←文政六年(1823)に建立された庄川杢左衛門の墓碑、そこに刻まれている杢左衛門を顕彰する碑文は難しい漢文です。
これを、銚子市史編纂委員長の篠崎四郎氏が読み下し、昭和六十三年(1988)当時「銚子市小川町郷土芸能保存会」会長の髙橋作右衛門氏が石碑にして、墓碑の隣に建立していますので、こちらでご紹介しましょう。↓
伝承では庄川杢左衛門は「代官所の庭で、りっぱに腹を切って死んだ。」となっていますが、顕彰碑には「病気で死んだ。」と刻んであるのです。
さらに事をややこしくしているものに、最初に庄川杢左衛門の顕彰碑を建立した加瀬家の過去帳があります。
加瀬家の過去帳に、なぜか庄川杢左衛門の戒名、享年、救済高などとともに、「高崎御城内ニ於死去」と記されているのです。
「病」とは書かれておらず、「高崎城内に於いて」とあるので、これは責めを負って切腹したに違いないという訳です。
伝承と頌徳碑との食い違いについて、昭和三十一年(1956)発行の「銚子市史」では、「強いて想像すれば、自殺して果てたなどと云う文言は、その人の徳に対しても、また公儀を憚る手前からも刻みこむワケにはいかなかった為かと思われるに過ぎない。」と、暗に伝承の方を支持しています。
郷土史家の先生方の間でも、このことについては意見が分かれています。
次回は、その辺のお話をいたしましょう。
これを、銚子市史編纂委員長の篠崎四郎氏が読み下し、昭和六十三年(1988)当時「銚子市小川町郷土芸能保存会」会長の髙橋作右衛門氏が石碑にして、墓碑の隣に建立していますので、こちらでご紹介しましょう。↓
本了院圓観宗融居士尊位 | ||
居士之姓は藤原、 氏は庄川、 諱(いみな)は杢左衛門、 字(あざな)盛職。君は髙﨑侯の忠臣にして、性は仁篤慈慧貞順、 古今の名士也。 嘗て天明中銚子港の郡司となり、租税訟獄を掌(つかさど)る。 |
||
同三癸卯(みずのとう)の年七月 信州浅間嵩(だけ)焼く。 |
沸騰する焔火は天に亘り、焼灰は雨の如く降り、白昼浡昧として闇夜を漣う如し、積ること寸有余、立毛(たちげ:刈入れ前の稲)大いに痛み、公米八百俵を戴く。 | |
同六戊午(丙午・ひのえうまの誤り)の年、霖雨降り続き以て冷気募る。複(また)七百俵を戴き、再び飢渇餓死を凌ぐ為め、百両余を以て扶助さる。 |
|
性命を保ち農事を励み、飢渇餓死に至らざる者千有余人なり。且つ浦の退転を起立の為め二百俵、并(ならび)に通邨二万余人数千俵余并に数百両余を救う。 | |
之の金米を以て、一統餓死退転も無く連綿として相続く。 昭(あきらか)なる哉、大君の仁徳を以て多勢の性命を保つ。 |
|
悲しい哉、寛政二庚戌の年九月三十日、病を以て五十有七歳にして卒し、髙﨑館の先塋(せんえい:祖先の墓)に葬る。 | |
仰ぎ願はくば郷中一統永久に髙恩に報ぜん為め、万代仰いで興廃易(かわ)らず霊場に鎮め 安置して後世に伝え、石に刊して碑を建つ。 | |
然れば則ち絶ゆるを継ぎ廃するを起し、賢君永久たり。 | |
道徳は礼敬厚く、怠慢無く以て御武運長久を欲し、敬礼は在(ましま)すが如く拝礼を為すべき也。 |
伝承では庄川杢左衛門は「代官所の庭で、りっぱに腹を切って死んだ。」となっていますが、顕彰碑には「病気で死んだ。」と刻んであるのです。
さらに事をややこしくしているものに、最初に庄川杢左衛門の顕彰碑を建立した加瀬家の過去帳があります。
加瀬家の過去帳に、なぜか庄川杢左衛門の戒名、享年、救済高などとともに、「高崎御城内ニ於死去」と記されているのです。
「病」とは書かれておらず、「高崎城内に於いて」とあるので、これは責めを負って切腹したに違いないという訳です。
伝承と頌徳碑との食い違いについて、昭和三十一年(1956)発行の「銚子市史」では、「強いて想像すれば、自殺して果てたなどと云う文言は、その人の徳に対しても、また公儀を憚る手前からも刻みこむワケにはいかなかった為かと思われるに過ぎない。」と、暗に伝承の方を支持しています。
郷土史家の先生方の間でも、このことについては意見が分かれています。
次回は、その辺のお話をいたしましょう。