日高町の「諏訪神社」から先も区画整理が進み、関越道が通ったりで大きく変化しています。
明治四十年(1907)の地図と、Yahoo!地図をにらめっこしながら見当を付けてみました。
「諏訪神社」前の道を東へ100mほど行くと、十字路の左先に大きな石碑が建っています。
「津久井玉一郎先生追慕之碑」と刻まれています。
碑文を読んでみると、「津久井玉一郎先生は、安政四年(1857)日高村に生まれ、長じて社会の建設は教育に有りという信念のもと日高学校の教師となり、その後官職、戸長、県会議員を務めた後、私費を以て日新義塾を開設して近隣子弟の教育に尽くした」という人らしいです。
碑の相向いが津久井家の墓地で、立派な墓石が並んでいます。
入口には、これも立派な如意輪観音が彫られた、女人講の「二十二夜塔」が建っています。
その足元に、こんな墓石があります。
「謡曲〇〇之墓」と刻んでありますが、「〇〇」が読めません。
裏側を見ると、門弟として貝沢、井野、大類、新保、日高の49人の名があり、明治二十八年(1895)に建てられています。
さらに、「俗名 津久井八百蔵」とありますので、この方が謡曲の師匠で「〇〇」は号なんでしょう。
津久井家墓地から80mほど行って左へ折れ、150mほど行くと右側に墓地があります。
入口に何やら看板が立っています。
ほっほー。
私の苦手なことばかり・・・。
中に入ると、とっつきに、自然石の碑があります。
だいぶ風化が進んでいて文字も欠けていますが、「高崎の散歩道 第五集」を見るとこれは「芭蕉句碑」で、「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」と刻んであるのだそうです。
同書によると、昔はここに「轟立(どうりつ)山東福寺」という、轟家のお寺があったということです。
廃寺になった後は薬師堂のある墓地となっていましたが、平成十七年(2005)新たに整備したようです。
「実政街道」はこの辺から斜めに北進して「染谷川」を渡るのですが、今はセブンイレブンの信号まで戻ってぐるっと迂回しなければなりません。
信号を渡って2つ目の角を左に曲がり80mほど行くと、角に石造物がずらっと並んでいます。
安政七年(1860)の「庚申塔」、明治三十年(1897)の「天神宮」、明治三十五年(1902)の「猿田彦大神」そして二つの石祠です。
きっと区画整理によって寄る辺を失った神々を、ここに集めたのでしょう。
「庚申塔」の向こうに見えるのは井草家の墓地です。
墓地の中に、平成二十六年(2014)の「墓地改修記念」碑が建っています。
そこに刻まれている「霊宝殿」と、「井草家祖先五百年記念」碑です。
「染谷橋」まで来ました。
「染谷橋」を渡って北に折れると、直ぐまた川曲-井野線の「松木橋」袂に出ます。
道を渡ると、現在は「染谷川」に沿って道が付いていますが、昔の道は何故か川から一旦逸れて膨らみ、その先でまた川に沿うように進んでいます。
田んぼ中の畦道のように見えるこの道が「実政街道」です。
関越自動車道にぶつかる手前に、「実政街道」の「高崎市名所旧跡案内板」がポツンと建っています。
実は6年前、この案内板を訪ねています。
当時は、建設資材置き場か何かの高い金属塀で囲われていました。
◇史跡看板散歩-74 実政街道
すぐ東に、取り残されたように高橋家の墓地があります。
祠の中を覗くと、薬師様かなぁ、仏像が一体鎮座しています。
それと、「高橋一族の流れ」という説明板がありました。
さて、今日はここまでといたしましょうか。
何だか、やたらと墓地に縁のある日でした。
明治四十年(1907)の地図と、Yahoo!地図をにらめっこしながら見当を付けてみました。
「諏訪神社」前の道を東へ100mほど行くと、十字路の左先に大きな石碑が建っています。
「津久井玉一郎先生追慕之碑」と刻まれています。
碑文を読んでみると、「津久井玉一郎先生は、安政四年(1857)日高村に生まれ、長じて社会の建設は教育に有りという信念のもと日高学校の教師となり、その後官職、戸長、県会議員を務めた後、私費を以て日新義塾を開設して近隣子弟の教育に尽くした」という人らしいです。
碑の相向いが津久井家の墓地で、立派な墓石が並んでいます。
入口には、これも立派な如意輪観音が彫られた、女人講の「二十二夜塔」が建っています。
その足元に、こんな墓石があります。
「謡曲〇〇之墓」と刻んでありますが、「〇〇」が読めません。
裏側を見ると、門弟として貝沢、井野、大類、新保、日高の49人の名があり、明治二十八年(1895)に建てられています。
さらに、「俗名 津久井八百蔵」とありますので、この方が謡曲の師匠で「〇〇」は号なんでしょう。
津久井家墓地から80mほど行って左へ折れ、150mほど行くと右側に墓地があります。
入口に何やら看板が立っています。
ほっほー。
私の苦手なことばかり・・・。
中に入ると、とっつきに、自然石の碑があります。
だいぶ風化が進んでいて文字も欠けていますが、「高崎の散歩道 第五集」を見るとこれは「芭蕉句碑」で、「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」と刻んであるのだそうです。
同書によると、昔はここに「轟立(どうりつ)山東福寺」という、轟家のお寺があったということです。
廃寺になった後は薬師堂のある墓地となっていましたが、平成十七年(2005)新たに整備したようです。
「実政街道」はこの辺から斜めに北進して「染谷川」を渡るのですが、今はセブンイレブンの信号まで戻ってぐるっと迂回しなければなりません。
信号を渡って2つ目の角を左に曲がり80mほど行くと、角に石造物がずらっと並んでいます。
安政七年(1860)の「庚申塔」、明治三十年(1897)の「天神宮」、明治三十五年(1902)の「猿田彦大神」そして二つの石祠です。
きっと区画整理によって寄る辺を失った神々を、ここに集めたのでしょう。
「庚申塔」の向こうに見えるのは井草家の墓地です。
墓地の中に、平成二十六年(2014)の「墓地改修記念」碑が建っています。
そこに刻まれている「霊宝殿」と、「井草家祖先五百年記念」碑です。
「染谷橋」まで来ました。
「染谷橋」を渡って北に折れると、直ぐまた川曲-井野線の「松木橋」袂に出ます。
道を渡ると、現在は「染谷川」に沿って道が付いていますが、昔の道は何故か川から一旦逸れて膨らみ、その先でまた川に沿うように進んでいます。
田んぼ中の畦道のように見えるこの道が「実政街道」です。
関越自動車道にぶつかる手前に、「実政街道」の「高崎市名所旧跡案内板」がポツンと建っています。
実は6年前、この案内板を訪ねています。
当時は、建設資材置き場か何かの高い金属塀で囲われていました。
◇史跡看板散歩-74 実政街道
すぐ東に、取り残されたように高橋家の墓地があります。
祠の中を覗くと、薬師様かなぁ、仏像が一体鎮座しています。
それと、「高橋一族の流れ」という説明板がありました。
さて、今日はここまでといたしましょうか。
何だか、やたらと墓地に縁のある日でした。
【今日の散歩道】