「ちょいと千葉へ(銚子) その1」の続きです。
「新編高崎市史」によると、高崎藩の飛び領として銚子が加えられたのは、宝永七年(1710)間部詮房(まなべ・あきふさ)が高崎藩主となった時だそうです。
銚子領は、下総国海上(うなかみ)郡の17カ村で、石高五千石。
陣屋は飯沼村に置き、藩から派遣された奉行、代官、目付の他、現地採用の19人の役人、5人の中間がいたそうです。
その他、海岸警護の非常方役人、御用達商人、医師、郷足軽がいたとも書かれています。
その陣屋へ、慶応四年(明治元年1868)八月二十六日の深夜、黒生沖で船が座礁しているという知らせが入ります。
その時の陣屋の対応を、「新編高崎市史」から引用しましょう。
新政府は、榎本武揚等二千人が八隻の船を奪って脱走したとして、二十一日には国内にお触れを回していました。
ところが、美加保丸が黒生浦に漂着した時、この知らせはまだ陣屋には届いていなかったのです。
事の次第を知らない陣屋では、「駿府表に向かう途中、嵐のために漂着した。」という乗組員の言葉を聞いて、徳川の家臣が江戸を離れ駿府に引き移る途中で遭難したと思い、彼らに同情したのでしょう。
乗組員を丁重に処遇したといいます。
さて、新政府からのお触れが陣屋に届いたのは、美加保丸漂着3日後の二十九日でありました。
その知らせを受け取って凍りついたのは、陣屋の郡奉行(こおりぶぎょう)等、役人一同です。
もっと驚いたのは、陣屋から美加保丸漂着の報告を受けた高崎藩だったでしょう。
慌てて九月朔日(一日)になって、新政府に事の次第を報告しますが、最後にこう言い訳をしています。
「ちゃんと連絡したんですよー、けど、なんか遅れちゃったみたいでー、現場は知らなかったんですからー。」みたいな。
陣屋のわずかな人数では対応できないと思った高崎藩は、新政府への出兵を願い、近隣の領主への援兵を頼み、それが整ってから搦め取ろうと考えます。
しかし、そうこうしている内に、ヤバイと感づいた美加保丸の乗組員は、悪天候と夜陰に乗じて逃走を図ります。
九月五日、高崎藩は再び辛い報告書を差し出すこととなってしまいます。
「充分注意はしてたんですよ。一生懸命追いかけたんですけど、闇夜だったし雨風強かったし、見失っちゃったんですよねー。」という訳です。
えらいことになっちゃいました。
さて、高崎藩、このまま無事に済む訳がありません。
この続きは、また次回。
「新編高崎市史」によると、高崎藩の飛び領として銚子が加えられたのは、宝永七年(1710)間部詮房(まなべ・あきふさ)が高崎藩主となった時だそうです。
銚子領は、下総国海上(うなかみ)郡の17カ村で、石高五千石。
陣屋は飯沼村に置き、藩から派遣された奉行、代官、目付の他、現地採用の19人の役人、5人の中間がいたそうです。
その他、海岸警護の非常方役人、御用達商人、医師、郷足軽がいたとも書かれています。
その陣屋へ、慶応四年(明治元年1868)八月二十六日の深夜、黒生沖で船が座礁しているという知らせが入ります。
その時の陣屋の対応を、「新編高崎市史」から引用しましょう。
「 | 直ちに陣屋役人が現場に駆け付け、取り調べたところ船名は美加保丸、乗組員は時化(しけ)のため疲労困憊の状態であった。 |
しかし、その夜は風が吹きすさび、波が高かったので乗組員の出自や人数などは確認できなかった。 | |
そのため陣屋役人は風や波が静まるのを待つことにし、いったん陣屋に引き上げることにした。」 |
新政府は、榎本武揚等二千人が八隻の船を奪って脱走したとして、二十一日には国内にお触れを回していました。
ところが、美加保丸が黒生浦に漂着した時、この知らせはまだ陣屋には届いていなかったのです。
事の次第を知らない陣屋では、「駿府表に向かう途中、嵐のために漂着した。」という乗組員の言葉を聞いて、徳川の家臣が江戸を離れ駿府に引き移る途中で遭難したと思い、彼らに同情したのでしょう。
乗組員を丁重に処遇したといいます。
さて、新政府からのお触れが陣屋に届いたのは、美加保丸漂着3日後の二十九日でありました。
その知らせを受け取って凍りついたのは、陣屋の郡奉行(こおりぶぎょう)等、役人一同です。
もっと驚いたのは、陣屋から美加保丸漂着の報告を受けた高崎藩だったでしょう。
慌てて九月朔日(一日)になって、新政府に事の次第を報告しますが、最後にこう言い訳をしています。
「 | ・・・御触達之趣ハ早速彼地ヘ申遣候得共、 | ( | お触れ達しのことは、急いで銚子に申し送ったんですが、 | ||
途中行違相成候儀ト奉存候此段申上候」 | 途中で行き違いになったんだと思うので、このことを申し上げておきます。) | ||||
銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳 |
陣屋のわずかな人数では対応できないと思った高崎藩は、新政府への出兵を願い、近隣の領主への援兵を頼み、それが整ってから搦め取ろうと考えます。
しかし、そうこうしている内に、ヤバイと感づいた美加保丸の乗組員は、悪天候と夜陰に乗じて逃走を図ります。
九月五日、高崎藩は再び辛い報告書を差し出すこととなってしまいます。
「 | ・・・夫迄穏便ニ取扱、陣内厳重相固、見張之者差出置候処、 | ( | それまで穏便に取り扱い、陣内を厳重に固めて、見張の者を付けておいたんですが、 | ||
当朔日夜、船路並陸地引分、脱走之兆相見候旨註進有之候ニ付、 | 一日の夜、船と陸の二手に分かれて、脱走する兆しがあると連絡があったので、 | ||||
兼テ備置候人数早速手分繰出シ、川通リニ待伏罷在候処、 | 予てから備えておいた人員を直ぐに手分けして繰出し、川通りで待ち伏せていたら、 | ||||
脱走船三四艘見受候ニ付、大小砲ヲ以烈敷放払候得共、 | 脱走船3,4艘を見受けたので、大小砲を激しく打ったんですが、 | ||||
闇夜之義、殊ニ折節大風雨ニテ聢ト相分兼候得共、 | 闇夜でしかも大風雨のため、はっきり分かりませんけど、 | ||||
川上之方ヘ逃去候様子ニ付、猶追船ヲ以進撃致シ其後之模様未相分、 | 川上の方へ逃げ去ったらしいので、船で追いかけたんですけど、その後の様子は分かりません。 | ||||
陸地之方モ早速三手に分、探索人数差出候得共、是又イマダ相分不申候・・・」 | 陸の方もすぐ三手に分けて探索しましたが、これまた未だに分かりません・・・) | ||||
新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳 |
えらいことになっちゃいました。
さて、高崎藩、このまま無事に済む訳がありません。
この続きは、また次回。