九蔵町には大雲寺
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町
銀行問屋数多し
北に連なる町々は
椿高砂山田町
「九蔵町」という町は、その由来からして面白い町です。
過去記事「史跡看板散歩-28 九蔵稲荷」をご覧ください。
「大雲寺」は、高崎城の鬼門除けとして慶長四年(1599)に箕輪から移されたお寺です。
もう14年前になりますが、高崎歴史資料研究会代表の中村茂先生から「大雲寺に山本勘助の子孫の墓がある」と教えて頂き、驚いたことがあります。
今では、多くの人に知られているようです。
「大雲寺」には他にも有名人のお墓がいくつもあります。
寺所蔵の市重要文化財「水墨雲龍図」を描いた武居梅坡とそれに補筆した娘婿の梅堤、梅坡の養父で歌人の武居世平の墓が並んで建っています。
梅坡と梅堤の作品は、あの「和泉庄御殿」にもありましたね。
武居世平の歌は、成田山光徳寺にある和田三石のひとつ「上和田の円石」に刻まれています。
絵師とすれば、江戸末期から明治にかけて活躍した高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(歌川芳輝)の墓も「大雲寺」にあります。
ただ、どこにあるのかちょっと分かりにくい。
芳輝の本名は芳三郎、江戸日本橋から上州高崎の旅籠屋「壽美餘志」(すみよし)を営む田中家へ婿入りします。
その田中家の墓域が北東隅にあるのですが、芳輝の墓は物陰にひっそり隠れるように建っています。
戒名「流芳院永寿椿翁居士」がようやく読めました。
芳輝の子と孫は、それぞれ有名な旅館や割烹店を営みます。
◇駅から遠足 観音山(35)
それに因む三基の墓石が同じ墓域に並んで建っています。
台石に「宇喜代」「高崎館」「錦山荘」と刻まれているのが読めるでしょうか。
そのどれもが閉館してしまったのは、誠に残念なことです。
九蔵町は、高崎城鬼門除けの「寺町」でしたが、明治に入って二つの銀行が建ち並ぶ「銀行街」になりました。
その先駆けとなったのが、「第二国立銀行」と「茂木銀行」です。
過去記事がありますので、そちらをご覧ください。
◇史跡看板散歩-117 旧第二国立銀行と茂木銀行跡
さて長くなりました。
「北に連なる 椿高砂山田町」については、次回ということに。