2013年06月23日

ちょいと千葉へ(佐原)

ちょいと千葉へ(佐原)「寺田本家」から車で30分ほどで、北総の小江戸・佐原(さわら)に着きます。

かつて利根川水運の中継基地として繁栄したという佐原は、中心部を流れる小野川に沿って、往時を偲ばせる町並みが広がっています。

江戸時代の佐原は、「お江戸見たけりゃ佐原にござれ 佐原本町江戸まさり」と俗謡に唄われた商人町だったということで、「お江戸見たけりゃ高崎田町 紺の暖簾がひらひらと」と唄われた、わが高崎と同様、大変賑わう町だったようです。

しかし、自動車時代になって道路や市街地が郊外化してくると、中心市街地の賑わいに陰りが出てきたといいます。
このことも、高崎ととてもよく似ています。
しかし、高崎佐原が大きく違ったのは、このあとの町づくりです。

佐原が伝統的町並みを整備するきっかけとなったのは、昭和六十三年(1988)に実施された、竹下内閣の「ふるさと創生事業」だったそうです。
佐原市では「ふるさと創生資金使い道アイディア募集」を行い、創生資金1億円の使い道を、広く市民に問いかけたのです。
その結果、郷土の偉人・伊能忠敬や、佐原の町並みに関することが上位に上がりました。

これを機に町並み保存の機運が盛り上がり、平成元年(1989)には市役所職員による「地域づくり研究会」が発足、翌年には「小野川ふるさと川づくり検討委員会」が発足します。
さらに、行政と地域住民がまちづくりを語り合う場として、「まちづくりを語り合う場」が設けられたのです。

そして平成三年(1991)には、市民主体の「小野川と佐原の町並みを考える会」が発足し、翌年には「町並み保存計画書」を市長へ提出するまでになり、今もNPOとして町並み保存の中心的役割を担っています。
行政が呼び掛け、市民がそれに応えるという町づくりのお手本として、わが高崎も大いに学ぶところがあるのではないでしょうか。

ちょいと千葉へ(佐原)平成四年(1992)には、橋から水がジャージャー出てくるという珍しい「樋橋」を、町並み保存の象徴として、木造の橋に架け替えました。

因みに、橋の向こう側にシートで覆われている所は、伊能忠敬の旧宅です。
東日本大震災で被害を受け、修復中なのだそうです。

ちょいと千葉へ(佐原)古い建物が多い佐原では、震災の被害も大きかったようです。

文化元年(1804)創業で、明治二十八年(1895)築の「福新呉服店」さんの屋根も、大きな被害を受けました。

でも、佐原の方々はめげていません。
写真の下に写っているものを見てください。
震災の時に落ちなかった瓦の一片を袋に入れて、「幸運のお守り瓦」というのを作っちゃってます。
「運が落ちない」ということだそうですが、きっと受験生には好評だったに違いありません。

ちょいと千葉へ(佐原)すっかり修復されて、何事もなかったようにどっしりと構えた、現在の「福新呉服店」さんの姿です。

ちょいと千葉へ(佐原)




その店先に、こんなのが飾ってありました。

震災で落ちた瓦に、来訪者の温かいメッセージが書かれています。
そのメッセージもさることながら、私は「・・・落ちて家を守った瓦」という「佐原おかみさん会」の言葉に感動しました。

ちょいと千葉へ(佐原)その「佐原おかみさん会」によって運営されているのが、一軒一軒のお店が小さな博物館という、「佐原まちぐるみ博物館」です。

実は、佐原の町を巡って、特に感じたことがあります。
それは、駐車場の受付の方を始め、どの施設、どのお店でも、皆さんとても気持ち良い応対をしてくれるんです。
お年寄りでも、若い方でも、女性でも、男性でもそうなんです。

「福新呉服店」の素敵な若おかみさんにその話をしたら、「おかみさん会で、定期的におもてなしの研修をしてるんですよ。」と仰ってました。
あー、それでなんですね、納得しました。
けちんぼの迷道院の財布の紐も、ついゆるんでしまいました(笑)

一軒一軒が博物館、町全体がテーマパーク、住民みんなが接客係、素敵な町でした、佐原

ちょいと千葉へ(佐原)ちょいと千葉へ(佐原)
天保二年(1831)創業、
明治後期築の酒屋「金利」
(かねり)の建物を利用した、「町並み観光案内処」
明治34年(1901)創業、同年築の旅館「木の下旅館」
現役で営業しております!

ちょいと千葉へ(佐原)ちょいと千葉へ(佐原)
明治34年(1901)築の建物
を使って、平成16年(2004)に開店した仏蘭西料理店「夢時庵」(ムージャン)。
東日本大震災後に、明治10年(1877)築の主屋と明治17年(1884)築の土蔵を改修して開いたパスタ店「ワーズワース」

ちょいと千葉へ(佐原)ちょいと千葉へ(佐原)
頑張って仕込中の、板前割
「真亜房」(まあぼう)。
なぜか「上州屋」
お酒屋さんでした。


千葉の旅は、まだ続きます。





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Posted by 迷道院高崎 at 14:59
Comments(6)◆出・たかさき
この記事へのコメント
偶然ですが今読んでいる時代小説に「佐原」が出ていますので、嬉しくなってしまいました。

また、板鼻には伊能忠敬に学び、測量にも参加した「小野栄重」のお墓があることから、少しばかり佐原とのご縁を感じます。

「樋橋」ははじめて知りましたが、昔の人の発想が面白いし、珍しい風景ですねー。

“佐原のまちをまるごと博物館に”という取り組みも、住民の皆さんの町を愛する気持も、本当に素敵!です。
佐原に出かけてみたくなりました^^。
Posted by 風子  at 2013年06月25日 03:38
>風子さん

ね、出かけてみたくなったでしょ?
私も、また行ってみたいです。

そうか、風子さんのブログに小野栄重の記事がありましたね。
それではなおのこと、ぜひ、お出かけになってみて下さい!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年06月25日 08:58
歴史ある街を、現代と調和を図る事は
大切ですね。

利益、効率、成果を先に考えると
どうしても、矛盾や確執が生まれるのでは、

アイデアなど考え方は費用は無用ですので、
高崎市も、県庁を前橋市になった経過を
教訓に、したら良いと思いますが、
Posted by wasada49  at 2013年06月27日 20:52
銚子が高崎藩の飛地なので、ここ佐原も多くの高崎藩関係者が訪れたことでしょうね。
倉賀野から佐原、銚子は利根川で繋がっていますし。

北総と西毛の意外な交流史がありそうです。
Posted by ふれあい街歩き  at 2013年06月27日 23:15
>wasada49さん

観光による町づくりは、遠回りのようですが町に利益をもたらすと思います。
ただし、それにはこだわりを持って、中途半端なものにしないことが肝要ではないでしょうか。
その点、佐原は立派だと思います。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年06月28日 09:07
>ふれあい街歩きさん

さすが、ご明察!
このあと、その銚子へ向かいました。

次回も、よろしくお付き合いを(^_^)
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2013年06月28日 09:10
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