2013年06月30日

ちょいと千葉へ(銚子) その1

銚子までやって参りました。

ちょいと千葉へ(銚子) その1海なし県に住む私としては、海が見たくなる訳でして・・・。

それから、高いものがあれば上ってみたくなる訳でして・・・。

とても高く見えた「犬吠埼灯台」ですが、地上高31.3mということで、高崎「白衣大観音」の方が10m以上も高かったんですね。

ちょいと千葉へ(銚子) その1頂上までは99段の螺旋階段を上らなくてはいけませんが、途中途中に段数とメッセージが書かれているので、気を紛らわせながら上れます。

ちょいと千葉へ(銚子) その1上部は資料展示室になっています。

「へ~。」と思ったのは、戦時中にカムフラージュされていたという灯台の写真でした。

この姿を滑稽に思える今の日本が、とても幸せな国に思えてきました。

ちょいと千葉へ(銚子) その1「犬吠崎」の名前の由来は、義経の愛犬伝説だそうです。

頼朝に追われて奥州へ逃れる途中、ここに残された義経の愛犬は、主人恋しさのあまり七日七夜岩の上で吠え続けたというのです。
きっと、吹き荒ぶ風と波の音が、そのような伝説を生んだのでしょう。

岩礁が多く、黒潮が速さを増す房総沖は、海の難所だそうです。

慶応四年(1868)八月二十一日(新暦の10月6日)、台風のさなかに、その難所の海を北へ向かって航行する八隻の船がありました。
新政府軍の武装解除命令を拒否し、江戸湾を脱出して蝦夷・箱館(函館)へ向かっていた、榎本武揚率いる幕府艦隊です。

帆船の「美加保丸」(みかほまる)は、蒸気機関を持つ「開陽丸」に曳航されていましたが、荒れ狂う風と波に曳航索を切断され、2本のマストもへし折られて、自力航行不能となってしまいます。
五昼夜漂流を続けた「美加保丸」は、八月二十六日犬吠崎の北2.3kmの黒生(くろはえ)沖で座礁し、沈没の危機に瀕します。

「美加保丸」には、負傷兵を含む614人が乗っていたそうです。
沖合で座礁している船に気付いた黒生の漁民たちは、暴風雨の中、必死で乗員を救助しますが、13人の乗員が空しく命を落としてしまいます。

ちょいと千葉へ(銚子) その1今、黒生漁港近くに、「美加保丸遭難の碑」というのが建っています。
ちょいと千葉へ(銚子) その1


13名の亡骸は、漁民たちの手によってここに埋葬されました。

しかし、ここに墓が建てられるのは、その15年後のことになります。

それは、埋葬されたのが、新政府に歯向かう賊軍の亡骸であったからです。

黒生沖に一艘の船が漂着したという知らせは、ただちに村役人から銚子高崎藩陣屋に届けられました。
これが、このあと高崎藩にとって、思いもよらぬ事件に発展することになりますが、その顛末は次回ということに。





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Posted by 迷道院高崎 at 08:45
Comments(8)高崎藩銚子領
この記事へのコメント
海なし県に移住したばかりの頃は時々海が見たくなりましたが、今ではすっかり慣れてしまいました。でも、灯台っていいですね。

そうですか、高崎も下総国に飛領地があったのですね。安中藩も下総国にわずかばかり領地があったようです。
船の漂着にからむ今後の展開が楽しみです^^。
Posted by 風子風子  at 2013年07月02日 21:06
>風子さん

無いものねだりの癖がある私は、海のあの広さ大きさに憧れちゃいます。
人間の起源が海からだってのも、あるんでしょうかね。

話題は、今回の千葉行の目的に、やっと近づいてきました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月03日 07:57
高崎藩は海岸部でも交通の要衝を預かったのですね。

調べてみたら高崎藩は現在の銚子市域に13カ村、安中藩は現在の旭市域に2カ村領有していて、さらに他藩や旗本領、天領が錯綜して支配が複雑な地域だったようですね。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年07月03日 19:53
>ふれあい街歩きさん

銚子のこと調べて頂いて、ありがとうございます!

銚子は江戸にも近く、漁業と農業の収穫も多いので、各藩の江戸上屋敷への年貢徴収には便利だったのでしょうかね。
「調子では、魚を拾っても食っていける。」という言葉もあるらしいですが。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月03日 21:00
恐らく、今のエジプト、シリアなどの、
中東紛争状態ではと、考えてしまいます。

亡き祖父より、銚子明治半ばにその名を付け
由来は、お銚子の首になぞらえ、喉を過ぎると
広くなると記憶しております。

なを、高崎藩とは、利根川の利権による飛び地
及び、外国からの脅威の要所として幕府より
与えられたと耳にしておりますが、
いずれにせよ、銚子市まで、行かれるとは
かなり尊敬の至りです。
Posted by wasada49  at 2013年07月06日 21:58
>wasada49さん

銚子という地名の由来、面白いですね。
確かに、利根川の出口はそんなイメージです。

昨日の上毛新聞に、「海なし県と山なし県との観光交流キャンペーン」で千葉のゆるキャラが群馬を訪問、という記事が載ってました。

銚子と高崎の交流も、もっともっと盛んに行いたいですね。
遠くて近い間柄なんですから。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年07月07日 10:37
はじめまして。私は高崎出身で現在は茨城県神栖市の利根川の河口に住んでおります。
ここ最近銚子陣屋の事を調べていて、こちらのHPに辿り着いた次第であります。
17年前から茨城に住んでおりますが、近所の銚子と故郷の高崎にはこういった縁故があることを知る由もありませんでした。
他のカテゴリーも拝見させて頂きましたが、懐かしさやら新鮮さを感じとっても楽しかったです。
ちょっとした時間旅行ができました。

ありがとうございます。
Posted by ブラウン大好き  at 2014年09月28日 10:24
>ブラウン大好きさん

嬉しいコメント、ありがとうございます!
とても励みになります。

高崎を離れて17年ということですと、高崎の町もずいぶん変わってしまったかもしれませんね。
拙ブログが、少しでもお役に立てたら幸いです。
これからもよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年09月28日 16:26
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