清水観音堂内には、高崎市指定重要文化財になっている算額と絵馬があります。
そちらは高崎市のHPでご覧いただくとして、迷道院としては、それよりもっと気にしてほしいものがあります。
高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(いっちんさい・よしてる)の絵馬額です。
観音堂の回廊にずらっと掛けられている一椿斎の絵馬額は、重文指定はおろか、高崎市のHPにすら紹介されていません。
十六枚あるといわれる絵馬額は褪色が進み、それゆえにそのような扱いを受けているのでしょうが、このまま朽ち果てさせるのは何とも勿体ない、高崎の貴重な歴史文化財なのであります。
まずは、一椿斎芳輝という浮世絵師がどのような人物なのかをご紹介することといたしましょう。
一椿斎芳輝は、文化五年(1808)江戸日本橋高砂町米山源四郎の次男・芳三郎として生を受けます。
芳三郎は、幼くして絵画を好み、十五六歳の時、当時の巨匠であった谷文晁(たに・ぶんちょう)の門に入り、北年を号すとあります。
また、二十五六歳の時に浮世絵師・歌川国芳(画号・一勇斎)に就いて学び、歌川芳輝(画号・一椿斎)の号を得ます。
その後、どのような経緯からかは分かりませんが、高崎驛新(あら)町の田中勘右衛門の一人娘・モヨの婿養子となります。
田中家は、代々高崎藩の御用達を務め、苗字帯刀を許された家柄であったそうですが、芳輝が婿に入った当時は延養寺門前で「壽美餘志」(すみよし)という旅籠を営んでいました。
芳輝は妻・モヨとの間に一男三女を儲けていますが、なぜか高崎田町の呉服太物問屋・三吉屋の吉井川喜蔵の次男・喜平司を養子に迎え、明治六年(1873)六十五歳で家督を譲り隠居します。
こうして楽隠居の身となった芳輝が、好きな絵画に思う存分のめり込んだであろうことは、想像するに難くありません。
清水寺に奉納した十六面の絵馬額は、芳輝六十~七十歳頃の作品だと言われていますが、きっと隠居になってからのものでしょう。
さて、その頃の清水寺の住職はといえば、あの田村仙岳であります。
そしてその仙岳の姉はといえば、このシリーズ第25話にも書いた、あの国定忠治の妾・菊池徳であります。
その徳の還暦記念の肖像画を、一椿斎芳輝が描いています。
仙岳と徳は九つ違いということですから仙岳は五十一歳、没年から逆算すると明治九年(1876)に描かれたことになります。
仙岳が、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の波に翻弄される中、何とか清水寺に人を寄せて寺を維持したいという、強い思いを抱いていたであろう頃です。
浮世絵の大絵馬額で観音堂を取り巻いて人々をあっと言わせようと、親交のあった芳輝に話を持ち掛けたに違いありません。
当時はさぞかし色鮮やかで、仙岳の狙い通り人々の注目を集めたことでしょうが、今はその色も褪せて、見る影もありません。
復元するには多大の費用が掛かるでしょう。
相当な篤志家でも出てこない限り、叶わぬ夢かもしれません。
完全に湮滅する前に、せめて写真を残しておきたいと思いました。
十六枚の絵馬額には、こんな題名が付けられているそうです。
1.仁徳天皇高き屋
2.千早城の楠公
3.麗人採菊
4.橿原皇居造営
5.一ツ家石の枕
6.平忠盛
7.神武天皇東征
8.仕立職娘連中
9.応神天皇紀王仁来朝
10.田村麿将軍東征
11.神功皇后紀新羅朝貢
12.観音霊験
13.勧進帳
14.応神天皇紀呉国織縫女来朝
15.平維茂鬼女退治
16.韓信忍耐
ただ、それがどの絵に対応しているのか、ほとんど分かりません。
その方面にお詳しい方は、どうぞご教示をお願いいたします。
また、もっと鮮明に見えている時の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡を頂きとうございます。
芳輝は、明治二十四年(1891)一月十九日の朝、一杯の酒を所望してそれを飲んで寝たあと、家人も気付かぬ内に息を引き取るという、まさに眠るような大往生だったそうです。
享年八十四歳。
嗚呼、吾も斯くありたや。
この一椿斎芳輝の子孫が、高崎の庶民史に大きな足跡を残しています。
次回は、そのお話を。
そちらは高崎市のHPでご覧いただくとして、迷道院としては、それよりもっと気にしてほしいものがあります。
高崎の浮世絵師・一椿斎芳輝(いっちんさい・よしてる)の絵馬額です。
観音堂の回廊にずらっと掛けられている一椿斎の絵馬額は、重文指定はおろか、高崎市のHPにすら紹介されていません。
十六枚あるといわれる絵馬額は褪色が進み、それゆえにそのような扱いを受けているのでしょうが、このまま朽ち果てさせるのは何とも勿体ない、高崎の貴重な歴史文化財なのであります。
まずは、一椿斎芳輝という浮世絵師がどのような人物なのかをご紹介することといたしましょう。
一椿斎芳輝は、文化五年(1808)江戸日本橋高砂町米山源四郎の次男・芳三郎として生を受けます。
芳三郎は、幼くして絵画を好み、十五六歳の時、当時の巨匠であった谷文晁(たに・ぶんちょう)の門に入り、北年を号すとあります。
また、二十五六歳の時に浮世絵師・歌川国芳(画号・一勇斎)に就いて学び、歌川芳輝(画号・一椿斎)の号を得ます。
その後、どのような経緯からかは分かりませんが、高崎驛新(あら)町の田中勘右衛門の一人娘・モヨの婿養子となります。
田中家は、代々高崎藩の御用達を務め、苗字帯刀を許された家柄であったそうですが、芳輝が婿に入った当時は延養寺門前で「壽美餘志」(すみよし)という旅籠を営んでいました。
芳輝は妻・モヨとの間に一男三女を儲けていますが、なぜか高崎田町の呉服太物問屋・三吉屋の吉井川喜蔵の次男・喜平司を養子に迎え、明治六年(1873)六十五歳で家督を譲り隠居します。
こうして楽隠居の身となった芳輝が、好きな絵画に思う存分のめり込んだであろうことは、想像するに難くありません。
清水寺に奉納した十六面の絵馬額は、芳輝六十~七十歳頃の作品だと言われていますが、きっと隠居になってからのものでしょう。
さて、その頃の清水寺の住職はといえば、あの田村仙岳であります。
そしてその仙岳の姉はといえば、このシリーズ第25話にも書いた、あの国定忠治の妾・菊池徳であります。
その徳の還暦記念の肖像画を、一椿斎芳輝が描いています。
仙岳と徳は九つ違いということですから仙岳は五十一歳、没年から逆算すると明治九年(1876)に描かれたことになります。
仙岳が、明治維新、廃藩置県、廃仏毀釈という歴史の波に翻弄される中、何とか清水寺に人を寄せて寺を維持したいという、強い思いを抱いていたであろう頃です。
浮世絵の大絵馬額で観音堂を取り巻いて人々をあっと言わせようと、親交のあった芳輝に話を持ち掛けたに違いありません。
当時はさぞかし色鮮やかで、仙岳の狙い通り人々の注目を集めたことでしょうが、今はその色も褪せて、見る影もありません。
復元するには多大の費用が掛かるでしょう。
相当な篤志家でも出てこない限り、叶わぬ夢かもしれません。
完全に湮滅する前に、せめて写真を残しておきたいと思いました。
十六枚の絵馬額には、こんな題名が付けられているそうです。
1.仁徳天皇高き屋
2.千早城の楠公
3.麗人採菊
4.橿原皇居造営
5.一ツ家石の枕
6.平忠盛
7.神武天皇東征
8.仕立職娘連中
9.応神天皇紀王仁来朝
10.田村麿将軍東征
11.神功皇后紀新羅朝貢
12.観音霊験
13.勧進帳
14.応神天皇紀呉国織縫女来朝
15.平維茂鬼女退治
16.韓信忍耐
ただ、それがどの絵に対応しているのか、ほとんど分かりません。
その方面にお詳しい方は、どうぞご教示をお願いいたします。
また、もっと鮮明に見えている時の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡を頂きとうございます。
神武天皇東征?
平維茂鬼女退治?
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勧進帳
千早城の楠公?
仕立職娘連中
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応神天皇紀呉国織縫女来朝?
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韓信忍耐
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観音霊験?
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芳輝は、明治二十四年(1891)一月十九日の朝、一杯の酒を所望してそれを飲んで寝たあと、家人も気付かぬ内に息を引き取るという、まさに眠るような大往生だったそうです。
享年八十四歳。
嗚呼、吾も斯くありたや。
この一椿斎芳輝の子孫が、高崎の庶民史に大きな足跡を残しています。
次回は、そのお話を。
(参考資料:白石一著「一椿齋芳輝」)