観音山の清水寺観音堂の左脇に、一対の石燈籠と石碑がある。
この石碑の台石の上には、鋳銅製の「露天聖観世音立像」があったと碑文に記されている。
高さ「丈六」とあるから、5m近い大きな観音像だったようだ。
碑文には、この観音像が戦時中の軍需資材として供出されてしまったことを残念に思い、ここに観音像があったことを後世に伝えようと、台石の上に碑を建てたことが記されている。
碑文によると、この観音像の造立には、封建時代の悲しい物語があったようだ。
観音像は、寛政8年(1796年)に緑野(みどの)郡(今の藤岡市)の代官、斎藤八十右衛門雅朝が、管内の名主・百姓等280余名の発起人となり、蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで清水寺に寄進したとある。
ところが、時の高崎藩候(13代目・松平 輝和・まつだいら てるやす)から、「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎を受けた。
雅朝は、己が一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像を建立することができたが、成就後、責任を取って自刃したと記されている。
雅朝は、天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際にも、多くの難民を救ったとあり、この観音像建立にあたって郷民の信望はますます揚がったとも記されている。
高崎出身の俳人村上鬼城は、この観音像を見て句を残している。
屋根もなく露天に立つ観音像は、緑青が吹き、鳥の糞にまみれていたようだ。
鬼城は、「観音堂の坊主も、アレに気がつかずにゐるのだらう。(略)勿体ない。」と、著書「自句自釈」の中に書いている。
だが、本当に勿体ないのは、この石碑の存在すら忘れ去られようとしていることかも知れない。
「観音山」周辺の「観光資源」として、
もう一度光を当てたいものである。
後日、露天大観音像の在りし日の写真を見つけましたので、掲載します。
この石碑の台石の上には、鋳銅製の「露天聖観世音立像」があったと碑文に記されている。
高さ「丈六」とあるから、5m近い大きな観音像だったようだ。
碑文には、この観音像が戦時中の軍需資材として供出されてしまったことを残念に思い、ここに観音像があったことを後世に伝えようと、台石の上に碑を建てたことが記されている。
碑文によると、この観音像の造立には、封建時代の悲しい物語があったようだ。
観音像は、寛政8年(1796年)に緑野(みどの)郡(今の藤岡市)の代官、斎藤八十右衛門雅朝が、管内の名主・百姓等280余名の発起人となり、蚕穀豊穣祈願の成就を喜んで清水寺に寄進したとある。
ところが、時の高崎藩候(13代目・松平 輝和・まつだいら てるやす)から、「郷士の分限で、不届きな所為である。」と咎を受けた。
雅朝は、己が一命を賭して重ねて許しを乞い、観音像を建立することができたが、成就後、責任を取って自刃したと記されている。
雅朝は、天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際にも、多くの難民を救ったとあり、この観音像建立にあたって郷民の信望はますます揚がったとも記されている。
高崎出身の俳人村上鬼城は、この観音像を見て句を残している。
御仏の お顔のしみや 秋の雨
屋根もなく露天に立つ観音像は、緑青が吹き、鳥の糞にまみれていたようだ。
鬼城は、「観音堂の坊主も、アレに気がつかずにゐるのだらう。(略)勿体ない。」と、著書「自句自釈」の中に書いている。
だが、本当に勿体ないのは、この石碑の存在すら忘れ去られようとしていることかも知れない。
「観音山」周辺の「観光資源」として、
もう一度光を当てたいものである。
(参考図書:「高崎の散歩道」)
後日、露天大観音像の在りし日の写真を見つけましたので、掲載します。
(2011/09/06追加)