2008年12月29日

チトン、チントシャン♪

柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)

いつ頃建てた家だろうか、板塀漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。

立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。

何しろここは高崎の花柳界、柳川町
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。

そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ。
芸者さんは、それに乗ってお座敷に行っていたようだ。
「輪タク」と言っても、若い方には想像がつかないかも知れない。
「二車(自転車)で引くタクシー」ということなのかな。
写真を持ってないので、こちらをご覧いただこう。
ただ、芸者さんを乗せるので、もうちょっと品があったような気がする。

古い話のついでに、「お富さん」の話もしちゃおう。
昭和29年に、春日八郎が歌って大ヒットしたのが「お富さん」だ。
この歌の作詞は山崎 正という人だが、この人は高崎市出身である。
「お富さん」の歌詞で「粋な黒塀 見越しの松に・・・」というのは、柳川町がモデルだという。
山崎 正は、「電気館」のすぐそばに「幌馬車書房」という古書店を開いていたが、それを知る人は少ない。

この日見た、粋な白塀の家は、昔から芸妓さんに三味線を教えているお師匠さんの家なんだろう。
残念ながら、この日は三味線のお稽古はしていなかったようだ。
でも、脳みその奥深くで確かに音が聞こえた。
チトン、チントシャン♪って・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:09
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2008年12月28日

タイムトンネル

高崎は、路地の多い町だった。

区画整理や、都市計画で随分失われてはいるが、それでも少し歩くと路地の入口を見つける。

そこは、まるでタイムトンネルの入り口のようだ。
もう使われていない井戸の手押しポンプが、そこだけ時間が止まっているかのようにポツンと佇んでいる。
懐かしさと、その先にある未知のものへの期待に、ふと足を踏み入れてみたくなった。

← その路地は、やはりタイムトンネルだった!
そこだけ時空が捻じれているような、不思議な感覚に襲われる。

子どもの頃に嗅いだ、あの空気と同じ匂いを感じながら、ゆっくり歩を進める。





捻じれた時空を抜けて、ふと後ろを振り返ると、路地はもう真っ直ぐに戻っていた。





← 路地の角を直角に曲がると、あの頃の家の佇まいが、逆光の中に忽然と現れたのに吃驚した。

右手の家の庭から、突然、男の子と女の子が飛び出してきた。
「こんにちは。」と声をかけると、男の子は手に持った戦隊物の拳銃を、得意げに見せてくれた。
女の子は、本物そっくりな猫のぬいぐるみを抱いて、「こうすると、お話しするの。」と猫の頭を撫でると、猫は頭を振りながら「ミャー、ミャー」と鳴いた。
「バイバイ!」と言って手を振ってくれる子ども達の姿は、あの頃と何も変わっていない。
ただひとつ違っていたのは、男の子が「青っ洟」を垂らしていなかったことかな・・・。

今日の、タイムトンネルの冒険はここまで。
また、どこかのタイムトンネルを潜ってみたい。  


Posted by 迷道院高崎at 11:04
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2008年12月26日

発見!中央小の旧校歌

拙ブログの「高崎市立中央小学校」の記事で、「今の校歌の前に校歌らしきものがあった」と、覚えていた歌詞を紹介したところ、異なる歌詞で覚えているというコメントをいただいた。

そう言われてみると、その校歌らしきものの楽譜や歌詞をもらった記憶がない。
5年生の時だったと思うが、運動会の「棒倒し」の時、入場行進の歌として覚えた気がする。
だから、口伝で受け継がれた歌だったのかも知れない。

コメントをいただいてから、この歌が気になって仕方がなかった。
中央小へ行けば、あるのかも知れないと思ったが、生来の人見知り癖がなかなか足を向かわせない。
そんな折、偶然、市立図書館「校歌アルバム 西毛編」という本を見つけた。
あった、あった!ありました!
まぎれもない、あの時歌っていた中央小の旧校歌だ。

出版は昭和57年、「あさを社」(高崎市乗附町)、編者は「ふるさとのうた保存会」主宰の横田金治氏とある。

早速、「あさを社」さんに電話をし、複写とブログ掲載の許可をお願いしたところ、快諾をしていただいた。
ご厚意に感謝して複写させて頂いたのが、左の楽譜だ。(楽譜クリックで拡大)

やはり、私の記憶していた歌詞とチョコっと違う。
しかも、歌詞は5番まであった。
だがその歌詞を見て、
「こりゃ、校歌としてずっと歌う訳にはいかないや。」と納得した。

この校歌、昭和17年頃のものとある。
昭和17年と言えば、太平洋戦争の真っただ中。ミッドウェー海戦で日本海軍が手痛い打撃を受けて、以降じわじわと米国に押されていくことになるが、まだ日本国民は勝利を信じていたころである。
校歌の3番、4番など、まさに当時の教育姿勢を物語っている。

3番の「御使御差遣・・・」など、どう読むのかも分からない。
たぶん、「おんし、ごさけん・・・」と読むのだろう。「天皇陛下がお遣わしになった使者」が学校に来たことを、誉れとして忘れるな、という訳だ。

中央小の新しい校歌が制定されたのは、昭和35年とある。
終戦になってからその間、旧校歌の1番だけが口伝されていた理由が、やっと分かった。  


Posted by 迷道院高崎at 13:09
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2008年12月25日

人情ラーメン物語

この風景、50年前とそう変わっていない。(写真クリックで拡大)
嘉多町通りを東から西に向かって見ている。
真っ直ぐ行った突当りが「高崎神社」だ。

あの頃、ゑびす講というと、この通りの左側(覚法寺側)には、ズラーっと露店が並んだ。

露店の灯りは今のような電灯ではなく、カーバイトのガスを燃やすランタンだった。
シューっという音と、独特の臭いと熱さは、今でも思い出せる。
夜が明けると、カーバイトの使い残しが道に捨ててあったりする。
拾って水たまりに放り込むと、ブクブクと白い泡を出して、小さくなっていく。
触ると、熱かったっけなぁ。

写真に写っているおそば屋さん「中よし」さんには、貧乏のどん底だった時代に助けてもらったことがある。
私の家は一応店を構えていたが、客足はさっぱりだった。
何日も客が来ないので、米びつも財布も空っぽだ。

その日も客は来ず、夜になって当時5歳の私は、「母ちゃん、おなかが空いたよ~!」と泣きべそをかく。
母親は見るに忍びず、「中よし」さんへ行って、ラーメンを3つ届けてもらう。
空いた丼を取りに来るまでに、客が一人でも来れば金が払えると考えてのことだった。

ところが、客が来ない内に丼を取りに来てしまった。
母は「すみません。まだ空いてなくって。」と嘘をつく。
そんな訳はない。もう、2時間も経っているのだ。
でも「中よし」さんはそれを承知で、「はい、わかりました。」と言って帰ってくれた。
確か、もう一度来た時も言い訳をして引き取ってもらったと思う。

夜が明けた。
もう、いくらなんでも丼が空いてないとは言えない。
だが、神様というのはいるもので、やっと一人の客が来て、3杯のラーメン代(1杯30円位?)を払うことができた。
母親は、この話をするたびに、「中よし」さんの人情の厚さに感謝して涙を流していた。
その母も他界して、もう20年。
一度、その時のお礼を言いに行かなくてはバチがあたるな。

「中よし」さんの隣にある、「綿貫病院」の院長先生にも助けられた。
母が真夜中にぎっくり腰になり、七転八倒でもがき苦しんだことがある。
「綿貫病院」に駆け込んで往診を頼むと、院長先生が一人で来てくれた。
頭の毛は寝癖そのまま、眠たそうな眼をしていたので、子どもの目にも先生が就寝中だったことがすぐわかった。
そういうお医者さんがいた時代だった。

貧しかったけど、助けられて今がある。
感謝、感謝。
  


Posted by 迷道院高崎at 10:24
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2008年12月16日

高崎市立中央小学校

昭和35年頃の「高崎市立中央小学校」の正門である。

木造校舎の玄関には
「髙崎學校」の額が掲げられ、玄関の左傍らには「二宮金次郎」の石像が建っていた。

この学校は面白いことに窪地に建っているので、多くの児童は坂道を使って登下校していた。
雪が降って道が凍ると危険だったはずだが、怖い思いをしたという記憶はほとんどない。
むしろ面白がっていたような気がする。

学校のHPで沿革を見てみると、明治6年に「鞘町(さやちょう)小学校」として宮元町に創立したとある。
「鞘町小学校」創立については、上毛新聞社発行の「実録・たかさき」に面白いことが書いてある。
要旨はこうだ。

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田町に、「積小学館」という私塾を開いていた市川左近という人がいて、結構盛っていたらしい。
左近先生は、「ドケチ先生」と噂されるぐらいの合理主義者で、友人や知人から来た手紙の余白をメモ代わりに使い、食事は一汁一菜。
他人からお呼ばれされても一汁一菜で済ませ、残りを家に持ち帰ったという。
当然、巨額な金銭の所有者になっていた。
ところが、高崎にも学校ができると聞くや、ポーンと(当時)巨額な一千円(現在の1千万円位かな?)を寄付したので、住民は「あの、ドケチ先生が!」とびっくりしたそうだ。
当時、豪商たちは口実を作って寄付逃れをしていたらしい。
左近先生にとっても商売仇の「学校」ができるのだから、当然反対するだろうと思っていたら率先して寄付したので、豪商たちも後に続かざるを得なくなった。
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左近先生は、福沢諭吉の「学問のすすめ」を実践するために、倹約生活をしていただけで、ただの「ドケチ」ではなかったのだ。
生きたお金の使い方。現代人は一度立ち止まって、考え直す時期に来ているようだ。




現在の「中央小学校」の正門である。






「髙崎學校」の額は、今どこに掲げられているのだろうか。
「二宮金次郎」の石像は残っていたが、どことなく寂しげだったのが印象的だ。

最後に、今の校歌の前に歌っていた校歌らしきものを、思い出せる内に書いておこう。

♪遠く榛名の峰の雲
 流れてやまぬ烏川
 朝な夕なに仰ぎつつ
 ここに立つなり 中央校♪


※後日、旧・中央小学校校歌の歌詞を発見しました。
   ◇「発見!中央小の旧校歌」


  


Posted by 迷道院高崎at 12:01
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2008年12月14日

堰代町(せきしろちょう)

昭和36年頃の堰代町の家並みである。(写真クリックで拡大)
堰代町は小さな町で山車(だし)は持っていなかったが、この日はちょうど成田町の山車が通過するところを、覚法寺の塀によじ登って撮影した。
左から2軒目と3軒目の間が、「高崎神社」の入り口になる。その角を右へ曲がると嘉多町(かたまち)、真っ直ぐ行けば四ツ屋町だ。

堰代町は、昔、用水を管理する役人の「方屋敷」と「城組屋敷」があったのでその名がついたという。(田島武夫著「高崎の町名由来」より)
写真をよーく見ると分かるのだが、道路に対して斜めに家が建てられていて、ちょうど鋸の刃のようにギザギザになっている。
郷土史家の土屋喜英氏の著書「続・高崎漫歩」によると、「中山道から高崎城を攻めるには、この高崎神社前の道か湯屋横丁を通るしかなく、この道を大勢の人数で一度に通過することができないように考えられていた」のだそうだ。
子どもの頃、この家並みのギザギザのところに兵が隠れるようになっているのだと聞いたことがある。本当か、嘘かは分からない。
ただ、この道はやたらと細い路地のある、妙に折れ曲がった道であったことは記憶している。

写真右の側溝にはいつも水が流れていた。
タニシやカワニナ、どじょう、ヒル、ヤゴなどが生息する、生物多様性に富んだドブ川だった。
このドブ川の少し上流に、鰻(うなぎ)屋さんがあった。
鰻の他にも鯉や金魚、泥鰌(どじょう)を店の生け簀(いけす)で飼っていたが、たまーに脱走する魚がいて、子どもにとってはそれが楽しみで、よくドブの中を漁ったりしていた。

その場所が、今はこんな風景になっている。
同じ場所にずっと残っているのは、高崎神社角の「友松綿店」だ。
車がすれ違うのもやっとだった道路は、片側2車線の広い道路になった。
昔、道の真ん中でベーゴマやメンコをして遊んでいたなんて、とても信じられないだろう。

いつの間にか、昭和も遠くなってしまった。

  


Posted by 迷道院高崎at 16:37
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2008年12月13日

高崎市立第二中学校

古いアルバムの中に、「高崎市立第二中学校」の空中写真があった。(写真クリックで拡大表示)
たぶん、昭和37年頃の写真だと思う。
右端にチョコっと写っているのが昭和36年開館の「音楽センター」だ。
「二中」という人文字の左右に建っているのが、旧陸軍高崎15連隊の兵舎で、これを教室として使っていた。
右側の校舎の上に建設中の建物が新校舎で、やっと隙間風の入らない、南向き窓のある校舎に入れたのは、翌年のことになる。
この頃、歌謡曲は西洋のポップスを日本語で歌うのが流行っていた。坂本九、中尾ミエ、木の実ナナ・・・なつかしー!
「サラリーマンは~、気楽な稼業ときたもんだー」植木等が歌っていた。
あの頃は、世間が何となく明るく、夢があった。

左の写真は、国土地理院が提供している「空中写真閲覧システム」のものだ。
昭和49年の撮影とある。
高崎15連隊の兵舎はすべて撤去され、音楽センター周辺も随分と整備されているのが分かる。
この年、小野田寛朗元陸軍少尉がフィリピンのルバング島で、旧日本兵として発見されている。
長嶋茂雄が引退したのもこの年だ。
流行語は「狂乱物価」「便乗値上げ」「ゼロ成長」・・・、あぁ、この頃から始まったんだな。
流行った歌も中条きよしの「うそ」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」
う~ん・・・。

そして、右の写真が現在のグーグルマップで見たものだ。
「二中」と「三中」が統合され、「高松中」となって、現在の場所(旧専売公社跡)に移転した。
「二中」の跡地には、「シティギャラリー」が建ち、「音楽センター」との間には「シンフォニーロード」が開通して、駅前から抜けられるようになった。
市庁舎は、移転して21階建ての高層ビルとなった。
道路も建物も良くなった。でも、人々の夢や幸せはあの頃と比べてどうなんだろう?

今、この付近を歩くと、昔はどんな風景だったのか思い出せないことがある。
でも不思議なことに、夢の中では今の風景ではなく、あの頃の風景の中を歩っている。
そんな時、昔の風景を知っていてよかったと、心から思う。


【高崎市立第二中学校跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 15:10
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2008年12月11日

あの頃みんな(?)貧乏だった

「みんな」と言うと、そうでなかった人に怒られるかもしれないが、そう言いたくなるぐらい「ウチは貧乏だ。」と思っていた子供は多いと思う。
昭和20年~30年代のことだ。

左の写真は私が小学校へ上がる時に、記念に撮ってもらった写真だ。
「帽子」「運動靴」「学生服」「ランドセル」「上履き」「上履き袋」、どれひとつ親は買う金を持っていなかった。
入学式直前、ある人が私の母親に「おばさん、○○坊のランドセルはあるんかい。」と訊ねた。
その人は、床屋をしていた我が家のお客さんで、職業は「寅さん」と同じだった。
我が家の状況をよく知っていての質問だった。
寅さんは「わかった、俺に任しときない!」と言って、私の上から下まですべて買い揃えてくれたのだ。
母親からその話を聞いた時は、もう寅さんの消息は分からず、いまだにお礼を言うこともできていない。

そんな貧乏な我が家に、隣の家の子が「おばさん、電気がつかなーい。」と言って来たことがある。
その家も、我が家に劣らぬ貧乏暮らしだった。
母が行ってみて、どうも電球が切れているらしいとわかると、父には内緒で、そっと電球を買ってきてつけてやった。
父が「あれ?隣は電気がついたらしいな。」と言うと、しらばっくれて「あれ、そうげだね。」と言っていた。
そんな母親だった。
隣の家の子がご飯を食べてないと聞けば、自分の家が食うに困っているにもかかわらず、冷や飯を持って行って食べさせたりもしていた。
今風に言えば、「貧貧介護」だが、みんなが貧乏だったけど、みんなが助け合っていた時代だったように思う。

今、不況の嵐に巻き込まれ、職を失う人達が大勢出ている。
我が家は貧乏だったが、それでも僅かな日銭と、人と人との助け合いで何とかしのぐことができた。
今、職を失った人は日銭すら入らないのかと思うと、その不安、辛さは痛いほどよく分かる。
本当は、ワークシェアリングをしてでも雇用を守るべきだったと思うが、事ここに至っては仕方がない。
今こそ、富める者も貧しき者も、持てるものを持ち寄って、あの頃のように助け合うことができないものだろうか。  


Posted by 迷道院高崎at 21:42
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2008年12月10日

歌声喫茶「風」

最後に「風」で歌ったのは、35年ほど前だったと思う。
夫婦喧嘩をして飛び出したものの行き場もなく、学生の頃に通い詰めた「風」で歌を歌って時間を潰していた。
ところが女房の勘というのはすごいもので、ここをぴたりと探し当てられてしまった。
歌を歌って私の怒りも収まっていたので、無事休戦(敗戦かな?)できた。
今日まで夫婦でいられるのは、もしかしたら「風」のおかげかも知れない。

郊外に引っ越し、すっかりご無沙汰になってしまったある日。
前を通りかかって懐かしく「風」の看板を見上げたが、店を開いている様子はなかった。
その時は、1階の薬屋さん「マツヤス薬局」がまだやっていたので、ご主人にお話を聞くことができた。
ご主人から聞いて初めて知ったのだが、「風」を開いていたのは「マツヤス薬局」の奥様だったのだ。
お身体を壊されて、やむなく「風」を閉めることになったのだが、「看板は残しておいて。」と言われているので、ということだった。
またいつか「風」を再開するつもりなのだな、再開されたら絶対に来ようと思っていたのだが、ついに「マツヤス薬局」のシャッターも降ろされてしまった。

「風」には、カウンター席が6つぐらい、4人がけくらいのテーブル席がやはり6つぐらいあったような記憶がある。
いつも満席に近く、ガラガラだった記憶はない。
伴奏はエレクトーンだった。その伴奏に合わせてリーダーが歌い、客が一緒に歌うのだ。
1曲歌い終わると、客席から「(歌集)何集の何番!」とリクエストが出る。
客は一斉にそのページを開いて、伴奏が始まるのを待つ。
今のカラオケのように、一人が歌い、他の人はろくに聞きもせずに曲探しという冷たさはない。
みんなが一緒だった。
みんなと歌いながら、知らなかった歌をずいぶん覚えた。
特に、山の歌、ロシア民謡、労働歌はよくリクエストされていた。

ママ(マツヤス薬局の奥様)は、いつも笑顔でカウンターの中にいた。
初めて「風」に入ったのは中学3年生の時だった。
当時は、中学生が喫茶店に入るのは禁止されていたかも知れない。
だが、昼飯のパンを買う金を2日我慢して貯め、「風」に通っていた。
初めての日は金がなくて歌集が買えなかった。(1冊100円ぐらいだったかなぁ?覚えてない。)
ママは笑顔で店の歌集を貸してくれた。

ある日こんなことがあった。
見るからにその筋らしいお兄さんと、その手下らしい人が店に入ってきてカウンター席に座った。
横目でチラチラ見ていると、お兄さんも「場違いなところに来ちゃったなぁ。」という顔をして、黙ってコーヒーを飲んでいた。
すると、ママが少しも臆することなくいつもの笑顔で、
「ほら、歌いなさいよ!」とお兄さんに歌集を手渡すと、照れたような顔で小さく開けた口で一緒に歌い始めた。
心の中で「すげー!ママ!」と感心することしきりだった。

あの頃の「同胞感」って、今、必要なんじゃないかなー。


【「風」跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 15:26
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