2008年12月08日

音楽センター

高崎市の「音楽センター」が、今、改修か建て替えかの議論になっている。
広報高崎12月1日号「音楽センターを考える」

同年代の高崎市民には、「音楽センター」に深い思い入れのある人が多いのではないだろうか。
終戦の年、昭和20年に高崎市に生まれた「高崎市民オーケストラ」(群馬交響楽団の前身)は、群馬県内の小中学校を回り「移動音楽教室」を開いた。
同年代の中には、実際にその生の演奏を聴いた人もいるはずだ。
この活動は後に映画化されて、全国に知られることとなった。(「ここに泉あり」

このような市民レベルでの音楽活動を支え発展させるために、昭和36年、当時は東京にしかなかった音楽ホールが高崎市に誕生した。
それが「音楽センター」だ。
今ならもしかすると「箱もの行政」だとして、やり玉に挙がるのかも知れないが、当時、高崎市の年間予算が8億円であった中で、「音楽センター」の総工費は3億円だ。半端な額ではない。
だが、その内の1億円は市民の寄付で賄われた。
「音楽センター」の傍らに立つ記念碑には、
「ときの高崎市民 之(これ)を建つ」と刻まれている。

「音楽センター」の建設された場所は、明治の廃藩置県があるまで高崎城の建っていた所で、その後、陸軍の高崎歩兵第15連隊が置かれた。
終戦後はその兵舎は、今で言うとアパートとして市民が生活していた。
たぶん、戦争で家を失った人々だと思う。空地には、色々な野菜が植えられていたのを記憶している。
その後、市民はそこから他所へ移り住み、兵舎は市立第2中学校、高崎経済大学、東京農大2高の校舎として使われた。
校舎の縁の下に潜ると、銃弾が落ちていたりした。
南北に細長く、窓が東西にある、冬は寒い校舎だった。
そんな校舎群の近くに、忽然と建った近代的な「音楽センター」の姿に、高崎市民として誇らしい気持ちを感じたような気がする。

あんなに近代的な建物だった「音楽センター」が、まだ60年も経たない内に老朽化したと言われ、莫大な改修費用がかかっているという。
さらに、最近催される舞台の装置が大型化し、現在の構造では対応できないのだそうだ。
もうひとつ、音響性が近年の大ホールと比較して良くないということも挙げられている。

ただ、年寄りの懐古願望かも知れないが、そのままの姿で残してもらえないかと思う。
CDの音楽はクリアでメリハリがあっていいのかも知れないが、真空管のレコードプレーヤーのボワッとした丸っこい音もいいものだ。
そんな、昔の音が聴ける音楽遺産をそのまま残しておいて欲しいと思う。
そんな気持ちを、メールにしたためて高崎市へ送った。
その内容は、また次回。
  


Posted by 迷道院高崎at 18:58
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2008年12月09日

音楽センター(その2)

高崎市へ送ったメールの内容です。

《結論》
「音楽の町 高崎」のシンボルとして、今のままの姿で残してほしいと思います。

《理由》
1.高崎市は、コンセプトのない町だと感じています。
一応「音楽の町」という名前にはなっていますが、いま一つ実態が伴いません。
高崎駅を降りて街に出ても、音楽に関する施設や店舗が沢山ある訳ではありません。
「音楽センター」を核にして、もっと音楽にこだわった街づくりを推進してもよいのではないかと思います。

2.「音楽センター」の構造上の問題が挙げられていますが、それ自体が歴史の遺産として残すべき理由だと思います。
「昔は、このような構造のホールで、このような音響で音楽を楽しんでいたんだ」ということが体験できるなんて、何と素晴らしいことではないでしょうか。
大間々の「ながめ余興場」や上三原田の「歌舞伎舞台」は古いからこそ価値があるのではないでしょうか。
CDの音楽にない良さが、真空管のレコードプレーヤにはあると思います。
もちろん安全上の配慮はしなければいけないでしょうが、避難の問題や車いすの問題などは、危機管理を予め想定しておけば克服できると思います。

3.「音楽の町 高崎」の草分け的喫茶店「あすなろ」も今は閉店しています。
新紺屋町にあった歌声喫茶「風」も今はシャッターで閉ざされています。
確か、群響の草創期には、ケーキ店の「ラ・メーゾン」が練習場で、故山本直純さんが子どもの頃お父さんと一緒に来ていたという話を聞いた気がします。
どうしても「音楽センター」で大規模なコンサート会場として使えないのであれば、これらの店舗を音楽センター内に復元させることはできないものでしょうか。
ノスタルジックな空間として、市民の集う場所になると思うのですが。

4.高崎市民が群響のコンサートをあまり聞きに行かないという問題もあるようです。
「音楽センター」を群響の常設練習場にして、練習風景をいつも見られるようにしてはどうでしょうか。
入口にカンパを呼び掛ける箱を置けば、たとえ僅かでも市民や観光客の浄財を期待できるのではないでしょうか。
そして何よりもそのことが、市民との距離を近づけ、ひいてはコンサートへの誘導灯になると思います。

5.新しく建て替えるのは、お金があればできることでしょう。
しかし、古いものを残さなかったために、今、高崎の街なかはシャッター通りになってしまいました。
「町興しは町残し」という言葉があります。
どうか、高崎の貴重な音楽遺産をそのまま残してください。
そして、「音楽のことなら高崎へ行け。」という言葉が全国に広まるぐらいに、音楽にこだわった街づくりをしていってください。

6.高崎駅前から音楽センターに続く道々に楽器屋さん、音楽スタジオ、音楽スクール、コンサート用衣装店等々の音楽関連店舗がひしめいている姿が目に浮かんできます。
町の角々にはストリートミュージシャンの姿、柳川町の居酒屋には流しのミュージシャン、いつかその中からトップミュージシャンが出てくるでしょう。
観音山丘陵には名高い作詞家や作曲家の別荘があるといいですね。
音楽に関する店舗や人物の誘致を、行政としても考えてみてください。

お願いします。そのまま残してください。


  


Posted by 迷道院高崎at 19:06
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2010年02月06日

号外!「音楽センター新設」


高崎市は、新しいコンサートホールを、音楽センターとは別の場所に建設する方針を決めたようです。
長い期間をかけて調査・検討し、市民の声も良く聞いていたという印象は持っていますので、悩んだ末の結論であろうと思っています。

気になるのは、「完成後も音楽センターの施設を保存・活用するかどうかは、新ホールと切り離して検討する。」という点です。

ぜひとも、いや、絶対に保存・活用すべきであると思っています。
高崎市の、数少ない誇るべき歴史遺産であります。
音楽センターを残さずして、どうして「音楽のある街」と言えましょう。

グンブロにも、こんな記事がエントリーされていました。
「高崎市の音楽センター、場所移し新施設 15年度完成」
(ようざん施設長さん)
「音楽の街!?」(てっしーさん)

実は、「隠居の思ひつ記」最初の投稿記事が、「音楽センター」でした。
そして翌日の投稿記事が、「音楽センター(2)」です。

平成十九年に高崎市産業活性化研究会が発行した、「集客力のある楽しいまちを創るために~高崎市中心市街地における都市観光~」という、提言書があります。
市商工部産業課が事務局となり、高崎経済大学地域政策学部戸所隆教授が委員長になり、14名の委員が1年間かけてまとめたものです。
私個人は、この提言書の内容を高く評価しております。

提言書の中で、「音楽のある街づくり」については、次のような分析と提案をしています。(若干、加筆・省略しています。)

1.「音楽のある街」を謳う自治体は高崎市だけではない。(浜松市、川崎市、岩倉市、宝塚市、明石市、羽村市、野洲市、西宮市)
それらの自治体に対して、卓越化を図ることが求められる。
しかし、高崎市の音楽活動は、対外的にも、対内的にも十分認知されているとは言い難い。
高崎市民において「音楽のある街」が日常化していないのである。

2.高崎市「音楽のある街」を標榜するのであれば、日常的に生の音楽が街にあふれている状況の構築を目指す必要がある。
中心市街地にコンセプトを持たせて、「疑似テーマパーク化」させることが必要である。

3.「音楽のある街」を可視化させるために、「音楽の街」たらしめている群響所属楽団員たちの練習風景を、気軽に見学できるような環境の創出をすべきである。
可能であれば、通りを歩く人の目に留まるようにするのが望ましい。

4.高崎駅の中央コンコースなどに、群響の写真と解説を大々的に掲げるべきである。
また、群響のオリジナルグッズを駅構内売店で販売するようにする。

などなど、高崎の観光振興全般に対する的を射たアイデアが、具体的に提示されています。
一読する価値ありです。
「集客力のある楽しいまちを創るために~高崎市中心市街地における都市観光~」

繰り返しますが、音楽センター「音楽の街記念館」としてでも、絶対に保存すべきです。
「ときの高崎市民、之を残す」と、後世に伝えて行きたいと考えます。

  


Posted by 迷道院高崎at 07:15
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