宿坊「大圓院」を出立、「奥の院」へ向かいます。

ガードレールが木製というのが、いいですね。

公衆便所も、この立派さです。
何だかバチが当たりそうでもありますが。
「大圓院」から600mほどで、「奥の院」参道への入口「一の橋」に着きます。
いかにも、結界という雰囲気です。
ここから先、奥の院まで1.5kmの鬱蒼たる杉木立の中、歴史上の人物の墓石がびっしりと並んでいます。

←この人も、歴史上の人物といえば歴史上の人物でしょう。

太い杉の苔むした洞の中に、石仏が安置されています。
歴史上の大大名たちの、虚仮威しともとれる巨大五輪塔が並ぶ中、こんな石仏に何かホッとさせられます。

←お化粧地蔵。

日本人らしくていいなぁ、と思うものも。

←フグ供養塔。

参道に面して、高崎藩主を務めた安藤家の墓所があります。
高崎城に幽閉されて自刃した駿河大納言・徳川忠長を預かったのが、六代目高崎藩主・安藤重長でした。
もう6年前ですが、そのご子孫である安藤綾信氏の講演を聞いたことがあります。
◇殿様に縁のある日(その壱)
そして、高野山で探したかったもう一つのものが、これです。
観音山「慈眼院」にもある、「一路観音碑」です。
全国に三十三基ある「一路観音碑」の第十六番が、ここ高野山「奥の院」にあります。
ここにあることは知っていましたので、歩いている間中ずっと目を凝らして探していたのですが、見つからぬまま「中の橋」の駐車場まで出てきてしまいました。
このまま帰るのはどうにも悔しくて、カミさんを喫茶店で預かってもらって、もう一度探しに戻りました。
ないなぁ、ないなぁと思いながらついに「奥の院」に到着してしまい、社務所でも聞いてみましたが聞いたことがないと言われ・・・。
で、道を変えて戻る途中でした。
川の向こう岸にある碑に、一瞬、「一路」の文字が見えたような気がしたのです。
大急ぎで迂回して向こう岸へ行くと、まごうことなき「一路観音碑」でした。
強度の近視である迷道院に、碑背に刻まれた小さな「一路」の文字が、よくあの距離から見えたものだと思います。
不思議なことですが、こんなこともあるのですね。
「一路観音」の優しいお顔が、「よく来たね。」と褒めてくれてるような気がしました。
高野山に「一路観音碑」が建つ経緯を、「一路観音碑道しるべ」の中で慈眼院前住職・橋爪良恒師が語っています。
ということで、「駅から遠足 観音山」(番外編)ともいうべき高野山への旅も、無事目的を果たすことができました。
さて、この後は和歌の浦温泉へ寄って、精進落としでもしてから帰ることといたしましょう。

ガードレールが木製というのが、いいですね。

公衆便所も、この立派さです。
何だかバチが当たりそうでもありますが。
「大圓院」から600mほどで、「奥の院」参道への入口「一の橋」に着きます。
いかにも、結界という雰囲気です。
ここから先、奥の院まで1.5kmの鬱蒼たる杉木立の中、歴史上の人物の墓石がびっしりと並んでいます。

←この人も、歴史上の人物といえば歴史上の人物でしょう。

太い杉の苔むした洞の中に、石仏が安置されています。
歴史上の大大名たちの、虚仮威しともとれる巨大五輪塔が並ぶ中、こんな石仏に何かホッとさせられます。

←お化粧地蔵。

仲良し地蔵→
日本人らしくていいなぁ、と思うものも。

←フグ供養塔。

しろあり供養塔→
参道に面して、高崎藩主を務めた安藤家の墓所があります。
高崎城に幽閉されて自刃した駿河大納言・徳川忠長を預かったのが、六代目高崎藩主・安藤重長でした。
もう6年前ですが、そのご子孫である安藤綾信氏の講演を聞いたことがあります。
◇殿様に縁のある日(その壱)
そして、高野山で探したかったもう一つのものが、これです。
観音山「慈眼院」にもある、「一路観音碑」です。
全国に三十三基ある「一路観音碑」の第十六番が、ここ高野山「奥の院」にあります。
ここにあることは知っていましたので、歩いている間中ずっと目を凝らして探していたのですが、見つからぬまま「中の橋」の駐車場まで出てきてしまいました。
このまま帰るのはどうにも悔しくて、カミさんを喫茶店で預かってもらって、もう一度探しに戻りました。
ないなぁ、ないなぁと思いながらついに「奥の院」に到着してしまい、社務所でも聞いてみましたが聞いたことがないと言われ・・・。
で、道を変えて戻る途中でした。
川の向こう岸にある碑に、一瞬、「一路」の文字が見えたような気がしたのです。
大急ぎで迂回して向こう岸へ行くと、まごうことなき「一路観音碑」でした。

不思議なことですが、こんなこともあるのですね。
「一路観音」の優しいお顔が、「よく来たね。」と褒めてくれてるような気がしました。
高野山に「一路観音碑」が建つ経緯を、「一路観音碑道しるべ」の中で慈眼院前住職・橋爪良恒師が語っています。
「 | 当時、高野山に在住していた私は、ようやく軌道に乗って来た、千代香さんの三十三観音建立の浄業の一つに、是非高野山の地を加えたいと思い、千代香さんにお話したところ、是非にと同感賛成されたので、この地を択んで、本山より譲渡して頂き、本山の工務課長佐古正明君をわずらわして、石の選定、彫刻、建立の仕事一切を進めて頂いた。 |
青菜祭も終わって、お山もひととき静寂を取り戻した(昭和五十年)六月二十二日に開眼が行われた。 導師は私の父橋爪良全大僧正であった。 |
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その頃奥の院維那をされていた柴田全常大僧正や、高室院斎藤興隆前宮も随喜読経を賜った。 参列された方の中には私の職務の関係もあって、本山企画室の職員が多かった。 |
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この中で、高橋智運師(現岡山高徳寺住職)、藪光竜師(現本山教学次長)お二方には、この時の千代香さんとの出会いが縁となり、後になって、それぞれのご自坊に一路観音碑を建立することになったのも、奇しき因縁といえよう。」 |
ということで、「駅から遠足 観音山」(番外編)ともいうべき高野山への旅も、無事目的を果たすことができました。
さて、この後は和歌の浦温泉へ寄って、精進落としでもしてから帰ることといたしましょう。