上毛新聞社が、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録に向けて、県内に点在する「絹遺産」78件を選定しています。
わが高崎市は、その中にあって4件が選ばれています。
この数を妥当とするかしないかは意見の分かれるところかと思いますが、私は「少な過ぎる!」と思っています。
しかしこれを不服として、もっと探し出してブームに乗ろうという動きは、どうも高崎にはなさそうです。
「富岡製糸場っつったっておめぇ、高崎で亜炭が採れなきゃ、あそこにゃ造んなかったんだんべに!」と怒り狂って、観音山中を掘っくりかえして炭鉱跡を探すくらいの勢いが欲しいところなんですが・・・。
東三条通を、沖電気の方から駅の東口に向かって歩いていくと、あれ?というものが目に留まります。→
「栄光ゼミナール」でも「パーキング栄町」でも「高崎うどん」でもありません。
←「蚕霊供養塔」と刻まれた立派な石塔と、「まゆ工場跡地」という説明板です。
笠石に刻まれている紋は、よく見ると繭と蚕蛾がデザインされているようです。
今は、だだっ広い駐車場になっていますが、どんな「まゆ工場」が建っていたのでしょうか。
石塔の裏面には、「昭和二十九年(1954)十一月二十一日 群馬髙﨑養蠶販賣 農業協同組合連合會 建之」とあります。
昭和三十九年(1964)の高崎市地図を見ると、この場所は「群馬高崎養蚕連」と書かれています。
すぐ近くには、「長野蚕種」とか、「群馬蚕糸」という文字も見えます。
同じ地図で、田町の元「高崎絹市場」があった所には、「日本裏絹組合」と書かれています。
この頃はまだ、高崎における絹産業も頑張っていたのでしょう。
群馬県内の繭の収量は、2000年(平成12年)から激減し、2012年(平成24年)には、戦後ピークだった1968年(昭和43年)に比較して、何と0.3%弱まで落ち込んでいます。
「群馬髙﨑養蠶販賣」は、昭和二十三年(1948)群馬・高崎地区一円の農協組織を会員とし、養蚕指導を目的に設立されました。
5年後の昭和二十八年(1953)には、「乾繭(かんけん)所」が新設されます。
「蚕霊供養塔」が建てられたのは、その翌年ということになります。
「乾繭」というのは、生繭(なままゆ)を乾燥することだそうです。
生繭の中には、生きた蚕の蛹(さなぎ)が眠っています。
そのままにしておくと蛹が目を覚まし、脱皮して蚕蛾となり繭の殻を破って出てきてしまいます。
その繭の糸は切断され、屑繭・屑糸※になってしまうので、それを防ぐために生繭に熱風を当てて乾燥させるのです。
当然、蛹は死んでしまう訳で、その大量の蛹・蚕の霊を弔うために建てられたのが「蚕霊供養塔」なのでしょう。
「群馬髙﨑養蠶販賣」は、昭和三十八年(1963)に乾繭部門を独立させ、名称を「群馬高崎乾繭農業」と改めます。
昭和四十三年(1968)当時、「群馬高崎乾繭農業」では職員6名の他、季節労務者年間延3000名が働き、その年間乾繭量は130万kgとありますが、その後の繭生産量減少により昭和六十二年(1987)で閉鎖されてしまいます。
「蚕霊供養塔」も、「絹遺産」とは言えないまでも、「絹遺跡」として登録すべき歴史を持っていると思うのですが、如何でしょうか。
わが高崎市は、その中にあって4件が選ばれています。
この数を妥当とするかしないかは意見の分かれるところかと思いますが、私は「少な過ぎる!」と思っています。
しかしこれを不服として、もっと探し出してブームに乗ろうという動きは、どうも高崎にはなさそうです。
「富岡製糸場っつったっておめぇ、高崎で亜炭が採れなきゃ、あそこにゃ造んなかったんだんべに!」と怒り狂って、観音山中を掘っくりかえして炭鉱跡を探すくらいの勢いが欲しいところなんですが・・・。
東三条通を、沖電気の方から駅の東口に向かって歩いていくと、あれ?というものが目に留まります。→
「栄光ゼミナール」でも「パーキング栄町」でも「高崎うどん」でもありません。
←「蚕霊供養塔」と刻まれた立派な石塔と、「まゆ工場跡地」という説明板です。
笠石に刻まれている紋は、よく見ると繭と蚕蛾がデザインされているようです。
今は、だだっ広い駐車場になっていますが、どんな「まゆ工場」が建っていたのでしょうか。
石塔の裏面には、「昭和二十九年(1954)十一月二十一日 群馬髙﨑養蠶販賣 農業協同組合連合會 建之」とあります。
昭和三十九年(1964)の高崎市地図を見ると、この場所は「群馬高崎養蚕連」と書かれています。
すぐ近くには、「長野蚕種」とか、「群馬蚕糸」という文字も見えます。
同じ地図で、田町の元「高崎絹市場」があった所には、「日本裏絹組合」と書かれています。
この頃はまだ、高崎における絹産業も頑張っていたのでしょう。
群馬県内の繭の収量は、2000年(平成12年)から激減し、2012年(平成24年)には、戦後ピークだった1968年(昭和43年)に比較して、何と0.3%弱まで落ち込んでいます。
「群馬髙﨑養蠶販賣」は、昭和二十三年(1948)群馬・高崎地区一円の農協組織を会員とし、養蚕指導を目的に設立されました。
5年後の昭和二十八年(1953)には、「乾繭(かんけん)所」が新設されます。
「蚕霊供養塔」が建てられたのは、その翌年ということになります。
「乾繭」というのは、生繭(なままゆ)を乾燥することだそうです。
生繭の中には、生きた蚕の蛹(さなぎ)が眠っています。
そのままにしておくと蛹が目を覚まし、脱皮して蚕蛾となり繭の殻を破って出てきてしまいます。
その繭の糸は切断され、屑繭・屑糸※になってしまうので、それを防ぐために生繭に熱風を当てて乾燥させるのです。
当然、蛹は死んでしまう訳で、その大量の蛹・蚕の霊を弔うために建てられたのが「蚕霊供養塔」なのでしょう。
※ | 屑繭・屑糸は、「新町屑糸紡績所」(鐘紡)に送られ、紡績されて伊勢崎銘仙などの材料となっていました。 |
「群馬髙﨑養蠶販賣」は、昭和三十八年(1963)に乾繭部門を独立させ、名称を「群馬高崎乾繭農業」と改めます。
昭和四十三年(1968)当時、「群馬高崎乾繭農業」では職員6名の他、季節労務者年間延3000名が働き、その年間乾繭量は130万kgとありますが、その後の繭生産量減少により昭和六十二年(1987)で閉鎖されてしまいます。
「蚕霊供養塔」も、「絹遺産」とは言えないまでも、「絹遺跡」として登録すべき歴史を持っていると思うのですが、如何でしょうか。
【蚕霊供養塔】