ここまで庄川杢左衛門のことをご紹介してきて、疑問に思うことも出てきました。
まず、頌徳碑に刻まれている「髙﨑館先塋葬」という一節です。
「銚子市史」では、これを「高崎館(ヤカタ)ノ先塋ニ葬ル」と訳しています。
「先塋」とは「祖先の墓」ということですから、素直に読めば、庄川杢左衛門は、祖先の墓が敷地内にあるような大きな屋敷に住んでいたように思えます。
しかし、「銚子市史」の別の個所には、
とあり、祖先の墓は高崎の寺院にあるはずと言ってる訳です。
大阪の人なら「どっちやねん!」、上州人なら「どっちなんでや!」と突っ込むところです。
中村茂先生の庄川杢左衛門研究第二弾となる「高崎藩士庄川杢左衛門の出奔と断絶」(2011年発行「利根川文化研究 第34巻」)の中に、庄川杢左衛門の居宅のことが書かれています。
←これが、その「御城内外惣絵図」の庄川杢左衛門宅付近を抜粋したものです。
この三軒長屋を「館(やかた)」と呼ぶでしょうか・・・。
少なくとも、敷地内に「先榮」があるとは思えません。
当時は、土葬だったでしょうから。
それでは、養子縁組を機に実父・渡辺家の隣に移り住んだのでしょうか。
とすれば、「館(やかた)」と呼ぶほどの屋敷を引き払ってここに来たことになりますが、それもどうも解せません。
だいいち、渡辺郡平は広間番で高六拾石、庄川杢左衛門は城番で高五拾石と、渡辺家の方が若干ですが格上です。
高崎藩庄川家の初代と推定される正川銀右衛門は、八石二人扶持です。
どうしても、敷地内に「先榮」のある「館(やかた)」に住んでいたとは思えないのです。
もしかすると、頌徳碑の文を撰じた加瀬新右衛門が、杢左衛門の偉大さを誇張するために、敢えて「高崎館」としたのかも知れませんが・・・。
さてそこで、これは迷道院の全くの当てずっぽうなのですが、「館」は「やかた」ではなかったのではないかと思うのです。
高崎郊外の旧片岡村大字寺尾に、「舘(たて)」という名の字があります。
南北朝時代後期、尹良親王の入った「舘(やかた)」(寺尾城)があったことによる地名と伝えられています。
ここには、戦国時代和田氏の寄騎(よりき)であり、江戸時代には第二代高崎藩主・酒井家次にも仕えた、佐藤氏※の通称「治部屋敷」がありました。
また、「舘」(たて)の近くには、やはり中世の武士・藤巻氏が居たと伝わる「左近屋敷」という字名もあります。
それらの有力武士に仕える農民兼武士も、当然、その周辺に住んでいたでしょう。
庄川家の祖先もそのひとりで、「舘」(たて)に住み、その野辺に祖先の墓「先榮」があったのではないか。
つまり、「髙﨑館先塋葬」は、「高崎の舘(たて)にある祖先の墓に葬られた」と読むべきだったのではないか。
そんな気がするのですが、「舘」(たて)地内に庄川家の墓も見つからず、まさに隠居の思い付きですが・・・。
さて次回は、庄川杢左衛門自刃か否かについて隠居の思い付きを述べ、以て「じょうかんよ」シリーズ最終回とする所存です。
まず、頌徳碑に刻まれている「髙﨑館先塋葬」という一節です。
「銚子市史」では、これを「高崎館(ヤカタ)ノ先塋ニ葬ル」と訳しています。
「先塋」とは「祖先の墓」ということですから、素直に読めば、庄川杢左衛門は、祖先の墓が敷地内にあるような大きな屋敷に住んでいたように思えます。
しかし、「銚子市史」の別の個所には、
「 | 高崎市内の寺院のどこかに、此の人の墓のあることもコレ(頌徳碑)によって確実であるから、丹念に探し求めるならば、他日必ず発見されると思うのである。」 |
大阪の人なら「どっちやねん!」、上州人なら「どっちなんでや!」と突っ込むところです。
中村茂先生の庄川杢左衛門研究第二弾となる「高崎藩士庄川杢左衛門の出奔と断絶」(2011年発行「利根川文化研究 第34巻」)の中に、庄川杢左衛門の居宅のことが書かれています。
「 | 文化七年(1810)「御城内外惣絵図」によると、城外熊野社近くの三軒長屋(現高崎市柳川町)に、庄川杢左衛門は実父渡辺郡平家と隣同士で居住している。」 |
←これが、その「御城内外惣絵図」の庄川杢左衛門宅付近を抜粋したものです。
この三軒長屋を「館(やかた)」と呼ぶでしょうか・・・。
少なくとも、敷地内に「先榮」があるとは思えません。
当時は、土葬だったでしょうから。
それでは、養子縁組を機に実父・渡辺家の隣に移り住んだのでしょうか。
とすれば、「館(やかた)」と呼ぶほどの屋敷を引き払ってここに来たことになりますが、それもどうも解せません。
だいいち、渡辺郡平は広間番で高六拾石、庄川杢左衛門は城番で高五拾石と、渡辺家の方が若干ですが格上です。
高崎藩庄川家の初代と推定される正川銀右衛門は、八石二人扶持です。
どうしても、敷地内に「先榮」のある「館(やかた)」に住んでいたとは思えないのです。
もしかすると、頌徳碑の文を撰じた加瀬新右衛門が、杢左衛門の偉大さを誇張するために、敢えて「高崎館」としたのかも知れませんが・・・。
さてそこで、これは迷道院の全くの当てずっぽうなのですが、「館」は「やかた」ではなかったのではないかと思うのです。
高崎郊外の旧片岡村大字寺尾に、「舘(たて)」という名の字があります。
南北朝時代後期、尹良親王の入った「舘(やかた)」(寺尾城)があったことによる地名と伝えられています。
ここには、戦国時代和田氏の寄騎(よりき)であり、江戸時代には第二代高崎藩主・酒井家次にも仕えた、佐藤氏※の通称「治部屋敷」がありました。
※ | 佐藤治部右衛門、佐藤治部少輔。若松町の佐藤産婦人科を「舘出張」(たてでばり)と呼ぶのは、子孫が「舘」から出てきて開業したことによる。 |
また、「舘」(たて)の近くには、やはり中世の武士・藤巻氏が居たと伝わる「左近屋敷」という字名もあります。
それらの有力武士に仕える農民兼武士も、当然、その周辺に住んでいたでしょう。
庄川家の祖先もそのひとりで、「舘」(たて)に住み、その野辺に祖先の墓「先榮」があったのではないか。
つまり、「髙﨑館先塋葬」は、「高崎の舘(たて)にある祖先の墓に葬られた」と読むべきだったのではないか。
そんな気がするのですが、「舘」(たて)地内に庄川家の墓も見つからず、まさに隠居の思い付きですが・・・。
さて次回は、庄川杢左衛門自刃か否かについて隠居の思い付きを述べ、以て「じょうかんよ」シリーズ最終回とする所存です。