2013年10月13日

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(7)

ここまで庄川杢左衛門のことをご紹介してきて、疑問に思うことも出てきました。

まず、頌徳碑に刻まれている「髙﨑館先塋葬」という一節です。
「銚子市史」では、これを「高崎館(ヤカタ)ノ先塋ニ葬ル」と訳しています。
「先塋」とは「祖先の墓」ということですから、素直に読めば、庄川杢左衛門は、祖先の墓が敷地内にあるような大きな屋敷に住んでいたように思えます。

しかし、「銚子市史」の別の個所には、
高崎市内の寺院のどこかに、此の人の墓のあることもコレ(頌徳碑)によって確実であるから、丹念に探し求めるならば、他日必ず発見されると思うのである。」
とあり、祖先の墓は高崎の寺院にあるはずと言ってる訳です。
大阪の人なら「どっちやねん!」、上州人なら「どっちなんでや!」と突っ込むところです。

中村茂先生の庄川杢左衛門研究第二弾となる「高崎藩士庄川杢左衛門の出奔と断絶」(2011年発行「利根川文化研究 第34巻」)の中に、庄川杢左衛門の居宅のことが書かれています。
文化七年(1810)「御城内外惣絵図」によると、城外熊野社近くの三軒長屋(現高崎市柳川町)に、庄川杢左衛門は実父渡辺郡平家と隣同士で居住している。」

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(7)

←これが、その「御城内外惣絵図」庄川杢左衛門宅付近を抜粋したものです。

この三軒長屋を「館(やかた)」と呼ぶでしょうか・・・。
少なくとも、敷地内に「先榮」があるとは思えません。
当時は、土葬だったでしょうから。

それでは、養子縁組を機に実父・渡辺家の隣に移り住んだのでしょうか。
とすれば、「館(やかた)」と呼ぶほどの屋敷を引き払ってここに来たことになりますが、それもどうも解せません。

だいいち、渡辺郡平は広間番で高六拾石、庄川杢左衛門は城番で高五拾石と、渡辺家の方が若干ですが格上です。
高崎藩庄川家の初代と推定される正川銀右衛門は、八石二人扶持です。
どうしても、敷地内に「先榮」のある「館(やかた)」に住んでいたとは思えないのです。

もしかすると、頌徳碑の文を撰じた加瀬新右衛門が、杢左衛門の偉大さを誇張するために、敢えて「高崎館」としたのかも知れませんが・・・。

さてそこで、これは迷道院の全くの当てずっぽうなのですが、「館」「やかた」ではなかったのではないかと思うのです。

高崎藩銚子陣屋のじょうかんよ(7)高崎郊外の旧片岡村大字寺尾に、「舘(たて)」という名の字があります。

南北朝時代後期、尹良親王の入った「舘(やかた)」(寺尾城)があったことによる地名と伝えられています。

ここには、戦国時代和田氏の寄騎(よりき)であり、江戸時代には第二代高崎藩主・酒井家次にも仕えた、佐藤の通称「治部屋敷」がありました。
佐藤治部右衛門、佐藤治部少輔。若松町の佐藤産婦人科を「舘出張」(たてでばり)と呼ぶのは、子孫が「舘」から出てきて開業したことによる。

また、「舘」(たて)の近くには、やはり中世の武士・藤巻氏が居たと伝わる「左近屋敷」という字名もあります。
それらの有力武士に仕える農民兼武士も、当然、その周辺に住んでいたでしょう。

庄川家の祖先もそのひとりで、「舘」(たて)に住み、その野辺に祖先の墓「先榮」があったのではないか。
つまり、「髙﨑館先塋葬」は、「高崎の舘(たて)にある祖先の墓に葬られた」と読むべきだったのではないか。
そんな気がするのですが、「舘」(たて)地内に庄川家の墓も見つからず、まさに隠居の思い付きですが・・・。

さて次回は、庄川杢左衛門自刃か否かについて隠居の思い付きを述べ、以て「じょうかんよ」シリーズ最終回とする所存です。






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Posted by 迷道院高崎 at 08:59
Comments(4)高崎藩銚子領
この記事へのコメント
迷道院さんが、「館」ではなく「舘」ではないかという推測をされたことは、興味深いものがあります。
昔の人の記述は、音が同じ当て字がかなりありますし、似ている文字やら、間違いではないかと思えるものもかなり見受けられます。
正解はわからなくても、そこに歴史のおもしろさを感じますが、不思議なことに時を経て事実に引き寄せられることもありますから、「願えば叶う」ことを待ち続けたいですね^^。
Posted by 風子風子  at 2013年10月16日 10:20
>風子さん

きっと、杢左衛門さんが亡くなった報せは、手紙で銚子へ届いたんだと思うんですよね。
それも、くずし字でしょうから、「舘」も「館」も同じようなもんでしょうし。
だから「やかた」と読んでしまったんじゃないかなと。

いつか、「舘」で庄川家のお墓が見つかったら面白いんですけどね(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年10月16日 21:50
絵図と現代の地図を比べてみて、神社の位置も寺院の位置も道筋も町割も変わらないところに感動します。

高崎新聞の高崎学の連載で柳川町は代官屋敷(文化年代まで)や上級藩士の邸宅があった場所だったとありますが、今でも堰代町の南側、お堀端までの地域は閑静な住宅地で公示地価の住宅地部門トップなんですね。
三軒長屋と言うと時代劇で出てくる棟割長屋を思い浮かべてしまいますが、安中に現存する侍長屋みたいな建物であったのかなぁとイメージします。



後、現代の地図では寺尾村字舘は寺尾町字館になっていますね。「舘」は「館」に通ずと言うところでしょうか。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年10月17日 18:58
>ふれあい街歩きさん

そうか、安中の武家屋敷が参考になりますね。
たしかに、はっつぁん、くまさんの住んでる長屋とは大違いですよね(^_^)

高崎は、城下町時代の町割りがそのまま残っている珍しい町だそうです。
これを、町起こしに活かさない手はないですよねー!
スクラップ・アンド・ビルドの大好きな高崎だから、心配なんですけどね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年10月17日 23:48
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