美加保丸の乗組員を逃してしまった高崎藩は、九月十七日に新政府総督府から呼び出しを食らいます。
新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院意訳
総督府から渡された書付けには、こう書かれていました。
新編高崎市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院意訳
殿様の謹慎というのは、事実上どんなものなのか知りませんが、ともかく、おっつぁれて(上州弁:怒られて)しゅんとなったことは間違いないでしょう。
高崎藩主・大河内輝聲(おおこうち・てるな)の謹慎が解かれたのは、十月五日のことでした。
銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院意訳
18日間の謹慎を解かれた輝聲は、翌日急いでお礼の書面を送ります。
銚子市史掲載「高崎藩大河内輝聲家記」より ( )内は迷道院意訳
お殿様がこんな状況ですから、領民だってあまり目立つ事は出来ません。
美加保丸の遭難者13名を埋葬した塚に、墓を建てるということもできなかったようです。

「脱走塚」と呼ばれるその塚には、現在では沢山の石碑が建っていますが、最初に建てられた墓碑は明治二年(1869)、建立者は銚子のヒゲタ醤油創業者・田中玄蕃という人だそうです。

なんせ激しい風雨に曝される「脱走塚」、石碑もこんな状態になってしまいますので、どれが田中玄蕃の建立したものか分かりません。

ひときわ大きな墓碑は、美加保丸の生存者や縁故者によって、明治十五年(1882)に建立されたものです。
表面には「南無阿弥陀仏」、側面には事件の顚末が刻まれていますが、これも風雨に削られて判読困難になっています。

そこで、昭和十三年(1938)黒生の青年団が寄付を募り、読めなくなった碑文を復刻した大きな石碑を建てました。

さらに昭和二十五年(1950)には、法要と共に広く世に伝えて観光・有識者の参考に供しようと、「史蹟美ケ保丸乗組員□難志士之碑」を建てていますが、それもまた風雨の前にあっては、ご覧の有様です。
しかし、今もなお献花を絶やさず供養し続ける地元の方々に、深く頭を垂れる思いであります。
ところで、美加保丸の乗組員を取り逃がしてしまった銚子陣屋の郡奉行は、だいじょうぶでしょうか?
次回に続きます。
「 | 大総督府ヨリ御呼出ニ付、公務人菅谷團次郎罷出候処、 | ( | 大総督府から呼び出され、菅谷團次郎(すげのや・だんじろう)が罷り出ましたところ、 |
応接方桑原虎次郎ヲ以、左之通御書付御渡有之ニ付、 | 応接方の桑原虎二郎によって、左記の書付けを渡されましたので、 | ||
至急藩地江申達候処、御請書差出之」 | 至急藩へ申し伝えますと、請書を差し出しました。) |
総督府から渡された書付けには、こう書かれていました。
「 | 先般脱艦之賊徒、其方領分総州銚子浦漂着上陸之砌、 | ( | 先般、船で脱走した賊徒が、高崎藩領の銚子浦に漂着し上陸した時、 |
取締向等閑数日滞留為致、其末及脱走之段、 | 取締りがなおざりで、数日滞留させ、その末に脱走させ、 | ||
全其藩不行届候条、依之謹慎可有之旨、御沙汰候事」 | 全く、高崎藩の不行届きである、よって謹慎すべきとして沙汰する。) |
殿様の謹慎というのは、事実上どんなものなのか知りませんが、ともかく、おっつぁれて(上州弁:怒られて)しゅんとなったことは間違いないでしょう。
高崎藩主・大河内輝聲(おおこうち・てるな)の謹慎が解かれたのは、十月五日のことでした。
「 | 其方儀謹慎申付置候処、被免候旨、御沙汰候事」 | ( | そのほうに謹慎を申し付けておいたが、赦されたことを沙汰する。) |
18日間の謹慎を解かれた輝聲は、翌日急いでお礼の書面を送ります。
「 | 私儀謹慎被仰付置候処、被免候旨御沙汰之趣、 | ( | 私儀、謹慎を仰せ付けられておりましたが、免じられるとのこと、 |
難有仕合奉存候、右御請申上候」 | 有り難く幸せに思って、お受け申し上げます。) |
お殿様がこんな状況ですから、領民だってあまり目立つ事は出来ません。
美加保丸の遭難者13名を埋葬した塚に、墓を建てるということもできなかったようです。

「脱走塚」と呼ばれるその塚には、現在では沢山の石碑が建っていますが、最初に建てられた墓碑は明治二年(1869)、建立者は銚子のヒゲタ醤油創業者・田中玄蕃という人だそうです。

なんせ激しい風雨に曝される「脱走塚」、石碑もこんな状態になってしまいますので、どれが田中玄蕃の建立したものか分かりません。

ひときわ大きな墓碑は、美加保丸の生存者や縁故者によって、明治十五年(1882)に建立されたものです。
表面には「南無阿弥陀仏」、側面には事件の顚末が刻まれていますが、これも風雨に削られて判読困難になっています。

そこで、昭和十三年(1938)黒生の青年団が寄付を募り、読めなくなった碑文を復刻した大きな石碑を建てました。

さらに昭和二十五年(1950)には、法要と共に広く世に伝えて観光・有識者の参考に供しようと、「史蹟美ケ保丸乗組員□難志士之碑」を建てていますが、それもまた風雨の前にあっては、ご覧の有様です。
しかし、今もなお献花を絶やさず供養し続ける地元の方々に、深く頭を垂れる思いであります。
ところで、美加保丸の乗組員を取り逃がしてしまった銚子陣屋の郡奉行は、だいじょうぶでしょうか?
次回に続きます。