銚子に「陣屋町」という町名があります。
その町のほぼ中心に、「旧陣屋跡」と刻まれた碑が建っています。
玉垣には、くっきりと「高崎扇」が刻まれています。
そうです、ここが旧高崎藩銚子陣屋(飯沼陣屋)のあったところです。
碑文には、次のように刻まれています。
空襲により灰燼に帰し、また戦後行われた区画整理事業により、昔の姿をすっかり失った陣屋町一帯。
この陣屋跡の場所を特定するについては、大変なご苦労があったようです。
ともすれば、郷土の史跡など消えるに任せる町が多い中、このように残してくれている銚子の方々に、本当に頭の下がる思いがします。
陣屋跡は、「陣屋町公園」として町の人の憩いの場となっているようです。
大通りからちょっと引っ込んだ静かな公園に、親子連れの楽しそうな声が響いていました。
平成十九年(2007)に建てられた史跡記念碑には、「人を語り 歴史を語り 伝統を語り継ぐ」と刻まれています。
除幕式には、高崎経済大学名誉教授・高階勇輔先生も出席されています。
記念碑には、渡辺崋山の描いた銚子陣屋付近の風景画が嵌めこまれていて、当時の姿を想像することができます。
公園の中には、陣屋の図面に描かれているものがいくつか残っています。
旧陣屋跡碑の土台として使われているのは、陣屋の周囲を囲む堀割りに使われていた石。 →
← 陣屋内に3つあった井戸のうち、埋め立てをまぬがれた唯一の井戸。
そして、昭和六十年(1985)に地域の皆さんのご厚志と土地売却代金で再建されたという、熊野神社と嘉名命(かなめ)神社。
実はもうひとつ、この銚子陣屋の一人のお代官様の話が、今も大切に語り継がれ残っています。
次回は、そのお話をいたしましょう。
その町のほぼ中心に、「旧陣屋跡」と刻まれた碑が建っています。
玉垣には、くっきりと「高崎扇」が刻まれています。
そうです、ここが旧高崎藩銚子陣屋(飯沼陣屋)のあったところです。
碑文には、次のように刻まれています。
飯沼陣屋由来記 | |
銚子の地は享保二年(1717)髙崎藩主松平右京太夫輝貞の支配に属しその髙十七ヶ村合せて五千十石 | |
想うに寛永十二年(1635)利根水運江戸に通じてより日本海及東北各藩の物産多く銚子を中継地として江戸に運送するに至りその関門を扼する重要なる地点たるに及びて幕府は直系髙崎藩をしてその統治に當らせたるものならむ | |
爾来明治五年(1872)髙崎県支庁の廃さるゝまで十代百五十余年の間此所に陣屋を置き郡奉行一名代官二名その他により藩政を執行せしめたり | |
本碑の位置は當時の東辺中央に位し旧図に示す熊野大権現は隣地の社址なりという | |
この辺曽(かつ)て郭町(くるわちょう)と称し後に西町と改め現在陣屋町と称(い)う | |
飯沼陣屋廃されて八十餘年漸くその址虚しからんとするときこれを記念せんとする町民の熱意相凝って茲にその由来を記しこの碑を建つ | |
昭和三十四年四月十日 撰文 常世田忠蔵 | |
飯沼陣屋址記念碑建立会長 名雪雲平 |
空襲により灰燼に帰し、また戦後行われた区画整理事業により、昔の姿をすっかり失った陣屋町一帯。
この陣屋跡の場所を特定するについては、大変なご苦労があったようです。
ともすれば、郷土の史跡など消えるに任せる町が多い中、このように残してくれている銚子の方々に、本当に頭の下がる思いがします。
陣屋跡は、「陣屋町公園」として町の人の憩いの場となっているようです。
大通りからちょっと引っ込んだ静かな公園に、親子連れの楽しそうな声が響いていました。
平成十九年(2007)に建てられた史跡記念碑には、「人を語り 歴史を語り 伝統を語り継ぐ」と刻まれています。
除幕式には、高崎経済大学名誉教授・高階勇輔先生も出席されています。
記念碑には、渡辺崋山の描いた銚子陣屋付近の風景画が嵌めこまれていて、当時の姿を想像することができます。
公園の中には、陣屋の図面に描かれているものがいくつか残っています。
旧陣屋跡碑の土台として使われているのは、陣屋の周囲を囲む堀割りに使われていた石。 →
← 陣屋内に3つあった井戸のうち、埋め立てをまぬがれた唯一の井戸。
そして、昭和六十年(1985)に地域の皆さんのご厚志と土地売却代金で再建されたという、熊野神社と嘉名命(かなめ)神社。
実はもうひとつ、この銚子陣屋の一人のお代官様の話が、今も大切に語り継がれ残っています。
次回は、そのお話をいたしましょう。
【銚子陣屋跡碑】