田村今朝吉氏が、
「金ヶ崎用水」のトンネル掘削工事に協力しようと思ったのは、氏が
「高松製糸所」を経営していたことが大いに関係しています。
製糸所では繭から糸をひくために繭を熱湯に浸しますが、その燃料として
亜炭を使用していました。

当時、
鼻高・乗附・寺尾の丘陵では、亜炭が盛んに掘り出されていました。
今朝吉氏も、
乗附の山に、月約14トンの亜炭を掘り出す
「田村炭鉱」というのを持っており、ここで採れる亜炭を
「高松製糸所」で使っていたのです。
今朝吉氏は、炭鉱の坑道を掘る技術を、用水のトンネル工事に利用できると考えたわけです。
当時
「田村炭鉱」で働いていた12名の中から、腕に自信のある4人が選抜されました。
昭和二十年(1945)九月、いよいよトンネル工事の開始です。
翌年の田植えの時期までに完成させなければなりません。
時間を掛けてきちんとした設計図を作る間もなく、簡単な測量だけで工事を始めることにしたのです。
トンネルは、上(かみ)と下(しも)の両方から掘り進むことにしました。
昼間は炭鉱の仕事があるので、トンネル工事は夕方から始めます。
アセチレンガスを燃やした
カンテラのわずかな明かりの中、湧水に悩まされながら、全身泥だらけになって、毎日のように作業を続けたといいます。
ツルハシや
カナヤ(石鑿、くさび)などの手工具だけで、崩れ止めの矢板も使わない素掘り工事でした。
掘った岩はトロッコに乗せて外まで出し、
碓氷川の岸に沿って積み上げました。
相当な量だったと思いますが、後に川が増水した時に流されてしまったそうです。
トンネルの上(かみ)の方は柔らかい土でしたが、下(しも)の方は硬い岩に覆われていたので、一晩中掘ってもせいぜい35cmほどしか掘れなかったそうです。
下(しも)から数十mほど掘り進むと、大きな硬い岩に突き当たりこれを砕くことができません。
そこで、この岩を避けるように、一旦岩の下を潜りぬけて再び上に向けて掘り進むことにしました。
問題は、上(かみ)の方から掘ってくる穴と、うまくドッキングできるかどうかです。

ちょうど上向きに掘り始めた頃、上の方から岩を砕く
「カーン、カーン。」という音が響いてきました。
こちらも
「カーン、カーン。」と岩を叩いて、答えます。
上と下からこの音を目指して一生懸命掘り抜いていくと、やがて小さな穴がつながりました。
この瞬間のことを、工事にあたった
乗附岩雄さんが語っています。
「 |
小さな穴が開いてから、さらに岩を手でガラガラと取り除きました。 |
| すると、冷たい風がスーと吹き抜けていきました。」 |
みんなで手を取り合い、これまでの苦労を忘れて喜びあったそうです。
大岩を避けるために、トンネルはここで高さ1.6mほどの段差ができてしまいました。
しかし実際に水を通してみると、これが具合のいいことに
逆サイフォンの役割を果たし、かえって水が勢いよく吸い出されるという、意図せぬ効果を生み出すことになったのです。

もうひとつ、トンネル工事中に造ったもので、意図せぬ効果を生んだものがあります。
トンネル中央部から
碓氷川に向かって掘り抜かれた
「横トンネル」です。
中央部の土砂を運び出すのに、いちいち出入口まで往復しなくても済むように掘ったものですが、これが後の大水の時に役立ちました。
取水口から大量の水が入った時、
「横トンネル」から余分な水が
碓氷川に放出されるという、用水路の流量調整をする
オーバーフロー管の役目を果たしたのです。

艱難辛苦の末、昭和二十一年(1946)五月五日、ついに
「金ヶ崎隧道」は完成しました。
金ヶ崎堰水利組合の人々は、これを
「田村隧道」と命名し、隧道の出口に
完成記念碑を建てて、
今朝吉氏の偉業を讃えたのです。
さて、それから56年経った今、
「田村隧道」はどうなっているのでしょう。
「幻の田村隧道」、いよいよ大詰めです。
(参考図書:「金ヶ崎用水の歴史」)