明治三年(1870)十一月二十三日(新暦では、明治四年一月十三日)大学南校の英語教師ダラスとリングが、外出先の神田鍋町で攘夷浪士に斬りつけられたという事件は、日本駐在の外国人にとっては、「またか!」という強い憤りを抱かせました。
日本で刊行されていた英字新聞「The Japan Weekly Mail」紙は、事件をこのように報じています。
日本の外務省は諸外国代表者に、遺憾の意と共に出来事の情報を迅速に伝達しました。
それを受けた諸外国の公使らは連名で、日本政府(澤宣嘉外務卿、副島種臣外務大輔)に対して、単に犯人の逮捕と処罰を迫るだけでなく、士族に対する武装解除(廃刀)を要求する書簡を送ってきます。
このような申し入れに、日本政府は威信をかけた懸命の捜査の結果、3人の襲撃犯を逮捕します。
薩摩藩士・肥後荘七と杵築藩士・加藤龍吉は絞刑、関宿藩士・黒川友次郎は10年の流刑という厳しい処分を命じました。
一方、九死に一生を得たダラスとリングはというと、被害者であるにもかかわらず、大学南校を解雇されています。
当時、大学南校の実質的責任者は、フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)という教頭でした。
フルベッキは、オランダ出身でアメリカに移民し日本に派遣された宣教師で、明治政府から依頼されて大学設立に関わった人物です。
どちらかと言えば、ダラスとリングを擁護すべき立場です。
にもかかわらず解雇したのには、どんな理由があったのでしょう?
これもまた長くなりそうですので、次回に続けたいと思います。
日本で刊行されていた英字新聞「The Japan Weekly Mail」紙は、事件をこのように報じています。
「 | 昨夜、8時半位に、ダラス氏とリング氏が江戸を歩行中に斬られた事情を見ると、この出来事の発生は外国人にとって極めて重要であることが分かる。 |
彼らは二人の役人を連れ、フランス人の男性を訪れるために開成所(大学南校)を出た。ス・ケ・ジ(築地)に着いた後、役人らと分かれ、先へ進んだ。 | |
ちょうど日本橋を渡った途端、二人の悪漢に後ろから切られ、背中、首から腰まで太刀を浴びせられた。」 |
日本の外務省は諸外国代表者に、遺憾の意と共に出来事の情報を迅速に伝達しました。
それを受けた諸外国の公使らは連名で、日本政府(澤宣嘉外務卿、副島種臣外務大輔)に対して、単に犯人の逮捕と処罰を迫るだけでなく、士族に対する武装解除(廃刀)を要求する書簡を送ってきます。
「 | 閣下。署名者は同僚と共に閣下によって外国公使各位に送達して頂いた、今月13日の夕方およそ八時半に神田鍋町と称される江戸の本通りを歩いていた英国人被雇用者ダラス氏とリング氏に対して加えられた攻撃に関する回状を熟読いたしました。 |
署名者は、閣下への返事として、外国代表者達がこの出来事を甚だ遺憾に思っているということを謹んで申し上げます。 | |
彼ら(外国代表者たち)は、天皇陛下が中心である政府が成立することで、異邦人の命を狙う攻撃がなくなることを望んでおりました。そのため、彼らは今回の事件のような犯罪の繰り返しを残念に思っております。 |
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二人の英国人は襲撃を招くような挑発をせずに、普通に道を歩いておりました。その時、日本人一人か数人は、暗闇に乗じて、卑劣にも二人の背後にそっと忍び寄り、普段武装した階級が携える長刀で切り倒しました。 |
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日本の二刀を帯びた階級に属する者たちの中で、邪悪な目的でその武器を用いて、一瞬も躊躇することなく同じ人間の命を奪うような者がいるということは、外国代表者ら全員の目にも明白です。 | |
以上の危険な者たちが充分に制御されていないという点と、その凶器を常に携帯することが認可されているという点が、この種の犯罪を誘発する最大の要因であることは明らかです。(略)」 |
このような申し入れに、日本政府は威信をかけた懸命の捜査の結果、3人の襲撃犯を逮捕します。
薩摩藩士・肥後荘七と杵築藩士・加藤龍吉は絞刑、関宿藩士・黒川友次郎は10年の流刑という厳しい処分を命じました。
一方、九死に一生を得たダラスとリングはというと、被害者であるにもかかわらず、大学南校を解雇されています。
当時、大学南校の実質的責任者は、フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)という教頭でした。
フルベッキは、オランダ出身でアメリカに移民し日本に派遣された宣教師で、明治政府から依頼されて大学設立に関わった人物です。
どちらかと言えば、ダラスとリングを擁護すべき立場です。
にもかかわらず解雇したのには、どんな理由があったのでしょう?
これもまた長くなりそうですので、次回に続けたいと思います。
(参考文献:近畿大学文芸学部論集 BERTELLI Giulio Antonio氏著 「二刀を帯びた男たち : 在日英国人教師ダラスとリング襲撃事件(1871)とその歴史的意義」より)