「洞窟観音」のすぐ下が、「錦山荘」です。
むかし高崎駅前にあった旅館「高崎館」の別荘が「錦山荘」だということは、このシリーズ第35話でお話しました。
その当時の写真があります。
欄干は新しくなっていますが、親柱の何本かは残されてます。
「昭和六年四月廿九日開通」、「高崎館田中富貴壽架橋」と刻まれています。
「錦山荘」のHPを見ると、前身の「清水鉱泉」は大正四年(1915)からあったと書いてあるのですが、その頃、橋はどうなっていたのでしょうか?
「錦山荘橋」のすぐ下流に、「羽衣橋」という橋が架かっていて、「昭和八年九月成」とあります。
「羽衣坂」が開通したのが昭和五年(1930)のことですから、「羽衣橋」も「錦山荘橋」もその後に架けられたことになります。
昭和六年(1931)の地図を見ると、道路と水路の位置関係が現在と違っているようにも思えます。
ま、よく分かりませんが、「清水鉱泉」は「錦山荘」よりもずっと下にあったようですね。
「清水鉱泉」の写真が残っています。
けっこう賑わってたんですね。
今も、源泉井は門を潜ってすぐの所にあります。
もう少し上に、もう一本源泉井があります。
こちらの方が、どうも新しそうなのですが。
で、昔の「錦山荘」は、こんな感じだったようです。
今は、車で駐車場まで行って、すぐ「錦山荘」の建物へ入ってしまう方が多いので、この場所に気づかないかも知れません。
茂みの中を覗くと、「高尾山入口」という石標が建っています。
その奥は、こんな風になっています。
正面の祠には「錦山荘高尾山」とあり、不動明王が祀られています。
祠の左には「昭和四年一月八日開山」、右には「高崎館田中富貴壽建之」と刻まれています。
なぜ高尾山なのかは分かりませんが、きっと、鉱泉の湧き出るこの山を高尾山のような霊山として崇めたのではないでしょうか。
今度「錦山荘」へ行かれた折には、ぜひ、ここも覗いてみてください。
さて、2014年8月から始めた「駅から遠足 観音山」シリーズも、今回を以て最終回といたします。
長々とお付き合いいただいた皆様に、心より感謝申し上げます。
このシリーズが、末永く観音山のガイドブックとしてご利用いただけ、また先人たちが残してくれた貴重な観光資源・観音山に、内外のお客様が足を運んで頂けるきっかけとなれば、この上なき幸いと存じます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
むかし高崎駅前にあった旅館「高崎館」の別荘が「錦山荘」だということは、このシリーズ第35話でお話しました。
その当時の写真があります。
欄干は新しくなっていますが、親柱の何本かは残されてます。
「昭和六年四月廿九日開通」、「高崎館田中富貴壽架橋」と刻まれています。
「錦山荘」のHPを見ると、前身の「清水鉱泉」は大正四年(1915)からあったと書いてあるのですが、その頃、橋はどうなっていたのでしょうか?
「錦山荘橋」のすぐ下流に、「羽衣橋」という橋が架かっていて、「昭和八年九月成」とあります。
「羽衣坂」が開通したのが昭和五年(1930)のことですから、「羽衣橋」も「錦山荘橋」もその後に架けられたことになります。
昭和六年(1931)の地図を見ると、道路と水路の位置関係が現在と違っているようにも思えます。
ま、よく分かりませんが、「清水鉱泉」は「錦山荘」よりもずっと下にあったようですね。
「清水鉱泉」の写真が残っています。
けっこう賑わってたんですね。
今も、源泉井は門を潜ってすぐの所にあります。
もう少し上に、もう一本源泉井があります。
こちらの方が、どうも新しそうなのですが。
で、昔の「錦山荘」は、こんな感じだったようです。
今は、車で駐車場まで行って、すぐ「錦山荘」の建物へ入ってしまう方が多いので、この場所に気づかないかも知れません。
茂みの中を覗くと、「高尾山入口」という石標が建っています。
その奥は、こんな風になっています。
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正面の祠には「錦山荘高尾山」とあり、不動明王が祀られています。
祠の左には「昭和四年一月八日開山」、右には「高崎館田中富貴壽建之」と刻まれています。
なぜ高尾山なのかは分かりませんが、きっと、鉱泉の湧き出るこの山を高尾山のような霊山として崇めたのではないでしょうか。
今度「錦山荘」へ行かれた折には、ぜひ、ここも覗いてみてください。
さて、2014年8月から始めた「駅から遠足 観音山」シリーズも、今回を以て最終回といたします。
長々とお付き合いいただいた皆様に、心より感謝申し上げます。
このシリーズが、末永く観音山のガイドブックとしてご利用いただけ、また先人たちが残してくれた貴重な観光資源・観音山に、内外のお客様が足を運んで頂けるきっかけとなれば、この上なき幸いと存じます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
迷道院高崎 拝