昭和三十一年(1956)発行の「銚子市史」の中で、庄川杢左衛門の項には、こう書かれています。
切腹したのか病死したのかの前に、庄川杢左衛門という人の記録すら無いというのです。
おまけに、「同市(高崎)の郷土史家も全く此の人を知らず」とあっては、おやおやという感じですが。
たしかに、昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」には、庄川杢左衛門についての記載は一切ありません。
平成十六年(2004)発行の「新編高崎市史」では、「飛び領の成立と支配」の項の中で触れられてはいますが、「銚子市史」の記述を転載している程度の内容です。
「高崎では全く知られていない」とありますが、実はその高崎に、庄川杢左衛門のことを十数年も追い続けていた郷土史家がいたんです。
迷道院が何かにつけご教示を頂いている、高崎市史編纂委員の中村茂先生です。
中村先生は、高崎の資料に庄川杢左衛門の名前が出てこないか地道に調べてきた結果、ようやくいくつかの資料に、杢左衛門本人または彼の一族と思われる名前を見出すことができたのだそうです。
先生はその結果を、平成十二年(2000)利根川文化研究会発行の「利根川文化研究 第18巻」に、「高崎の資料に見る庄川杢左衛門」と題して発表しています。
その冒頭に書かれている先生の言葉をご紹介します。
この研究による中村先生の所見については、少し長くなりそうですので、回を改めてご紹介することと致します。
次回まで、お待ちくださいますよう。
「 | 遺憾なことには、その伝記が詳らかでなく、高崎にも何らの記録も手がかりも存しないばかりか、墓所すら不明となっている。 |
同市の郷土史家も全く此の人を知らず、此の点から云えば僅かに銚子の庶民の間に生きているのみということになる。 | |
これは一面に、高崎藩にあっては身分の低い無名の士分であった事実を示すものと見られよう。」 |
切腹したのか病死したのかの前に、庄川杢左衛門という人の記録すら無いというのです。
おまけに、「同市(高崎)の郷土史家も全く此の人を知らず」とあっては、おやおやという感じですが。
たしかに、昭和四十五年(1970)発行の「高崎市史」には、庄川杢左衛門についての記載は一切ありません。
平成十六年(2004)発行の「新編高崎市史」では、「飛び領の成立と支配」の項の中で触れられてはいますが、「銚子市史」の記述を転載している程度の内容です。
「 | 銚子領にも義人として代官庄川杢左衛門の伝承がある。(略) 藩の許可を得ない彼の独断的行為は、藩役所から責任を追及され、高崎城に呼び出された後糾弾され、切腹を命じられた。 |
この杢左衛門について高崎では全く知られていないが、銚子では「じょうかん様」「じょうかんよう様」、あるいは「温情代官」として、その徳を今でも高く讃えられ、小学校の副読本にも取り上げられている。(略) |
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頌徳碑には、杢左衛門が領民を救うために行った処置が簡単に述べられているが、彼の死については、寛政二年(1790)五十七歳の時、高崎館(たかさきやかた)で病死していると記し、伝承の切腹とは異なっている。」 |
「高崎では全く知られていない」とありますが、実はその高崎に、庄川杢左衛門のことを十数年も追い続けていた郷土史家がいたんです。
迷道院が何かにつけご教示を頂いている、高崎市史編纂委員の中村茂先生です。
中村先生は、高崎の資料に庄川杢左衛門の名前が出てこないか地道に調べてきた結果、ようやくいくつかの資料に、杢左衛門本人または彼の一族と思われる名前を見出すことができたのだそうです。
先生はその結果を、平成十二年(2000)利根川文化研究会発行の「利根川文化研究 第18巻」に、「高崎の資料に見る庄川杢左衛門」と題して発表しています。
その冒頭に書かれている先生の言葉をご紹介します。
「 | 高崎藩銚子陣屋代官『庄川杢左衛門』の事績については、高神村に残る頌徳碑の碑文解釈をめぐって、さまざまな論考がなされているが、今なお謎に包まれた人物である。 |
高崎市においては、庄川杢左衛門および高神村の頌徳碑の存在について、ほとんど知られていないのが現状である。 |
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筆者は庄川杢左衛門に興味をもって、ここ十数年、高崎の資料に庄川杢左衛門の名前が出てこないか、それとなく調べてきたが、最近になって漸くいくつかの資料に杢左衛門本人または彼の一族と思われる名前を見出すことができた。 |
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彼の事績を証明できるような資料ではないが、銚子地方の研究者の方々へ情報提供として、高崎の資料に現れた庄川杢左衛門を紹介し、若干の私見を加えるのが本稿の目的である。」 |
この研究による中村先生の所見については、少し長くなりそうですので、回を改めてご紹介することと致します。
次回まで、お待ちくださいますよう。