2013年06月30日

ちょいと千葉へ(銚子) その1

銚子までやって参りました。

海なし県に住む私としては、海が見たくなる訳でして・・・。

それから、高いものがあれば上ってみたくなる訳でして・・・。

とても高く見えた「犬吠埼灯台」ですが、地上高31.3mということで、高崎「白衣大観音」の方が10m以上も高かったんですね。

頂上までは99段の螺旋階段を上らなくてはいけませんが、途中途中に段数とメッセージが書かれているので、気を紛らわせながら上れます。

上部は資料展示室になっています。

「へ~。」と思ったのは、戦時中にカムフラージュされていたという灯台の写真でした。

この姿を滑稽に思える今の日本が、とても幸せな国に思えてきました。

「犬吠崎」の名前の由来は、義経の愛犬伝説だそうです。

頼朝に追われて奥州へ逃れる途中、ここに残された義経の愛犬は、主人恋しさのあまり七日七夜岩の上で吠え続けたというのです。
きっと、吹き荒ぶ風と波の音が、そのような伝説を生んだのでしょう。

岩礁が多く、黒潮が速さを増す房総沖は、海の難所だそうです。

慶応四年(1868)八月二十一日(新暦の10月6日)、台風のさなかに、その難所の海を北へ向かって航行する八隻の船がありました。
新政府軍の武装解除命令を拒否し、江戸湾を脱出して蝦夷・箱館(函館)へ向かっていた、榎本武揚率いる幕府艦隊です。

帆船の「美加保丸」(みかほまる)は、蒸気機関を持つ「開陽丸」に曳航されていましたが、荒れ狂う風と波に曳航索を切断され、2本のマストもへし折られて、自力航行不能となってしまいます。
五昼夜漂流を続けた「美加保丸」は、八月二十六日犬吠崎の北2.3kmの黒生(くろはえ)沖で座礁し、沈没の危機に瀕します。

「美加保丸」には、負傷兵を含む614人が乗っていたそうです。
沖合で座礁している船に気付いた黒生の漁民たちは、暴風雨の中、必死で乗員を救助しますが、13人の乗員が空しく命を落としてしまいます。

今、黒生漁港近くに、「美加保丸遭難の碑」というのが建っています。



13名の亡骸は、漁民たちの手によってここに埋葬されました。

しかし、ここに墓が建てられるのは、その15年後のことになります。

それは、埋葬されたのが、新政府に歯向かう賊軍の亡骸であったからです。

黒生沖に一艘の船が漂着したという知らせは、ただちに村役人から銚子高崎藩陣屋に届けられました。
これが、このあと高崎藩にとって、思いもよらぬ事件に発展することになりますが、その顛末は次回ということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:45
Comments(8)高崎藩銚子領

2013年07月07日

美加保丸遭難で、高崎藩遭難(1)

「ちょいと千葉へ(銚子) その1」の続きです。

「新編高崎市史」によると、高崎藩の飛び領として銚子が加えられたのは、宝永七年(1710)間部詮房(まなべ・あきふさ)が高崎藩主となった時だそうです。
銚子領は、下総国海上(うなかみ)郡の17カ村で、石高五千石。

陣屋は飯沼村に置き、藩から派遣された奉行、代官、目付の他、現地採用の19人の役人、5人の中間がいたそうです。

その他、海岸警護の非常方役人、御用達商人、医師、郷足軽がいたとも書かれています。

その陣屋へ、慶応四年(明治元年1868)八月二十六日の深夜、黒生沖で船が座礁しているという知らせが入ります。

その時の陣屋の対応を、「新編高崎市史」から引用しましょう。
直ちに陣屋役人が現場に駆け付け、取り調べたところ船名は美加保丸、乗組員は時化(しけ)のため疲労困憊の状態であった。
しかし、その夜は風が吹きすさび、波が高かったので乗組員の出自や人数などは確認できなかった。
そのため陣屋役人は風や波が静まるのを待つことにし、いったん陣屋に引き上げることにした。」

新政府は、榎本武揚等二千人が八隻の船を奪って脱走したとして、二十一日には国内にお触れを回していました。
ところが、美加保丸黒生浦に漂着した時、この知らせはまだ陣屋には届いていなかったのです。

事の次第を知らない陣屋では、「駿府表に向かう途中、嵐のために漂着した。」という乗組員の言葉を聞いて、徳川の家臣が江戸を離れ駿府に引き移る途中で遭難したと思い、彼らに同情したのでしょう。
乗組員を丁重に処遇したといいます。

さて、新政府からのお触れが陣屋に届いたのは、美加保丸漂着3日後の二十九日でありました。
その知らせを受け取って凍りついたのは、陣屋の郡奉行(こおりぶぎょう)等、役人一同です。
もっと驚いたのは、陣屋から美加保丸漂着の報告を受けた高崎藩だったでしょう。

慌てて九月朔日(一日)になって、新政府に事の次第を報告しますが、最後にこう言い訳をしています。
・・・御触達之趣ハ早速彼地ヘ申遣候得共、お触れ達しのことは、急いで銚子に申し送ったんですが、
途中行違相成候儀ト奉存候此段申上候」途中で行き違いになったんだと思うので、このことを申し上げておきます。)
銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より  ( )内は迷道院の私的意訳
「ちゃんと連絡したんですよー、けど、なんか遅れちゃったみたいでー、現場は知らなかったんですからー。」みたいな。

陣屋のわずかな人数では対応できないと思った高崎藩は、新政府への出兵を願い、近隣の領主への援兵を頼み、それが整ってから搦め取ろうと考えます。
しかし、そうこうしている内に、ヤバイと感づいた美加保丸の乗組員は、悪天候と夜陰に乗じて逃走を図ります。

九月五日、高崎藩は再び辛い報告書を差し出すこととなってしまいます。
・・・夫迄穏便ニ取扱、陣内厳重相固、見張之者差出置候処、それまで穏便に取り扱い、陣内を厳重に固めて、見張の者を付けておいたんですが、
当朔日夜、船路並陸地引分、脱走之兆相見候旨註進有之候ニ付、一日の夜、船と陸の二手に分かれて、脱走する兆しがあると連絡があったので、
兼テ備置候人数早速手分繰出シ、川通リニ待伏罷在候処、予てから備えておいた人員を直ぐに手分けして繰出し、川通りで待ち伏せていたら、
脱走船三四艘見受候ニ付、大小砲ヲ以烈敷放払候得共、脱走船3,4艘を見受けたので、大小砲を激しく打ったんですが、
闇夜之義、殊ニ折節大風雨ニテ聢ト相分兼候得共、闇夜でしかも大風雨のため、はっきり分かりませんけど、
川上之方ヘ逃去候様子ニ付、猶追船ヲ以進撃致シ其後之模様未相分、川上の方へ逃げ去ったらしいので、船で追いかけたんですけど、その後の様子は分かりません。
陸地之方モ早速三手に分、探索人数差出候得共、是又イマダ相分不申候・・・」陸の方もすぐ三手に分けて探索しましたが、これまた未だに分かりません・・・)
新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳
「充分注意はしてたんですよ。一生懸命追いかけたんですけど、闇夜だったし雨風強かったし、見失っちゃったんですよねー。」という訳です。

えらいことになっちゃいました。

さて、高崎藩、このまま無事に済む訳がありません。
この続きは、また次回。


  


Posted by 迷道院高崎at 10:23
Comments(6)高崎藩銚子領

2013年07月14日

美加保丸遭難で、高崎藩遭難(2)

美加保丸の乗組員を逃してしまった高崎藩は、九月十七日に新政府総督府から呼び出しを食らいます。

大総督府ヨリ御呼出ニ付、公務人菅谷團次郎罷出候処、大総督府から呼び出され、菅谷團次郎(すげのや・だんじろう)が罷り出ましたところ、
応接方桑原虎次郎ヲ以、左之通御書付御渡有之ニ付、応接方の桑原虎二郎によって、左記の書付けを渡されましたので、
至急藩地江申達候処、御請書差出之」至急藩へ申し伝えますと、請書を差し出しました。)

新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

総督府から渡された書付けには、こう書かれていました。
先般脱艦之賊徒、其方領分総州銚子浦漂着上陸之砌、先般、船で脱走した賊徒が、高崎藩領の銚子浦に漂着し上陸した時、
取締向等閑数日滞留為致、其末及脱走之段、取締りがなおざりで、数日滞留させ、その末に脱走させ、
全其藩不行届候条、依之謹慎可有之旨、御沙汰候事」全く、高崎藩の不行届きである、よって謹慎すべきとして沙汰する。)

新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

殿様の謹慎というのは、事実上どんなものなのか知りませんが、ともかく、おっつぁれて(上州弁:怒られて)しゅんとなったことは間違いないでしょう。

高崎藩主・大河内輝聲(おおこうち・てるな)の謹慎が解かれたのは、十月五日のことでした。
其方儀謹慎申付置候処、被免候旨、御沙汰候事」そのほうに謹慎を申し付けておいたが、赦されたことを沙汰する。)

銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

18日間の謹慎を解かれた輝聲は、翌日急いでお礼の書面を送ります。
私儀謹慎被仰付置候処、被免候旨御沙汰之趣、私儀、謹慎を仰せ付けられておりましたが、免じられるとのこと、
難有仕合奉存候、右御請申上候」有り難く幸せに思って、お受け申し上げます。)

銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳

お殿様がこんな状況ですから、領民だってあまり目立つ事は出来ません。
美加保丸の遭難者13名を埋葬した塚に、墓を建てるということもできなかったようです。


「脱走塚」と呼ばれるその塚には、現在では沢山の石碑が建っていますが、最初に建てられた墓碑は明治二年(1869)、建立者は銚子のヒゲタ醤油創業者・田中玄蕃という人だそうです。


なんせ激しい風雨に曝される「脱走塚」、石碑もこんな状態になってしまいますので、どれが田中玄蕃の建立したものか分かりません。

ひときわ大きな墓碑は、美加保丸の生存者や縁故者によって、明治十五年(1882)に建立されたものです。

表面には「南無阿弥陀仏」、側面には事件の顚末が刻まれていますが、これも風雨に削られて判読困難になっています。

そこで、昭和十三年(1938)黒生の青年団が寄付を募り、読めなくなった碑文を復刻した大きな石碑を建てました。




さらに昭和二十五年(1950)には、法要と共に広く世に伝えて観光・有識者の参考に供しようと、「史蹟美ケ保丸乗組員□難志士之碑」を建てていますが、それもまた風雨の前にあっては、ご覧の有様です。

しかし、今もなお献花を絶やさず供養し続ける地元の方々に、深く頭を垂れる思いであります。

ところで、美加保丸の乗組員を取り逃がしてしまった銚子陣屋郡奉行は、だいじょうぶでしょうか?

次回に続きます。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:13
Comments(6)高崎藩銚子領

2013年07月20日

銚子・高崎・英学校(1)

美加保丸事件の最前線で事にあたった、銚子陣屋の郡奉行・土方景尉(ひじかた・かげい)。
いったいどんなお咎めを受けたのか気になるところですが、そのことを書いた資料は見当たりません。

ただ、藩主・大河内輝聲の謹慎が解けた後の十月二十二日、菅谷清允(すげのや・きよみつ?)という人が、新しい郡奉行(民政総裁)として着任しています。
おそらく土方さんは国元へ戻され、それ相応の処分が待っていたであろうことは想像できます。

一方、着任早々の菅谷清允のもとでは、またもや銚子沖でフランスの船が難破し、銚子港に漂着するという出来事が発生します。
しかし、きっと前任者の轍を踏まぬよう慎重に取り扱ったのでしょう、特に騒動に至ることはありませんでした。

漂着したフランス船には、ダラス(Charles Henly Dallas)というイギリス人の貿易商が乗っていました。
ダラスは上陸して、菅谷家に滞在することとなりました。

この時、菅谷ダラスに頼んで、菅谷家の子弟のほか数人の高崎藩関係者に、英語を指導させています。

これに味を占めたのか、しばらくしてダラスは東京に出て本格的に英語を教えようと、築地に英学校を開きます。
菅谷清允の長男(養子)・正樹もここに入学し、引き続きダラスに英語を学びます。
そして明治三年(1870)五月、ダラス大学南校(だいがくなんこう:後の東京大学)の英語教師として迎えられるのです。

ダラスは学校前の官舎で暮らしていましたが、もう一人、リング(Augustus R. Ring)というイギリス人の英語教師もいました。
そしてそこに、丹波柏原(たんば・かいばら)藩士の小泉敬二という人が、得業生(とくごうしょう)として同居していました。
今日の大学院生と教官の間のような立場の職員

就任間もないある日、このダラスリングそして小泉が、外出先の神田鍋町で攘夷浪士に襲われるという事件が起こります。
ダラスは肩に一太刀、リングは肩と背中に二太刀の傷を負いますが、近くの紙屋へ逃げ込んで一命を取り留めることができました。
小泉は、無傷で逃げのびられました。

東京で起きたこの事件が、後に再び高崎と結びつくことになるのですが・・・。
その話の前に、この事件の詳細について少しお話をしておきたいと思います。

ただこれは・・・、少々複雑な話でありまして、長くなりそうなので次回のお楽しみということに。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:12
Comments(6)高崎藩銚子領

2013年07月28日

銚子・高崎・英学校(2)

明治三年(1870)十一月二十三日(新暦では、明治四年一月十三日)大学南校の英語教師ダラスリングが、外出先の神田鍋町で攘夷浪士に斬りつけられたという事件は、日本駐在の外国人にとっては、「またか!」という強い憤りを抱かせました。

日本で刊行されていた英字新聞「The Japan Weekly Mail」紙は、事件をこのように報じています。
昨夜、8時半位に、ダラス氏とリング氏が江戸を歩行中に斬られた事情を見ると、この出来事の発生は外国人にとって極めて重要であることが分かる。
彼らは二人の役人を連れ、フランス人の男性を訪れるために開成所(大学南校)を出た。ス・ケ・ジ(築地)に着いた後、役人らと分かれ、先へ進んだ。
ちょうど日本橋を渡った途端、二人の悪漢に後ろから切られ、背中、首から腰まで太刀を浴びせられた。」

日本の外務省は諸外国代表者に、遺憾の意と共に出来事の情報を迅速に伝達しました。

それを受けた諸外国の公使らは連名で、日本政府(澤宣嘉外務卿、副島種臣外務大輔)に対して、単に犯人の逮捕と処罰を迫るだけでなく、士族に対する武装解除(廃刀)を要求する書簡を送ってきます。
閣下。署名者は同僚と共に閣下によって外国公使各位に送達して頂いた、今月13日の夕方およそ八時半に神田鍋町と称される江戸の本通りを歩いていた英国人被雇用者ダラス氏とリング氏に対して加えられた攻撃に関する回状を熟読いたしました。

署名者は、閣下への返事として、外国代表者達がこの出来事を甚だ遺憾に思っているということを謹んで申し上げます。
彼ら(外国代表者たち)は、天皇陛下が中心である政府が成立することで、異邦人の命を狙う攻撃がなくなることを望んでおりました。そのため、彼らは今回の事件のような犯罪の繰り返しを残念に思っております。

二人の英国人は襲撃を招くような挑発をせずに、普通に道を歩いておりました。その時、日本人一人か数人は、暗闇に乗じて、卑劣にも二人の背後にそっと忍び寄り、普段武装した階級が携える長刀で切り倒しました。

日本の二刀を帯びた階級に属する者たちの中で、邪悪な目的でその武器を用いて、一瞬も躊躇することなく同じ人間の命を奪うような者がいるということは、外国代表者ら全員の目にも明白です。
以上の危険な者たちが充分に制御されていないという点と、その凶器を常に携帯することが認可されているという点が、この種の犯罪を誘発する最大の要因であることは明らかです。(略)」

このような申し入れに、日本政府は威信をかけた懸命の捜査の結果、3人の襲撃犯を逮捕します。
薩摩藩士・肥後荘七と杵築藩士・加藤龍吉は絞刑、関宿藩士・黒川友次郎は10年の流刑という厳しい処分を命じました。

一方、九死に一生を得たダラスリングはというと、被害者であるにもかかわらず、大学南校を解雇されています。
当時、大学南校の実質的責任者は、フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)という教頭でした。

フルベッキは、オランダ出身でアメリカに移民し日本に派遣された宣教師で、明治政府から依頼されて大学設立に関わった人物です。
どちらかと言えば、ダラスリングを擁護すべき立場です。

にもかかわらず解雇したのには、どんな理由があったのでしょう?

これもまた長くなりそうですので、次回に続けたいと思います。

(参考文献:近畿大学文芸学部論集 BERTELLI Giulio Antonio氏著 「二刀を帯びた男たち : 在日英国人教師ダラスとリング襲撃事件(1871)とその歴史的意義」より)



  


Posted by 迷道院高崎at 08:14
Comments(6)高崎藩銚子領

2013年08月04日

銚子・高崎・英学校(3)

「The Japan Weekly Mail」紙では、ダラスリング「フランス人の男性を訪ねるため」とあり、公使達の日本政府への書簡では、「襲撃を招くような挑発をせずに、普通に道を歩いていた」というのですが、これがどうも違うらしいのです。

大学南校の教頭・フルベッキが、ニューヨークのフェリスという人に宛てた書簡に、こう書かれています。

あなたは多分新聞で、私の大学の二人の教師が市内の街路で襲撃され、重傷を負った記事をご覧になるでしょう。(略)
しかし内密ですが、確かに今度の場合は、被害者の過失、いや罰でした。」
(河元由美子氏著 「明治初期の外国人による日本語研究」より)

どういうことでしょう。

高崎市史編纂委員・清水吉二氏著「幕末維新期 動乱の高崎藩」には、このような記述があります。

明治三年(1870)十一月二十三日夜半、ダラスとリングは、リングの妾と共にダラスの妾宅に向かう。
彼らにしてみれば、軽い散歩のつもりであったろう。提灯を下げた小泉が三人の先導役として進み、外人二人がリングの妾を真ん中に、三人して手を繋いで歩いて行く。(略)」

おい、おい、という感じですが、実は「軽い散歩のつもり」でもなかったらしいのです。
江戸副領事官のホールという人が聞き取りをした、ダラスの詳細な供述が、日本外務省外交史料館に残っているそうです。

数ヶ月前、フルベッキ氏の希望に応じて、私は開成所(大学南校)から私の妾を追い出した。(略)
リングと私が金曜日の夜築地に来たのは、翌日中に我々の妾達を新居に落ち着かせるために、賃貸借契約などに関する手続きを完了するためだった。
リングは衛兵と共に先に進み、私は彼らの少し後ろに小泉と共に軽装馬車に乗っていた。

我々がする予定だった取引を衛兵たちに知られたくなかったので、ドゥブスケ氏の家に行ってから、衛兵たちに我々が築地で夕飯を食べ、同地に宿泊し、翌日は横浜へ行くつもりであると言い、彼らを乗せた馬車を帰した。
ドゥブスケ氏の家から、我々はリングの妾が住んでいる家に行き、そこで夕飯を食べるために、小泉に私の妾をここに連れてくるように迎えに行かせるつもりだった。

我々の通り道の一部は本通りにあった。途中で、小泉と私は前に歩き、リングと彼の妾が数歩後について来ていた。
日本橋を通りながら、我々の提灯の蝋燭は風に吹き消されてしまい、再点火されることはなかった。
我々は暫くの間、このように歩いたが、リングはその妾に何らかの質問をするために、日本語がより流暢に話せる私を呼んだ。

私は一歩か二歩下がり、彼らのところへ行き、小泉を前に歩かせた。私が会話を始めようとしたその時に攻撃された。
我々は大体道の真ん中を歩き、私は右側に、リングは左に、そして妾は我々の間にいた。
その時、私は不意に首と肩の間に、まるで棒で叩かれたような重い打撃を与えられた。(略)

我々が襲撃された時は相当暗かったが、行き来する通行人が多くいたとみられる。下駄の音は、普段かなり人混みの多い道路に聞こえるようなものだった。(略)」
(BERTELLI Giulio Antonio氏著 「二刀を帯びた男たち」より)

前述のフルベッキフェリスに宛てた書簡にも、こう書かれています。

彼らは護衛に知られたくない用向きで出かけたことは明らかです。
もし、彼らが正しい生活をしていたらその夜は無事だったでしょう。
ところが今彼らは、私が学校の構内にある彼らの家に、あのような女達を引き入れるのを禁じたということで、私に非難をあびせています。」
(河元由美子氏著 「明治初期の外国人による日本語研究」より)

大学南校では、まだ不穏な世情を考慮して、外国人教師の外出時には、必ず二人の武装した護衛が付くようにしていたそうです。

ただ、教師としては自由を束縛されるので、護衛を付けずに外出する者が出始めていて、フルベッキは教頭としてこれを固く戒め、事件の1週間前にも護衛なしの外出を禁止する公示をしたばかりだったようです。

このようなことで、ダラスリングは契約期間の明治三年十二月までの給料と養生料を支給されて、大学南校を解雇されたのです。
得業生の小泉敬二も、事件の時にダラスリングを置いたまま逃げ帰ったということで評判を落とし、免職となってしまいます。

大学南校を解雇されたリングは帰国、ダラスは未練があったのか日本に残ることとし、折から外国人教師を探していた米沢藩に洋学教師として迎えられることになります。

そのことが、後に米沢方言を世界に紹介し、米沢牛を全国に広めることとなって「米沢牛の恩人」とまで讃えられるようになるのですから、人の禍福は最後まで分からないものです。
さて、一方、巻き添えを食った形で大学南校にいられなくなった小泉敬二はというと、これが、なんと高崎にやって来るのです。
次回はいよいよ、銚子・高崎・英学校の不思議な糸が繋がってまいります。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:23
Comments(4)高崎藩銚子領

2013年08月11日

銚子・高崎・英学校(4)

ダラス・リング事件に巻き込まれ、大学南校を免職となった小泉敬二でしたが、彼を迎え入れたのは「高崎藩英学校」でした。

「新編高崎市史」の英学校に関する記述は実にあっさりしたもので、小泉敬二の名も出てきません。

明治三年(1870)八月には高崎藩立の英学校が、静岡藩士作楽戸痴鴬(さらくど・ちおう)を教師として檜物町(ひものちょう)に設立された。藩校文武館とは異なり英語を教授する専門的な藩校である。
なお、この学校は群馬県における初めての英学校であった。
藩士五〇人を選んで生徒とし、藩主大河内輝聲も学んだという。生徒の中には高崎藩士出身で日本を代表するキリスト教思想家の内村鑑三や、明治から昭和前期にかけての政党政治家で「憲政の神様」と称えられた尾崎行雄らがいた。(略)
英学校は明治六、七年には廃校となった。」

大正二年(1913)発行の「高崎藩近世史略」には、小泉の名前が出てきます。

明治三年八月某日静岡藩士作楽戸痴鴬ヲ雇ヒ英学教員ト為シ仮英学校ヲ檜物町ニ設置ス、因テ士族五十人ヲ選抜シテ以テ生徒ト為ス知事公モ亦痴鴬ヲ召シテ之ヲ学ブ、
其後チ故有リ痴鴬ノ雇ヲ解キ士族藤田栄親ヲ英学大助教ニ任ズ、(略)
後チ又、柏原藩士小泉敬二ヲ雇フ、(略)」

さて、この小泉敬二「高崎藩英学校」の教師となるについては、過日記事にした「美加保丸事件」がその発端であるといってもいいでしょう。

美加保丸事件で国元へ戻された郡奉行・土方景尉に代わり、銚子民政総裁として着任した菅谷清允
そこへ難破したフランス船に乗っていた、イギリス人のダラス
菅谷に請われて英語を教え始めたダラスに教わっていた、清允の養嗣子・正樹

正樹は、東京へ出たダラスの下でも英語の教えを受ける訳ですが、そこでダラス門下の小泉敬二と出会うのです。
ダラスが例の事件で大学南校を去り、米沢藩の洋学教師として採用された後も、正樹ダラスの家に寄寓して英語を学んでいます。
時は、はや明治四年(1871)となっていました。
この年、菅谷清允は銚子民政総裁の職を勤め上げ、高崎に戻って高崎藩少参事の要職に就いています。

これらのことを考え合わせると、小泉「高崎藩英学校」の教師として採用されたのは、自分のことで巻き添えにしたと思うダラスが、菅谷正樹を通じて父・清允に斡旋を依頼し、贖罪としたかったのであろうという推測は、果たして穿ち過ぎでしょうか。

「高崎藩英学校」での小泉は、生徒にはなかなか人気があったようです。
小泉の就任後2、3年で英学校は廃止されてしまう訳ですが、その後、三重県伊勢山田の英学校へ移る小泉と共に、転校する生徒も何人かいたといいます。

高崎藩の飛び領地、銚子の沖から繰り出された一本の糸は、人と人とを結びつけながら本地・高崎まで伸びてきました。
そして、その糸は再び銚子へ戻り大きな輪っかとなるのです。
小泉敬二が着任することで「高崎藩英学校」の教職を解かれた藤田栄親は、その後、銚子で私塾「勧徴舎」を開設しています。
げにも不思議な、因縁よなぁー。

さてさて、このブログも再び銚子へ戻ることに致しましょう。

(参考図書:「幕末維新期 動乱の高崎藩」)




  


Posted by 迷道院高崎at 07:40
Comments(8)高崎藩銚子領

2013年08月18日

高崎藩銚子陣屋跡

銚子「陣屋町」という町名があります。







その町のほぼ中心に、「旧陣屋跡」と刻まれた碑が建っています。
玉垣には、くっきりと「高崎扇」が刻まれています。

そうです、ここが旧高崎藩銚子陣屋(飯沼陣屋)のあったところです。

碑文には、次のように刻まれています。

  飯沼陣屋由来記
銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石
想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ
爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり
本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという
この辺曽(かつ)て郭町(くるわちょう)と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う
飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ
昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵
飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平

空襲により灰燼に帰し、また戦後行われた区画整理事業により、昔の姿をすっかり失った陣屋町一帯。
この陣屋跡の場所を特定するについては、大変なご苦労があったようです。

ともすれば、郷土の史跡など消えるに任せる町が多い中、このように残してくれている銚子の方々に、本当に頭の下がる思いがします。

陣屋跡は、「陣屋町公園」として町の人の憩いの場となっているようです。

大通りからちょっと引っ込んだ静かな公園に、親子連れの楽しそうな声が響いていました。

平成十九年(2007)に建てられた史跡記念碑には、「人を語り 歴史を語り 伝統を語り継ぐ」と刻まれています。

除幕式には、高崎経済大学名誉教授・高階勇輔先生も出席されています。

記念碑には、渡辺崋山の描いた銚子陣屋付近の風景画が嵌めこまれていて、当時の姿を想像することができます。








公園の中には、陣屋の図面に描かれているものがいくつか残っています。

旧陣屋跡碑の土台として使われているのは、陣屋の周囲を囲む堀割りに使われていた石。 →





← 陣屋内に3つあった井戸のうち、埋め立てをまぬがれた唯一の井戸。

そして、昭和六十年(1985)に地域の皆さんのご厚志と土地売却代金で再建されたという、熊野神社嘉名命(かなめ)神社

実はもうひとつ、この銚子陣屋の一人のお代官様の話が、今も大切に語り継がれ残っています。
次回は、そのお話をいたしましょう。

【銚子陣屋跡碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 08:23
Comments(4)高崎藩銚子領

2013年08月25日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(1)

千葉県中学校長会編「中学生の新しい道」という道徳の副読本に、「じょうかんよ」という話が載っています。

(写真挿入は迷道院高崎)
「じょうかんよ」   疋田久雄・文
千葉県銚子市といえば、本州の最東端に位置する漁港の町であり、しょうゆの醸造でも有名な活気に満ちた土地である。
この銚子に髙神原町(たかがみはらちょう)という所があるが、この東南部の台地に「都波岐(つばき)神社」と呼ばれる神社がある。
この神社に上っていく石段の反対側に、墓標のような石碑が一つ建っている。

この碑は、文政六年(1823)に、庄川杢左衛門(しょうかわ・もくざえもん)という人のために建てられたものである。
この年は杢左衛門の四十三回忌(三十三回忌の間違い?)にあたったので、その供養も兼ねて、かれの偉業を長く後世に伝えるために、高神村の名主・加瀬新右衛門が中心となって、大勢の人々が力を合わせて建立したものだという。

杢左衛門は、高崎藩からの命令を受けて銚子の代官をつとめた人である。天明年間のことであった。
1781年から89年までの天明年間は、日本全国が大飢饉になった時代である。銚子地方も天明二年(1782)から六年(1786)まで、風水害や冷害で稲はもちろんのこと畑の作物もほとんど収穫がなかった。」

天明年間とは、なんとも大変な時代でありました。
中でも、天明三年(1783)の浅間山大噴火は、天明の大飢饉をさらに大きくしてしまいます。

過去記事「浅間のいたずら」にも書きましたが、この時の噴火では高崎・倉賀野に30cmも灰が積もったそうです。

200kmも離れた銚子にまで、灰は降り積もりました。

庄川杢左衛門の墓碑には「積寸有余」とありますから、4~5cmくらいだったのでしょうか。
そして「立毛大痛」とも刻まれていて、立毛(たちげ:刈入れ前の稲)は大いに痛み収穫できなかったようです。

再び、「じょうかんよ」の文です。
杢左衛門は、銚子地方のこのひどいありさまをこと細かに高崎藩に報告し、藩の貯蔵米を出してくれるよう願いでた。
しかし高崎藩の直轄領である高崎地方一帯も、同じように飢饉の被害を受けていた。そればかりか高崎地方は、浅間山が大爆発を起こしたために、その噴煙が農地を埋めてしまったので、藩の役人たちは銚子地方の救済どころではなかったのである。
杢左衛門の願いは無視された。

杢左衛門は、目の前に見る民の地獄の苦しみを見すごすことはできなかった。このままではみんな死んでしまう。(略)
人が死んだあとに米だけ残ってなんになる。
---とうとう独断で、杢左衛門は銚子にある藩の米蔵を開いてしまった。(略)

杢左衛門は金も貸し与えた。もちろん藩の御用金からである。貸したとはいえ、作柄や浜の漁がもとどおりにならないかぎり、返せるあてのない金である。
藩の許可がないのに、御用金に手を付けた責任は重い。(略)

『藩の許しも受けず、代官の分際をもって独断専行におよびし罪は軽からず。』と、とくに武士の情けをもって切腹を命ぜられたのは、それから間もなくのことであった。
ようやくおだやかな日が続くようになった代官所の庭で、杢左衛門はりっぱに腹を切って死んだ。(略)」

村人達は、庄川杢左衛門を悼み、敬い、慕い、「じょうかんよ節」という民謡で、今も歌い伝えているそうです。

♪ じょうかん(代官)よ さまよ アレワノセイ

     さまに三夜の三日月さまよ
        宵にちらりと見たばかり ションガエー

     胸に手をあて庄川様は
        人のためなら是非もない ションガエー

     許し得ずして米倉開き
        お役ご免で自刃する ションガエー ♪



高崎市立中央図書館に、伝承「庄川杢左衛門」の電子紙芝居が所蔵されています。

制作したのは、前回ご紹介した、飯沼陣屋址記念碑建立会長の名雪雲平氏です。

この伝承に興味を持たれた方は、ぜひご覧になってみてください。

ただこの伝承、実は謎もいくつかあって、次回はその辺のお話を。


【庄川杢左衛門頌徳碑】



  


Posted by 迷道院高崎at 07:02
Comments(8)高崎藩銚子領

2013年09月01日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(2)

←文政六年(1823)に建立された庄川杢左衛門の墓碑、そこに刻まれている杢左衛門を顕彰する碑文は難しい漢文です。

これを、銚子市史編纂委員長の篠崎四郎氏が読み下し、昭和六十三年(1988)当時「銚子市小川町郷土芸能保存会」会長の髙橋作右衛門氏が石碑にして、墓碑の隣に建立していますので、こちらでご紹介しましょう。↓

本了院圓観宗融居士尊位
居士之姓は藤原、 氏は庄川、 諱(いみな)は杢左衛門、 字(あざな)盛職。君は髙﨑侯の忠臣にして、性は仁篤慈慧貞順、 古今の名士也。

嘗て天明中銚子港の郡司となり、租税訟獄を掌(つかさど)る。
同三癸卯(みずのとう)の年七月 信州浅間嵩(だけ)焼く。

沸騰する焔火は天に亘り、焼灰は雨の如く降り、白昼浡昧として闇夜を漣う如し、積ること寸有余、立毛(たちげ:刈入れ前の稲)大いに痛み、公米八百俵を戴く。
同六戊午(丙午・ひのえうまの誤り)の年、霖雨降り続き以て冷気募る。複(また)七百俵を戴き、再び飢渇餓死を凌ぐ為め、百両余を以て扶助さる。

性命を保ち農事を励み、飢渇餓死に至らざる者千有余人なり。且つ浦の退転を起立の為め二百俵、并(ならび)に通邨二万余人数千俵余并に数百両余を救う。
之の金米を以て、一統餓死退転も無く連綿として相続く。
昭(あきらか)なる哉、大君の仁徳を以て多勢の性命を保つ。

悲しい哉、寛政二庚戌の年九月三十日、病を以て五十有七歳にして卒し、髙﨑館の先塋(せんえい:祖先の墓)に葬る。
仰ぎ願はくば郷中一統永久に髙恩に報ぜん為め、万代仰いで興廃易(かわ)らず霊場に鎮め 安置して後世に伝え、石に刊して碑を建つ。
然れば則ち絶ゆるを継ぎ廃するを起し、賢君永久たり。
道徳は礼敬厚く、怠慢無く以て御武運長久を欲し、敬礼は在(ましま)すが如く拝礼を為すべき也。


伝承では庄川杢左衛門「代官所の庭で、りっぱに腹を切って死んだ。」となっていますが、顕彰碑には「病気で死んだ。」と刻んであるのです。

さらに事をややこしくしているものに、最初に庄川杢左衛門の顕彰碑を建立した加瀬家の過去帳があります。
加瀬家の過去帳に、なぜか庄川杢左衛門の戒名、享年、救済高などとともに、「高崎御城内ニ於死去」と記されているのです。
「病」とは書かれておらず、「高崎城内に於いて」とあるので、これは責めを負って切腹したに違いないという訳です。

伝承と頌徳碑との食い違いについて、昭和三十一年(1956)発行の「銚子市史」では、「強いて想像すれば、自殺して果てたなどと云う文言は、その人の徳に対しても、また公儀を憚る手前からも刻みこむワケにはいかなかった為かと思われるに過ぎない。」と、暗に伝承の方を支持しています。

郷土史家の先生方の間でも、このことについては意見が分かれています。
次回は、その辺のお話をいたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:40
Comments(6)高崎藩銚子領

2013年09月08日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(3)

昭和三十一年(1956)発行の「銚子市史」の中で、庄川杢左衛門の項には、こう書かれています。

遺憾なことには、その伝記が詳らかでなく、高崎にも何らの記録も手がかりも存しないばかりか、墓所すら不明となっている。
同市の郷土史家も全く此の人を知らず、此の点から云えば僅かに銚子の庶民の間に生きているのみということになる。
これは一面に、高崎藩にあっては身分の低い無名の士分であった事実を示すものと見られよう。」

切腹したのか病死したのかの前に、庄川杢左衛門という人の記録すら無いというのです。
おまけに、「同市(高崎)の郷土史家も全く此の人を知らず」とあっては、おやおやという感じですが。
たしかに、昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」には、庄川杢左衛門についての記載は一切ありません。

平成十六年(2004)発行の「新編高崎市史」では、「飛び領の成立と支配」の項の中で触れられてはいますが、「銚子市史」の記述を転載している程度の内容です。

銚子領にも義人として代官庄川杢左衛門の伝承がある。(略)
藩の許可を得ない彼の独断的行為は、藩役所から責任を追及され、高崎城に呼び出された後糾弾され、切腹を命じられた。
この杢左衛門について高崎では全く知られていないが、銚子では「じょうかん様」「じょうかんよう様」、あるいは「温情代官」として、その徳を今でも高く讃えられ、小学校の副読本にも取り上げられている。(略)

頌徳碑には、杢左衛門が領民を救うために行った処置が簡単に述べられているが、彼の死については、寛政二年(1790)五十七歳の時、高崎館(たかさきやかた)で病死していると記し、伝承の切腹とは異なっている。」

「高崎では全く知られていない」とありますが、実はその高崎に、庄川杢左衛門のことを十数年も追い続けていた郷土史家がいたんです。
迷道院が何かにつけご教示を頂いている、高崎市史編纂委員の中村茂先生です。

中村先生は、高崎の資料に庄川杢左衛門の名前が出てこないか地道に調べてきた結果、ようやくいくつかの資料に、杢左衛門本人または彼の一族と思われる名前を見出すことができたのだそうです。

先生はその結果を、平成十二年(2000)利根川文化研究会発行の「利根川文化研究 第18巻」に、「高崎の資料に見る庄川杢左衛門」と題して発表しています。

その冒頭に書かれている先生の言葉をご紹介します。

高崎藩銚子陣屋代官『庄川杢左衛門』の事績については、高神村に残る頌徳碑の碑文解釈をめぐって、さまざまな論考がなされているが、今なお謎に包まれた人物である。
高崎市においては、庄川杢左衛門および高神村の頌徳碑の存在について、ほとんど知られていないのが現状である。

筆者は庄川杢左衛門に興味をもって、ここ十数年、高崎の資料に庄川杢左衛門の名前が出てこないか、それとなく調べてきたが、最近になって漸くいくつかの資料に杢左衛門本人または彼の一族と思われる名前を見出すことができた。

彼の事績を証明できるような資料ではないが、銚子地方の研究者の方々へ情報提供として、高崎の資料に現れた庄川杢左衛門を紹介し、若干の私見を加えるのが本稿の目的である。」

この研究による中村先生の所見については、少し長くなりそうですので、回を改めてご紹介することと致します。
次回まで、お待ちくださいますよう。


  


Posted by 迷道院高崎at 11:22
Comments(4)高崎藩銚子領

2013年09月15日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(4)

中村茂先生の「高崎の資料にみる庄川杢左衛門」から、要点をご紹介いたします。

先生は、高崎藩の「御家中分限帳」の中に「御鉄炮徒 正川銀右衛門」の名を見い出します。
「正」「庄」の文字の違いはありますが、昔は音が同じなら異なる字を書くことはよくあることのようです。
「御鉄炮徒(士)」(おてっぽうかち)というのは下級に属する士分で、八石二人扶持という低禄だそうです。
この資料の年次は不詳ですが、他の資料との関係から元禄十五年(1702)と比定しており、高崎藩庄川家初代の人物であろうと推定しています。

次に、寛政四年(1792)の「大円院様御代指物絵形順序」という資料に、「城番 庄川杢左衛門」の名があります。
その杢左衛門には前髪があるとなっているので、元服前(15~18歳)であろうということですが、家督は相続していたと解釈できるそうです。
銚子高神村加瀬家の過去帳には、杢左衛門倅・庄川銀助は寛政三年(1791)三月に17歳で死去したという記録があります。
父・杢左衛門は寛政二年(1790)九月三十日に没していますので、家督相続の認可には時間がかかることを考えると、「倅・庄川銀助」「城番・庄川杢左衛門」とは別人で、銀助の弟かあるいは他家からの養子ではないかというのが、中村先生の見立てです。

さらに下って享和三年(1803)のものと比定される「高崎家中附覚帳」には、「御城番 高五十石 庄川杢左衛門」の名前が出てきます。
さらに、「公私用禄留帳」の文化四年(1807)の記録にも、「庄川杢左衛門」の名が出てきます。

もうひとつ、文化十年(1813)の「分限帳」の城番18名の中に、「天休院様江被召出五代 実渡辺郡平 一高五拾石 庄川銀助」とあります。
中村先生によりますと、庄川家は天休院(輝貞)以来五代にわたって高崎藩に仕えており、この「庄川銀助」渡辺郡平家からの養子であることが分かるということです。

これらのことを年表式に並べてみると、次のようになります。

・1702 八石二人扶持 正川銀右衛門
・1790 銚子代官庄川杢左衛門 没 57歳
・1791 杢左衛門倅庄川銀助 没 17歳
・1792 城番庄川杢左衛門 15~18歳
・1803 五十石庄川杢左衛門
・1807 庄川杢左衛門
・1813 城番 五十石庄川銀助 養子

ここから分かることは、銚子代官・庄川杢左衛門没後、少なくとも家督は二代にわたって継承されているということです。

では、中村先生の所見をご紹介いたします。

言えることは、庄川家は文化年間まで存在したことが確実なことである。
もし罪を得て切腹したのであれば、御家断絶または家格を落とされるが、その形跡は見られない。
「高五拾石御城番」の家柄であったことは資料にある通りである。銚子代官としても妥当な家柄である。
代官庄川杢左衛門が没した後も、庄川家は高崎藩士として存続していたのである。」

ということで、「銚子代官・庄川杢左衛門が切腹したということは考えにくい。」というお考えです。

次回は、他の郷土史家の方のご意見をご紹介します。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:25
Comments(2)高崎藩銚子領

2013年09月22日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(5)

中村茂先生が「高崎の資料にみる庄川杢左衛門」を発表する5年前、やはり丹念に調べた古文書をもとに、庄川杢左衛門は切腹していないと考えた郷土史家がいます。

銚子の郷土史家・小足武司氏は、天明期における飯沼村凶作の状況を記録した「天明凶災録」や、銚子荒野村の記録「浅間山」などに記されている事柄から導き出した考えを、1995年発行「利根川文化研究 第9巻」に「天明の飢饉と庄川杢左衛門」と題して発表しています。

その中で、杢左衛門を評してこう言っています。
庄川氏は天明年間を銚子にあって活躍したのであるが、高崎藩の城附村々の仕置きと比較して、年貢(免除)の要求に対しても願書を取り上げるなど、百姓の言い分を聞く態度をとり、また村々を廻って極貧者を調査させ、逸早く触れを出して、富裕者から義金子を出させて困窮者・飢渇人を救済させた。
さらに、一揆・うちこわしなども迅速に解決するなど、文献からは「能吏」としての姿が彷彿としてくる。」
つまり、杢左衛門は農民の訴えをよく聞いて、できる限りの手を尽くすという、優秀な行政マンであったろうという訳です。

その上で、
「そこで『無断で藩の蔵を開いて米を放出した』という話であるが、確かに拝借米を出したり、(富裕者からの)お救い金を出したりという施策を行ったが、拝借米というのは、貸付け米のことで年賦払いで返さなければならないものであり、お救い金も後で出金者に返さなければならないものであった。
おそらく江戸表の承認のもとで、藩の施策として拝借米が貸付けられたものと考えられる。」
と、杢左衛門は無断で藩の蔵を開いたのではない、という考えを示しています。

さらに、こう述べています。
私は敢えて庄川杢左衛門を『温情代官』というよりも『名代官』であったと主張したい。
後に銚子在勤時の働きが認められて『高崎代官頭取席』に栄転したことが知られる。」

高崎藩が、無断で藩の蔵を開いた人物を栄転させることなどあり得ない、よって切腹などさせられてはいないと暗に言っている訳です。

この「高崎代官頭取席に栄転」という話は、杢左衛門が銚子代官の職を離れてから、田中太兵衛という人(飯沼村の名主か?)に宛てた書簡に記されています。
(カッコ内は迷道院訳です。間違ってたらごめんなさい。)
先達而は早速預御状忝存候、(略) (先だっては早速のお手紙ありがとうございました)
其表在勤中彼是御心添 (在勤中はあれやこれやとお心添えを頂き、)
無滯相勤無滯致退役、 (滞りなく勤め上げて退役することができました)
其上高崎御代官頭取席□昇進難有候へ共 (その上、高崎代官頭取席に昇進と有り難く思いますが)
彼是遠国引越等迷惑の事に御座候(略)」 (遠国へ引っ越す等あれやこれや迷惑なことです)

この文面を見ると、杢左衛門という人の人柄が分かるような気がします。
「昇進は嬉しいけど面倒くさいことも多くて」などと冗談が言えるほど、土地の人とは実にいい関係が築けていて、できればずっと銚子に居たかったのではないかと思わせます。

小足氏は、以上のように分析した後、こうも言っています。
今日に至るまで『庄川様は自死した』と信じ敬愛する人が後を絶たないことをどう理解すればよいであろうか。」

頌徳碑にある、戴いた米金の記載が事実とするならばとして、
高神村は銚子村々の中でも特別の配慮を受けたことになる。まさに『旱天の慈雨』のような人物であったろう。
それが高神村に『頌徳碑』が建てられた理由であり、また『頌徳碑』を建てることによって、荒廃した人心を高揚し、村の再建を図ろうとしたのではないかと考えられる。」
と結んでいます。

さて次回は、「いやいや、やはり杢左衛門は自刃したのだ。」とする、郷土史家の所見をご紹介いたしましょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 08:54
Comments(4)高崎藩銚子領

2013年10月06日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(6)

先週はイベント記事が続いて、「じょうかんよ」シリーズがチョイ待ち状態になってしまいましたね。

前回までは、庄川杢左衛門は自刃していないとする郷土史家をお二人ご紹介しました。
今回は、そのお二人の発表資料を見たうえでなお庄川杢左衛門は自刃したとする郷土史家をご紹介します。

前橋の郷土史家・大野富次氏は、平成二十一年(2009)発行の「群馬風土記」通巻99号に、「高崎藩銚子代官 庄川杢左衛門の義挙」という一文を投稿しています。

大野氏は総論の中で、
史料となる文書類などは、体制維持などのために権力者によって改竄される場合があるが、伝承は庶民によって誰ともなく伝えられる文化のようなものである。
当事者の利益に左右されることのない自然発生的なもの、つまり辻褄合わせの史料中心主義からは非科学的と見られ、歴史にならないものであるともされる。

しかし、日本を代表する中世史研究者の新行紀一氏は、岡崎市史の中で『伝承をややもすると除外する傾向があるが、伝承には真実性が潜んでいる』と記し、注視することが必要であると強調している。まことにその通りであろう。(略)

国立歴史民俗博物館の久留島浩教授は、私の質問に懇切に答えて『代官がやむにやまれぬ時に自己判断で救済を実施した事例は確かにある』と答えていただいた。
伝承も大事な歴史資料になり得るのである。代官の職制を専門とする研究者がそう答えてくれたのである。」
として、伝承の方を重く見る立場をとっています。

そこで、こう断定します。
高崎城内で死去することは、ただ事ではなく、碑文にある病死とは考えられない。何らかの責任を負わされての自刃と考えるのが自然であろう。」

中村先生の発見史料により判明した、杢左衛門没後も家督が継承されていることについても、
伝承の背景となった、藩に無断で領民を救済したことなどを咎められ、高崎城内死去(自刃)したが、お家断絶は免れたことなどがほぼ確認できた。
藩が庄川家の家督継続を許したことは、何か理由があっての事であろう。
その一つとして考えられるのは、碑文にある『連綿と相続ク』の通り、結果として二万人もの領民が飢饉の災害から免れ、当時、圧政による一揆の頻発状況を考えると、高崎藩としても幕府に対していい顔が出来たということであろう。(略)

このような社会状況の中で、高崎藩銚子藩領は餓死者も出さず、一揆も起こらなかったことは、代官庄川の臨機応変の善政によるもので、藩はこれを藩に無断の個人行為として糾弾すると同時に、結果を重視して領民との宥和を図ったものと思われる。」
と、自刃説は捨てません。

また、小足氏が提示した田中太兵衛宛て書簡についても、こう推論します。
この書簡が書かれた正確な時期が七月三日とあるのみで、年代が不明なのである。おそらく、高崎城内で死去する随分と前に高崎本城へ呼び戻されたのだと思われる。
一つの考察を加えるならば、銚子の領民を救った代官に対し、すぐに逮捕して責任を問うことは、領民を敵に回すことになり、一揆に発展するかもしれない。そんな危惧から時間を置いたとも取れる。(略)

高崎藩では一時ではあるが、庄川を高崎代官頭取席に昇進させるという知恵を働かせたとも考えられる。そんな期間中に発信されたのが田中太兵衛宛ての書簡であったかも知れない。
つまり、時間差を与え、じっくり吟味した後、自刃させたというのが実態なのではないか。」

さー、杢左衛門は病死だったのか切腹だったのか、3回にわたって郷土史家先生方の両論をご紹介しましたが、「隠居の思ひつ記」読者の方々の判定や如何に。

次回は、素人という利点(?)を活かして、迷道院高崎としての疑問やら当て推量やらを述べさせて頂こうと思います。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:59
Comments(4)高崎藩銚子領

2013年10月13日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(7)

ここまで庄川杢左衛門のことをご紹介してきて、疑問に思うことも出てきました。

まず、頌徳碑に刻まれている「髙﨑館先塋葬」という一節です。
「銚子市史」では、これを「高崎館(ヤカタ)ノ先塋ニ葬ル」と訳しています。
「先塋」とは「祖先の墓」ということですから、素直に読めば、庄川杢左衛門は、祖先の墓が敷地内にあるような大きな屋敷に住んでいたように思えます。

しかし、「銚子市史」の別の個所には、
高崎市内の寺院のどこかに、此の人の墓のあることもコレ(頌徳碑)によって確実であるから、丹念に探し求めるならば、他日必ず発見されると思うのである。」
とあり、祖先の墓は高崎の寺院にあるはずと言ってる訳です。
大阪の人なら「どっちやねん!」、上州人なら「どっちなんでや!」と突っ込むところです。

中村茂先生の庄川杢左衛門研究第二弾となる「高崎藩士庄川杢左衛門の出奔と断絶」(2011年発行「利根川文化研究 第34巻」)の中に、庄川杢左衛門の居宅のことが書かれています。
文化七年(1810)「御城内外惣絵図」によると、城外熊野社近くの三軒長屋(現高崎市柳川町)に、庄川杢左衛門は実父渡辺郡平家と隣同士で居住している。」



←これが、その「御城内外惣絵図」庄川杢左衛門宅付近を抜粋したものです。

この三軒長屋を「館(やかた)」と呼ぶでしょうか・・・。
少なくとも、敷地内に「先榮」があるとは思えません。
当時は、土葬だったでしょうから。

それでは、養子縁組を機に実父・渡辺家の隣に移り住んだのでしょうか。
とすれば、「館(やかた)」と呼ぶほどの屋敷を引き払ってここに来たことになりますが、それもどうも解せません。

だいいち、渡辺郡平は広間番で高六拾石、庄川杢左衛門は城番で高五拾石と、渡辺家の方が若干ですが格上です。
高崎藩庄川家の初代と推定される正川銀右衛門は、八石二人扶持です。
どうしても、敷地内に「先榮」のある「館(やかた)」に住んでいたとは思えないのです。

もしかすると、頌徳碑の文を撰じた加瀬新右衛門が、杢左衛門の偉大さを誇張するために、敢えて「高崎館」としたのかも知れませんが・・・。

さてそこで、これは迷道院の全くの当てずっぽうなのですが、「館」「やかた」ではなかったのではないかと思うのです。

高崎郊外の旧片岡村大字寺尾に、「舘(たて)」という名の字があります。

南北朝時代後期、尹良親王の入った「舘(やかた)」(寺尾城)があったことによる地名と伝えられています。

ここには、戦国時代和田氏の寄騎(よりき)であり、江戸時代には第二代高崎藩主・酒井家次にも仕えた、佐藤の通称「治部屋敷」がありました。
佐藤治部右衛門、佐藤治部少輔。若松町の佐藤産婦人科を「舘出張」(たてでばり)と呼ぶのは、子孫が「舘」から出てきて開業したことによる。

また、「舘」(たて)の近くには、やはり中世の武士・藤巻氏が居たと伝わる「左近屋敷」という字名もあります。
それらの有力武士に仕える農民兼武士も、当然、その周辺に住んでいたでしょう。

庄川家の祖先もそのひとりで、「舘」(たて)に住み、その野辺に祖先の墓「先榮」があったのではないか。
つまり、「髙﨑館先塋葬」は、「高崎の舘(たて)にある祖先の墓に葬られた」と読むべきだったのではないか。
そんな気がするのですが、「舘」(たて)地内に庄川家の墓も見つからず、まさに隠居の思い付きですが・・・。

さて次回は、庄川杢左衛門自刃か否かについて隠居の思い付きを述べ、以て「じょうかんよ」シリーズ最終回とする所存です。



  


Posted by 迷道院高崎at 08:59
Comments(4)高崎藩銚子領

2013年10月30日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(8)

いやー、すっかりご無沙汰をいたしまして。
わかよたれそ つねならむ。
やっと落ち着きましたが。

さて、庄川杢左衛門のことでありますが、私は自刃していないという説をとります。
そもそも自刃を裏付ける史料が何一つないのですから。
高崎に戻ってからの「高崎代官頭取席」昇進は、飢饉のさなかに銚子代官として領民をよく治め、他国のような一揆騒動を防いだことへの褒美と、素直に解釈すべきでしょう。

自刃説をとる大野富次氏はこの昇進をも、
すぐに逮捕して責任を問うことは、領民を敵に回すことになり、一揆に発展するかも知れない。(略)
庄川を高崎代官頭取席に昇進させるという知恵を働かせたとも考えられる。(略)
時間差を与え、じっくり吟味した後、自刃させたというのが実態なのではないか。」
と述べていますが、これはあまりにも穿ち過ぎのように思います。

ただ、自刃したのでないとなると今度は、小足武司氏の言う、
今日に至るまで『庄川様は自死した』と信じ敬愛する人が後を絶たないことをどう理解すればよいであろうか。」
という疑問に突き当たります。

そのことについて、私には庄川杢左衛門とどうしても重なって見えてしまう、ある人物のことが思い出されます。
その人物とは、斎藤八十右衛門雅朝(さいとう・やそえもん・まさとも)です。

八十右衛門は、享保十七年(1732)上野国緑野郡緑埜(みどの)の大きな農家の生まれですが、旗本・松平(能見)忠左衛門の知行地である緑埜の代官を務めていました。
八十右衛門も、代官就任中に天明年間の大飢饉と浅間山大噴火に見舞われます。
その時、庄川杢左衛門同様、飢餓に苦しむ人々を見過ごすことが出来ずに、米蔵を開いて近郷近在の人々を救済しています。
詳しくは、過去記事「鎌倉街道探訪記のおまけ」をご覧ください。

その過去記事にもリンクされているのですが(幻の「鋳銅露天大観音」、八十右衛門は浅間焼けからの復興と蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで、高崎清水寺観音堂脇に鋳銅製の「聖観世音立像」を寄進しようと考えました。
しかし、そのことが時の高崎藩主からは「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎めらてしまいます。
八十右衛門は一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像は建立することができたのですが、成就後、責任を取って自刃したと伝わっています。
自刃のことについては、観音像戦時供出跡に建てられた「芳迹不滅」碑(八十右衛門八世義彦氏撰、九世泰彦氏建立)の碑文に刻まれているが、「多野郡藤岡地方誌」や「藤岡市史」等、他の文献には記述されていない。

八十右衛門が自刃して果てたのは、観音像建立直後の寛政八年(1796)でした。
寛政二年(1790)に庄川杢左衛門が没した、その6年後ということです。

さてここからは、迷道院の当て推量になります。
単なる隠居の思い付きだということをご承知の上で、お読みください。

斎藤八十右衛門切腹の一件が、風の便りに銚子へ伝わってきたとしましょう。
銚子の人々の、こんな会話が想像できませんか。

「おい、高崎の殿様にお咎めを受けた代官が、切腹したんだとよ。」
「何でも、飢饉の時に米蔵を開いて百姓をお救いになった方だとさ。」
「え!そりゃ、おめぇ、庄川様のことじゃねえのか!」
「庄川様は、お城ん中で病気になって亡くなったって聞いてたが、ほんとは切腹させられてたんだなぁ!」
「おー、そうだ、そうにちげぇねえ!」
「あんなに偉ぇ人を、なんてまぁ・・・、俺たちのためによぉ。」


すっかり庄川杢左衛門のことと思い込んでしまった、そんな人々の思いが「じょうかんよ節」となって、銚子の人々に歌い継がれてきたのだとは考えられないでしょうか。

大野富治氏の記述の中に、元銚子市史編纂室長の明石恒七氏の「じょうかんよう節の由来について」の一文が紹介されています。
それによると、著名な民謡収集家の話を例にして、「この民謡は節に清元の影響がうかがわれ、文化・文政の時代(1804~30)のものであろう」とあります。
とすれば、「じょうかんよ節」は、庄川杢左衛門が没してからずいぶん後になって歌われ始めたことになります。
このことも、庄川杢左衛門切腹の話が、没後ずっと後になって広まったということを、示唆してはいないでしょうか。

さぁ、「隠居の思ひつ記」読者の方々の、お考えや如何に。

末筆になりましたが、庄川杢左衛門に関する数々の資料をご提供いただきました中村茂先生に、厚く御礼申し上げます。

では、高崎藩銚子領シリーズは、これでひとまず終わりということに致します。
お付き合い頂き、ありがとうございました。



  


Posted by 迷道院高崎at 09:28
Comments(6)高崎藩銚子領