2023年12月16日

追跡再開 実政街道(1)

ブログ駆け出しの頃、高砂町を起点に「実政(さねまさ)街道」を辿ってみたことがあります。
その時は、「塚沢小学校」のところで道が消えていて、その先の追跡は断念してしまいました。

その後も、断片的には「実政街道」に出会っていたのですが、全ルートを辿ることはしていませんでした。
これまでの「実政街道」の記事は、こちらからご覧いただけます。

いつかまた辿ってみたいと思いつつ年月が過ぎてしまっていましたが、最近になってようやく追跡再開する気が起きました。

「高崎の散歩道 第五集」に、明治中期の「塚沢小学校付近略図」が載っています。

上図で「昭和高分子」となっている所は、現在「ベルク日光町店」です。

筆者の金井恒好氏は、赤土村から北上する「実政街道」には3つのルートがあったといいます。
現在の前橋新道と重複してサンハイツの所まで行き、そこから井野川へ向かって下って行った道と、塚沢小学校内で右へ曲がって五霊神社へ通じる道と、さらにもう一本、その中間を貝沢村塚越部落を通って堂山古墳へ抜ける道との三説がある。」

明治四十年(1907)の「二万分一地形図」で表すとこうなるのでしょう。


三本のルートの内、「五霊神社」へ抜ける道が一番古そうなので、そのルートを辿ってみることにしました。

「塚沢小学校」で消えた「実政街道」は、どうやら「ベルク」の東側で姿を現しているようです。

このバラス道は製菓「芳房堂」から来る道と交差し、コンクリート道になってずっと先へ延びています。



150mほど進んで左折すると、「五霊神社」への道です。


道なりに350mほど行くと環状線に出ます。

正面には「貝沢歩道橋」、左手の赤い鳥居が「五霊神社」、右前方に見える大きな瓦屋根は「不動寺」です。

「五霊神社」へ寄ってみます。


石段を上ると白い玉石が拝殿まで敷かれてて、カッコいいです。


由緒看板ですが、句読点が打たれてないので、読みようによっては意味が変わってしまいます。
読点「。」が入るであろうところに「」マークを入れてみました。


「五霊神社」というんですから、御祭神が五柱いらっしゃるのかと思ったら、三柱なんですね。
不思議だなと思っていくつか調べてみたら、「五霊神社由緒記」というのにこう書かれていました。
景昌公は平氏の出で、関東に大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の平氏五家の先祖を祀る神社として五霊になったといわれています。
後に景昌公一柱になり、五霊は御霊とも記録されています。」

拝殿の下に、丸太の輪切りが立てかけてあります。

何なんでしょう。

「高崎の散歩道 第五集」を見ると、
明治十年(1877)当時の五霊神社の立木は、・・・太さ1m50前後、長さ10m近くの樹木が25本(杉19本、松13本、樅1本、樫2本)。
残念ながら現在は数本の松しか残っていない、」

ということで、本殿の後ろに大きな松の木があったようですが、現在その姿はありません。

本殿の後ろへ行ってみると、伐り株がいくつか残っています。
あの丸太の輪切りは、このどれかのものなんでしょうね。

若い松の苗木も植えられていますので、数十年もすればまた往時の姿が蘇ることでしょう。

拝殿の屋根に妙なものが載っています。

肉眼でははっきり見えなかったのですが、ズームしてみると・・・、

獅子が逆立ちをしているように見えます。
そういえば、「五霊神社」の境内には「狛犬」とか「狛獅子」がないんです。
もしかすると、屋根の上の獅子一対がその代わりなのでしょうか。

境内の落ち葉を掃除している方がいらっしゃったので、「狛犬がない神社というのは珍しいですね。」と言うと、「ここは御嶽山神社の境内なんだよ。」と仰います。
石段から上が「五霊神社」で、下は「御嶽山神社」の境内なんだそうです。

たしかに、大きな「御嶽皇大神」の石碑が建っています。

書は、最後の高崎藩主・大河内輝聲です。

御嶽信仰開祖の普寛上人を祀る「普寛堂」もあります。


5年ほど前まで毎年3月19日には、修験者による「火渡り」の神事が行われていたそうです。
もう見られなくなって残念ですが、「橋本新聞」さんのブログに写真入りで残してくれていました。

帰り際、先ほどの方から御嶽山のお札を各種頂戴しました。


ありがとうございました。

さて、次回は他の2ルートも辿ってみることに致しましょう。
では、今日はこの辺で。


【五霊神社】



  


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2023年12月30日

追跡再開 実政街道(2)

赤土村から先の「実政街道」は、3つのルートがあるということでした。
現在の前橋新道と重複してサンハイツの所まで行き、そこから井野川へ向かって下って行った道と、塚沢小学校内で右へ曲がって五霊神社へ通じる道と、さらにもう一本、その中間を貝沢村塚越部落を通って堂山古墳へ抜ける道との三説がある。」


今回は、「堂山古墳」ルートを辿ってみます。
現在のこの道であろうと見当をつけました。


前橋街道の「貝沢町南」信号の手前を右(東)へ入ります。


東四条通りを越えて、真っ直ぐ行きます。


道なりに300mほど行くと左前方角に、きれいな花が咲いた空地があり、石祠と石碑があります。


石祠の屋根には牛の頭が彫り付けられ、石碑には「道陸神」と刻まれています。

牛の頭が彫られてる石祠は、文字どおり「牛頭天王」を祀っているんだそうです。
かつては「天王山」という古墳の上に祀られていて、その周辺は「天王屋敷」と呼ばれ、一面の梅林だったとか。
(貝沢町の民俗)

その角を左(北)に曲がります。



100mほど行くと、正面の少し高くなった所に墓地があります。

建物には「万日堂」と書かれています。
このお堂には堂守が住んでいた時期もあったそうです。
ここは古墳で、山の上にお堂があるので「堂山古墳」と呼ばれました。

そういえば「五霊神社」も古墳でしたし、前述の「牛頭天王」も古墳の上にあったということですから、この辺には古墳がたくさんあったんですね。

「万日堂」を右に巻くと、

環状線の変則五差路に出ます。


左に巻くと、

和菓子屋「六郎」の裏の道に出ます。


そこから東の方を見ると、さっきの変則五差路が見えます。


実は、この道が「実政街道」のルートなんです。


のルートに沿って変則五差路を渡ると、民家の門前に「貝澤實政道路擴幅工事記念碑」というのが建っています。



こう辿ってみてくると、「堂山古墳」ルートはここでルートに合流しているようです。
では、「五霊神社」に出てくるルートは、その先どういうルートをとるのでしょう。

その追跡は次回ということに。

【牛頭天王・堂山古墳・実政街道碑】



  


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2024年01月13日

追跡再開 実政街道(3)

「実政街道」の3つのルートを辿ってみて、のルートはのルートに合流して井野川を渡っていることが分かりました。
分からないのはのルートで、「五霊神社」から先いくつかのコースが考えられます。

に合流するコースも考えられるのですが、「不動寺」の南あるいは北に沿って井野川を渡るコースもありそうです。

ということで、「不動寺」に沿って進むコースを辿ってみることにしました。
まずは、「五霊神社」から「貝沢歩道橋」を渡って、南側に沿って進むコースです。



すぐに「不動寺」の立派な山門前に出ます。

「不動寺」の開基は文亀元年(1501)ですが、この山門は令和四年(2022)に天田實氏が米寿を祝して寄贈したものだそうです。

これまた立派な、女人講の「子安観音」塔です。


境内に入ってみたくなりました。
本堂の破風・向拝の彫り物が見事です。


大棟に施された龍は漆喰の鏝絵なんでしょうか、すごいです。


山門入って左の一角に庚申塔がずらっと並んでいて、「庚申塚復元記録之碑」というのが建っています。

もとは寺東にあった天神山という古墳に登る道の両脇に並んで建っていた、と「貝沢町の民俗」に書いてありました。

墓地内には、高橋家の立派な墓石がたくさんあるのですが、その中にこんなのがあります。

「傑士」というのは、「優れた人物、卓越した人」のことだそうです。

他にも、こんなのがあります。

由緒ある家柄なんでしょうね。

さて、「不動寺」を出て少し歩きましょう。
二つ目の角を曲がった先に、相当な樹齢を重ねたらしい、梅の樹かなぁ、があります。


その先に、ちょっと傾いだ小屋があって、庚申塔板碑などが祀ってあります。



正面の壁には「虚空蔵菩薩」と書いた紙が貼ってあります。


「貝沢町の民俗」に、この「虚空蔵様」のことが書いてありました。
昔は大きい寮があったというから虚空蔵堂であったのである。
現在の小祠は松本家が母屋を新築した時に建てたものである。
虚空蔵様は松本イッケの守り本尊で、祀れば衣食に不自由しないといわれ、松本イッケの者は御眷属である鰻を食べてはいけないとされている。(略)
戦前には講があって、埼玉県など遠くから参詣者が来たほど賑わった。
立派な賽銭箱があったが盗難に遭って今はない。」

また少し歩いて「ようざん」のところを左折します。


80mほど行くと、「不動寺」の北側から来る道と出会います。
角の窪みに隠れて、道祖神さんのカップルが仲睦まじくしておわします。


右折して50mほど行くと、こんどは馬頭観世音や可愛らしい石仏が。

本尊は一番後ろにある板碑で、「二十三夜様」だそうです。

さらに180mほど行った「井野川」のほとりに、また愛らしい双体道祖神


ここに架かっているのは「町田橋」


この橋は「メロディ橋」とも呼ばれていて、欄干に付けられた鉄琴を順番に叩くと、曲が奏でられるようになっています。



説明板もだいぶ文字が消えかかっていて、鉄琴を叩くマレットも無くなっちゃってますけど。

ちょうど「東部小学校」の下校時で、通りかかった児童に「これ叩いたことある?」って聞くと、「ある」と言ってくれたのでちょっぴりホッとしました。

ところがその時、迎えに来た若いお母さんが、その児の手をグイっと引き寄せながら、思いっきり私を睨み付けて去っていきました。
すっかり不審者と思われたようです。
母が子を守る迫力はすごい。
熊じゃなくてよかった。

それにしても、嫌な世の中になったもんだなぁ。
あ~あ。


【本日のルート】



  


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2024年01月27日

追跡再開 実政街道(4)

前回、「不動寺」から「町田橋」に至るコースを辿ってみました。

しかし、地図を見ると一本南に、もっと早く「町田橋」に行けるコースがあるようなんです。


明治40年の「二万分一地形図」にも、その道は描かれています。


今回はこのコースを辿ってみます。

「ようざん」の北西の角を東へ曲がります。


100mほど行くと、井野川の「大橋」への道と交差します。
その先、道は細くなり、角に「この先車両の通りぬけ出来ません」という手づくり看板が立っています。


人は通り抜けられるんだなと思って進むと、畑の脇道になります。


その先はボーボーの草むらで、その気になれば「町田橋」へ行けそうですが、その気にはなりませんでした。


手づくり看板の所まで戻ってウロウロしていると、訝しげな顔をして「何だい?」と聞く人がいました。
この辺りは、どうも不審者に敏感な地区のようです。
「あ、実政街道を辿ってるんですけどね。」と言うと、
「この道は大類の方へ行く道だったんだよ。
前橋へ行く道は、もっと手前の電信柱の所に荷車が通れるくらいの細い道があったんだ。」
と教えてくれました。

さっき横切ってきた「大橋」への新しい道ができるまでは、ここにあった道を通って行ってたらしいです。


反対側へまわると、なるほど、その先に細道が続いてます。


細道は左へカーブしていますが、土の道が真っ直ぐ川の方へ向かっています。


その道を30mほど行ってみると、たしかに「大橋」のたもとに出ました。


ところで、この道へ入る手前のカーブの所に、何か石造物が建ってましたね。
ちょっと気になったので、戻ってみました。

道祖神とも違うし・・・、脈絡もなく並んでる感じがします。

調べてみると、その近くに「宝蔵寺」というお寺があることが分かりました。


ところが、実際に行ってみるとそこにお寺は無いんです。
あるのは、どう見ても普通の民家です。

廃寺になったということなんでしょうか。

迂回して西側道路に回ってみると、小さな墓地があり、そこには僧侶の墓石である卵塔が無造作に置かれていて、大阿闍梨とか僧都という文字が刻んであったりするので、ここが「宝蔵寺」の跡だったのだろうと思われます。


さきほどの民家で聞いてみようかと思い、行ってみると・・・。
あれ?郵便受けに・・・。


ちょうど縁側に出てきたご高齢の女性に、お声掛けしてみました。
「こちらは宝蔵寺さんなんですか?」
「そう、宝蔵寺ですよ。」
「一般のお宅のように見えますが。」
「一応お寺なんだいね。」
「以前はお寺の本堂のような建物だったんですか?」
「いやぁ、前からこういう建物だいね。」

お話によると、昔は広い土地をもっていたが、だんだん周りから小さくなってしまったらしい、とのことでした。
カーブの所にある石造物も「宝蔵寺」にあったものだと思うと仰ってました。

「上野国寺院明細帳」には、ごく簡単に「宝蔵寺」が載っていました。
【寳蔵寺】
  群馬縣管下上野國西群馬郡貝沢村字久保
  同國同郡箕輪村法峰寺末 天台宗
 由緒不詳
 本堂明治十九年一月焼失届洩ノ旨廿ニ年三月二十ニ日届出
 檀徒七人
(追記)
 本堂右再建明治廿ニ年四月廿六日許可、廿三年二月中落成

明治十九年(1886)に焼失し、二十三年(1890)に再建されたとありますが、現在の建物が明治のものとは思えません。
たぶん、昭和に入ってから建て直したものなんでしょう。

謎は残りますが、今日はここまで。


【今日の散歩道】




  


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2024年02月10日

追跡再開 実政街道(5)

ここまでずっと「不動寺」から「町田橋」を渡るコースを辿ってきたのですが、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測圖」を見ると、そこに橋は架かっていないのです。
川を越えるとすれば水の中を徒渉り(かちわたり)することになります。

前橋へ行くのに、そのつど川を徒渡りするとは考えられません。
ということは「実政街道」の3つのルートのどれを選んでも、結局のルートに合流し「大橋」を渡って行ったのではないかと推測されます。

前回の「宝蔵寺」の西側道路を「井野川」へ向かうと、「ビューティ塚越」「辻田獣医科病院」の所へ出てきます。


そのちょっと下流に、「大橋」が見えます。


橋のたもとに、大きな碑が建っています。
「井野川改修工事竣功記念碑」です。


「高崎の散歩道 第五集」に興味深い話が載っています。
現在の井野川大橋は戦後の昭和二十八年(1953)に建設されたもので、その井野川改修記念碑が橋のたもとにある。
それ以前の井野川橋は木橋で、現在の辻田獣医科病院と塚越美容院の前あたりから斜めにかかっていた。」

橋が斜めに架かっていたというのは、地図で両岸の道を見ると想像できます。


その頃の写真がないかなぁと思って探してみると、国土地理院の空中写真の中にありました。

昭和二十三年(1948)のもので、まだ環状線は通っていません。
「実政街道」の3つのルートも写ってます。

現在の「大橋」は、平成四年(1992)に新しくなりました。


なかなかオシャレです。


「井野川」の正体は、龍の化身「おいの」だったんですね。

田島桂男氏著「高崎の地名」には、こんなことが書かれています。
井野の名は井野川からとったのであろうか。
町の北部、字屋ノ上には三つの湧水池があって、ここのまわり一帯は低く平らな地形になっている。
また、字天神には泥炭池があって、ここからは、弥生時代の木製品が発見されている。
井野の名のいわれは、湧水のあるこのような地形からきたものではあるまいか。
とすると、「井野」が先にあって、そこを流れる川ということで「井野川」と呼ばれるようになったのではないかと考えられる。」

さて、次回は「井野川」を渡って、その先を辿ることに致しましょう。


  


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2024年02月24日

追跡再開 実政街道(6)

今日は井野川の「大橋」を渡り、その先を辿ります。

明治四十年(1907)の二万分一地形図で、道筋の見当を付けてみました。

道は、集落の中へ入るのを拒むように、へりに沿って田んぼ中を通っています。

その田んぼ中も現在は宅地化が進み、呑み込まれた街道を辿るのは容易でなさそうです。
でも、昔の地図と現在の地図をじっと見比べていると、途切れ途切れではありますが、昔の道の形が浮かんできます。


「大橋」を渡ると道は三本に分かれますが、「以前は橋が斜めに架かっていた」ということからすれば、右の道に入るのが順当でしょう。


道の曲がり具合が如何にも昔の街道っぽいです。


180mほど行くと、塀に隠れるように石仏が建っていました。

馬頭観音らしいですね。

その奥に墓地があるようなのでちょっとお邪魔しました。
そこは家の墓地で、立派な女人講の塔が建っています。


街道へ戻って少し進むと、「井ノ貝戸児童公園」があります。
「実政街道」は、この角を左に曲がるようです。


曲がって80mほど行くと丁字路になってて、真っ直ぐ行くのが「実政街道」なんですが・・・、

左の道を覗くと、石碑みたいのが見えて気になります。

おー、立派な双体道祖神だ。

道案内役の猿田彦に「こっち!」って指図してるよ。
そっちは、通り抜けられないみたいだけど・・・。

丁字路に戻って真っ直ぐに100mほど行くと、前方の角に「酒」の大きな看板が見えます。

あぁ、思い出しました。
もうだいぶ前になりますが、この高橋酒店さんに「上州弁手ぬぐい」をお届けしたことがありました。
なんか、町内のお祭りの時に見せたいとか仰ってましたね。

高橋酒店から100mほど行くと道は左右に分かれますが、右へ進みます。


ここで「実政街道」「東貝沢ハナミズキ通り」にちょん切られています。


区画整理前は、きっとこんな風につながっていたんでしょう。


「ハナミズキ通り」から100mほど入ったここを曲がると、また「実政街道」が続きます。


道なりに100mほど行くと、小さな橋があります。


おっ!「実政街道橋」だ!

昭和六十三年(1988)完成というのですが、プレートの文字が旧字体を使ってるのがいいですね。

90mほど進むと、右前方に神社が見えます。


「諏訪神社」です。

「上野国神社明細帳」では由緒不詳となっていますが、「新編高崎市史 資料編14」にはこう書いてあります。
永禄二年(1559)六月十五日、長野県諏訪郡中洲町諏訪神社より勧請という。」

鳥居の横で「大黒様」が満面の笑みでお出迎えです。

「諏訪神社」のご祭神「建御名方神」(たけみなかたのかみ)は、「大国主神」つまり「大黒様」の子どもなんですけど、それと関係あるのかな。

境内の西南角には、手を握り合う「双体道祖神」が建ってます。

先ほどの「実政街道橋」を渡れば日高村です。
疫病や災厄が入ってこないように、村の入口に賽の神である道祖神を祀ったのでしょう。

驚くのは、ずらーっと並ぶ「猿田彦」の塔です。

「百庚申」というのはよく見かけますが、「百猿田彦」は珍しいかも知れません。
Wikipediaによると、庚申信仰は中国の道教に由来し、仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされ、神道では「猿田彦神」とされるのだそうです。

一番奥には、ひときわ大きな「猿田彦大神」


その手前には「三猿」も。


さて、今日はここまでといたしましょうか。


【今日の散歩道】



  


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2024年03月09日

追跡再開 実政街道(7)

日高町「諏訪神社」から先も区画整理が進み、関越道が通ったりで大きく変化しています。

明治四十年(1907)の地図と、Yahoo!地図をにらめっこしながら見当を付けてみました。


「諏訪神社」前の道を東へ100mほど行くと、十字路の左先に大きな石碑が建っています。


「津久井玉一郎先生追慕之碑」と刻まれています。


碑文を読んでみると、「津久井玉一郎先生は、安政四年(1857)日高村に生まれ、長じて社会の建設は教育に有りという信念のもと日高学校の教師となり、その後官職、戸長、県会議員を務めた後、私費を以て日新義塾を開設して近隣子弟の教育に尽くした」という人らしいです。

碑の相向いが津久井家の墓地で、立派な墓石が並んでいます。


入口には、これも立派な如意輪観音が彫られた、女人講の「二十二夜塔」が建っています。


その足元に、こんな墓石があります。

「謡曲〇〇之墓」と刻んでありますが、「〇〇」が読めません。
裏側を見ると、門弟として貝沢、井野、大類、新保、日高の49人の名があり、明治二十八年(1895)に建てられています。
さらに、「俗名 津久井八百蔵」とありますので、この方が謡曲の師匠で「〇〇」は号なんでしょう。

津久井家墓地から80mほど行って左へ折れ、150mほど行くと右側に墓地があります。

入口に何やら看板が立っています。
ほっほー。

私の苦手なことばかり・・・。

中に入ると、とっつきに、自然石の碑があります。

だいぶ風化が進んでいて文字も欠けていますが、「高崎の散歩道 第五集」を見るとこれは「芭蕉句碑」で、「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)と刻んであるのだそうです。

同書によると、昔はここに「轟立(どうりつ)山東福寺」という、家のお寺があったということです。
廃寺になった後は薬師堂のある墓地となっていましたが、平成十七年(2005)新たに整備したようです。


「実政街道」はこの辺から斜めに北進して「染谷川」を渡るのですが、今はセブンイレブンの信号まで戻ってぐるっと迂回しなければなりません。

信号を渡って2つ目の角を左に曲がり80mほど行くと、角に石造物がずらっと並んでいます。

安政七年(1860)の「庚申塔」、明治三十年(1897)の「天神宮」、明治三十五年(1902)の「猿田彦大神」そして二つの石祠です。
きっと区画整理によって寄る辺を失った神々を、ここに集めたのでしょう。

「庚申塔」の向こうに見えるのは井草家の墓地です。


墓地の中に、平成二十六年(2014)の「墓地改修記念」碑が建っています。


そこに刻まれている「霊宝殿」と、「井草家祖先五百年記念」碑です。


「染谷橋」まで来ました。


「染谷橋」を渡って北に折れると、直ぐまた川曲-井野線の「松木橋」袂に出ます。


道を渡ると、現在は「染谷川」に沿って道が付いていますが、昔の道は何故か川から一旦逸れて膨らみ、その先でまた川に沿うように進んでいます。


田んぼ中の畦道のように見えるこの道が「実政街道」です。


関越自動車道にぶつかる手前に、「実政街道」「高崎市名所旧跡案内板」がポツンと建っています。


実は6年前、この案内板を訪ねています。
当時は、建設資材置き場か何かの高い金属塀で囲われていました。
  ◇史跡看板散歩-74 実政街道

すぐ東に、取り残されたように高橋家の墓地があります。



祠の中を覗くと、薬師様かなぁ、仏像が一体鎮座しています。


それと、「高橋一族の流れ」という説明板がありました。


さて、今日はここまでといたしましょうか。
何だか、やたらと墓地に縁のある日でした。


【今日の散歩道】



  


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2024年03月23日

追跡再開 実政街道(8)

前回は、関越自動車道の高い壁に突き当たった所で終わりました。
壁を突き抜けられないので、ちょっと迂回して高架下を潜ります。


中尾中学校美術部の描いた壁画が見事です。


染谷川沿いに400mほど行くと、新保田中町「下沖橋」に至ります。
「実政街道」は右へ折れるのですが、前方に見える赤い橋が気になって、ちょっと寄り道を。


右前方に赤い鳥居が見えます。


赤い橋には「はちまんはし」と書いてあります。


この神社は「八幡(はちまん)神社」
「上野国神社明細帳」によると、天正十八年(1590)に八幡村「八幡社」から勧請したとあります。


「八幡橋」を渡って対岸へ行くと、小さな児童公園があって、道の端に何か建っています。


向こう側へ回ってみると、

「村社 八幡神社」という石標が建っています。
ということは、ここが神社への参道入り口なのでしょう。
それにしても、川を渡らないと神社へ行けないとは、変わってますよね。

実は、現在の「八幡神社」は川の左岸にありますが、以前は右岸にあったのです。


「新編高崎市史 資料編14」には、こんなことが書いてあります。
染谷川の河川改修によって、川幅が約三倍になり、境内にかかるため、新保田中町村合557番地(川の右岸)から、村東33番地(川の左岸)に昭和五十八年に移転した。」

しかし本当にそうなのか、私はちょっと疑問を抱いています。
明治四十年の地図を見ると染谷川は神社の東側を過ぎるとほぼ直角に曲がって神社の南側を通っていますが、令和五年の地図では神社の北側からゆるーいカーブで神社の西側を通っています。
何が言いたいかというと、神社には手を付けずに川筋の方を変えたのではないかと思うのです。

神社のすぐ南側に一段低くなった土地があります。

私には、これが昔神社の南側を通っていた川筋の跡に見えて仕方ないのですが・・・。

さて、「村社 八幡神社」の石標の近くに、いろいろな石造物が並んでいます。


はっきりしているのは、この二つです。

とくに、文字塔が面白いでしょう?
一番上の字が、何とまぁ意味深な形で、おかしな想像力を掻き立てられますが・・・。
「道」という字だそうです。

「道祖神」なんですね。
これらも「染谷川」の改修工事によって、ここに移されたということです。

そうそう、「八幡神社」のそばで、素敵なCafeを見つけちゃいました。


ということで、今日はここまで。


【今日の散歩道】



  


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2024年04月06日

追跡再開 実政街道(9)

今日は新保田中町「下沖橋」からスタートです。


予め「実政街道」の名残り道を見当つけておきましょう。


橋から130mほど歩いた十字路の角に、何かあります。


だいぶ崩れてますが、石の仏様が手を合わせていました。

お供え物も上げてもらって、地元の人達に大切にされているようです。

石仏のある十字路を越えて、ここで左に曲がると前橋市青葉町に入ります。


昔はこの辺から斜めに北上していたらしいのですが、今は宅地になっています。


その東隣は「青葉公園」で、「実政街道」は公園を斜めに突っ切り「箱田中学校」の校庭に向っていたようです。

正面奥に校庭の高いバックネットが見えます。

「青葉公園」の南東角に「青葉町誕生の記念碑」というのが建っていました。


碑背には、こんなことが刻まれています。
新都市計画法に基づく市街化区域の指定を受けていた、白鷺が飛びかい、黄金の稲穂たなびく、稲荷新田町と前箱田町の一部の水田を、組合施工で区画整理事業を実施しようと、高崎市新保田中町内36名の地権者が、平成2年から準備をすすめ、平成4年に土地区画整理組合を結成し、平成11年までの10年間に、8.4ヘクタールに宅地を造成し、さらに公共用地も生み出し、新らしく誕生した町を、新たに居住した住民が”青葉町”と定めた。」

「実政街道」のことは書かれていませんが、青葉町前箱田町の境界線が、公園と校庭を斜めに突っ切る「実政街道」に見えてきます。


校庭の向こう側へ回ってみると、道端に何か建っています。


「史跡 実正(真政)街道」という石柱です。

建てたのは「あづま歴史散歩の会」ですが、よくぞ建ててくれました。

石柱にある「右の細い道」が、まさに青葉町前箱田町の境界線です。


いかにもそれらしく曲がりくねった、田んぼ中の道です。


道はすぐ住宅地に入ります。
60mほど行ってひょいと脇を見ると、家と家の隙間のような路地の奥が、何か気になりました。


路地の先は神社で、裏口から入ってしまったようです。


正面に回ると、「稲荷神社」でした。


こじんまりとした境内ですが、きれいに手入れされています。

端正なお顔立ちの「二十二夜様」


ぴしっとした造りの「菅原神社」


裏の路地から出ようとすると、道祖神さん達が並んで見送ってくれました。


道に戻って100mほど行き、「前箱田公園」の手前を右折します。


道なりに180mほど行くと丁字路にぶつかります。
「実政街道」は、たぶん真っ直ぐ続いていたと思うのですが、今は右折するしかありません。


右折すると、川曲-新前橋線の前箱田町交差点に出ます。


角に、不思議なお店二軒を発見。


一軒は「風船屋」さんらしいです。


もう一軒は・・・ん?

古着屋さん・・・か?
「昭和地獄」なんて書いてあるかと思えば、「昭和婦人服天国」とも書いてあるし。
どっちなんだ。

横へ回ってみると・・・、

「幽霊研究室」だって。
食堂もやってるのか?
う~~ん。

今日はここまでだな。




  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2024年04月20日

追跡再開 実政街道(10)

前箱田町の信号から200mほど北進すると、道向こうに墓地が見えます。

道を渡って、墓地に沿って東に入るのが「実政街道」です。

ここから先は、昔の道がけっこうそのまま残っています。


交差点の左角にあった墓地が「常円寺」です。

「箱田学校跡」という石柱が建っています。
高崎もそうでしたが、明治五年(1872)の学制発布で各地に学校が造られますが、そのほとんどはお寺を使用しました。
ここは明治十七年(1884)に開設され、十八年(1885)までということですから、わりあい遅い開設で短い期間だったのですね。

その隣には「菅原神社」があります。


鳥居の前に「東大橋」と刻まれた石柱があります。

同じ形の石柱が4基あるので、どこかの橋の親柱だったんでしょう。

道しるべも建っています。

このまま東へ進むと「東(あずま)村役場」へ通ずるようです。

道なりに140mほど進むと、ありました。
「東(あずま)公民館」の道沿いに「群馬郡東村役場跡」という石柱が建っています。

矢印が左を差しているので、道の反対側にあったらしいです。


隣に石柱がもうひとつあって、「あずま道」と刻まれています。


「あずま道」は古い道で、上毛野君(かみつけぬのきみ)が支配していた四世紀頃からあったようだと、前橋城南小学校の副読本「わたしたちの城南」に書いてあります。

この「あずま道」の一部が、後に「実政街道」として使われたのでしょう。

あと二つ建っています。
「東小学校」「東中学校」発祥の地。


「東小学校発祥の地」碑には、こう刻まれています。
明治十八年五月東地区十ヵ村で、この地に公立箱田小学校創設。
同二十三年四月東村誕生により東尋常小学校、同三十二年高等科併設、昭和十六年四月東村国民学校と改称。
同二十二年四月新制東小学校、同二十五年十二月現在の東小学校に移転、
小学校の学区域は、江田、古市、前箱田、後家、箱田、上新田、下新田、小相木、稲荷新田、川曲の十ヵ村。
その後人口増加により昭和四十五年大利根小学校、同五十六年新田小学校が開校。」

「東中学校発祥の地」碑には、
昭和二十二年四月新学制実施により、東村立東中学校として発足、東小学校校舎を借用し、二部授業を実施。
同二十五年十二月校舎増築で二部授業解消。
学校区域は東村全域、同二十九年四月合併により前橋市立となる。
昭和四十二年七月光が丘町の現在地に新校舎落成。
同五十八年四月生徒増加により箱田中学校が開校。」
とあります。

「あずま道」「実政街道」は、ここから「滝川」を渡って川沿いに北進します。

あ、「あずまおおはし」
「菅原神社」にあった親柱はここのものだったんですね。

70mほど行くと右へ下りる細い道がありますが、これが昔の道のようです。


道なりに角を2つほど曲がると・・・、


狭いながらもバス通りに出てきます。


左へ曲がってすぐ、道端に何かあります。


仲睦まじい道祖神さまでした。


ありがたいですね、いい所にベンチがありました。


ベンチで一休みしたら、また歩き始めましょう。
80mも歩くと、左前方に赤い屋根が見えてきます。


「観音堂」ですね。


三十四体の仏様が祀られてるそうですが、堂内は真っ暗で何も見えません。
堂の前には、立派な三重塔と、優しいお顔をした仏様の線描画が置いてありました。


今日はここまで。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2024年05月11日

追跡再開 実政街道(11)

「観音堂」の隣は、「東箱田・後家町公民館」です。
その先は二又になっていて、右へ入ります。


ところで、「後家町」(ごけまち)とは面白い町名ですね。
夫と死別した女性が多く住んでたのかと思ってしまいますが、調べてみてもその由来が書かれた本がありません。
いや、ひとつだけありました。
平成十七年(2005)発行の「わたしたちの地名」という本です。(出版:群馬県子ども会育成団体連絡協議会)
後家は、後ろにある家なのでしょうか。
それは、平安時代の中ごろまでは、耕地は国のもので、人々に分け与えていました。
平安時代の中ごろから鎌倉時代にかけて、荘園がつくられていきました。
各地に荒地や未開墾地が残っていました。
それを空閑(こかん/あき地)と呼んでいます。
この空閑が訛って、後閑(ごかん)や五箇(ごか)と変わって後家になったと考えられます。」

はて・・・?

「角川日本地名大辞典」にはこういう記述があります。
後家村
江戸期~明治22年の村名。
はじめ総社藩領、寛永10年高崎藩領、のち前橋藩領を経て、再び高崎藩領。(略)
幕末の改革組合村高帳では、倉賀野宿寄場組合に属し、髙76石余、家数7。」

ということで、家数のごく少ない小さな村だったようです。
その後も、明治十一年(1878)8戸、二十四年(1891)7戸の村でした。
もしかすると、村ができた当初の家数は5戸、つまり「五家」だったんじゃないかと思うのですが・・・。

二又を右に入って100mほど行くと、道の端に庚申塔などの石造物がいくつか並んでいました。


道を改修したときにでも、ここへ寄せ集められたんでしょうか。

さらに120mほど行くと、丁字路にぶつかるので右へ曲がります。


ひたすら真っ直ぐ700m、光ヶ丘団地を抜けて前橋-長瀞線に出たら、車に気を付けて横断し、左へ進みます。


すぐ先に右へ入る道があって、角に何か建っています。


はい、「真政(実正)の渡し これより東三百メートル」、裏面には「あずま道」のことも刻まれています。


標柱に従って100mほど行くと、利根川が見えてきます。


その先、左側に弓道場があって、


利根川に沿ったサイクリングロードに出ます。


サイクリングロードを北に入るとすぐ、弓道場のフェンス内側に「真政(実正)の渡し」の標柱が建っています。


今から14年前、偶然この標柱を見つけたのでした。
  ◇「実政の渡し」跡を探しに

対岸を見ると、こんな景色です。

旅人はここから河原に下りて渡し舟に乗り、対岸の「宗甫分村」に渡った訳ですね。

次回はその「宗甫分村」側へ行ってみましょう。



  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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2024年05月25日

追跡再開 実政街道(最終回)

さて、ここで「実政の渡し」についておさらいをしておきましょう。
文献によって微妙な食い違いはあるのですが。

まず「わたしたちの城南」(出版:前橋市立城南小学校)の記載です。
その昔、日光に至る「あづま道」の要所として、「真政の渡」はその渡船場としてさかえました。
上杉謙信の武将宇佐美真政がこの辺りを渡河点として造ったので、その名前をとって真政の渡といわれたそうです。
この真政の関所は、南町二丁目(旧宗甫分)にあって、真政の渡場をおさえていました。
古老の話によると、関所当時の御番所あとの石垣が、つい最近までありましたが、アイオン台風(昭和二十三年)ですっかりつぶされてしまいました。
『関所には槍を持った役人がいて、手形がなければ通ることができませんでした。
通行人は川からあがってくると、御番所前に平らな飛石が敷いてあって、その上を下駄を持ってはだしで通されたそうです。』ということでした。」

関所は、宗甫分側にあったんですね。
昭和二十五年(1950)発行の「宗甫分今昔物語」(出版:宗甫分青年明星会)に、それらしき絵が載っています。


この関所について、「利根川の水運」(出版:群馬県教育委員会)にこう記載があります。
大渡関所と同じ、元和二年(1616)に前橋南部の宗甫分、利根川左岸崖上に実政の関所が設置された。
実政は、実正・真政・真正などとも書く。
崖下には、対岸の小相木とを結ぶ渡舟があり、重要な交通路であった。
実政の番所には、五人程の役人がいたといわれるが、寛文年間に、それまで大渡においた筏番二人を当番所に移し、筏改めを実政番所で行うようになった。」

「実政の関所」は、明治元年(1868)に廃止されます。
渡し舟も廃止されたため、本町の名主・問屋・組頭が架橋の請願をしますが、実現しなかったようです。(角川日本歴史地名大系)

そこで、前橋桑町の宮内文作、小相木村取締・梅山幸八、名主・梅山孝七、宗甫分村名主・林登平、船頭・万平らが発起人となり、明治三年(1870)ここに舟橋が架けられたそうです。(利根川の水運)
明治六年(1873)頃に作成された「壬申地券地引絵図」に、宗甫分村の舟橋が描かれています。


しかし利根川は名にしおう天下の暴れ川、おそらく毎年のように流されていたのでしょう。
「日本歴史地名大系」(出版:平凡社)には、明治十一年(1878)四月四日に舟橋の一部が流失したので渡舟で急場をしのぎ、九月二十四日には新しい舟橋を架けたという記述もあります。

翌十二年(1879)になって、ようやく念願の橋が架けられます。
橋の名前は「就安橋」(しゅうあんばし)、これで安心に就けるという意味合いだったんでしょうが、その願いも虚しく、架橋したその年の秋には早くも流失してしまったということです。

しかし、明治十八年(1885)の「陸軍迅速測図」には「就安橋」が描かれているのです。

どういうことなんでしょうか。

「わたしたちの城南」には、こんなことが書かれています。
時は移り、お金のいらない利根橋ができたので実政の渡しの客はなくなって、今の南町二丁目(旧宗甫分)は、全く陸の孤島のようなところになってしまいました。」
明治十八年(1885)「実政の渡し」の上流1.3㎞、内藤分村(現石倉町)と対岸の紅雲分村(現紅雲町)の間に「利根橋」が架橋されたのです。
「利根橋」は、当時としては珍しい通行無料の橋だったので、「実政の渡し」を使う人がいなくなったという訳です。

とは言え、小相木村宗甫分村との行き来は相当遠回りになる訳ですから、住民はさぞ不便だったことだったでしょう。
その不便は、昭和五十三年(1978)に「南部大橋」が開通するまで続いたのですから。

さて、では、その「南部大橋」を渡って旧宗甫分村へ行ってみましょう。
「南部大橋」の上から小相木「実政の渡し」付近を眺めると、こんな感じです。


宗甫分側に渡ってみましたが、「実政の関所」跡という標示はどこにも見当たりません。
この辺だったのかなぁ、という場所から小相木側を望んでみました。


辺りをふらついていると、神社がありました。


「水神宮」とあります。


中を覗くと、素敵な格天井です。


境内には立派な石碑が建っていて、「宗甫分村」「水神社」の歴史が分かりやすく刻まれていました。

これを見ると、「就安橋」が流された後、幾度か渡船を通したとありますね。

前掲の「壬申地券地引絵図」では、ここに「水神社」が描かれています。


町名は昭和四十二年(1967)に南町二丁目になりましたが、「宗甫分」という名称は近くの公園に残っています。

歴史ある地名に、誇りを持っているんでしょうね。

再開した「実政街道」の追跡も、これを以て最終回といたします。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。




  


Posted by 迷道院高崎at 06:00
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