九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町
九蔵町の北に連なるのは、椿町、高砂町、山田町です。
「椿町」(つばきちょう)は、慶長三年(1598)にできた町で、箕輪の「椿山権現」を勧請する予定でその町名を付けたのに、井伊直政が慶長六年(1601)に佐和山へ移封することになっちゃったので、「椿山権現」の勧請は取りやめたけど町名は残ったという町です。
椿町で有名なのは、料亭「暢神荘」(ちょうじんそう)でしょう。
立派な庭園が自慢の老舗料亭です。
それもそのはず、かつての「高崎の三名園」のひとつで、唯一今に残る名園です。
その由来が、箸袋に記されています。
「暢神荘」を東へ行くと、「西郷山法華寺」に突き当たります。
このお寺について、「高崎志」はこう書いています。
「 | 昔箕輪椿山ニ法華堂トテアリシヲ、此ニ移ス、井伊直政ノ家臣西郷藤左衛門ト云者、中興シテ寺トス、 |
土俗相伝フ、慶長三年西郷藤左衛門町割検地ノ事ニアヅカリシガ、此地東北ノ隅ニシテ何レヘモ属シ難キ地ナル故、直政ニ請テ箕輪ノ法華堂ヲ移シ、中興シテ寺トスト云、故ニ西郷山ト号スト云伝タリ、」 |
西郷家は名門で、徳川家康の側室・西郷局(さいごうのつぼね=お愛の方)は、二代将軍・秀忠の生母になります。
西郷局の従姉弟にあたるのが藤左衛門正員(まさかず)で、家康から井伊直政に遣わされ、箕輪の領地統治を担当していたと言います。(井伊直政家臣列伝 西郷正員 ~秀忠生母の一族~)
藤左衛門がプランニングした時の中山道は、本町から椿町を抜け、法華寺の前を南に折れて通町から倉賀野へ抜けるのが街道筋だったそうです。
藩主が井伊(十二万石)から酒井(五万石)になったので、中山道は椿町を通らず、手前の本町三丁目で南へ折れることになりました。
そうならなければ、椿町はもっと大きな町になっていたかもしれませんね。
「高砂町」(たかさごちょう)は明治五年(1872)にできた町で、それ以前は「江木新田」(えぎしんでん)と呼ばれていました。
過去記事がありますので、ご覧ください。
◇史跡看板散歩-31 高砂町(1)
「山田町」(やまだちょう)は、「龍見町」と同じように、江戸詰めの高崎藩士を受け入れるためにつくられた町で、赤坂村の地内だったので「赤坂郭」と呼ばれました。
今も、それを彷彿させるような建物が残っています。
「山田町」という町名になるのは明治六年(1873)なんですが、なぜ「山田町」なのか、ちょっと不思議です。
田島桂男氏著「高崎の地名」にはこう書かれています。
「 | この赤坂郭が、城の艮(うしとら:丑と寅の間、東北のこと)にあたり、艮は山の意味を持っていることから命名された。」 |
「高崎の散歩道 第十二集上」での金井恒好氏もこう書いています。
「 | 艮は鬼が出入りするという鬼門の方位。 鬼は伝説上の山男であることから、鬼門である艮の方位を山と見立てて山の字を、また、赤坂郭は赤坂村の田地に置かれたので田の字をとり、これを組合わせて山田町と命名した。」 |
鬼が出入りする町なんて、あまり縁起の良い町名とは言えませんよね。
教養・博識に富んだ昔の人がそんな町名を付けるでしょうか。
私なりにちょっと調べてみたのですが、そもそも「鬼門」という考え方は、中国の「山海経」(せんがいきょう)という伝説的地理書や中国民話に出てくるもののようです。
ものによって多少のちがいはありますが、おおよそこんな話です。
「 | 滄海(東海)のなかに度朔山(どさくさん)があり、山上には大桃木がある。 三千里にもわたって曲がりくねり、枝の間の東北方を鬼門といい、そこは萬鬼(ばんき)が出入りするところとなっている。 山上には二神人がいて、萬鬼をみはっていた。 悪害をもたらす鬼は葦の縄で縛ってとらえ、虎の餌食とした。」 |
(Wikipedia)
ということから隠居が思いついたのは、こうです。赤坂郭はたしかに鬼門ではあるけれども、「山」の上には二人の神人がいて、鬼が悪さをしないようにちゃんと見張っているから大丈夫だよ、これから発展して「田町」のように栄えるんだよ。
そんな思いを込めた町名だったのではないかと、ひとり思っている次第です。
「山田町」については、もう少し書きたいことがあるので、また次回に続けましょう。