2013年07月07日

美加保丸遭難で、高崎藩遭難(1)

「ちょいと千葉へ(銚子) その1」の続きです。

「新編高崎市史」によると、高崎藩の飛び領として銚子が加えられたのは、宝永七年(1710)間部詮房(まなべ・あきふさ)が高崎藩主となった時だそうです。
銚子領は、下総国海上(うなかみ)郡の17カ村で、石高五千石。

美加保丸遭難で、高崎藩遭難(1)陣屋は飯沼村に置き、藩から派遣された奉行、代官、目付の他、現地採用の19人の役人、5人の中間がいたそうです。

その他、海岸警護の非常方役人、御用達商人、医師、郷足軽がいたとも書かれています。

その陣屋へ、慶応四年(明治元年1868)八月二十六日の深夜、黒生沖で船が座礁しているという知らせが入ります。

その時の陣屋の対応を、「新編高崎市史」から引用しましょう。
直ちに陣屋役人が現場に駆け付け、取り調べたところ船名は美加保丸、乗組員は時化(しけ)のため疲労困憊の状態であった。
しかし、その夜は風が吹きすさび、波が高かったので乗組員の出自や人数などは確認できなかった。
そのため陣屋役人は風や波が静まるのを待つことにし、いったん陣屋に引き上げることにした。」

新政府は、榎本武揚等二千人が八隻の船を奪って脱走したとして、二十一日には国内にお触れを回していました。
ところが、美加保丸黒生浦に漂着した時、この知らせはまだ陣屋には届いていなかったのです。

事の次第を知らない陣屋では、「駿府表に向かう途中、嵐のために漂着した。」という乗組員の言葉を聞いて、徳川の家臣が江戸を離れ駿府に引き移る途中で遭難したと思い、彼らに同情したのでしょう。
乗組員を丁重に処遇したといいます。

さて、新政府からのお触れが陣屋に届いたのは、美加保丸漂着3日後の二十九日でありました。
その知らせを受け取って凍りついたのは、陣屋の郡奉行(こおりぶぎょう)等、役人一同です。
もっと驚いたのは、陣屋から美加保丸漂着の報告を受けた高崎藩だったでしょう。

慌てて九月朔日(一日)になって、新政府に事の次第を報告しますが、最後にこう言い訳をしています。
・・・御触達之趣ハ早速彼地ヘ申遣候得共、お触れ達しのことは、急いで銚子に申し送ったんですが、
途中行違相成候儀ト奉存候此段申上候」途中で行き違いになったんだと思うので、このことを申し上げておきます。)
銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より  ( )内は迷道院の私的意訳
「ちゃんと連絡したんですよー、けど、なんか遅れちゃったみたいでー、現場は知らなかったんですからー。」みたいな。

陣屋のわずかな人数では対応できないと思った高崎藩は、新政府への出兵を願い、近隣の領主への援兵を頼み、それが整ってから搦め取ろうと考えます。
しかし、そうこうしている内に、ヤバイと感づいた美加保丸の乗組員は、悪天候と夜陰に乗じて逃走を図ります。

九月五日、高崎藩は再び辛い報告書を差し出すこととなってしまいます。
・・・夫迄穏便ニ取扱、陣内厳重相固、見張之者差出置候処、それまで穏便に取り扱い、陣内を厳重に固めて、見張の者を付けておいたんですが、
当朔日夜、船路並陸地引分、脱走之兆相見候旨註進有之候ニ付、一日の夜、船と陸の二手に分かれて、脱走する兆しがあると連絡があったので、
兼テ備置候人数早速手分繰出シ、川通リニ待伏罷在候処、予てから備えておいた人員を直ぐに手分けして繰出し、川通りで待ち伏せていたら、
脱走船三四艘見受候ニ付、大小砲ヲ以烈敷放払候得共、脱走船3,4艘を見受けたので、大小砲を激しく打ったんですが、
闇夜之義、殊ニ折節大風雨ニテ聢ト相分兼候得共、闇夜でしかも大風雨のため、はっきり分かりませんけど、
川上之方ヘ逃去候様子ニ付、猶追船ヲ以進撃致シ其後之模様未相分、川上の方へ逃げ去ったらしいので、船で追いかけたんですけど、その後の様子は分かりません。
陸地之方モ早速三手に分、探索人数差出候得共、是又イマダ相分不申候・・・」陸の方もすぐ三手に分けて探索しましたが、これまた未だに分かりません・・・)
新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院の私的意訳
「充分注意はしてたんですよ。一生懸命追いかけたんですけど、闇夜だったし雨風強かったし、見失っちゃったんですよねー。」という訳です。

えらいことになっちゃいました。

さて、高崎藩、このまま無事に済む訳がありません。
この続きは、また次回。





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Posted by 迷道院高崎 at 10:23
Comments(6)高崎藩銚子領
この記事へのコメント
内戦は悲惨です。幕府と新政府の板挟みになって何とか穏便に対処しようと腐心されたことが伝わってきます。


それにしても全くの偶然ですが、船名を耳にした時、故郷の山を思い浮かべた藩士の方もいたでしょうね。




現代の高崎市と銚子市の交流ですが、高崎の臨海学習を銚子で、銚子の林間学習を倉渕で相互に行ったら深まるかも知れませんね。
Posted by 1日中山道  at 2013年07月08日 19:07
>1日中山道さん

あー、美加保丸と御荷鉾山ですか。
伊香保のことも、思い出したでしょうかね。

臨海学校と林間学校の交流は、いいですね。
いろんなご縁を大切にして、高崎誘客のきっかけにして欲しいです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月08日 19:54
江戸時代の文書を読んでいると、随分筆まめ
なのに驚きます。
何かにつけて詳細な報告が必要だったようですが、
迷道院さんの名意訳がわかりやすくて、たのしいです^^。
Posted by 風子  at 2013年07月09日 09:07
>風子さん

本当に筆まめだったと思います。
全ての古文書が残っていたら、もしかすると歴史の定説がひっくり返るかもしれませんね。

正しく読み下せないもんですから、ま、大体こんなことかなって感じで(^^ゞ
間違ってるとこあったら、教えて下さいね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月09日 19:17
高崎藩としては、天下の一大事ですが、
海なし藩のお役人
海の事件は困難と、おっさっしいたします。

迷道院さんの私的意訳は、明瞭で解り易いです。
高崎出身の、しの木弘明さんの著書も
解り易く、身近な表現ですので読ませて
頂いております
Posted by wasada49  at 2013年07月11日 18:15
>wasada49さん

当時、倉賀野河岸から江戸日本橋までの下り舟でも3~4日掛かったようですから、銚子までの送達も間に合わなかったんでしょうね。
銚子に寄港するということも考えていなかったでしょうから、油断もあったんでしょう。

篠木弘明さんは、境町に関する著書が多いみたいですね。
私は読んだことがないのですが。

高崎市立図書館には、篠木さんが収集したという古書類が、「俳山亭文庫」として保管されているようです。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月11日 20:44
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