ダラス・リング事件に巻き込まれ、大学南校を免職となった小泉敬二でしたが、彼を迎え入れたのは「高崎藩英学校」でした。
「新編高崎市史」の英学校に関する記述は実にあっさりしたもので、小泉敬二の名も出てきません。
大正二年(1913)発行の「高崎藩近世史略」には、小泉の名前が出てきます。
さて、この小泉敬二が「高崎藩英学校」の教師となるについては、過日記事にした「美加保丸事件」がその発端であるといってもいいでしょう。
美加保丸事件で国元へ戻された郡奉行・土方景尉に代わり、銚子民政総裁として着任した菅谷清允。
そこへ難破したフランス船に乗っていた、イギリス人のダラス。
菅谷に請われて英語を教え始めたダラスに教わっていた、清允の養嗣子・正樹。
正樹は、東京へ出たダラスの下でも英語の教えを受ける訳ですが、そこでダラス門下の小泉敬二と出会うのです。
ダラスが例の事件で大学南校を去り、米沢藩の洋学教師として採用された後も、正樹はダラスの家に寄寓して英語を学んでいます。
時は、はや明治四年(1871)となっていました。
この年、菅谷清允は銚子民政総裁の職を勤め上げ、高崎に戻って高崎藩少参事の要職に就いています。
これらのことを考え合わせると、小泉が「高崎藩英学校」の教師として採用されたのは、自分のことで巻き添えにしたと思うダラスが、菅谷正樹を通じて父・清允に斡旋を依頼し、贖罪としたかったのであろうという推測は、果たして穿ち過ぎでしょうか。
「高崎藩英学校」での小泉は、生徒にはなかなか人気があったようです。
小泉の就任後2、3年で英学校は廃止されてしまう訳ですが、その後、三重県伊勢山田の英学校へ移る小泉と共に、転校する生徒も何人かいたといいます。
高崎藩の飛び領地、銚子の沖から繰り出された一本の糸は、人と人とを結びつけながら本地・高崎まで伸びてきました。
そして、その糸は再び銚子へ戻り大きな輪っかとなるのです。
小泉敬二が着任することで「高崎藩英学校」の教職を解かれた藤田栄親は、その後、銚子で私塾「勧徴舎」を開設しています。
げにも不思議な、因縁よなぁー。
さてさて、このブログも再び銚子へ戻ることに致しましょう。
「新編高崎市史」の英学校に関する記述は実にあっさりしたもので、小泉敬二の名も出てきません。
「 | 明治三年(1870)八月には高崎藩立の英学校が、静岡藩士作楽戸痴鴬(さらくど・ちおう)を教師として檜物町(ひものちょう)に設立された。藩校文武館とは異なり英語を教授する専門的な藩校である。 なお、この学校は群馬県における初めての英学校であった。 |
藩士五〇人を選んで生徒とし、藩主大河内輝聲も学んだという。生徒の中には高崎藩士出身で日本を代表するキリスト教思想家の内村鑑三や、明治から昭和前期にかけての政党政治家で「憲政の神様」と称えられた尾崎行雄らがいた。(略) | |
英学校は明治六、七年には廃校となった。」 |
大正二年(1913)発行の「高崎藩近世史略」には、小泉の名前が出てきます。
「 | 明治三年八月某日静岡藩士作楽戸痴鴬ヲ雇ヒ英学教員ト為シ仮英学校ヲ檜物町ニ設置ス、因テ士族五十人ヲ選抜シテ以テ生徒ト為ス知事公モ亦痴鴬ヲ召シテ之ヲ学ブ、 |
其後チ故有リ痴鴬ノ雇ヲ解キ士族藤田栄親ヲ英学大助教ニ任ズ、(略) | |
後チ又、柏原藩士小泉敬二ヲ雇フ、(略)」 |
さて、この小泉敬二が「高崎藩英学校」の教師となるについては、過日記事にした「美加保丸事件」がその発端であるといってもいいでしょう。
美加保丸事件で国元へ戻された郡奉行・土方景尉に代わり、銚子民政総裁として着任した菅谷清允。
そこへ難破したフランス船に乗っていた、イギリス人のダラス。
菅谷に請われて英語を教え始めたダラスに教わっていた、清允の養嗣子・正樹。
正樹は、東京へ出たダラスの下でも英語の教えを受ける訳ですが、そこでダラス門下の小泉敬二と出会うのです。
ダラスが例の事件で大学南校を去り、米沢藩の洋学教師として採用された後も、正樹はダラスの家に寄寓して英語を学んでいます。
時は、はや明治四年(1871)となっていました。
この年、菅谷清允は銚子民政総裁の職を勤め上げ、高崎に戻って高崎藩少参事の要職に就いています。
これらのことを考え合わせると、小泉が「高崎藩英学校」の教師として採用されたのは、自分のことで巻き添えにしたと思うダラスが、菅谷正樹を通じて父・清允に斡旋を依頼し、贖罪としたかったのであろうという推測は、果たして穿ち過ぎでしょうか。
「高崎藩英学校」での小泉は、生徒にはなかなか人気があったようです。
小泉の就任後2、3年で英学校は廃止されてしまう訳ですが、その後、三重県伊勢山田の英学校へ移る小泉と共に、転校する生徒も何人かいたといいます。
高崎藩の飛び領地、銚子の沖から繰り出された一本の糸は、人と人とを結びつけながら本地・高崎まで伸びてきました。
そして、その糸は再び銚子へ戻り大きな輪っかとなるのです。
小泉敬二が着任することで「高崎藩英学校」の教職を解かれた藤田栄親は、その後、銚子で私塾「勧徴舎」を開設しています。
げにも不思議な、因縁よなぁー。
さてさて、このブログも再び銚子へ戻ることに致しましょう。
(参考図書:「幕末維新期 動乱の高崎藩」)