先週、突然ブログのアクセス数が跳ね上がって驚いたのですが、ようやく落ち着いてきたみたいです。
アクセス解析を見ると、「忘れられた高崎の大震災」の記事に来られた方が多かったためのようです。
昭和六年(1931)埼玉を震源地にしたM6.9の地震で、高崎の真下を通る活断層が動き、震度6の大地震になりました。
天災は忘れた頃にやってくるそうですが、この記事が忘れないためのお役に立てたなら幸いです。
さて、観音山の話に戻します。
「洞窟観音」を見たら、必ず隣接の「徳明園」もご覧ください。
「徳明園」は北関東随一と言われる回遊式日本庭園ですが、山田徳蔵翁自身が楽しむために造ったということで、当初は一般公開されていなかったそうです。
そんなこともあってか、庭園内には実にユニークなものがあちこちにあります。

杖の先に髑髏を刺した僧形の老人が、嬉しそうに笑っています。
おそらくこれは、一休禅師の逸話を石像にしたものでしょう。

その隣には、数珠を手首に掛け、片足を組んで石に座る徳蔵翁がいます。
脇に建つ石碑に刻まれた言葉がまた面白い。
「人間萬事 屁の如し ぶーっと云う字は 佛なりけり」
誰なのか分からないものもあります。
数珠と笠を持っているから、雲水の僧なんだろうな。
良寛かなぁ・・・。

「笑い閻魔」と「笑い鬼」なんてのもいます。
大きな錦鯉が泳ぐ池の中には、亀に乗った浦島太郎や、談笑中(?)の三匹の蟇蛙もいます。


不思議な棒が何本も池から突き出ています。
舞踊家・藤間信乃輔さんが、この池の中で踊った舞台の跡です。
平成二十二年(2010)から5年間続いた「悠久の魂」です。
雨の中で行われた第一回の、素晴らしい演舞をご覧ください。
この池を見下ろすような位置に、趣きある建物があります。
徳蔵翁とナヲ夫人が晩年を過ごした住居で、雨や雪の日も縁側の窓を開け放し、庭園の四季の移ろいを楽しんでいたということです。
移り住むまでは、大切なお客様を招く迎賓館の役割を担っていたそうです。
現在は、合気道の道場として用いられるほか、茶会や座禅会などにも利用されています。
「合気道山徳道場」は、徳蔵翁の娘婿である荒井俊幸氏が、昭和四十九年(1974)に開いたものです。
実は、俊幸氏が開設したものが、もうひとつあります。
次回は、そのお話を。
アクセス解析を見ると、「忘れられた高崎の大震災」の記事に来られた方が多かったためのようです。
昭和六年(1931)埼玉を震源地にしたM6.9の地震で、高崎の真下を通る活断層が動き、震度6の大地震になりました。
天災は忘れた頃にやってくるそうですが、この記事が忘れないためのお役に立てたなら幸いです。
さて、観音山の話に戻します。
「洞窟観音」を見たら、必ず隣接の「徳明園」もご覧ください。
「徳明園」は北関東随一と言われる回遊式日本庭園ですが、山田徳蔵翁自身が楽しむために造ったということで、当初は一般公開されていなかったそうです。
そんなこともあってか、庭園内には実にユニークなものがあちこちにあります。

杖の先に髑髏を刺した僧形の老人が、嬉しそうに笑っています。
おそらくこれは、一休禅師の逸話を石像にしたものでしょう。

その隣には、数珠を手首に掛け、片足を組んで石に座る徳蔵翁がいます。
脇に建つ石碑に刻まれた言葉がまた面白い。
「人間萬事 屁の如し ぶーっと云う字は 佛なりけり」
徳明道人

数珠と笠を持っているから、雲水の僧なんだろうな。
良寛かなぁ・・・。

「笑い閻魔」と「笑い鬼」なんてのもいます。
大きな錦鯉が泳ぐ池の中には、亀に乗った浦島太郎や、談笑中(?)の三匹の蟇蛙もいます。



舞踊家・藤間信乃輔さんが、この池の中で踊った舞台の跡です。
平成二十二年(2010)から5年間続いた「悠久の魂」です。
雨の中で行われた第一回の、素晴らしい演舞をご覧ください。
この池を見下ろすような位置に、趣きある建物があります。
徳蔵翁とナヲ夫人が晩年を過ごした住居で、雨や雪の日も縁側の窓を開け放し、庭園の四季の移ろいを楽しんでいたということです。
移り住むまでは、大切なお客様を招く迎賓館の役割を担っていたそうです。
現在は、合気道の道場として用いられるほか、茶会や座禅会などにも利用されています。
「合気道山徳道場」は、徳蔵翁の娘婿である荒井俊幸氏が、昭和四十九年(1974)に開いたものです。
実は、俊幸氏が開設したものが、もうひとつあります。
次回は、そのお話を。