白銀町(しろがねちょう)に
元紺屋(もとこうや)
旭町には専売の
高崎煙草製造所
日々の職工五百人
元紺屋(もとこうや)
旭町には専売の
高崎煙草製造所
日々の職工五百人
「白銀町」も「元紺屋町」も、井伊直政が城を箕輪から高崎へ移す時、町ごと職人ごと移って来た町です。
今もその町名は箕輪(箕郷町)に残っています。
「白銀町」について、「高崎志」はこう書いています。
「 | 白銀町ハ通町ノ北ニアリ、(略) 昔此町ニ白銀師アリ、故ニ名ヅク、元ハ鞘町ノ分也、 其頃住シ後藤某以下、皆鞘町ニ移リシ後、人家漸ク多クナリテ別町トナル、 今ハ名ノミニシテ、金具師ナシ。」 |
「白銀師」というのは、日本刀の目貫(めぬき)・鍔(つば)・鎺(はばき)・鯉口(こいぐち)・鐺(こじり)など、刀装金具を制作する職人のことだそうです。
その「白銀師」が「白銀町」にいなくなったというのは何故なんでしょう。
隠居の思いつきですが、徳川の世になって戦もなくなって刀を折ったりすることもなくなり、刀剣を新調する武士がいなくなったということなんじゃないでしょうか。
特に高崎では、独特の「右京拵」という刀剣が好まれたというのも一因かもしれません。
全国的にも江戸時代になると分業化が進み、「白銀師」は鎺(はばき)を専門に造るようになっていったそうです。
高崎には「元紺屋町」「中紺屋町」「新紺屋町」の三つの「紺屋町」がありますが、これについては、「高崎の散歩道 第十二集上」の「高崎城下町町名由来記」が分かりやすいです。
「 | 箕輪には紺屋町という地名が残っているが、高崎移城とともに箕輪城下町の紺屋職人が多数移住して、紺屋町ができた。 |
初めの紺屋職人(藍染職人)が移り住んだ場所を元紺屋町、これに対して新紺屋町ができた。 | |
さらに、中山道が田町通りに移ったとき、元紺屋町の一部から分かれて、元紺屋町と新紺屋町の中間にできたのが中紺屋町と名づけられた。」 |
「紺屋町」が箕輪から移って来たのは慶長三年(1598)。
その年に京都から「元紺屋町」に移り住んだ染職人がいたことを、「長野堰を語りつぐ会」の西山さんから頂いた資料で知りました。
「京林」は元紺屋町のここにありました。
昭和四十九年(1974)井野川のほとりに工房を移転して今に至ります。
「元紺屋町」は、永禄九年(1566)創業の「糀屋」もあり、古い中山道の道幅を残しているなど、なかなか味わい深い空間であります。
長くなりました。
「旭町には専売の・・・」は、次回に送ります。