ雲集シテ其ノ幾万ナルヲ知ラズ、真ニ関東有数ノ楽園ニシテ霊場タリ、 |
今若シ之ヲ拡張整理シテ更ニ近代的施設ヲ加フルニ於テハ恐ラクハ全国屈指ノ遊覧地区トシテ誇ルニ足ルノミナラズ、将来必ズ県立公園トシテ指定セラルゝノ機アルヲ信ジテ疑ハズ、 |
是ヲ以テ市ハ曩(さき:先)ニ市会ノ建議ニ基キ観音山公園造成ノ計画ヲ樹テ斯界ノ権威林学博士林氏ヲ聘シテ之ガ調査設計ニ当ラシメ、既ニ其ノ大綱ヲ決定シタルモ、偶(たまたま)時局多端ニシテ財政緊迫ヲ告ゲ即時実施ニ着手シ難キ事情アリ荏苒(じんぜん:延び延び)今日ニ至レリ、 |
抑(そ)モ市ノ繁栄ハ即チ県ノ繁栄ニシテ市民及県民ノ其ノ恵ニ均霑(きんてん:均しく潤す)スル所ナリ、 |
之ガ対策ヲ講ズルニ当タリ独リ当局有司ニ委ネテ拱手(きょうしゅ:手をこまねいて)成ヲ待ツベキニアラズ、宜シク市民及県民自ラ進ンデ経営周旋スルノ覚悟ナカルベカラス、 |
不肖等茲(ここ)ニ見ル所アリ、同志相計リ観音山公園保勝会ヲ組織シ観音山公園造成ノ遂行ヲ促進スルト共ニ将来更ニ其ノ開発宣布ニ努メ以テ市及県ノ繁栄ニ資スル所アランコトヲ期ス、 |
希(ねがわ)クハ愛郷ノ士競ッテ盟ニ加ワリ力ヲ協(あわ)セ以テ目的ノ達成ヲ速ヤカナラシムルニ吝(やぶさか)ナラザランコトヲ敢テ趣旨ノ存スル所ヲ述ベテ大方ニ檄ス。 |
昭和八年二月 発起人 |
「 | 日本鉄道会社の高崎停車場位置を撰擇せらるゝや、新町の住民は勿論、高崎在住の官公吏及び有志者は、停車場位置を新町接近地に、其入口道路を新町に設くるを適当なりとし、何れも居町或は情実と云ふ観念を忘れ全駅(全高崎)は公費を投じ、有志諸氏は寄附を為す等、その歩調を一にして運動尽力せられたるは、従来新町住民が御伝馬継立の為に苦心奮斗したる為なりと云ふべきも、当時の在高官吏公吏有志者が公誼に篤く且高崎を一団視したる公平無私の態度は大に称揚すべき異徳と云ふべきなり。 |
不肖八郎は此御伝馬事件関係者の相続者のみならず、其後半に関係を有するを以て、諸氏の祖先、或は其専従者とが御伝馬継立の為に一身を犠牲に供したる芳志に対し謝恩の法会を修し、在天の霊魂を弔慰するに臨み、聊か其の事件の梗概を叙し併せて追悼記念の為め御伝馬事件の碑を建設す。 |
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此事件を忘れたる者或は此事件を知らざる者に対し、諸氏の祖先或は其先住者が、自町愛護の念慮が如何に旺盛なりしかを知らしめ、諸氏が其祖先或は先住者の恩義を忘却せざらん事を望む、敢て一言し以て告ぐ。」 |
「 | この両氏の厚意に対し町内の者も皆決心(御役御免の請願)を翻し、御伝馬継立等出精相勤まる事に相成りたり。 |
両氏等の厚意に対しては新町住民たる者銘肝して長く忘却すべからざる事なり。」 |
◇ | 元和七年 | (1621) | 四ッ屋町より出火、城下の人家悉く焼亡。(道観火事) |
◇ | 享保十年 | (1725) | 通町より出火、風下六ケ町焼失。 |
◇ | 享保十二年 | (1727) | 田町より出火、新喜町(現和田町)まで全焼。 |
◇ | 宝暦九年 | (1759) | 北廓(柳川町)より出火、前栽町(現下横町)まで焼失。 |
◇ | 宝暦十三年 | (1763) | 新(あら)町より出火、新喜町(現和田町)まで217戸焼失。 |
◇ | 寛政十年 | (1798) | 本町より出火(放火)、城内藩邸380戸、町屋1080戸焼失。 |
◇ | 文化四年 | (1807) | 羅漢町より出火(放火)、580戸焼失。 |
◇ | 文化九年 | (1812) | 本町より出火、900戸余焼失。 |
◇ | 文政十二年 | (1829) | 四ツ屋町より出火、580戸焼失。 |
◇ | 天保十四年 | (1843) | 赤坂町より出火、高崎宿全町焼失、死者7名。(恵徳寺火事) |
◇ | 嘉永元年 | (1848) | 中紺屋町より出火、風下の町大半焼失。 |
◇ | 文久二年 | (1862) | 本町より出火、全宿の大半焼失。(百足屋火事) |
◇ | 明治十一年 | (1878) | 住吉町より出火、700戸余焼失。 |
◇ | 明治十三年 | (1880) | 本町より出火、2500戸余焼失。(越前屋火事) |
◇ | 明治二十八年 | (1895) | 通町より出火、663戸焼失。(古市火事) |
◇ | 明治三十七年 | (1904) | 鞘町より出火、100戸余焼失。 |
◇ | 明治三十七年 | (1904)) | 通町より出火、180戸余焼失。 |
「 | 和田城跡に城が完成したとき井伊直政は、この地を松が崎という名前に改めようと思った。 |
そこで日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職白菴に話した。 | |
これを聞いた白菴は、『もっともなことではありますが、諸木には栄枯があり、物には盛衰があるのは珍しいことではありません。 殿様が、家康様の命令を受けて和田の地に城を築いたのは、権力の頂点に立った大名に出世されたからであります。そうであれば「成功高大」の意味を採って高崎と名付けた方がよいのではないでしょうか。』と話した。 |
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白菴和尚の含蓄のある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに和田を高崎と改めた。 | |
そして白菴和尚が箕輪から転住した龍広寺の山号に「高崎」の二字を与え、感謝の意を表した。」 |
「 | 里老ノ説ニ、恵徳寺ノ開山英潭ナリト云伝ヘタルハ蓋(けだし)誤也。今竜広寺ノ古記ニ従フ。」 |
「 | 又一説ニ、直政命を奉テ、松枝(松井田)安中和田倉賀野ノ地ヲ検スルニ決定シカタ(難)カリシ故、試ニ鷹ヲ放チ其集ン所ヲ城地ト定ムヘシトテ、一モトノ鷹ヲ放サル。 |
其鷹飛テ、今ノ本城ノ地ニトゝ(留)マル、因ミテ、其地ニ城(築き)テ鷹崎城ト名ツケラル。 | |
後、高崎ニ更(あらた)ム。」 |
「 | 和訓相近キ故也ト云リサレトモ、当時ノ記載ニ鷹ノ字ヲ用タルヲ見ス。 |
且其所伝(かつその伝わるところ)、村老野嫗(村の老女)ノ謬説に似タリ。 | |
故今不取(故に今はその説を取らず)。」 |
「 | 井伊直政が和田の地名を佳名と變更せんと欲して諮問したるが、白庵にせよ英潭にせよ高崎可なりと答へたるは、想ふに高崎と云ふ文字を新に撰定して答へたるには非ずして、其當時或は公稱にはあらざりしかも知れざれども、現在に高崎或は烏川の兩岸高き處一帶を高崎と呼び來りたるを以て、其れを取て高崎と命名すべしと答へたるならん、」 |
「 | 高崎の地勢を按ずるに、烏川は其突出せる絶壁下を貫流し、對岸遙に片岡の丘陵と對峙し此中間は平坦なる低地なり、(略) |
海洋或は河川に突出したる地を崎と呼べるは普通一般にして其例證少なからず、故に斷岸が突出したる地勢を形容して此邊一帶を高崎と稱したる者ならん。」 |
「 | 其證據とは何ぞや、曰く信濃宮傳(しなののみやでん)と稱する小冊子あり、信濃宮とは後醍醐天皇第三皇子宗良親王を稱し奉るなり、 |
其御傳記應永十年(1403)四月の條に、高崎安中碓氷等の敵を衝いてやうやうに信濃に入らせ給ひけり云々とあり、此御傳記は著述の年月著者の氏名は有らざるも、其文章と記事の体裁等より、察するに、蓋し足利末世頃の著作ならん、 | |
又永祿十年(1567)の北越家書に高崎の名あり、北越家書は帝國大學にて編纂せる編年史に引用したり、 箕輪軍記箕輪落城後の事を記したる條項にも高崎の名あるも、此書は信を措き難きも、信濃宮傳と北越家書は充分信用すべき者なり」 |
「 | 依て考ふるに上毛の高崎も天然の地形に依り大分縣別府の高崎山、千葉縣安房の高崎の如く夙に地名として呼びたる者ならん、 |
殊に信濃宮傳、北越家書に高崎の名稱存するより察すれば、假令(たとえ)公稱には非るも土地の人々が常に稱呼しつゝ在りしを、白庵或は英潭が取て以て、高崎と命名すべしと井伊直政の諮に答へし者ならんと信ず、 | |
故に高崎と稱する名稱は慶長中新に命名したる者に非ず古來稱し來りたる名稱ならん。」 |
「 | 記して以て四方有識諸君の埀教を仰ぐ。」 |
1. | 信濃宮伝 | 應永十年四月の條ニ高崎、安中、碓氷等ノ賊ヲ破リ云々 |
2. | 永録十年ノアル書 (北越家書?) | 此ノ名(高崎)アリ |
3. | 箕輪落城記 | 高崎トアリ |
4. | 上州故壘記 | 高崎城、在群馬郡、始封ノ人未ダ詳ナラズ云々 天正十八年、和田改易セラレ、箕輪ト高崎トヲ井伊兵部少輔直政ニ給フ箕輪ヲ居城トス、後ニ箕輪ヲ廢シテ高崎ニ移ル云々 高崎既ニ信玄ニ属シ、石倉ニ砦ヲ下シ、前橋ヲ押ヘシム云々 |
5. | 上野風土記寺領記 | 高崎(赤坂本名)大信寺云々 |
「 | 市内九蔵町ニ住スル、反町徳太郎氏ハ、和田氏ノ重臣タル反町大膳亮ノ後裔ト云フ、古文書一通ヲ蔵ス、 |
文書ハ大膳ノ嫡孫清實ガ祖父ノ武功ヲ記シタルモノニシテ、其一節ニ、武州金窪ノ戦(時ニ天正十年瀧川一益ト、北條氏直トノ戦ニシテ和田氏ハ北條ニ属ス)我等(大膳)一番槍ヲ入レ、其上持参、和田兵衛ニ見セ、夫ヨリ高崎城迄持参云々、 | |
此ノ他文中高崎ノ名ニ三ヲ記ス。」 |
「 | ここははじめ渡船場として新田町(しんでんまち)の持ちであった。 |
この付近には城下下に木戸番所があり、橋はなく舟で渡していたもので、のちに石原村持ちとなって、舟をつなぎ、その上に板を乗せた舟橋が、毎年十月につくられ、翌年四月にそれを撤去したのは、豪雨のために舟橋が流失するからで、夏は従って舟渡しとなった訳である。 | |
のちに土橋ができたが、巾六尺に過ぎず、しかもこれは石原村の設営であったから、当然渡し賃金を徴収していた。(略) | |
明治三十年(1897)頃も板を敷いた仮橋で、大人一銭子ども五厘の橋銭をとっていたが、吉井街道が県道に指定された大正年代になって木橋になった。 | |
さらに昭和九年(1934)に高崎地方で特別大演習が挙行されるにあたり、乗附練兵場が観兵式式場となり、天皇陛下が親しく御臨幸になるためこの橋もその時鉄筋コンクリートの永久橋に改造された。」 | |
「 | 明治十三年(1880)十二月聖石橋木橋ができ、税金ではなく地元有志が出資建設した橋なので有料橋となり、5年おきに橋銭徴収願いが出されていました。 |
ところが、明治三十四年(1901)の継続出願に際して、『無料にした方が人民の益になるのではないか、不許可にしたいが高崎市の意見を聞きたい。』と、群馬県から高崎市へ諮問があった。 | |
高崎市議会は、地元有志の橋建設負債を肩代わりすることや、今後生ずる橋の維持管理費などに難色を示して、相変わらず有料が続いたらしい。明治四十二年(1909)には値上げ願いが出されている(一人5銭→6銭)。 | |
結局、昭和六年(1931)にコンクリ橋ができるまで有料だったらしいが、その辺の細かいことがよく解らない。」 |
「 | 昭和五年庚子年 清水観音山に矢嶋翁の銅像を建設するに際り 片岡の地主等諸氏は便を以つて新たに坂路を開鑿せんとするや 銅像建設に■(與?)る有志諸氏も亦之れに賛し 金を醵して■(貲?)に充て 地主は土地を供するありて五月ユ(工?)を竣り 之れに命して羽衣坂と曰ふ 是れ山上古松の名に取る所以なり |
諸氏皆善と称し乃ち石を樹てゝ梗概を叙し 之れを後に傳ふと云ふ」 |
「 | 十日ん夜、十日ん夜、十日ん夜はいいもんだ |
朝ソバキリに、昼ダンゴ、ヨー飯食っちゃ、ぶったたけ」 |
※ | 観音道路から羽衣線に入る手前を右折し、護国神社から来る道と合流し、レストラン風車の前を通って平和塔に至る。 |
「 | 工事は順調に進んだが、山上の事で水が無く、中途で行き悩みの状態となった。こんな大工事に、いちいち水を下からくみ上げるようでは仕事は進捗しない。仕方がないので井戸を掘った。しかし水は出ない。いくつも井戸を掘った。こんな悩みの日が幾日か続いた。 |
ある日のこと、翁(井上保三郎)は、観音さまの工事現場から帰宅して疲れを休めようと体を横にした。いつ寝入ったのか、ずるずると眠りに落ちてしまった。それから数刻を経たか、突然眠りから覚めた翁は、『不思議だな。不思議だな。』と自問自答して頭を傾げた。 |
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翁は、翌朝夜の明けるのを待って現場に急いだ。土工たちは、こんなに早く、しかもいつもの翁とは、顔つきが違うように見えて不思議でたまらなかった。 | |
『さあ、今日は、皆も元気を出して私の言うようにやってみてくれ。他の事はほっといて、力を合わせて観音様の後裾の下になる所を掘ってくれ。』と、翁に言われるままに、その所を掘り始めた。 | |
『旦那は今日はとても変だぜ。』小声で土工たちが話しながら力強くツルハシを振り上げ、幾時間も一生懸命に掘り下げた。 |
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短い一日の陽は、はや近々の山に落ちようとしていた。その時である。 | |
『水だ!』 『アッ!水だ!』 土工たちは狂喜した。 |
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その声を聞きつけた翁は、土工たちを押し分けて井戸をのぞいた。 『アッ!水だ!ありがたい。』 翁は手を合わせた。熱い感謝の涙が目頭を光らせた。 |
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このありさまを呆然と眺めていた人夫の一人は、翁の側に寄って、『旦那、何かあったのですか。』とおそるおそる尋ねた。 『ウン』とうなづいて、翁は静かに語り出した。 |
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『実は昨夕現場から帰り横になって、寝るともなく、うつらうつらしていると、私の枕元に日頃信仰している白衣の観音さまが現われ、心配するな、水は出る、ここを掘れよと水の出る場所を教えて消えられた。そこで私は目が覚めた。しかし今まで半信半疑でおったが、今日は早くから来て皆にここを掘らせたのだ。こうして水が、しかも清らかな水が湧くのを見ると、夢ではなかったのだ。』」 |
「清水簡易水道創設記念碑」 | |
髙﨑ノ勝地觀音山觀光施設宜シキヲ得テ、其名聲一時ニ著聞シ、遠近相傳ヘテ遊覽ノ人士、四季雲集ス。 | |
然ルニ、水利乏シク住民ノ不便甚シキノミナラズ、公衆衛生上懸念スヘキモノ多シ、有志之ヲ憂ヒ、苦心講究簡易水道ヲ設クルノ策ヲ建テ、昭和十三年八月、始メテ清水簡易水道組合を設立シ、髙﨑觀光協會及縣市ノ應援協力ヲ得テ、之カ計畫ヲ樹立シ、工費壹萬五千九百餘圓ヲ以テ、十四年六月其竣成ヲ見タリ。 | |
之ニ於テカ、山上ノ貯水池淵淵清泉ヲ湛ヘ、幾百ノ人家滾滾(こんこん)碧玉ヲ頒(わか)ツ、而シテ尚ホ不時ノ準備トシテ、十五年六月第二水源工事ヲ起シ、工費三千五百圓ヲ以テ十六年五月完成ス、公共ノ爲メ寔(まこと)ニ慶スヘキナリ。 | |
今、之カ記念碑ヲ建テントシ文ヲ予ニ需(もと)ム、乃チ事ノ梗槪ヲ誌シテ其善功ヲ頌シ、兼ネテ、關係員清水簡易水道組合長浦野平六、工事擔當者矢島麟一郎、工事設計並監督落合卯之吉、天野秀、觀光協會役員久保田宗太郎、小林竹次郎、天田瀧治、吉野五郎、秋山萬吉、高橋藤三郎、清塚佐太郎、西村助四郎、星野幸衛、石坂實、係員中島徳次郎、松本民吉諸氏ノ芳名ヲ録スト云爾(しかいう)。 | |
昭和十六年五月 三雲逸史 關吉晴選傡書 |
正風宗師之碑 |
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観音の | ||
甍(いらか)みやりつ | ||
はなの雲 | ||
芭蕉 |
「 | 芭蕉句中で一番句碑に多い句で、高崎市清水観音仁王門下にも郷土出身の江戸俳人西馬(さいば)によって立てられている。 |
これは天保十三年(1842)西馬にすれば開店大売出しともいうべき俳行事に、地方の俗俳どもを煙に巻く必要から、あんな不風流極まるものになったので、高吟が書家の巻菱湖(まき・りょうこ)、テン額と碑背記が小大名ながら天下の諸侯をならべたこけおどしの道具立て、清水寺では鳳朗(ほうろう)の文台で百韻興業というバカ騒ぎの記念だから仕方がない。」 |
「 | 俳聖芭蕉翁の百五十回の遠忌に當れるにあひて、惺庵西馬(せいあん・さいば)兼て追福を営むに社盟数十輩と議り、清水寺内に地を卜して一塚を築り、碑面篆額の贈號は故二條公の粟津の霊室に賜ふ處なり。 |
今四山これに筆を採、また高韻を書る者は菱湖に聞、清水寺は上毛第一観音の霊場にて洛の清水に景趣等しきと云。 句も亦彼を取てこゝに移す相當 |
「 | れる成べし。 |
予、この道に遊ふの因を以て一條の来由を祭主の為にしるす。 | |
維時天保十三年龍集壬寅三月 五品多々良大内瀾長」 |
「 | 兎に角この西馬は、その頃江戸に於ける屈指の大家で、時代は少し違ひますけれども、上州が産んだ江戸の俳人中、全國的な存在としては、矢張り高崎から出た平花庵雨什(へいかあん・うじゅう)と兩大關の觀があり、慥(たし)かに、鄕土の誇りとすべき人物であったのであります。」 |
「 | そこで先ず、西馬が現代の皆様と一番交渉を持っている點は何かと申しますと、高崎の名物に竹の子餅といふのがありませう、あの竹の皮包みにブラ下げた短冊に「竹の子にチラリとあたる夕(ママ)日かな」といふ西馬の句がありますし・・・」 |
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