美加保丸事件の最前線で事にあたった、銚子陣屋の郡奉行・土方景尉(ひじかた・かげい)。
いったいどんなお咎めを受けたのか気になるところですが、そのことを書いた資料は見当たりません。
ただ、藩主・大河内輝聲の謹慎が解けた後の十月二十二日、菅谷清允(すげのや・きよみつ?)という人が、新しい郡奉行(民政総裁)として着任しています。
おそらく土方さんは国元へ戻され、それ相応の処分が待っていたであろうことは想像できます。
一方、着任早々の菅谷清允のもとでは、またもや銚子沖でフランスの船が難破し、銚子港に漂着するという出来事が発生します。
しかし、きっと前任者の轍を踏まぬよう慎重に取り扱ったのでしょう、特に騒動に至ることはありませんでした。
漂着したフランス船には、ダラス(Charles Henly Dallas)というイギリス人の貿易商が乗っていました。
ダラスは上陸して、菅谷家に滞在することとなりました。
この時、菅谷はダラスに頼んで、菅谷家の子弟のほか数人の高崎藩関係者に、英語を指導させています。
これに味を占めたのか、しばらくしてダラスは東京に出て本格的に英語を教えようと、築地に英学校を開きます。
菅谷清允の長男(養子)・正樹もここに入学し、引き続きダラスに英語を学びます。
そして明治三年(1870)五月、ダラスは大学南校(だいがくなんこう:後の東京大学)の英語教師として迎えられるのです。
ダラスは学校前の官舎で暮らしていましたが、もう一人、リング(Augustus R. Ring)というイギリス人の英語教師もいました。
そしてそこに、丹波柏原(たんば・かいばら)藩士の小泉敬二という人が、得業生※(とくごうしょう)として同居していました。
就任間もないある日、このダラスとリングそして小泉が、外出先の神田鍋町で攘夷浪士に襲われるという事件が起こります。
ダラスは肩に一太刀、リングは肩と背中に二太刀の傷を負いますが、近くの紙屋へ逃げ込んで一命を取り留めることができました。
小泉は、無傷で逃げのびられました。
東京で起きたこの事件が、後に再び高崎と結びつくことになるのですが・・・。
その話の前に、この事件の詳細について少しお話をしておきたいと思います。
ただこれは・・・、少々複雑な話でありまして、長くなりそうなので次回のお楽しみということに。
いったいどんなお咎めを受けたのか気になるところですが、そのことを書いた資料は見当たりません。
ただ、藩主・大河内輝聲の謹慎が解けた後の十月二十二日、菅谷清允(すげのや・きよみつ?)という人が、新しい郡奉行(民政総裁)として着任しています。
おそらく土方さんは国元へ戻され、それ相応の処分が待っていたであろうことは想像できます。
一方、着任早々の菅谷清允のもとでは、またもや銚子沖でフランスの船が難破し、銚子港に漂着するという出来事が発生します。
しかし、きっと前任者の轍を踏まぬよう慎重に取り扱ったのでしょう、特に騒動に至ることはありませんでした。
漂着したフランス船には、ダラス(Charles Henly Dallas)というイギリス人の貿易商が乗っていました。
ダラスは上陸して、菅谷家に滞在することとなりました。
この時、菅谷はダラスに頼んで、菅谷家の子弟のほか数人の高崎藩関係者に、英語を指導させています。
これに味を占めたのか、しばらくしてダラスは東京に出て本格的に英語を教えようと、築地に英学校を開きます。
菅谷清允の長男(養子)・正樹もここに入学し、引き続きダラスに英語を学びます。
そして明治三年(1870)五月、ダラスは大学南校(だいがくなんこう:後の東京大学)の英語教師として迎えられるのです。
ダラスは学校前の官舎で暮らしていましたが、もう一人、リング(Augustus R. Ring)というイギリス人の英語教師もいました。
そしてそこに、丹波柏原(たんば・かいばら)藩士の小泉敬二という人が、得業生※(とくごうしょう)として同居していました。
※ | 今日の大学院生と教官の間のような立場の職員 |
就任間もないある日、このダラスとリングそして小泉が、外出先の神田鍋町で攘夷浪士に襲われるという事件が起こります。
ダラスは肩に一太刀、リングは肩と背中に二太刀の傷を負いますが、近くの紙屋へ逃げ込んで一命を取り留めることができました。
小泉は、無傷で逃げのびられました。
東京で起きたこの事件が、後に再び高崎と結びつくことになるのですが・・・。
その話の前に、この事件の詳細について少しお話をしておきたいと思います。
ただこれは・・・、少々複雑な話でありまして、長くなりそうなので次回のお楽しみということに。