先週はイベント記事が続いて、「じょうかんよ」シリーズがチョイ待ち状態になってしまいましたね。
前回までは、庄川杢左衛門は自刃していないとする郷土史家をお二人ご紹介しました。
今回は、そのお二人の発表資料を見たうえでなお庄川杢左衛門は自刃したとする郷土史家をご紹介します。
前橋の郷土史家・大野富次氏は、平成二十一年(2009)発行の「群馬風土記」通巻99号に、「高崎藩銚子代官 庄川杢左衛門の義挙」という一文を投稿しています。
大野氏は総論の中で、
として、伝承の方を重く見る立場をとっています。
そこで、こう断定します。
中村先生の発見史料により判明した、杢左衛門没後も家督が継承されていることについても、
と、自刃説は捨てません。
また、小足氏が提示した田中太兵衛宛て書簡についても、こう推論します。
さー、杢左衛門は病死だったのか切腹だったのか、3回にわたって郷土史家先生方の両論をご紹介しましたが、「隠居の思ひつ記」読者の方々の判定や如何に。
次回は、素人という利点(?)を活かして、迷道院高崎としての疑問やら当て推量やらを述べさせて頂こうと思います。
前回までは、庄川杢左衛門は自刃していないとする郷土史家をお二人ご紹介しました。
今回は、そのお二人の発表資料を見たうえでなお庄川杢左衛門は自刃したとする郷土史家をご紹介します。
前橋の郷土史家・大野富次氏は、平成二十一年(2009)発行の「群馬風土記」通巻99号に、「高崎藩銚子代官 庄川杢左衛門の義挙」という一文を投稿しています。
大野氏は総論の中で、
「 | 史料となる文書類などは、体制維持などのために権力者によって改竄される場合があるが、伝承は庶民によって誰ともなく伝えられる文化のようなものである。 当事者の利益に左右されることのない自然発生的なもの、つまり辻褄合わせの史料中心主義からは非科学的と見られ、歴史にならないものであるともされる。 |
しかし、日本を代表する中世史研究者の新行紀一氏は、岡崎市史の中で『伝承をややもすると除外する傾向があるが、伝承には真実性が潜んでいる』と記し、注視することが必要であると強調している。まことにその通りであろう。(略) |
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国立歴史民俗博物館の久留島浩教授は、私の質問に懇切に答えて『代官がやむにやまれぬ時に自己判断で救済を実施した事例は確かにある』と答えていただいた。 | |
伝承も大事な歴史資料になり得るのである。代官の職制を専門とする研究者がそう答えてくれたのである。」 |
そこで、こう断定します。
「 | 高崎城内で死去することは、ただ事ではなく、碑文にある病死とは考えられない。何らかの責任を負わされての自刃と考えるのが自然であろう。」 |
中村先生の発見史料により判明した、杢左衛門没後も家督が継承されていることについても、
「 | 伝承の背景となった、藩に無断で領民を救済したことなどを咎められ、高崎城内死去(自刃)したが、お家断絶は免れたことなどがほぼ確認できた。 |
藩が庄川家の家督継続を許したことは、何か理由があっての事であろう。 | |
その一つとして考えられるのは、碑文にある『連綿と相続ク』の通り、結果として二万人もの領民が飢饉の災害から免れ、当時、圧政による一揆の頻発状況を考えると、高崎藩としても幕府に対していい顔が出来たということであろう。(略) |
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このような社会状況の中で、高崎藩銚子藩領は餓死者も出さず、一揆も起こらなかったことは、代官庄川の臨機応変の善政によるもので、藩はこれを藩に無断の個人行為として糾弾すると同時に、結果を重視して領民との宥和を図ったものと思われる。」 |
また、小足氏が提示した田中太兵衛宛て書簡についても、こう推論します。
「 | この書簡が書かれた正確な時期が七月三日とあるのみで、年代が不明なのである。おそらく、高崎城内で死去する随分と前に高崎本城へ呼び戻されたのだと思われる。 |
一つの考察を加えるならば、銚子の領民を救った代官に対し、すぐに逮捕して責任を問うことは、領民を敵に回すことになり、一揆に発展するかもしれない。そんな危惧から時間を置いたとも取れる。(略) |
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高崎藩では一時ではあるが、庄川を高崎代官頭取席に昇進させるという知恵を働かせたとも考えられる。そんな期間中に発信されたのが田中太兵衛宛ての書簡であったかも知れない。 | |
つまり、時間差を与え、じっくり吟味した後、自刃させたというのが実態なのではないか。」 |
さー、杢左衛門は病死だったのか切腹だったのか、3回にわたって郷土史家先生方の両論をご紹介しましたが、「隠居の思ひつ記」読者の方々の判定や如何に。
次回は、素人という利点(?)を活かして、迷道院高崎としての疑問やら当て推量やらを述べさせて頂こうと思います。