2014年08月31日

「駅から遠足 観音山」 目次

1.井上保三郎と観音山公園開発
2.御伝馬事件と高崎停車場
3.南堀通り、観音通り、愛宕通り
4.愛宕神社
5.旧鎌倉町界隈
6.高崎という地名
7.高崎という地名 異説(1)
8.高崎という地名 異説(2)
9.聖石橋
10.七士殉職供養塔と振武橋
11.観音道路と旧道
12.寝観音と羽衣線
13.伊香保福一と旧福田邸
14.清水寺参道と十日夜
15.高崎の呉服商と観音道路
16.井桁の井戸、清水寺の水事情
17.清水簡易水道と清水配水池
18.芭蕉句碑と西馬
19.西馬と竹の子餅
20.竹の子餅と天来庵
21.西馬物語(1)
22.西馬物語(2)
23.西馬物語(3)
24.西馬物語(4)
25.田村仙岳と姉・徳
26.田村仙岳と高崎藩下妻の戦い
27.田村仙岳と下仁田戦争
28.田村仙岳と田村堂
29.田村仙岳と高崎五万石騒動
30.田村仙岳と木の葉形煎餅
31.田村仙岳と脚気養生園
32.深井仁子と国振学校
33.清水寺の石段は、幸福への石段
34.清水寺と一椿斎芳輝
35.一椿斎芳輝と高崎館、宇喜代、そして錦山荘
36.芳迹不滅碑と幻の鋳銅露天大観音
37.田島尋枝と清香庵
38.矢島八郎翁銅像と森村酉三
39.矢島八郎翁銅像建設由来
40.矢島八郎翁銅像と大河内輝耕
41.矢島八郎と胡桃塚
42.矢島八郎と矢島孫三郎(天来)
43.矢島八郎とキリスト教墓地
44.観音山観光センター
45.平和塔広場と飛行塔
46.観音山参道と田村今朝吉翁銅像
47.銅像山の乃木大将
48.白衣大観音とブルーノタウト
49.白衣大観音建立の趣旨
50.井上保三郎
51.井上保三郎と山形のさくらんぼ
52.井上保三郎翁銅像の変遷史
53.森村酉三と江戸川乱歩、そして白衣大観音
54.森村酉三の生家
55.森村酉三と白衣大観音、そして田中角栄
56.白衣大観音建設工事(1)
57.白衣大観音建設工事(2)
58.白衣大観音建設工事(3)
59.白衣大観音胎内巡り
60.三体あった白衣大観音原型像(1)
61.三体あった白衣大観音原型像(2)
62.慈眼院建立秘話
63.慈眼院の歴史
64.光音堂と一路堂
65.井上翁頌徳碑と桜松苑
66.新日本高崎子ども博覧会からケルナー広場へ
67.新日本高崎こども博覧会
68.染料植物園
番外1高野山と慈眼院
番外2高野山と一路観音
69.洞窟観音
70.徳明園
71.山徳まんが記念館
  


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2014年08月31日

駅から遠足 観音山(1)

JRの企画で、「駅からハイキング」というのがあるようですね。
期間限定ですが、高崎駅から観音山まで往復するプランらしいです。

そういえば、デイパックを背負って「観音道路」を歩いている人を、時折見かけます。

高崎市民でも、歩いて観音山まで行く人は少なくなりましたね。

昔は・・・、ってすぐ言うから年寄りは困ったもんですが、昔は、観音山なんて大抵の人が歩って行ったもんです。

小学校に入って最初の遠足も、観音山でした。


桜の季節になると、聖石橋から清水寺に至るいわゆる「観音道路」を、昼間から夜までぞろぞろ人が歩いていたもんです。

世の中が変わって、どこの家でも車を持つようになってからですかね、歩いて行く人が少なくなったのは。
そして、「観音山ヘルスセンター」がなくなり、「カッパピア」もなくなると、観音山を訪れる人自体めっきり少なくなりました。

昭和八年(1933)、井上保三郎翁を中心に高崎の有志が集って「観音山公園保勝会」なるものを設立し、「観音山に大公園を建設することにより、これからの高崎発展を期すべし!」と檄を飛ばしました。
その設立趣旨書の、格調高い文に込められた熱い思いを、いま再び噛みしめてみましょう。

「観音山公園保勝会設立趣旨」

 地方繁栄ノ方策ハ元ヨリ多岐ナリト雖(いえど)モ名勝ヲ開発宣布シテ盛ニ外客ヲ誘致スルハ其ノ捷径(しょうけい:近道)ノ一(ひとつ)ナラズンバアラズ、
 観音山ハ高崎市唯一ノ名勝ニシテ市ノ西南端ニ位シ、山勢高峻ナラズト雖モ平野ニ崛起(くっき)スルガ故ニ眺矚(ちょうしょく:眺め)(すこぶ)ル雄大、
 而シテ春ハ桜花爛漫トシテ彩香ヲ漂ハシ、秋ハ紅楓燦然(さんぜん)トシテ錦繍(きんしゅう)ヲ織リ四時ノ風趣窮マル所ナリ、
 遠近来リ遊ブモノ常ニ絶エズ、殊ニ山頂観音堂ハ坂上田村麻呂将軍ノ勧請ニシテ古来地方人ノ崇信篤ク、年次ノ縁日ニハ賽者四方ヨリ雲集シテ其ノ幾万ナルヲ知ラズ、真ニ関東有数ノ楽園ニシテ霊場タリ、
 今若シ之ヲ拡張整理シテ更ニ近代的施設ヲ加フルニ於テハ恐ラクハ全国屈指ノ遊覧地区トシテ誇ルニ足ルノミナラズ、将来必ズ県立公園トシテ指定セラルゝノ機アルヲ信ジテ疑ハズ、
 是ヲ以テ市ハ曩(さき:先)ニ市会ノ建議ニ基キ観音山公園造成ノ計画ヲ樹テ斯界ノ権威林学博士林氏ヲ聘シテ之ガ調査設計ニ当ラシメ、既ニ其ノ大綱ヲ決定シタルモ、偶(たまたま)時局多端ニシテ財政緊迫ヲ告ゲ即時実施ニ着手シ難キ事情アリ荏苒(じんぜん:延び延び)今日ニ至レリ、
 抑(そ)モ市ノ繁栄ハ即チ県ノ繁栄ニシテ市民及県民ノ其ノ恵ニ均霑(きんてん:均しく潤す)スル所ナリ、
 之ガ対策ヲ講ズルニ当タリ独リ当局有司ニ委ネテ拱手(きょうしゅ:手をこまねいて)成ヲ待ツベキニアラズ、宜シク市民及県民自ラ進ンデ経営周旋スルノ覚悟ナカルベカラス、
 不肖等茲(ここ)ニ見ル所アリ、同志相計リ観音山公園保勝会ヲ組織シ観音山公園造成ノ遂行ヲ促進スルト共ニ将来更ニ其ノ開発宣布ニ努メ以テ市及県ノ繁栄ニ資スル所アランコトヲ期ス、
 (ねがわ)クハ愛郷ノ士競ッテ盟ニ加ワリ力ヲ協(あわ)セ以テ目的ノ達成ヲ速ヤカナラシムルニ吝(やぶさか)ナラザランコトヲ敢テ趣旨ノ存スル所ヲ述ベテ大方ニ檄ス。
昭和八年二月 発起人

81年を経た今でも全く色褪せることなく、現代の我々に対する檄文として心に響いてきませんか?

当時に比し市域は大きく広がりましたが、観音山高崎市街地に最も近い景勝地であることに変わりはありません。
またそこへ行く道中には、歩きでなくては見つけられない先人の足跡が残っています。

さあ、出発しましょう!
高崎の発展を期して観音山を開発した先人の心に触れる、「駅から遠足」です!

次回は、スタート地点「高崎駅」のお話を。


  


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2014年09月07日

駅から遠足 観音山(2)

「駅から遠足」ということで、まず「高崎駅」のことからお話しいたします。
「高崎駅」は、明治十七年(1884)「中山道鉄道」(現高崎線)の「高崎停車場」として開設されました。

写真は、その開通式の「高崎停車場」構内の様子なのですが、大変な世情の中での緊迫した開通式となりました。
詳しくは、過去記事「さすらいの春靄館」をご覧ください。

ところで、現在何の不思議も感じない「高崎駅」の場所ですが、実はここに開設するについては、長い長い物語があるのです。
長い話になりますが、どうぞお付き合いください。

まずは、この地図をご覧ください。

「高崎停車場」が開設された翌年の地図ですが、ずいぶん町外れに造ったもんだと感じませんか?
この当時の高崎の中心地は本町・田町周辺であることも、家の密集具合からお分かり頂けると思います。

普通なら、もっと中心市街地に近い所へ停車場を造った方が、アクセス道路を造るにも短く済むはずです。
車社会の現在ならともかく、ほとんどの人が歩きの時代、利用者にとっても便利なはずですし。

にも拘らず、「我が町に停車場を。」とする新町に対し、高崎中の有力者も公官吏も誰一人反対する者がいなかったというのです。
その理由の一つが、幕末の新町に起きた「御伝馬事件」です。

新町延養寺に、その事件の記念碑が建っています。

「伝馬」とは律令時代からある制度で、宿駅から宿駅へ荷物を継ぎ送る輸送システムです。
このシステムは江戸時代になってからも続いており、高崎宿では初め本町のみが伝馬業務を行っていました。

しかし、「参勤交代」による諸侯の往来が頻繁になると、本町一町では負担が大きいということで、田町新町を加えた三町で月を三分して交替であたることとなったのです。

伝馬を負担する見返りに地子(宅地年貢)は免除されるものの、継立に要する人馬を常に用意しておかねばならぬ等、その費用負担は町にとって大きなものでした。
特に本町田町と異なり、旅籠屋が主で巨商・豪商という店が少ない新町にとって、その負担の重さは年々嵩む一方で、もう耐えきれないところまで来ていました。

そこへ追い討ちをかけたのが、文久二年(1862)正月二十七日に本町から発生した火災です。
後に「百足屋火事」と称されたこの火災は折からの北風に煽られ、城下の7割が焼失する大火となり、新町も類焼の憂き目に遭ってしまいます。

新町では町内一同が協議し、当時高崎城下では禁じられていた「相撲、旅芝居、見世物の興業」「旅籠に飯盛女を置くこと」の許可を高崎藩に求め、その利益を以て町の復興と伝馬業務の継続を図ろうとします。
しかし、その請願は受け入れられず、いよいよ切迫した町民惣代はついに箱訴を以て幕府へ直訴に及んだのです。

これによっても請願の実現を見ることはなく、それどころか町内の主だった者14名が入牢あるいは手錠腰縄で他町預けとなる始末でした。
ますます困窮を極めた新町に、さらなる困難が舞い込みます。
元治元年(1864)水戸天狗党を追討するため、幕府若年寄の田沼玄蕃らが高崎に宿泊することとなり、その費用300両を、あろうことか高崎藩は伝馬を務める町に負担させようとしたのです。

慶応二年(1866)もうこれ以上伝馬業務を続けることは出来ない、請願内容が取り上げられないのであれば厳罰を覚悟して御役御免を願い出ようと、悲壮な決断をするまでに追い詰められます。
この事態をこのまま傍観するには忍びないと動いたのが、寄合町の中島伊兵衛と連雀町の関根作右衛門でした。

両氏は各町の有志と図り、問屋場入費助合として月30両、伝馬永続助成として500両を藩の御納戸へ上金し、その利息として年50両を新町へ下付されるように取り計らいました。
このおかげで、新町は辛うじて最悪の事態を回避できましたが、騒動を起こした罪によりまたもや首謀者2名が居町払い、79名が過料を申し付けられます。
この中には、問屋年寄・矢島八郎右衛門も入っていましたが、心労が重なったものか騒動の最中に病死しています。

その子・矢島八郎はその時14歳でしたが、断食をして父の死を嘆き悲しむその姿を見て、感動しない者はなかったといいます。

八郎は、八郎右衛門を襲名して問屋年寄見習となり、明治と変わってからは戸長となって町政に携わるようになります。
明治六年(1873)には、運輸業「中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社」を設立して高崎-東京間に郵便馬車を走らせるなどの事業を興しますが、心はいつも苦しかった新町の発展を願っていたに違いありません。

明治十四年(1881)に設立された日本鉄道会社により、上野-前橋間に鉄道が敷設されることを知った八郎は、逸早く「高崎停車場」新町誘致に動きます。
高崎各町からの誘致話もあったであろう中、八郎高崎中の人々の同意を得て、新町「高崎停車場」を誘致することに成功したのです。



停車場建設用地は矢島八郎が寄附し、中山道へのアクセス道路となる土地は町の有志が寄附し、停車場の建物は高崎町民の寄付により建設されました。
そこには、「御伝馬事件」により辛酸を嘗めてきた新町への厚い温情があったのです。

後にそのことについて、八郎自身が「御伝馬事件の概要」の中でこう述懐しています。

日本鉄道会社の高崎停車場位置を撰擇せらるゝや、新町の住民は勿論、高崎在住の官公吏及び有志者は、停車場位置を新町接近地に、其入口道路を新町に設くるを適当なりとし、何れも居町或は情実と云ふ観念を忘れ全駅(全高崎)は公費を投じ、有志諸氏は寄附を為す等、その歩調を一にして運動尽力せられたるは、従来新町住民が御伝馬継立の為に苦心奮斗したる為なりと云ふべきも、当時の在高官吏公吏有志者が公誼に篤く且高崎を一団視したる公平無私の態度は大に称揚すべき異徳と云ふべきなり。

不肖八郎は此御伝馬事件関係者の相続者のみならず、其後半に関係を有するを以て、諸氏の祖先、或は其専従者とが御伝馬継立の為に一身を犠牲に供したる芳志に対し謝恩の法会を修し、在天の霊魂を弔慰するに臨み、聊か其の事件の梗概を叙し併せて追悼記念の為め御伝馬事件の碑を建設す。

此事件を忘れたる者或は此事件を知らざる者に対し、諸氏の祖先或は其先住者が、自町愛護の念慮が如何に旺盛なりしかを知らしめ、諸氏が其祖先或は先住者の恩義を忘却せざらん事を望む、敢て一言し以て告ぐ。」

また、新町の危機を救った中島伊兵衛、関根作右衛門両氏等についても、このように述懐しております。

この両氏の厚意に対し町内の者も皆決心(御役御免の請願)を翻し、御伝馬継立等出精相勤まる事に相成りたり。
両氏等の厚意に対しては新町住民たる者銘肝して長く忘却すべからざる事なり。」

この「御伝馬事件」がなかったら、また高崎中の人が新町の窮状に対する温情を持つことがなかったら、「高崎駅」は今の場所にはなかったかも知れません。

あの町外れに造った「高崎停車場」の周辺は、今や高崎市の中心市街地へと変貌しました。
反面、新町の窮状に同情して誘致を禅譲したかつての中心市街地は、シャッター通りへと変貌しています。

さて、もしも矢島八郎があの世から蘇ったとしたならば、今の高崎に何を思い、何を為すのでありましょうか。

長い話を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

(参考図書:「文久慶応年間 高崎御傳馬事件」)


【御伝馬事件之碑】





  


Posted by 迷道院高崎at 08:42
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2014年09月14日

駅から遠足 観音山(3)

八島町の五本辻交差点です。

写真右端の建物は「高崎市美術館」、その左に接した鬱蒼たる樹木は旧井上房一郎邸の生垣、今は「高崎哲学堂」として美術館から入れます。

八島町は明治三十五年(1902)にできた町です。
一面田んぼだったこの辺りが一町を成したのは、「高崎停車場」誘致に尽力した矢島八郎の功績であるとして、当初「矢島町」とする予定であったが、矢島八郎の固辞により字を変えて「八島町」としたのだと伝わっています。
「矢」「八」に変えたのは、末広がりで縁起がいいからという説と、「八郎」「八」を付けたのだという説とありますが、さて、どうなのでしょう?

ところで「八島町」の読み方ですが、公的には「やまちょう」と読ませるようです。
しかし、迷道院が子どもの頃、周りの人は皆「やまちょう」と言っていましたし、今もそう呼んでる人が多いように思います。
町の由来からすれば、「やまちょう」に改めた方がよいのではないでしょうか。

写真正面の建物が、道を二方向に分けています。
右の道は通称「観音通り」聖石橋を経て観音山へ行きます。
左の道は通称「愛宕通り」、昔の人は「愛宕様」と呼ぶ「愛宕神社」への道です。

大正十三年(1924)には、まだ「観音通り」はありません。

「観音通り」の前身ともいえる「南堀通」というのが、「延養寺」から来る道にぶつかって止まっています。

昭和九年(1934)の地図では、「南堀通」が真っ直ぐ「光明寺」まで延びています。

この直線が、ちょうど高崎城南側の「遠構え」、つまり「南堀」なのです。

まだ「遠構え」の堀が残っていた頃、中山道と交差する堀に「寿橋」という、幅一丈八寸(約3.27m)長さ九尺五寸(約2.88m)ほどの石橋が架かっていたそうです。
明治六年(1873)新(あら)町の篤志家・岡田孫六が架け替えたもので、その時91歳の孫六と、その子源平等三組の夫婦で渡り初めをしたので、「寿橋」と名付けたのだとか。
そういえば、新町源平が営んでいた高級料亭「岡源」も、今は昔の物語となりました。(2023.5.22訂正:「岡田源平」は料亭「岡源」の経営者ではない。)

新田町(しんでんまち)以南の中山道が拡幅され、「観音通り」も拡幅されて聖石橋までスム-ズなラインになったのは、昭和四十年(1965)頃のようです。

その代わりに、「南の遠構え」のラインはちょん切れてしまいましたが・・・。

さて次回はちょっぴり遠回りになりますが、左の道を選んで「愛宕神社」へ行ってみるとしましょうか。


【寿橋のあった辺り】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:17
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2014年09月21日

駅から遠足 観音山(4)

八島町の交差点から、「愛宕神社」へ向かいます。

「愛宕通り」を真っ直ぐ進み、旧中山道を突っ切ったドン突きに、村社「愛宕神社」があります。

貫の上に鳩らしき鳥が二羽とまっている面白い鳥居が、出迎えてくれます。

江戸時代は、八島町からの「愛宕通り」はもちろんなかったので、中山道の通りに面してあった訳です。
現代の地図に江戸時代の絵図を重ねた面白い地図で見てみましょう。

「愛宕神社」の前には高崎宿江戸口の木戸(下の木戸)があり、道は桝形の食い違いになっていて、宿内を見通せないようにしてあるようです。

さらにその南にもう一つ木戸を設けるという、厳重ぶりです。

「下の木戸」があった所には、その後「南町交番」ができて木戸番の役割をしていましたが、今はありません。
高崎宿京口の「上の木戸」があった常盤町にも、かつて「交番」がありました。
どちらも高崎宿の重要な木戸跡なので、何か目印となるものを設けたいものです。

そういえば、相生町には、こんなのが歩道に埋め込まれています。

町のあちこちに、同じようなことができないものでしょうか。
足元を見ると高崎の城下町が見えるなんて、素敵なことだと思うのですが。

境内には、小さな池の中に「厳島弁財天」の社が建っています。

お社は真新しいですが昔からあった弁天様で、池の周りを三回まわると俄かに水が濁って、池の中から白い大蛇が出てくるという言い伝えがあるそうです。

そんな話を知ってか知らずか、池を廻れないように造り直されてしまいました。

由緒によると、「愛宕神社」和田時代に京都から分霊されたとあります。

今は火伏の神として知られる「愛宕神社」ですが、戦国時代には、愛宕山白雲寺本尊の「勝軍地蔵」が垂迹したのが「愛宕権現」だということで、「軍神」として信仰されたようです。
和田氏も、おそらくそういう目的でこの「愛宕神社」を創建したのでしょう。

高崎となってからの元和三年(1617)に、改めて火伏の目的で再建される訳ですが、そのご利益があったのかなかったのか、その後の高崎は度重なる大火に見舞われています。

元和七年(1621)四ッ屋町より出火、城下の人家悉く焼亡。(道観火事)
享保十年(1725)通町より出火、風下六ケ町焼失。
享保十二年(1727)田町より出火、新喜町(現和田町)まで全焼。
宝暦九年(1759)北廓(柳川町)より出火、前栽町(現下横町)まで焼失。
宝暦十三年(1763)新(あら)町より出火、新喜町(現和田町)まで217戸焼失。
寛政十年(1798)本町より出火(放火)、城内藩邸380戸、町屋1080戸焼失。
文化四年(1807)羅漢町より出火(放火)、580戸焼失。
文化九年(1812)本町より出火、900戸余焼失。
文政十二年(1829)四ツ屋町より出火、580戸焼失。
天保十四年(1843)赤坂町より出火、高崎宿全町焼失、死者7名。(恵徳寺火事)
嘉永元年(1848)中紺屋町より出火、風下の町大半焼失。
文久二年(1862)本町より出火、全宿の大半焼失。(百足屋火事)
明治十一年(1878)住吉町より出火、700戸余焼失。
明治十三年(1880)本町より出火、2500戸余焼失。(越前屋火事)
明治二十八年(1895)通町より出火、663戸焼失。(古市火事)
明治三十七年(1904)鞘町より出火、100戸余焼失。
明治三十七年(1904))通町より出火、180戸余焼失。

社殿の石垣の下に、コンクリートの蓋でしっかり口を閉じられた古井戸が残っています。

明治二十六年(1893)の陸軍演習視察のため高崎を行幸された明治天皇に、この井戸の水を御前水として供したのだそうです。

当時、高崎の水はあまり水質がよくなかったそうですが、この井戸の水は良質であったということです。

井戸の脇には、それを記念する石碑も建っています。

石碑には、明治天皇の侍従であった堀河康隆子爵の詞と和歌が刻まれています。

「明治廿六年秋演習天覧のため たか崎へ行幸ありたる時 公園なる愛宕神社の堀井の水を御ぜん水に用ひられければ」


「大君の みゆきにくみし 此のそのの
            ほり井の水は いく世すむらむ」


(参考図書:「高崎の散歩道 第十二集下」)

さて次回は、この周辺の寄道スポットをいくつかご紹介することにいたしましょう。


【愛宕神社】



  


Posted by 迷道院高崎at 10:44
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2014年09月28日

駅から遠足 観音山(5)

明治四十年(1907)頃の地図らしいんですが、「愛宕神社」の西側に「鎌倉町」というのがあります。


明治六年(1873)にできた町で、大正十四年(1925)には若松町竜見町に分割され、消えてしまった町名です。
消える直前の大正十三年(1924)の地図には、「鎌倉小路」という道が何本かあります。


この中の「鎌倉小路三号」は、通称「小万坂」と呼ばれています。
「小万坂」については、過去記事「鎌倉街道探訪記(4)」をご覧ください。

ということで「鎌倉町」という町名は、ここに「鎌倉街道」が通っていたというのが由来なのですね。
残しておきたい町名でした。

鎌倉時代に由来する「興禅寺」が、近くにあります。

上のリンク先にあるように、このお寺はもともとこの場所にあった訳ではありません。

治承元年(1177)創建で高崎旧市内では一番古いお寺ですが、高崎城築城の際に城内に入ってしまった結果、修行僧や檀家の人が城内に大勢出入りすることになってしまいました。

これは寺側も城側も具合が悪いということで、天保十年(1839)になって城の外へ移された訳です。

←山門の天井を見ると、雨漏りの痕のような黒いシミがあります。

肉眼ではシミのようにしか見えないのですが、画像処理をしてみるとこれは絵であることが分かります。↓






高崎の絵師・武居梅坡(たけい・ばいは)の描いた、天井画「雲龍の図」なんです。

明治二十八年(1895)に、通町から出火して663戸を焼失したという大火の時、この龍が盛んに水を吐いて、この山門を護ったと伝わる貴重な天井画です。

何とか、復元保存できないものでしょうか。

現在の興禅寺は面白い配置になっていて、山門を潜ると児童公園(写真左側)で、道を渡った先に本堂と境内(写真右側)があります。

この道路には、かつて「遠構え」の堀が通っていました。
道路が拡幅されたために、「興禅寺」の墓地は八幡霊園に移されています。

境内の入り口に、不思議な銀杏の木が立っています。
幹が縦にスパッと削り取られているんです。

察するところ、拡幅した道路にはみ出しちゃうんだけど、「保存樹木」に指定されてるから伐り倒す訳にもいかず、幹を削り取ってつじつまを合わせたのでしょう。

なんだかなぁー。

もうひとつ、何とかして欲しいものが近くにあります。

佐藤病院にある、この石です。
ただの庭石に見えますが、「和田三石」のひとつで「下和田の方石(かくいし)」と呼ばれる、高崎の歴史上貴重な石です。



まさか、貴重だから人目に付かないように隠している訳でもないでしょうが、屋外休憩所の陰に押し込められていて、それと知らなければおそらく気づく人もないでしょう。

過去記事を見たら、6年前にも同じようなこと書いてました(笑)

やれやれ、今日は愚痴と文句で終わってしまいました。
次回は、どうなりますことやら・・・。


【興禅寺山門・下和田の方石】


【小万坂の小万地蔵】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:41
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2014年10月05日

駅から散歩 観音山(6)

高崎市民には、お馴染み過ぎるほどお馴染みな「高崎山龍廣寺」(龍広寺、竜広寺)です。

慶長三年(1598)に箕輪から和田の地に移ってきた井伊直政が、箕輪「龍門寺」白菴秀関(はくあん・しゅうかん)和尚を招いて開山したお寺です。

箕輪の「龍門寺」も、天正十八年(1590)に箕輪城主となった直政が創建したお寺で、その時に野州(現栃木県)の「大中寺」から招いたのが白菴和尚だったのです。
ということで、直政が如何に白菴和尚を気に入っていたかが分かります。

そしてこれもまた有名な話ですが、直政「和田」という地名を「高崎」と改めたのも、この白菴和尚に相談して決めたと伝わっています。
「新編高崎市史」では、「伝承」とした上で、高崎の歴史書の原典ともされる「高崎志」(寛政元年/1789/川野辺寛)の記述を、現代語に訳して紹介しています。

和田城跡に城が完成したとき井伊直政は、この地を松が崎という名前に改めようと思った。
そこで日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職白菴に話した。
これを聞いた白菴は、『もっともなことではありますが、諸木には栄枯があり、物には盛衰があるのは珍しいことではありません。
殿様が、家康様の命令を受けて和田の地に城を築いたのは、権力の頂点に立った大名に出世されたからであります。そうであれば「成功高大」の意味を採って高崎と名付けた方がよいのではないでしょうか。』と話した。
白菴和尚の含蓄のある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに和田を高崎と改めた。
そして白菴和尚が箕輪から転住した龍広寺の山号に「高崎」の二字を与え、感謝の意を表した。」

ところが、これと同じような話が赤坂町「恵徳寺」にも伝わっています。

「恵徳寺」参道入り口の築地塀には、その由来を刻んだ石板まで埋め込まれています。↓


これによると、直政が相談したのは「恵徳寺」龍山英潭(りゅうざん・えいたん)和尚であり、「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」から「高崎」としてはどうかと言ったとあります。

「新編高崎市史」では、「恵徳寺説」については一言も触れてませんが、「高崎志」には小さな文字で、こんな記述がされています。
里老ノ説ニ、恵徳寺ノ開山英潭ナリト云伝ヘタルハ蓋(けだし)誤也。今竜広寺ノ古記ニ従フ。」

「村の年寄りがそう言ってるだけだ。」と一蹴されちゃってて、何だか気の毒なようにも感じます。

「高崎志」にはまた、それらとは別のこんな説もあると書かれています。
又一説ニ、直政命を奉テ、松枝(松井田)安中和田倉賀野ノ地ヲ検スルニ決定シカタ(難)カリシ故、試ニ鷹ヲ放チ其集ン所ヲ城地ト定ムヘシトテ、一モトノ鷹ヲ放サル。
其鷹飛テ、今ノ本城ノ地ニトゝ(留)マル、因ミテ、其地ニ城(築き)テ鷹崎城ト名ツケラル。
後、高崎ニ更(あらた)ム。」

しかしこの説も、取りあってもらえません。
和訓相近キ故也ト云リサレトモ、当時ノ記載ニ鷹ノ字ヲ用タルヲ見ス。
且其所伝(かつその伝わるところ)、村老野嫗(村の老女)ノ謬説に似タリ。
故今不取(故に今はその説を取らず)。」

という訳で、高崎という地名の由来については「龍広寺説」「恵徳寺説」、さらにはどちらにも属さぬ「鷹崎説」の三つが知られていますが、どうやら一般的には「龍広寺説」が支持されているようです。

ところで、あまり知られていないもう一つの説があるのをご存知でしょうか。
次回は、その説をご紹介することと致しましょう。


【龍広寺】


【恵徳寺の高崎命名由来石板】



  


Posted by 迷道院高崎at 09:12
Comments(2)観音山遠足

2014年10月12日

駅から遠足 観音山(7)

「高崎」という地名由来の続きです。
「龍広寺説」「恵徳寺説」「鷹崎説」の他に、もう一つの説があるというお話しです。

おそらくその説を最初に唱えた人物は、あの「早川圭村」です。
大正十二年(1923)発行の「上毛及上毛人 第78号」に、「高崎と云ふ地名 慶長年中築城當時の命名なりと云へる説の疑義」という題で、自説を述べています。
井伊直政が和田の地名を佳名と變更せんと欲して諮問したるが、白庵にせよ英潭にせよ高崎可なりと答へたるは、想ふに高崎と云ふ文字を新に撰定して答へたるには非ずして、其當時或は公稱にはあらざりしかも知れざれども、現在に高崎或は烏川の兩岸高き處一帶を高崎と呼び來りたるを以て、其れを取て高崎と命名すべしと答へたるならん、」

白菴にせよ英潭にせよ、同じ「高崎」という地名を薦めたということは、新たに作り出した地名ではなく、既にその辺りが「高崎」と呼ばれていたからである、という訳です。

続けて、そう考える理由について述べています。
高崎の地勢を按ずるに、烏川は其突出せる絶壁下を貫流し、對岸遙に片岡の丘陵と對峙し此中間は平坦なる低地なり、(略)
海洋或は河川に突出したる地をと呼べるは普通一般にして其例證少なからず、故に斷岸が突出したる地勢を形容して此邊一帶を高崎と稱したる者ならん。」

たしかに直政が先に提示した地名も「松が崎」、鷹を飛ばして城の場所を決めたという説でも「鷹崎」と、いずれも「崎」が付いています。
「高」についても白菴「成功高大」から、英潭「高さには限りがない」からと、その理由が異なるにも拘らず、同じ「高崎」という名前を薦めているのですから、この説、一理あるかも知れません。

圭村は、「それだけなら自分の憶測に過ぎないが、動かざる証拠がある。」と、次の書物の存在を挙げています。
其證據とは何ぞや、曰く信濃宮傳(しなののみやでん)と稱する小冊子あり、信濃宮とは後醍醐天皇第三皇子宗良親王を稱し奉るなり、
其御傳記應永十年(1403)四月の條に、高崎安中碓氷等の敵を衝いてやうやうに信濃に入らせ給ひけり云々とあり、此御傳記は著述の年月著者の氏名は有らざるも、其文章と記事の体裁等より、察するに、蓋し足利末世頃の著作ならん、
又永祿十年(1567)の北越家書高崎の名あり、北越家書は帝國大學にて編纂せる編年史に引用したり、
箕輪軍記箕輪落城後の事を記したる條項にも高崎の名あるも、此書は信を措き難きも、信濃宮傳と北越家書は充分信用すべき者なり」

大正四年(1915)に信濃教育会下伊那部会が古書・古記録・古文書を収集して活字化した「伊那史料叢書」の中に、「信濃宮傳」が収められています。

圭村は、こう結論付けます。
依て考ふるに上毛の高崎も天然の地形に依り大分縣別府の高崎山、千葉縣安房の高崎の如く夙に地名として呼びたる者ならん
殊に信濃宮傳、北越家書に高崎の名稱存するより察すれば、假令(たとえ)公稱には非るも土地の人々が常に稱呼しつゝ在りしを、白庵或は英潭が取て以て、高崎と命名すべしと井伊直政の諮に答へし者ならんと信ず、
故に高崎と稱する名稱は慶長中新に命名したる者に非ず古來稱し來りたる名稱ならん。

つまり、「高崎」という地名は、直政が命名する以前から使われていたんだよ、という訳です。

そして、最後にこう付け加えています。
記して以て四方有識諸君の埀教を仰ぐ。」

この説に、自信があるんでしょうね。

たぶん圭村の説を意識したのでしょう、昭和二年(1927)に発行された「高崎市史」「第三節 和田ト高崎トノ名稱」の項には、「龍広寺説」「惠德寺説」「鷹崎説」に加えて、「高崎既存説」も取り上げられています。
そこにはさらに、圭村が挙げた以外の書物や古文書も紹介されています。

さて、それについてはまた次回、ご紹介することといたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:32
Comments(2)観音山遠足

2014年10月19日

駅から遠足 観音山(8)

昭和二年(1927)発行の「高崎市史」に記述されている、井伊直政命名以前に高崎という地名が使われているという古書の数々です。

1.信濃宮伝應永十年四月の條ニ高崎、安中、碓氷等ノ賊ヲ破リ云々
2.永録十年ノアル書
(北越家書?)
此ノ名(高崎)アリ
3.箕輪落城記高崎トアリ
4.上州故壘記高崎城、在群馬郡、始封ノ人未ダ詳ナラズ云々
天正十八年、和田改易セラレ、箕輪ト高崎トヲ井伊兵部少輔直政ニ給フ箕輪ヲ居城トス、後ニ箕輪ヲ廢シテ高崎ニ移ル云々
高崎既ニ信玄ニ属シ、石倉ニ砦ヲ下シ、前橋ヲ押ヘシム云々
5.上野風土記寺領記高崎(赤坂本名)大信寺云々

そしてもうひとつ、九蔵町に住んでいた反町徳太郎氏が所蔵する古文書が紹介されています。

市内九蔵町ニ住スル、反町徳太郎氏ハ、和田氏ノ重臣タル反町大膳亮ノ後裔ト云フ、古文書一通ヲ蔵ス、
文書ハ大膳ノ嫡孫清實ガ祖父ノ武功ヲ記シタルモノニシテ、其一節ニ、武州金窪ノ戦(時ニ天正十年瀧川一益ト、北條氏直トノ戦ニシテ和田氏ハ北條ニ属ス)我等(大膳)一番槍ヲ入レ、其上持参、和田兵衛ニ見セ、夫ヨリ高崎城迄持参云々、
此ノ他文中高崎ノ名ニ三ヲ記ス。」

というのですが、掲載されている古文書の写真を見ても、それがどこに書かれているのか分かりません。↓



年月はだいぶ下って、昭和四十九年(1974)高崎市社会教育振興会が発行した、「中山道高崎宿史」という本があります。
編集したのは、高崎の郷土史家・根岸省三氏です。

その中に「高崎村の起源」という項があり、早川圭村の名前こそ出てきませんが、「信濃宮伝」他の古書を挙げて、井伊直政の命名以前に「高崎」と呼ばれていたとしています。

しかも、書物以外の物証もあるというのです。

並榎町の「万国古美術店」というところに、「納奉天正二年(1574) 十九才 高崎村諸岡八十治」と刻まれた鉄製の草鞋があった、というのです。

ただ、実に残念なのは、その鉄製草鞋の写真がなぜ掲載されていないのか、どこに奉納されていたものなのか、全く記述されていないことです。

並榎町の「万国古美術店」もどこにあったのか、さっぱりわかりません。
鉄製草鞋は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
もしご存知の方がいらっしゃったら、ぜひ情報をお寄せ頂きたいと思います。

井伊直政が命名する以前に「高崎」という地名があったと言い切るには、やや疑問が残るのは確かです。
ですが、迷道院は敢えて「高崎既存説」を支持したいと思うのです。

おそらく直政は、龍廣寺の白菴和尚と恵徳寺の英潭和尚の両方に相談したんだと思います。
白菴和尚は箕輪城時代から直政が信頼する和尚さんですが、一方の恵徳寺も直政が伯母・慧徳院宗貞尼のために創建したお寺です。
縁の深い両寺に相談したとしても、不思議ではないでしょう。

もしかすると直政は、自分の諮問した「松ヶ崎」という地名を、けっこう気にいってたのかも知れません。
どちらかの和尚さんが「松ヶ崎、いいじゃない。」と言ってたら、それで決まっていたような気がします。

さて、高崎の名前由来でだいぶ長居をしてしまいました。
次回は聖石橋を渡って、観音山を目指しましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 20:26
Comments(4)観音山遠足

2014年11月09日

駅から遠足 観音山(9)

観音山への入口ともいうべき、「聖石橋」です。

昭和六年(1931)に木橋からコンクリート橋に架け替えられ、平成十九年(2007)には拡幅されて立派な橋になりました。

昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」によると、
ここははじめ渡船場として新田町(しんでんまち)の持ちであった。
この付近には城下下に木戸番所があり、橋はなく舟で渡していたもので、のちに石原村持ちとなって、舟をつなぎ、その上に板を乗せた舟橋が、毎年十月につくられ、翌年四月にそれを撤去したのは、豪雨のために舟橋が流失するからで、夏は従って舟渡しとなった訳である。
のちに土橋ができたが、巾六尺に過ぎず、しかもこれは石原村の設営であったから、当然渡し賃金を徴収していた。(略)
明治三十年(1897)頃も板を敷いた仮橋で、大人一銭子ども五厘の橋銭をとっていたが、吉井街道が県道に指定された大正年代になって木橋になった。
さらに昭和九年(1934)に高崎地方で特別大演習が挙行されるにあたり、乗附練兵場が観兵式式場となり、天皇陛下が親しく御臨幸になるためこの橋もその時鉄筋コンクリートの永久橋に改造された。」
ということです。

このことについて、実は市史編纂委員のN先生から、新資料が発見されたとして、2年前にこんなお手紙を頂戴していました。
明治十三年(1880)十二月聖石橋木橋ができ、税金ではなく地元有志が出資建設した橋なので有料橋となり、5年おきに橋銭徴収願いが出されていました。
ところが、明治三十四年(1901)の継続出願に際して、『無料にした方が人民の益になるのではないか、不許可にしたいが高崎市の意見を聞きたい。』と、群馬県から高崎市へ諮問があった。
高崎市議会は、地元有志の橋建設負債を肩代わりすることや、今後生ずる橋の維持管理費などに難色を示して、相変わらず有料が続いたらしい。明治四十二年(1909)には値上げ願いが出されている(一人5銭→6銭)。
結局、昭和六年(1931)にコンクリ橋ができるまで有料だったらしいが、その辺の細かいことがよく解らない。」

「君ヶ代橋」も、明治十一年(1878)まで橋銭を取っていたらしいですが、明治七年(1874)開校の「豊岡小学校」の創設資金に充てたそうです。(過去記事「なんじゃ、これ?」
「聖石橋」の橋銭も、きっと村のために役立てたんだと思いますが。

「聖石橋」の名前の由来となった「聖石」は、相変わらず草木に埋もれて見ることができません。

これも過去記事で、さんざっぱら嘆いておきましたので、改めて嘆きたくはないのですが、やっぱり「あ~ぁ・・・。」と出る溜息は抑えられません。

今、「聖石橋」の上流側では、「桜観音橋」「天然芝サッカー場」の工事が盛んに行われています。


烏川に親しむ施設としてとても良いことだと思うのですが、併せて高崎の歴史的名勝「聖石」の整備も忘れないようにしてほしいと思うのです。

「聖石橋」の下流側から国道の方を振り返ると、水門のようなのが見えますが、ここが「高崎城遠構え」の落とし口です。





現在は遠構えもすべて暗渠になってしまっていますが、「龍廣寺」東のこの細い道が遠構えの跡です。

明治三十五年(1902)発行「大日本宝鑑 上野名蹟図誌」「龍廣寺之景」には、遠構えが水路として描かれています。↓


「龍廣寺」付近は水量が多く勢いもよかったようで、水車が幾つも設けられていたそうです。

橋を渡り、石原の信号を渡った右側に「聖石神社」があります。

石燈籠には、昭和二十七年(1952)と刻まれていますので、神社もその頃祀られたものでしょうか。

石燈籠の奉納者は、あの田村今朝吉翁でした。











柔らかい三国石で造られた石祠は、少し崩れている部分もありますが、見事な彫りです。

さ、次回はもう少し先へ進みましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 21:46
Comments(4)観音山遠足

2014年11月23日

駅から遠足 観音山(10)

観音山へのゲートのような、石原歩道橋。

「ようこそ、観音山へ!」の横断幕でもあったら、いいんじゃないでしょうかねぇ。

歩道橋の手前を左斜めに入っていくと、「あかりの資料館」があります。
私設の資料館ながら、実に充実しています。
ぜひ、お訪ね頂きたいおすすめスポットです。

歩道橋をくぐってすぐ右角に建っている大きな塔は、「七士殉職供養塔」です。

昭和十年(1935)にこの付近を襲った大洪水の際、救出にあたって殉職した高崎第15連隊の兵士7名の慰霊供養塔です。
   (◇過去記事「七士殉職供養塔」

この大洪水で、連隊兵営(現城址公園)と烏川右岸の「乗附練兵場」とを結ぶ「振武橋(しんぶばし)」も、流失しています。

「振武橋」は、昭和九年(1934)の陸軍大演習の最後に「乗附練兵場」で観兵式が行われ、天皇陛下が行幸されるために架けられた橋で、当初は「行幸橋(みゆきばし)」と呼んだようです。

一般人が利用する橋ではなかったためか、当時の地図を見ても記載されておらず、どの辺に架かっていたのかよく分かりませんでした。
ところが、別件で「陸軍特別大演習竝地方行幸髙﨑市記録」という本を見ていた時、それらしき橋が描かれている図を見つけました。



分かりますか?少し拡大してみましょうか。


でも、どこなのか分かりませんよね。
そこで、昭和9年の高崎市街図に橋の線を写してみました。
(方位は「整列位置要図」に合わせてあります。)


ちょうど、今の「和田橋」の辺りだったんですね。

さて、話を戻しましょう。

今は「聖石橋」から清水寺の石段下まで、道はまっすぐ通っていますが、この「観音道路」が出来たのは、昭和七年(1932)でした。

それまではというと、写真の「七士殉職供養塔」から斜め右に入って、くねくねと曲がりながら石段下に至るという細道でした。

次回は、その道筋をご紹介いたしましょう。



  


Posted by 迷道院高崎at 11:11
Comments(6)観音山遠足

2014年11月30日

駅から遠足 観音山(11)

「聖石橋」からの「観音道路」が出来る前、昭和六年(1931)の石原地区の地図です。
当時、「聖石橋」から「観音山」へ行くには、赤色のルートを通っていましたが、現在のどの道なのか、見当がつかないかも知れませんね。

「観音道路」(橙色)を描き込んでみると、こうなります。


「観音道路」は昭和七年(1932)に開通していますので、昭和九年(1934)の地図には記載されています。


現在は「観音道路」北側の区画整理が進み、昔の道とは少し変わってしまっています。



では、なるべく昔の道を辿りながら歩いてみましょう。

前回お話ししたように、「七士殉職供養塔」の所を右斜め、片岡小学校に沿って進みます。






「七士殉職供養塔」の背面には、「髙﨑市民一同」と刻まれています。
市民の寄付で建てたのでしょうか、それとも市民が納めた税金で建てたという意味なのでしょうか。

前面には、七士が殉職した経緯が刻まれ、その前にはいくつもの穴が開いた石の香台が備えられています。

建立後78年経た今なお、お賽銭やお供物を手向ける方があり、この日は、お賽銭を使って買ったという菊の花が供えられていました。

明治七年(1874)からの、歴史ある「片岡小学校」です。





校庭に沿って進み、変則四叉路を左前方へ入ります。

150mほど行って、「長谷川医院」の角を左に曲がると→







「観音道路」に出ます。

右前方には、大きな椋(むく)の古木が聳え、その根元には「片岡歴史之碑」が建っています。

ちょうどこの場所が、「観音道路」によって旧道が分断された地点です。

「観音道路」ができる前、ここには「峯下の用水堀」と呼ばれる、「金ヶ崎用水」の水路が通っていて、旧道にはその水路を跨ぐ「旭橋」という石橋が架けられていました。

「観音道路」開通により水路は暗渠となり、「旭橋」も撤去されましたが、その用材は椋の木を取り囲むように置かれ、今もその名を留めています。

この地区の人々の、郷土を愛する心が伝わってきます。

さて、旧道は椋の木から左へ入る細道です。

この続きは、次回といたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 11:01
Comments(2)観音山遠足

2014年12月07日

駅から遠足 観音山(12)

「片岡歴史之碑」から観音山への旧道に入ります。




旧道に入ってすぐ左に見える広ーい敷地は有賀家で、もと「有賀園ゴルフ練習場」のあったところです。
「有賀園ゴルフ練習場」は昭和三十六年(1961)に開設された北関東初の本格的練習場で、埼玉や栃木、長野からも沢山のゴルファーが押し寄せたそうです。
高いゴルフネットがあったのを私も憶えていますが、いつごろ撤去されたのでしょう。
昭和六十年(1985)に下之城町に本店ができたようですから、その頃なのでしょうか。

また、片岡小学校が現在の場所に来たのは昭和二年(1927)で、それまではこの「有賀園ゴルフ練習場」の場所にあったんだそうです。

広い敷地が終わる辺りは少し上り坂になっていて、小さな橋が架かっています。






そこには「新川」という川が流れていて、下流側の土手上をずーっと行って、途中から川と別れてまっすぐ行くと、吉井街道の「小祝(おぼり神社)」のとこに出ます。

橋の上流側には、「寝観音」のお堂が見えます。

「観音道路」からも入れますが、昔の人の気分になって、この土手から行ってみるのもいいんじゃないでしょうか。

橋を渡って道なりに進むと、何やらケバケバしい看板の立ち並ぶY字路に出ます。

通称「羽衣(はごろも)線」と呼ばれる道路ですが、天女連れで休憩する場所が林立しています。

「ああ、それで羽衣線なんだ。」と納得しちゃいけません。

この先、「洞窟観音」から山頂までの坂に「羽衣坂」という名前がついています。






その坂の途中に、「羽衣坂開鑿之碑」というのが建っています。

碑文に、このようにあります。
昭和五年庚子年 清水観音山に矢嶋翁の銅像を建設するに際り 片岡の地主等諸氏は便を以つて新たに坂路を開鑿せんとするや 銅像建設に■(與?)る有志諸氏も亦之れに賛し 金を醵して■(貲?)に充て 地主は土地を供するありて五月ユ(工?)を竣り 之れに命して羽衣坂と曰ふ 是れ山上古松の名に取る所以なり
諸氏皆善と称し乃ち石を樹てゝ梗概を叙し 之れを後に傳ふと云ふ」

ということで、前述の「羽衣線」という道路名は、この「羽衣の松」「羽衣坂」がその由縁となっている訳です。

清水寺の裏山には今も立派な松林がありますが、どれが「羽衣の松」なのか、あるいはどこに「羽衣の松」があったのか、何の標記もありません。




「羽衣坂」開鑿のきっかけとなった矢島八郎翁の銅像も、その松林の中から高崎の町を見下ろしています。

高崎観音山の歴史に大いに関わることとなった「羽衣の松」
今あらためていずれかの松を選び直し、「この松を『羽衣の松』と命名する!」としてもよいのではないでしょうか。
関係各位のご判断を仰ぎたいものです。

さて次回は再び「羽衣線」のY字路に戻り、清水寺の石段下へと向かいましょう。


【羽衣坂開鑿之碑】



【矢島八郎翁銅像】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:59
Comments(0)観音山遠足

2014年12月14日

駅から遠足 観音山(13)

「羽衣線」のY字路から清水の石段下へ向かうと、建設機械が盛んに地面を掘っていました。

ここは、つい最近までこんな風景でした。

東日本大震災で屋根の棟が崩れてしまっていますが、立派な煉瓦蔵がありました。

ぐるっと回って玄関の方から見ると、こんな感じのお屋敷でした。
このお屋敷、白衣大観音と同じ昭和十一年(1936)建築の旧・福田邸です。

屋敷の角に「伊香保温泉 福一」の大きな看板があります。

「なぜここに福一?」と思われるかも知れませんが、「福」の字でご推察頂けると思います。
昔、伊香保の「福一」に奉公する仲居さんは、そのほとんどが田舎出の若い娘さんでした。
その娘さんたちに、この福田邸に住込みで行儀作法を教え込み、一人前になってから送り出すという、いわば「福一」の教育施設だったのです。

4年前、ある方のご紹介で、このお屋敷を見学させて頂く機会を得ました。
その時は、既にオーナーの方はこのお屋敷の売却を決意されていて、家の中の品々の整理をされているところでした。
売却するにあたって建物はすべて解体して更地にしなければならないというお話で、実に残念に思いましたが、オーナーさんはもっと残念なお気持だったことでしょう。
ブログ記事にしないというお約束で、写真を撮らせて頂きました。

今年の9月、オーナーさんから「いよいよ解体することになりました。」というお電話がありました。

さっそく解体現場に駆け付け、惜しみつつ旧・福田邸とのお別れを致しました。

今はもう見ることのできない素敵な旧・福田邸ですが、ブログ掲載については快諾して頂きましたので、皆さんには4年前に作成したスライドショーで見て頂きましょう。(BGMあり)


さて今回はここまでとし、次回は、清水寺の参道です。


【旧・福田邸跡】




  


Posted by 迷道院高崎at 09:25
Comments(6)観音山遠足

2014年12月21日

駅から遠足 観音山(14)

清水寺の参道です。

今はこの参道を通って観音山へ登る人は本当に少なくなりましたが、かつては、ここから石段を上っていくルートが当たり前でした。

正月の初詣、春の花見、そして冬の「十日夜」(とおかんや)と、折につけて人々はこの参道を通って清水寺のご本尊・千手観音にお参りをしました。
それが、「観音山へ行く」ということだったのです。

特に、旧暦十月十日(新暦十一月二十三日頃)の「十日夜」は、遠く新潟や埼玉から泊りがけで参詣する人も多く、右の錦絵に描かれているような、大変な賑わいぶりだったようです。

その賑わいは昭和初期まで続いたようで、実際に体験した方の貴重なお話を聞いてみましょう。↓


「十日夜」は北関東を中心に甲信越から東北地方南部にかけて分布する行事で、今年の収穫を祝うとともに来年の五穀豊穣、養蚕倍盛を祈るものだそうです。

私は実体験がないのですが、子どもたちが稲藁を束ねた「わらでっぽう」で地面を叩きながら歌を歌うようで、石原地区ではこんな文句だそうです。
十日ん夜、十日ん夜、十日ん夜はいいもんだ
朝ソバキリに、昼ダンゴ、ヨー飯食っちゃ、ぶったたけ」
(山口豊氏著「清水の歴史散歩」より)

賑やかだった「清水観音十日夜」が廃れてしまった理由はいくつかあるのでしょうが、もしかして昭和初期の相次ぐ観音山観光振興策がその一因になったとすれば、何とも皮肉なことです。

昭和五年(1930)の羽衣坂開鑿、昭和六年(1931)の聖石橋コンクリ化、昭和七年(1932)の観音道路開通、昭和九年(1934)の遊覧道路開通、昭和十一年(1936)の白衣大観音造立、そして山頂行きバス運行の始まりによって、人々は清水寺の石段を経ずに観音山山頂へ行けるようになり、白衣大観音が観音山観光の中心になっていく訳です。
観音道路から羽衣線に入る手前を右折し、護国神社から来る道と合流し、レストラン風車の前を通って平和塔に至る。

かくして「清水観音十日夜」の賑わいは、現在「少林山だるま市」にその座を譲った感がありますが、「観音山」の名の由来となった「清水観音」のお祭りをもう一度復活させたいものです。

その仕掛けとして、前々から「幸福の楼門作戦」というのを提唱しているのでありますが・・・。
 ◇過去記事「幸福になれる石段」

嬬恋村の方では、「キャベツ畑の中心で妻に愛を叫ぶ」、通称「キャベチュー」とやらで盛り上がっているようです。
わが方では「清水の中心から幸せを叫ぶ」、通称「キヨチュー」でどうでしょう?
「幸福の楼門」から高崎の町に向かって大きな声で叫ぶんですよ。
「お前を幸せにするぞー!」とか、「あなたの奥さんになって幸せよー!」とか。

観音山にはオリエンテーリングのパーマネントコースもあります。
「婚活オリエンテーリング」なんてのをやって、知り合ったカップルが「キヨチューブライダル」なんてことになったら、素敵じゃないですか。
そして、「キヨチューベイビー」の誕生なんてね。

地元の方々、如何なもんでございましょうか?


  


Posted by 迷道院高崎at 08:31
Comments(6)観音山遠足

2014年12月28日

駅から遠足 観音山(15)

清水寺参道に入ってすぐ右、「觀音道路開鑿碑」という大きな碑が建っています。

当初、「羽衣線」に曲がる道路の角地にあって、一緒に開鑿の謂れを刻んだ碑もあったそうですが、道路を拡張するので現在地に移した時、謂れの碑はどこかに紛失してしまったということで、実に残念なことです。

裏面には、
  「共通善道共益平和
   正心観音正道極楽
            徳明」

と刻まれています。

「徳明」とは、洞窟観音と徳明園の創建者、山田徳蔵翁です。





その下には、世話人として片岡村最後の村長で小祝神社宮司の松本喜太郎、地元の市議・片山藤次郎、そして山田徳蔵をはじめ市内の呉服商人の名がずらっと刻まれています。

市内の呉服商たちが、なぜ「観音道路」開鑿の世話人になったのでしょう。
きっと、紛失したという謂れの碑にはその理由が刻まれていたのでしょうが、今となっては推測するより仕方ありません。

ひとつには、前回ご紹介した「清水観音十日夜」との関係が考えられそうです。
「十日夜」は五穀豊穣・養蚕倍盛を祈る行事ですから、養蚕あっての呉服商人たちが資金面で協力したのでしょう。

もうひとつは、明治以来、石原村には多数の糸繭商が存在したということです。
明治二十年(1887)には14人が糸繭商を営み、その内7人は製糸業も兼務しています。
中でも、山口亀太郎氏は質屋業、茂木覚太郎氏は酒穀類商も営むという豪商でしたから、昭和期に入っても村と市内の呉服商との関係は強かったのではないでしょうか。

さて、この先に「井桁の井戸」というのがあるんですが、長くなりそうなので次回に回すことにしましょう。

(参考図書:「清水の歴史散歩」「高崎の産業と経済の歴史」)


  


Posted by 迷道院高崎at 07:41
Comments(4)観音山遠足

2015年01月04日

駅から遠足 観音山(16)

清水寺の石段の手前に、首を傾げた手押しポンプの付いた古井戸があります。
四角い石を井桁に組んでいるので「井桁の井戸」と呼ばれています。


側面をよく見ると、「井桁」と文字が刻んであります。

「清水」という字名が示すように、観音山の麓には清らかな水が湧き出ていましたが、山上はその逆に水はほとんど出なかったようです。

清水寺を参詣する人の喉を潤したこの井戸の水は、山上の清水寺にとっても無くてはならないものでした。
毎日、毎日、五百数十段の石段を上り下りして水を運び上げていたのだそうですから、それは大変なことだったでしょう。

それにしても、なぜそんな水のない山上にお寺を造ったりしたのでしょうか。
実はあまり知られていないのですが、もともと清水寺というお寺は山上にあった訳ではないのです。
1990年に制作された「観音山のむかしと今」という映画に、その話が出てきます。


この映画によると、清水寺が山上に移ったのは明治になってからということなんですね。
ただ、その辺の経緯がよく分かりません。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。

山上に水がなくて困ったのは、清水寺だけではありませんでした。

昭和九年(1934)九月から着工した白衣大観音の建設現場にとっても、それは大変なことでした。

白衣大観音建設秘話を知る、井上工業の番頭格であった横田忠一郎氏は、その著「高崎白衣大観音のしおり」の中で、次のようなエピソードを紹介しています。
工事は順調に進んだが、山上の事で水が無く、中途で行き悩みの状態となった。こんな大工事に、いちいち水を下からくみ上げるようでは仕事は進捗しない。仕方がないので井戸を掘った。しかし水は出ない。いくつも井戸を掘った。こんな悩みの日が幾日か続いた。
ある日のこと、翁(井上保三郎)は、観音さまの工事現場から帰宅して疲れを休めようと体を横にした。いつ寝入ったのか、ずるずると眠りに落ちてしまった。それから数刻を経たか、突然眠りから覚めた翁は、『不思議だな。不思議だな。』と自問自答して頭を傾げた。

翁は、翌朝夜の明けるのを待って現場に急いだ。土工たちは、こんなに早く、しかもいつもの翁とは、顔つきが違うように見えて不思議でたまらなかった。
『さあ、今日は、皆も元気を出して私の言うようにやってみてくれ。他の事はほっといて、力を合わせて観音様の後裾の下になる所を掘ってくれ。』と、翁に言われるままに、その所を掘り始めた。
『旦那は今日はとても変だぜ。』小声で土工たちが話しながら力強くツルハシを振り上げ、幾時間も一生懸命に掘り下げた。

短い一日の陽は、はや近々の山に落ちようとしていた。その時である。
『水だ!』
『アッ!水だ!』
土工たちは狂喜した。
その声を聞きつけた翁は、土工たちを押し分けて井戸をのぞいた。
『アッ!水だ!ありがたい。』
翁は手を合わせた。熱い感謝の涙が目頭を光らせた。

このありさまを呆然と眺めていた人夫の一人は、翁の側に寄って、『旦那、何かあったのですか。』とおそるおそる尋ねた。
『ウン』とうなづいて、翁は静かに語り出した。
『実は昨夕現場から帰り横になって、寝るともなく、うつらうつらしていると、私の枕元に日頃信仰している白衣の観音さまが現われ、心配するな、水は出る、ここを掘れよと水の出る場所を教えて消えられた。そこで私は目が覚めた。しかし今まで半信半疑でおったが、今日は早くから来て皆にここを掘らせたのだ。こうして水が、しかも清らかな水が湧くのを見ると、夢ではなかったのだ。』」

いい話ですね。

あ、今回はだいぶ長くなってしまいました。
観音山の水の話は、次回も続きます。
では、また。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:11
Comments(8)観音山遠足

2015年01月11日

駅から遠足 観音山(17)

前回の記事でお話ししたように、山上での水が不便だった観音山ですが、昭和十一年(1936)に白衣大観音が建立され、観光客も多くなって茶店や土産物屋ができ始めると、水がありませんでは済まされなくなってきました。

そこで、何とか麓から山上に水を上げる簡易水道を造ろうということになりました。

麓の「旧福田邸」のすぐ脇に、6m×5m×深さ6mという大きな水槽が造られ、ポンプが設置されました。
いっぽう清水寺の裏山には、ポンプアップされた水を溜めて配水する、配水槽が設けられました。

しかし当時のポンプ能力では、麓から山上まで一気に上げることができません。
「仁王門」のすぐ上にも水槽を造り、いったんそこまで上げてからまた山上の配水槽まで上げるという、二段階方式でした。

山上の配水槽は、今も清水寺の裏山に残されています。






金網フェンスで囲まれたその内側に、一基の石碑が建っています。

中へ入れないので、金網の外から文字を追ってみると、こんなことが刻まれています。

(句読点は迷道院加筆)
  「清水簡易水道創設記念碑」
髙﨑ノ勝地觀音山觀光施設宜シキヲ得テ、其名聲一時ニ著聞シ、遠近相傳ヘテ遊覽ノ人士、四季雲集ス。
  然ルニ、水利乏シク住民ノ不便甚シキノミナラズ、公衆衛生上懸念スヘキモノ多シ、有志之ヲ憂ヒ、苦心講究簡易水道ヲ設クルノ策ヲ建テ、昭和十三年八月、始メテ清水簡易水道組合を設立シ、髙﨑觀光協會及縣市ノ應援協力ヲ得テ、之カ計畫ヲ樹立シ、工費壹萬五千九百餘圓ヲ以テ、十四年六月其竣成ヲ見タリ。
之ニ於テカ、山上ノ貯水池淵淵清泉ヲ湛ヘ、幾百ノ人家滾滾(こんこん)碧玉ヲ頒(わか)ツ、而シテ尚ホ不時ノ準備トシテ、十五年六月第二水源工事ヲ起シ、工費三千五百圓ヲ以テ十六年五月完成ス、公共ノ爲メ寔(まこと)ニ慶スヘキナリ。
今、之カ記念碑ヲ建テントシ文ヲ予ニ需(もと)ム、乃チ事ノ梗槪ヲ誌シテ其善功ヲ頌シ、兼ネテ、關係員清水簡易水道組合長浦野平六、工事擔當者矢島麟一郎、工事設計並監督落合卯之吉、天野秀、觀光協會役員久保田宗太郎、小林竹次郎、天田瀧治、吉野五郎、秋山萬吉、高橋藤三郎、清塚佐太郎、西村助四郎、星野幸衛、石坂實、係員中島徳次郎、松本民吉諸氏ノ芳名ヲ録スト云爾(しかいう)。
昭和十六年五月 三雲逸史 關吉晴選傡書

ということで、観音山山上に初めて簡易水道が引かれたのは昭和十四年(1939)で、引き続き昭和十六年(1941)に第二期工事がなされた訳です。

昭和二十九年(1954)、簡易水道は清水簡易水道組合から高崎市に寄付されます。
そして昭和四十二年(1967)に上水道が山上まで引かれ、28年間水を供給し続けた清水簡易水道はその役目を終えますが、山上の受・配水槽は上水道用の「清水配水池」として、今なお、現役で利用されています。

清水寺を訪れた際には、ぜひ「清水配水池」へも足を運び、先人たちの心意気に触れて頂けたらと思います。


【清水配水池】




  


Posted by 迷道院高崎at 08:39
Comments(4)観音山遠足

2015年01月18日

駅から遠足 観音山(18)

「井桁の井戸」の先に、お地蔵様なのかな?
あったかそうな帽子をかぶり、綿入れ半纏を着せてもらった石仏がちょこんと座ってます。
どなたのお志か分かりませんが、嬉しいですね。


今日は、その隣に建っている「芭蕉句碑」のお話です。

正風宗師之碑
観音の
  甍(いらか)みやりつ
    はなの雲
芭蕉

恥ずかしながら、徘徊はしていても俳諧には全く疎い迷道院でして、この句は芭蕉さんが清水寺へ来て詠んだものだとばかり思っていました。

しかし調べてみると、深川の芭蕉庵から浅草の浅草寺の屋根を見て詠んだものだそうです。

それでも、「県内二百基ある芭蕉句碑のうち、由緒においてその右に出るものはないであろう。」ということで、高崎市の指定重要文化財になっています。

ところが、有名な郷土史家・本多夏彦氏からは著書「上毛芭蕉塚」の中で、こうこき下ろされちゃっています。

芭蕉句中で一番句碑に多い句で、高崎市清水観音仁王門下にも郷土出身の江戸俳人西馬(さいば)によって立てられている。
これは天保十三年(1842)西馬にすれば開店大売出しともいうべき俳行事に、地方の俗俳どもを煙に巻く必要から、あんな不風流極まるものになったので、高吟が書家の巻菱湖(まき・りょうこ)、テン額と碑背記が小大名ながら天下の諸侯をならべたこけおどしの道具立て、清水寺では鳳朗(ほうろう)の文台で百韻興業というバカ騒ぎの記念だから仕方がない。」

やれやれ、身も蓋もないという感じですが、一応、碑背の刻文も記しておきましょう。

俳聖芭蕉翁の百五十回の遠忌に當れるにあひて、惺庵西馬(せいあん・さいば)兼て追福を営むに社盟数十輩と議り、清水寺内に地を卜して一塚を築り、碑面篆額の贈號は故二條公の粟津の霊室に賜ふ處なり。
今四山これに筆を採、また高韻を書る者は菱湖に聞、清水寺は上毛第一観音の霊場にて洛の清水に景趣等しきと云。
句も亦彼を取てこゝに移す相當
れる成べし。
予、この道に遊ふの因を以て一條の来由を祭主の為にしるす。
維時天保十三年龍集壬寅三月 五品多々良大内瀾長」
(句読点は迷道院加筆)

ま、ともあれ、天下の諸侯を利用して芭蕉の百五十回忌を開いたという西馬さん、どんな人物なのかそこには興味を覚えます。

ということで、次回は西馬さんについてのお話です。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:58
Comments(6)観音山遠足

2015年01月24日

駅から遠足 観音山(19)

今から173年前に、この芭蕉句碑を建立したという惺庵西馬(せいあん・さいば)という人、どんな人物なのか調べてみました。



この碑については、著書「上毛芭蕉塚」(昭和43年発行)の中で「地方の俗俳どもを煙に巻く不風流極まるもの」とか、「こけおどしの道具立て」、あげくは「バカ騒ぎの記念」などとこき下ろしていた本多夏彦氏ですが、西馬については「俳人西馬の一生」(昭和8年発行「上毛及上毛人199号」)で、こう評しています。

兎に角この西馬は、その頃江戸に於ける屈指の大家で、時代は少し違ひますけれども、上州が産んだ江戸の俳人中、全國的な存在としては、矢張り高崎から出た平花庵雨什(へいかあん・うじゅう)と兩大關の觀があり、慥(たし)かに、鄕土の誇りとすべき人物であったのであります。」

話は横道にそれますが、この「俳人西馬の一生」は、昭和八年(1933)十月三日のラジオ放送「郷土講座第八回」の講演録です。
いつもご教示頂いてる先生に教えて頂いたのですが、昭和八年六月二十三日にNHK前橋放送局が放送を開始しており、その開局記念番組として「郷土講座」が行われたようだとのことです。
「郷土講座」は週一回の30分番組だったそうです。

さて話を戻して、西馬です。
本多夏彦氏は、先の話に続けてこんな話をしています。

そこで先ず、西馬が現代の皆様と一番交渉を持っている點は何かと申しますと、高崎の名物に竹の子餅といふのがありませう、あの竹の皮包みにブラ下げた短冊に「竹の子にチラリとあたる夕(ママ)日かな」といふ西馬の句がありますし・・・」

皆さんは、この話に出てくる高崎名物の「竹の子餅」というのをご存知でしたか?
私は知りませんでした。
ネットで検索してみましたが、高崎の名物としてヒットするものはありませんでした。

でも1件だけ、こんなのを見つけました。

タイトルに「竹の子餅」、出版事項に「高崎:天卒庵」と書いてあるじゃありませんか!

写真を拡大してみると、おぉ、あるある、「竹の子尓 ちら里と阿たる 西日哉 西馬」と書いてあります。
これこそ本多夏彦氏の言っている「竹の子餅の短冊」でしょう!

この短冊が早稲田大学のデータベースにあったとは驚きです。

教授の一人が、たまたま高崎で見かけたか、お土産にもらったかした「竹の子餅」の短冊を見て、「お、西馬じゃないか!」、と残してくれたのでしょう。

短冊に書かれている文字の中にどうにも読めないのがあって、いつもお世話になっている連雀町「さいち民芸店」のご主人にご協力を頂きました。

短冊の右側には、こう書かれているそうです。
「たけの子もちは俳人西馬翁が伝へられし
             たくみにして風味最も雅なり」


え?ということは、「竹の子餅」西馬さんが考え出したということなんでしょうか。

短冊の左側は、
「竹の子に ちらりとあたる 西日かな 西馬」
その左に、
「風かをるなり 名物の餅 天来」
だそうです。

私は、「竹の子餅」を製造販売していた「天卒庵」の主の号が「天卒」で、その人が西馬の句に付け句をしたものと思っていましたが、「さいち民芸店」のご主人によると、この字は「卒」とは読めない、「來」であろうということでした。

そこで、「天来」という俳人がいるか調べたところ、西馬さんと同時代に牧岡天来という人がいることは分かりましたが、関係あるのかどうかは分かりません。

うーん、謎の「竹の子餅」です。
どんなお餅なのかも知りたいところですが、早稲田大学のデータベースにも「竹の子餅」本体の写真はありません。
残念です!

がしかしそんな時、奇跡というのは起こるものなんですね。
その話は長くなりそうなので、また次回ということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 21:52
Comments(6)観音山遠足