ブログ駆け出しの頃、高砂町を起点に「実政(さねまさ)街道」を辿ってみたことがあります。
その時は、「塚沢小学校」のところで道が消えていて、その先の追跡は断念してしまいました。
その後も、断片的には「実政街道」に出会っていたのですが、全ルートを辿ることはしていませんでした。
これまでの「実政街道」の記事は、こちらからご覧いただけます。
いつかまた辿ってみたいと思いつつ年月が過ぎてしまっていましたが、最近になってようやく追跡再開する気が起きました。
「高崎の散歩道 第五集」に、明治中期の「塚沢小学校付近略図」が載っています。
上図で「昭和高分子」となっている所は、現在「ベルク日光町店」です。
筆者の金井恒好氏は、赤土村から北上する「実政街道」には3つのルートがあったといいます。
明治四十年(1907)の「二万分一地形図」で表すとこうなるのでしょう。
三本のルートの内、②の「五霊神社」へ抜ける道が一番古そうなので、そのルートを辿ってみることにしました。
「塚沢小学校」で消えた「実政街道」は、どうやら「ベルク」の東側で姿を現しているようです。
このバラス道は製菓「芳房堂」から来る道と交差し、コンクリート道になってずっと先へ延びています。
150mほど進んで左折すると、「五霊神社」への道です。
道なりに350mほど行くと環状線に出ます。
正面には「貝沢歩道橋」、左手の赤い鳥居が「五霊神社」、右前方に見える大きな瓦屋根は「不動寺」です。
「五霊神社」へ寄ってみます。
石段を上ると白い玉石が拝殿まで敷かれてて、カッコいいです。
由緒看板ですが、句読点が打たれてないので、読みようによっては意味が変わってしまいます。
読点「。」が入るであろうところに「<」マークを入れてみました。
「五霊神社」というんですから、御祭神が五柱いらっしゃるのかと思ったら、三柱なんですね。
不思議だなと思っていくつか調べてみたら、「五霊神社由緒記」というのにこう書かれていました。
拝殿の下に、丸太の輪切りが立てかけてあります。
何なんでしょう。
「高崎の散歩道 第五集」を見ると、
ということで、本殿の後ろに大きな松の木があったようですが、現在その姿はありません。
本殿の後ろへ行ってみると、伐り株がいくつか残っています。
あの丸太の輪切りは、このどれかのものなんでしょうね。
若い松の苗木も植えられていますので、数十年もすればまた往時の姿が蘇ることでしょう。
拝殿の屋根に妙なものが載っています。
肉眼でははっきり見えなかったのですが、ズームしてみると・・・、
獅子が逆立ちをしているように見えます。
そういえば、「五霊神社」の境内には「狛犬」とか「狛獅子」がないんです。
もしかすると、屋根の上の獅子一対がその代わりなのでしょうか。
境内の落ち葉を掃除している方がいらっしゃったので、「狛犬がない神社というのは珍しいですね。」と言うと、「ここは御嶽山神社の境内なんだよ。」と仰います。
石段から上が「五霊神社」で、下は「御嶽山神社」の境内なんだそうです。
たしかに、大きな「御嶽皇大神」の石碑が建っています。
書は、最後の高崎藩主・大河内輝聲です。
御嶽信仰開祖の普寛上人を祀る「普寛堂」もあります。
5年ほど前まで毎年3月19日には、修験者による「火渡り」の神事が行われていたそうです。
もう見られなくなって残念ですが、「橋本新聞」さんのブログに写真入りで残してくれていました。
帰り際、先ほどの方から御嶽山のお札を各種頂戴しました。
ありがとうございました。
さて、次回は他の2ルートも辿ってみることに致しましょう。
では、今日はこの辺で。
その時は、「塚沢小学校」のところで道が消えていて、その先の追跡は断念してしまいました。
その後も、断片的には「実政街道」に出会っていたのですが、全ルートを辿ることはしていませんでした。
これまでの「実政街道」の記事は、こちらからご覧いただけます。
いつかまた辿ってみたいと思いつつ年月が過ぎてしまっていましたが、最近になってようやく追跡再開する気が起きました。
「高崎の散歩道 第五集」に、明治中期の「塚沢小学校付近略図」が載っています。
上図で「昭和高分子」となっている所は、現在「ベルク日光町店」です。
筆者の金井恒好氏は、赤土村から北上する「実政街道」には3つのルートがあったといいます。
「 | 現在の前橋新道と重複してサンハイツの所まで行き、そこから井野川へ向かって下って行った道①と、塚沢小学校内で右へ曲がって五霊神社へ通じる道②と、さらにもう一本、その中間を貝沢村塚越部落を通って堂山古墳へ抜ける道③との三説がある。」 |
明治四十年(1907)の「二万分一地形図」で表すとこうなるのでしょう。
三本のルートの内、②の「五霊神社」へ抜ける道が一番古そうなので、そのルートを辿ってみることにしました。
「塚沢小学校」で消えた「実政街道」は、どうやら「ベルク」の東側で姿を現しているようです。
このバラス道は製菓「芳房堂」から来る道と交差し、コンクリート道になってずっと先へ延びています。
150mほど進んで左折すると、「五霊神社」への道です。
道なりに350mほど行くと環状線に出ます。
正面には「貝沢歩道橋」、左手の赤い鳥居が「五霊神社」、右前方に見える大きな瓦屋根は「不動寺」です。
「五霊神社」へ寄ってみます。
石段を上ると白い玉石が拝殿まで敷かれてて、カッコいいです。
由緒看板ですが、句読点が打たれてないので、読みようによっては意味が変わってしまいます。
読点「。」が入るであろうところに「<」マークを入れてみました。
「五霊神社」というんですから、御祭神が五柱いらっしゃるのかと思ったら、三柱なんですね。
不思議だなと思っていくつか調べてみたら、「五霊神社由緒記」というのにこう書かれていました。
「 | 景昌公は平氏の出で、関東に大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉の平氏五家の先祖を祀る神社として五霊になったといわれています。 |
後に景昌公一柱になり、五霊は御霊とも記録されています。」 |
拝殿の下に、丸太の輪切りが立てかけてあります。
何なんでしょう。
「高崎の散歩道 第五集」を見ると、
「 | 明治十年(1877)当時の五霊神社の立木は、・・・太さ1m50前後、長さ10m近くの樹木が25本(杉19本、松13本、樅1本、樫2本)。 |
残念ながら現在は数本の松しか残っていない、」 |
本殿の後ろへ行ってみると、伐り株がいくつか残っています。
あの丸太の輪切りは、このどれかのものなんでしょうね。
若い松の苗木も植えられていますので、数十年もすればまた往時の姿が蘇ることでしょう。
拝殿の屋根に妙なものが載っています。
肉眼でははっきり見えなかったのですが、ズームしてみると・・・、
獅子が逆立ちをしているように見えます。
そういえば、「五霊神社」の境内には「狛犬」とか「狛獅子」がないんです。
もしかすると、屋根の上の獅子一対がその代わりなのでしょうか。
境内の落ち葉を掃除している方がいらっしゃったので、「狛犬がない神社というのは珍しいですね。」と言うと、「ここは御嶽山神社の境内なんだよ。」と仰います。
石段から上が「五霊神社」で、下は「御嶽山神社」の境内なんだそうです。
たしかに、大きな「御嶽皇大神」の石碑が建っています。
書は、最後の高崎藩主・大河内輝聲です。
御嶽信仰開祖の普寛上人を祀る「普寛堂」もあります。
5年ほど前まで毎年3月19日には、修験者による「火渡り」の神事が行われていたそうです。
もう見られなくなって残念ですが、「橋本新聞」さんのブログに写真入りで残してくれていました。
帰り際、先ほどの方から御嶽山のお札を各種頂戴しました。
ありがとうございました。
さて、次回は他の2ルートも辿ってみることに致しましょう。
では、今日はこの辺で。
【五霊神社】