中村茂先生が「高崎の資料にみる庄川杢左衛門」を発表する5年前、やはり丹念に調べた古文書をもとに、庄川杢左衛門は切腹していないと考えた郷土史家がいます。
銚子の郷土史家・小足武司氏は、天明期における飯沼村凶作の状況を記録した「天明凶災録」や、銚子荒野村の記録「浅間山」などに記されている事柄から導き出した考えを、1995年発行「利根川文化研究 第9巻」に「天明の飢饉と庄川杢左衛門」と題して発表しています。
その中で、杢左衛門を評してこう言っています。
つまり、杢左衛門は農民の訴えをよく聞いて、できる限りの手を尽くすという、優秀な行政マンであったろうという訳です。
その上で、
と、杢左衛門は無断で藩の蔵を開いたのではない、という考えを示しています。
さらに、こう述べています。
高崎藩が、無断で藩の蔵を開いた人物を栄転させることなどあり得ない、よって切腹などさせられてはいないと暗に言っている訳です。
この「高崎代官頭取席に栄転」という話は、杢左衛門が銚子代官の職を離れてから、田中太兵衛という人(飯沼村の名主か?)に宛てた書簡に記されています。
この文面を見ると、杢左衛門という人の人柄が分かるような気がします。
「昇進は嬉しいけど面倒くさいことも多くて」などと冗談が言えるほど、土地の人とは実にいい関係が築けていて、できればずっと銚子に居たかったのではないかと思わせます。
小足氏は、以上のように分析した後、こうも言っています。
頌徳碑にある、戴いた米金の記載が事実とするならばとして、
と結んでいます。
さて次回は、「いやいや、やはり杢左衛門は自刃したのだ。」とする、郷土史家の所見をご紹介いたしましょう。
銚子の郷土史家・小足武司氏は、天明期における飯沼村凶作の状況を記録した「天明凶災録」や、銚子荒野村の記録「浅間山」などに記されている事柄から導き出した考えを、1995年発行「利根川文化研究 第9巻」に「天明の飢饉と庄川杢左衛門」と題して発表しています。
その中で、杢左衛門を評してこう言っています。
「 | 庄川氏は天明年間を銚子にあって活躍したのであるが、高崎藩の城附村々の仕置きと比較して、年貢(免除)の要求に対しても願書を取り上げるなど、百姓の言い分を聞く態度をとり、また村々を廻って極貧者を調査させ、逸早く触れを出して、富裕者から義金子を出させて困窮者・飢渇人を救済させた。 |
さらに、一揆・うちこわしなども迅速に解決するなど、文献からは「能吏」としての姿が彷彿としてくる。」 |
その上で、
「そこで『無断で藩の蔵を開いて米を放出した』という話であるが、確かに拝借米を出したり、(富裕者からの)お救い金を出したりという施策を行ったが、拝借米というのは、貸付け米のことで年賦払いで返さなければならないものであり、お救い金も後で出金者に返さなければならないものであった。 おそらく江戸表の承認のもとで、藩の施策として拝借米が貸付けられたものと考えられる。」 |
さらに、こう述べています。
「 | 私は敢えて庄川杢左衛門を『温情代官』というよりも『名代官』であったと主張したい。 後に銚子在勤時の働きが認められて『高崎代官頭取席』に栄転したことが知られる。」 |
高崎藩が、無断で藩の蔵を開いた人物を栄転させることなどあり得ない、よって切腹などさせられてはいないと暗に言っている訳です。
この「高崎代官頭取席に栄転」という話は、杢左衛門が銚子代官の職を離れてから、田中太兵衛という人(飯沼村の名主か?)に宛てた書簡に記されています。
(カッコ内は迷道院訳です。間違ってたらごめんなさい。)
「 | 先達而は早速預御状忝存候、(略) | (先だっては早速のお手紙ありがとうございました) |
其表在勤中彼是御心添 | (在勤中はあれやこれやとお心添えを頂き、) | |
無滯相勤無滯致退役、 | (滞りなく勤め上げて退役することができました) | |
其上高崎御代官頭取席□昇進難有候へ共 | (その上、高崎代官頭取席に昇進と有り難く思いますが) | |
彼是遠国引越等迷惑の事に御座候(略)」 | (遠国へ引っ越す等あれやこれや迷惑なことです) |
この文面を見ると、杢左衛門という人の人柄が分かるような気がします。
「昇進は嬉しいけど面倒くさいことも多くて」などと冗談が言えるほど、土地の人とは実にいい関係が築けていて、できればずっと銚子に居たかったのではないかと思わせます。
小足氏は、以上のように分析した後、こうも言っています。
「 | 今日に至るまで『庄川様は自死した』と信じ敬愛する人が後を絶たないことをどう理解すればよいであろうか。」 |
頌徳碑にある、戴いた米金の記載が事実とするならばとして、
「 | 高神村は銚子村々の中でも特別の配慮を受けたことになる。まさに『旱天の慈雨』のような人物であったろう。 |
それが高神村に『頌徳碑』が建てられた理由であり、また『頌徳碑』を建てることによって、荒廃した人心を高揚し、村の再建を図ろうとしたのではないかと考えられる。」 |
さて次回は、「いやいや、やはり杢左衛門は自刃したのだ。」とする、郷土史家の所見をご紹介いたしましょう。