高崎城下を通る初期の中山道は、現在「旧中山道」と呼ばれている道筋と異なっていたということは、割合知られていることだと思います。
高崎観光協会発行の「観光たかさき」にも、掲載されていました。
ただこのルート、途中までははっきりしてるのですが、後へ行くほどどうもぼんやりしています。
で、あらためて「初めの中山道」を歩いてみたくなりました。
まずは、「本町三丁目を東にまっすぐ行き」、椿町に入ります。
「暢神荘」の前を通り抜けます。
丁字路の突き当りが「法華寺」です。
「暢神荘」と「法華寺」については、過去記事をご参照ください。
◇高崎唱歌散歩-27番の続き ♪北に連なる町々は・・・
「法華寺」の前を「右折して通町(正確には北通町)を南に行き」ます。
120mほど行った所に、「一里塚」があったと言われていて、その案内板が建っています。
「九蔵稲荷」のある「正法寺」を右に見てさらに進みます。
140mほど進むと「八間道路」と交差します。
右角は、高崎では有名な「山口肉店」でした。
ついこの間まで、面影ある建物と看板が残ってたんですけどねぇ。
「八間道路」を越えて170mほど行くと、「糀屋」や「金沢米穀店」のある元紺屋町と交差します。
さらに行って白銀町の通りを越すと、通町です。
東側に「大信寺」の参道。
西側には、水路のあるオシャレな「せせらぎプロムナード」。
実にいい。
町なかの水路をみんなこんな風にしたい。
そこを過ぎると、「安国寺」の参道だった「慈光通り」と交差します。
交差点を渡りながら右手をひょいと見ると、何とオシャレな壁画だこと。
その隣の空地は以前「横浜銀行」で、高崎五万石騒動の城押出しの際、農民への炊き出しを指示した町役人・関根作右衛門のお屋敷跡でした。
さて、「初めの中山道」はこの後「砂賀町で左折して東に向かい」ます。
前回の記事に出てくる、「聖石」に水神様を祀った「高崎冷蔵」は、この辺にありました。
映画館「ピカデリー」もこの辺でしたね。
さらに行くと、「高島屋」の西を走る広い道に出ます。
この道が、むかし高崎城の「遠構」の堀だったと言われても、俄かには信じられないでしょう。
江戸時代、ここには「通町口」の木戸があって、城下との出入りを監視していました。
五万石騒動の時も、農民たちはこの木戸を開けて城に押し出していったのです。
「初めの中山道」は、この木戸からさらに東へ進み、「中居から下之城を経て、倉賀野へ出た」とあります。
その道は、明治十七年(1884)に開通した鉄道によって、分断されました。
次回は、その先の「初めの中山道」を探してみることに致しましょう。
高崎観光協会発行の「観光たかさき」にも、掲載されていました。
(「観光たかさき」第122号平成25年発行)
ただこのルート、途中までははっきりしてるのですが、後へ行くほどどうもぼんやりしています。
で、あらためて「初めの中山道」を歩いてみたくなりました。
まずは、「本町三丁目を東にまっすぐ行き」、椿町に入ります。
「暢神荘」の前を通り抜けます。
丁字路の突き当りが「法華寺」です。
「暢神荘」と「法華寺」については、過去記事をご参照ください。
◇高崎唱歌散歩-27番の続き ♪北に連なる町々は・・・
「法華寺」の前を「右折して通町(正確には北通町)を南に行き」ます。
120mほど行った所に、「一里塚」があったと言われていて、その案内板が建っています。
「九蔵稲荷」のある「正法寺」を右に見てさらに進みます。
140mほど進むと「八間道路」と交差します。
右角は、高崎では有名な「山口肉店」でした。
ついこの間まで、面影ある建物と看板が残ってたんですけどねぇ。
「八間道路」を越えて170mほど行くと、「糀屋」や「金沢米穀店」のある元紺屋町と交差します。
さらに行って白銀町の通りを越すと、通町です。
東側に「大信寺」の参道。
西側には、水路のあるオシャレな「せせらぎプロムナード」。
実にいい。
町なかの水路をみんなこんな風にしたい。
そこを過ぎると、「安国寺」の参道だった「慈光通り」と交差します。
交差点を渡りながら右手をひょいと見ると、何とオシャレな壁画だこと。
その隣の空地は以前「横浜銀行」で、高崎五万石騒動の城押出しの際、農民への炊き出しを指示した町役人・関根作右衛門のお屋敷跡でした。
さて、「初めの中山道」はこの後「砂賀町で左折して東に向かい」ます。
前回の記事に出てくる、「聖石」に水神様を祀った「高崎冷蔵」は、この辺にありました。
映画館「ピカデリー」もこの辺でしたね。
さらに行くと、「高島屋」の西を走る広い道に出ます。
この道が、むかし高崎城の「遠構」の堀だったと言われても、俄かには信じられないでしょう。
江戸時代、ここには「通町口」の木戸があって、城下との出入りを監視していました。
五万石騒動の時も、農民たちはこの木戸を開けて城に押し出していったのです。
「初めの中山道」は、この木戸からさらに東へ進み、「中居から下之城を経て、倉賀野へ出た」とあります。
その道は、明治十七年(1884)に開通した鉄道によって、分断されました。
次回は、その先の「初めの中山道」を探してみることに致しましょう。
【今日の散歩道】