「The Japan Weekly Mail」紙では、ダラスとリングは「フランス人の男性を訪ねるため」とあり、公使達の日本政府への書簡では、「襲撃を招くような挑発をせずに、普通に道を歩いていた」というのですが、これがどうも違うらしいのです。
大学南校の教頭・フルベッキが、ニューヨークのフェリスという人に宛てた書簡に、こう書かれています。
どういうことでしょう。
高崎市史編纂委員・清水吉二氏著「幕末維新期 動乱の高崎藩」には、このような記述があります。
おい、おい、という感じですが、実は「軽い散歩のつもり」でもなかったらしいのです。
江戸副領事官のホールという人が聞き取りをした、ダラスの詳細な供述が、日本外務省外交史料館に残っているそうです。
前述のフルベッキがフェリスに宛てた書簡にも、こう書かれています。
大学南校では、まだ不穏な世情を考慮して、外国人教師の外出時には、必ず二人の武装した護衛が付くようにしていたそうです。
ただ、教師としては自由を束縛されるので、護衛を付けずに外出する者が出始めていて、フルベッキは教頭としてこれを固く戒め、事件の1週間前にも護衛なしの外出を禁止する公示をしたばかりだったようです。
このようなことで、ダラスとリングは契約期間の明治三年十二月までの給料と養生料を支給されて、大学南校を解雇されたのです。
得業生の小泉敬二も、事件の時にダラスとリングを置いたまま逃げ帰ったということで評判を落とし、免職となってしまいます。
大学南校を解雇されたリングは帰国、ダラスは未練があったのか日本に残ることとし、折から外国人教師を探していた米沢藩に洋学教師として迎えられることになります。
そのことが、後に米沢方言を世界に紹介し、米沢牛を全国に広めることとなって「米沢牛の恩人」とまで讃えられるようになるのですから、人の禍福は最後まで分からないものです。
さて、一方、巻き添えを食った形で大学南校にいられなくなった小泉敬二はというと、これが、なんと高崎にやって来るのです。
次回はいよいよ、銚子・高崎・英学校の不思議な糸が繋がってまいります。
大学南校の教頭・フルベッキが、ニューヨークのフェリスという人に宛てた書簡に、こう書かれています。
「 | あなたは多分新聞で、私の大学の二人の教師が市内の街路で襲撃され、重傷を負った記事をご覧になるでしょう。(略) |
しかし内密ですが、確かに今度の場合は、被害者の過失、いや罰でした。」 |
(河元由美子氏著 「明治初期の外国人による日本語研究」より)
どういうことでしょう。
高崎市史編纂委員・清水吉二氏著「幕末維新期 動乱の高崎藩」には、このような記述があります。
「 | 明治三年(1870)十一月二十三日夜半、ダラスとリングは、リングの妾と共にダラスの妾宅に向かう。 彼らにしてみれば、軽い散歩のつもりであったろう。提灯を下げた小泉が三人の先導役として進み、外人二人がリングの妾を真ん中に、三人して手を繋いで歩いて行く。(略)」 |
おい、おい、という感じですが、実は「軽い散歩のつもり」でもなかったらしいのです。
江戸副領事官のホールという人が聞き取りをした、ダラスの詳細な供述が、日本外務省外交史料館に残っているそうです。
「 | 数ヶ月前、フルベッキ氏の希望に応じて、私は開成所(大学南校)から私の妾を追い出した。(略) |
リングと私が金曜日の夜築地に来たのは、翌日中に我々の妾達を新居に落ち着かせるために、賃貸借契約などに関する手続きを完了するためだった。 リングは衛兵と共に先に進み、私は彼らの少し後ろに小泉と共に軽装馬車に乗っていた。 |
|
我々がする予定だった取引を衛兵たちに知られたくなかったので、ドゥブスケ氏の家に行ってから、衛兵たちに我々が築地で夕飯を食べ、同地に宿泊し、翌日は横浜へ行くつもりであると言い、彼らを乗せた馬車を帰した。 | |
ドゥブスケ氏の家から、我々はリングの妾が住んでいる家に行き、そこで夕飯を食べるために、小泉に私の妾をここに連れてくるように迎えに行かせるつもりだった。 |
|
我々の通り道の一部は本通りにあった。途中で、小泉と私は前に歩き、リングと彼の妾が数歩後について来ていた。 日本橋を通りながら、我々の提灯の蝋燭は風に吹き消されてしまい、再点火されることはなかった。 |
|
我々は暫くの間、このように歩いたが、リングはその妾に何らかの質問をするために、日本語がより流暢に話せる私を呼んだ。 |
|
私は一歩か二歩下がり、彼らのところへ行き、小泉を前に歩かせた。私が会話を始めようとしたその時に攻撃された。 | |
我々は大体道の真ん中を歩き、私は右側に、リングは左に、そして妾は我々の間にいた。 | |
その時、私は不意に首と肩の間に、まるで棒で叩かれたような重い打撃を与えられた。(略) |
|
我々が襲撃された時は相当暗かったが、行き来する通行人が多くいたとみられる。下駄の音は、普段かなり人混みの多い道路に聞こえるようなものだった。(略)」 |
(BERTELLI Giulio Antonio氏著 「二刀を帯びた男たち」より)
前述のフルベッキがフェリスに宛てた書簡にも、こう書かれています。
「 | 彼らは護衛に知られたくない用向きで出かけたことは明らかです。 |
もし、彼らが正しい生活をしていたらその夜は無事だったでしょう。 | |
ところが今彼らは、私が学校の構内にある彼らの家に、あのような女達を引き入れるのを禁じたということで、私に非難をあびせています。」 |
(河元由美子氏著 「明治初期の外国人による日本語研究」より)
大学南校では、まだ不穏な世情を考慮して、外国人教師の外出時には、必ず二人の武装した護衛が付くようにしていたそうです。
ただ、教師としては自由を束縛されるので、護衛を付けずに外出する者が出始めていて、フルベッキは教頭としてこれを固く戒め、事件の1週間前にも護衛なしの外出を禁止する公示をしたばかりだったようです。
このようなことで、ダラスとリングは契約期間の明治三年十二月までの給料と養生料を支給されて、大学南校を解雇されたのです。
得業生の小泉敬二も、事件の時にダラスとリングを置いたまま逃げ帰ったということで評判を落とし、免職となってしまいます。
大学南校を解雇されたリングは帰国、ダラスは未練があったのか日本に残ることとし、折から外国人教師を探していた米沢藩に洋学教師として迎えられることになります。
そのことが、後に米沢方言を世界に紹介し、米沢牛を全国に広めることとなって「米沢牛の恩人」とまで讃えられるようになるのですから、人の禍福は最後まで分からないものです。
さて、一方、巻き添えを食った形で大学南校にいられなくなった小泉敬二はというと、これが、なんと高崎にやって来るのです。
次回はいよいよ、銚子・高崎・英学校の不思議な糸が繋がってまいります。