いつだったか、紫文師匠から聞いた、お薦めの饅頭。
新町(しんまち)・旧中山道沿い、酢屋(すや)製菓さんの「みそまんじゅう」です。
新町図書館へ行った帰りに思い出して、買い食いをしちゃいました。
紫文師匠のお薦めだけあって、皮の味噌味と白あんの甘さが口の中で行ったり来たりする、面白い美味しさが楽しめます。
この酢屋製菓さん、ご主人にお聞きすると、創業100年くらいだとか。
もともと、近くで酢の醸造を業としていたのですが、故あって先々代が饅頭屋に転業し、屋号は「寿」の字を使って「寿屋(すや)製菓」としたのだそうです。
ところが、誰も「すや」と読まずに
「ことぶきや」と読むので、「酢」の字に改めたのだそうです。
今のご主人は、若い頃、八島町にあった梅玉堂で修業されたそうで、昔の高崎駅界隈をよくご存知でした。
写真を撮るのがお好きだったとかで、昔懐かしい高崎駅舎の写真などが店の奥に飾ってありました。
いつかゆっくり、昔の写真を拝見しながら、お話を伺いたいものです。
酢屋製菓さんの前には、平成六年(1994)完成の行在所(あんざいしょ)公園があります。
パーゴラの天井には、昭和五十二年(1977)制定の町民憲章に因み、「明るい家庭」「福祉」「文化」「希望」「人間性」「住みよい町」の言葉が刻まれています。
行在所の庭園入口には、「新町道路元標」があり、塀には安藤(歌川)広重の「木曾海道六十三次 新町」の浮世絵風景画が嵌め込まれています。
中山道新町宿を強く意識していることが窺えて、嬉しい気持ちになります。
明治天皇御一行が新町に一泊するという内示があったのは、巡幸の1年前でした。
新町の全役員で協議した結果、旧本陣の久保栄五郎宅を行在所として願い出たのですが、その場所が宿場の西端であったことから、警護上の問題が有り、また建物も狭過ぎるとして却下されてしまいます。
そこで、戸長の高橋均作氏が、町の中央部にある宅地300坪ほどを提供し、そこに新築することとなったのです。
建設費は788円でしたが、その調達に苦慮し、県に陳情して550円を借り入れ、残りは全町からの浄財を充てました。
明治天皇は、この時の北陸・東海御巡幸に際して、迎える側が無駄な費用をかけぬよう、次のような太政官示達を出していました。(抜粋)
そのため、新町では「行在所」を新築したということが言えず、ここを「羈客所(きかくじょ)」(馬を繋ぎとめる所)と呼称することにしました。
この御巡幸に際して、実質的に行在所を新築したのは、新町だけだったといいます。
酢屋製菓さんの奥様が、「中を見てみますか?」と仰って、鍵を開けてくださいました。
思っていたより、ずっと質素な造りだったのに驚きました。
華美にならぬよう、つとめたことが良く分かります。
因みに、明治天皇はこの部屋にハンモックを吊るして寝たのだそうです。
何でも、床下からの刺客から身を守るためだとか。
明治十一年、まだまだそういう時代だったのですね。
3月になると、新町行在所は「新町ひなまつり」のメイン会場になります。
創業100年の酢屋製菓さんにも、お雛様が飾られます。
ところで、タイトルの「あんでつながる・・・」は、お分かりだったでしょうか。
みそまんじゅうの「あん」、行在所の「あん」、安藤広重の「あん」なんですが・・・。
新町(しんまち)・旧中山道沿い、酢屋(すや)製菓さんの「みそまんじゅう」です。
新町図書館へ行った帰りに思い出して、買い食いをしちゃいました。
紫文師匠のお薦めだけあって、皮の味噌味と白あんの甘さが口の中で行ったり来たりする、面白い美味しさが楽しめます。
この酢屋製菓さん、ご主人にお聞きすると、創業100年くらいだとか。
もともと、近くで酢の醸造を業としていたのですが、故あって先々代が饅頭屋に転業し、屋号は「寿」の字を使って「寿屋(すや)製菓」としたのだそうです。
ところが、誰も「すや」と読まずに
「ことぶきや」と読むので、「酢」の字に改めたのだそうです。
今のご主人は、若い頃、八島町にあった梅玉堂で修業されたそうで、昔の高崎駅界隈をよくご存知でした。
写真を撮るのがお好きだったとかで、昔懐かしい高崎駅舎の写真などが店の奥に飾ってありました。
いつかゆっくり、昔の写真を拝見しながら、お話を伺いたいものです。
酢屋製菓さんの前には、平成六年(1994)完成の行在所(あんざいしょ)公園があります。
パーゴラの天井には、昭和五十二年(1977)制定の町民憲章に因み、「明るい家庭」「福祉」「文化」「希望」「人間性」「住みよい町」の言葉が刻まれています。
行在所の庭園入口には、「新町道路元標」があり、塀には安藤(歌川)広重の「木曾海道六十三次 新町」の浮世絵風景画が嵌め込まれています。
中山道新町宿を強く意識していることが窺えて、嬉しい気持ちになります。
明治天皇御一行が新町に一泊するという内示があったのは、巡幸の1年前でした。
新町の全役員で協議した結果、旧本陣の久保栄五郎宅を行在所として願い出たのですが、その場所が宿場の西端であったことから、警護上の問題が有り、また建物も狭過ぎるとして却下されてしまいます。
そこで、戸長の高橋均作氏が、町の中央部にある宅地300坪ほどを提供し、そこに新築することとなったのです。
建設費は788円でしたが、その調達に苦慮し、県に陳情して550円を借り入れ、残りは全町からの浄財を充てました。
明治天皇は、この時の北陸・東海御巡幸に際して、迎える側が無駄な費用をかけぬよう、次のような太政官示達を出していました。(抜粋)
1. | 御巡幸は親しく地方民情の視察であるから、虚飾等に流れて、人民の困苦迷惑にならぬようにすること。 |
2. | 道路、橋等止むを得ざるもののみを新造または修理を加うることがあっても、すべて官費として、決して人民の難儀にならぬようにすること。 |
3. | 行在所はその地方により、いかようであっても差支えない。特に修繕を加えぬよう、且つ社寺をこれに充てても苦しくない。ただし、行在所より約十町内外離れた場所に非常御立退きを定めておくこと。 |
4. | 御膳部一式、椅子テーブル等すべて持参する。別に用意せぬよう。 |
そのため、新町では「行在所」を新築したということが言えず、ここを「羈客所(きかくじょ)」(馬を繋ぎとめる所)と呼称することにしました。
この御巡幸に際して、実質的に行在所を新築したのは、新町だけだったといいます。
酢屋製菓さんの奥様が、「中を見てみますか?」と仰って、鍵を開けてくださいました。
思っていたより、ずっと質素な造りだったのに驚きました。
華美にならぬよう、つとめたことが良く分かります。
因みに、明治天皇はこの部屋にハンモックを吊るして寝たのだそうです。
何でも、床下からの刺客から身を守るためだとか。
明治十一年、まだまだそういう時代だったのですね。
3月になると、新町行在所は「新町ひなまつり」のメイン会場になります。
創業100年の酢屋製菓さんにも、お雛様が飾られます。
ところで、タイトルの「あんでつながる・・・」は、お分かりだったでしょうか。
みそまんじゅうの「あん」、行在所の「あん」、安藤広重の「あん」なんですが・・・。
(参考図書: | 「新町明治百年史」「群馬歴史散歩 新町」「小さな町の物語 新町」) |
【酢屋製菓】
【新町行在所】